綺羅星

 子供達は元気なもので、炎天下の中でも力のこもったかけ声を互いにかけあい、全力疾走を繰り返している。
 河川敷、幅広のそこに整備された小さなグラウンド。この辺の子供達だろうか、揃いのユニフォームを着ている。胸には緑色のアルファベットで地区の名前が書き込まれている。被っている帽子やリストバンドも揃いの色だから、緑が彼らのチームのトレードカラーなのだろう。
 白いユニフォームに、緑のアクセント。まだ着慣れないユニフォームがぶかぶかで、小学校入学当初のランドセルよろしく、むしろユニフォームに着られている感じが否めない子もいる。三塁側に設置されたベンチには、母親らしき人が数人たむろしていて、冷たいお茶を給している姿があった。本塁上でノックをしている男性は、監督かコーチというところだろう。
 綱吉は緑色濃い河原の坂の中腹に佇み、その光景をひとりで眺めていた。
 手には母親に頼まれた買い物と、個人的な買い物の品を入れた布袋。あのスーパーは袋を持参するとポイントをつけてくれるのだ、と出がけにお金と一緒に渡されたこの袋には、年頃の少年が持つのはちょっと恥ずかしい花柄のアップリケがついている。
 彼はそれが表に見えないよう、自分の脚の方に向けて、無地の部分だけが傍から見えるように努力せねばならなかった。けれど歩いている最中だと時々脚で蹴り上げてしまい、鞄が前後逆向きになるのは否めなかった。その度に軌道修正してやらねばならない鞄に舌打ちして、ポイントを諦めてでもビニル袋を貰えば良かったと後悔する。
 だが、せっせとこういう細かい事をしてポイントを貯めている母の、家に帰った後に見られる嬉しそうな顔を思うと、自分の恥など多少我慢すればいいではないか、とも考えてしまうから悔しい。
 結局自分は、あの天然が入った母親が好きで、大事なのだろう。
 そんな事、面と向かって本人に言える筈もないが。
 我ながら恥ずかしい事を考えている、と頭を掻く。綱吉は胸膨らませて息を吸い込み、背中を丸めて大きく吐き出した。
 夏の日の午後、日差しは徐々に西に傾きつつあるけれど、まだ残暑は厳しく体感温度は三十五度を超えているかもしれない。眼下のグラウンドで動き回っている子供達は、もっと暑いのだろう。
 何かで聞いた事がある。この季節、テレビでも盛んに中継がされている高校野球。すり鉢状の球場、その中心近くにあるグラウンドは最も熱が籠もりやすく、簡単に四十度近い気温にまで上昇してしまうという。
 そんな中、数万人の視線の集中を受けながら投球するピッチャーは凄い、と興奮気味に思ったのだ。
 誰の言葉だっただろう。ぼんやりと記憶を巡らせ、思い浮かぶのは背の高い同級生、そして親友の姿だった。
 もとより野球なんていう団体競技にさして興味が無かったのに、いつの間にか少しずつルールを知り、詳しくなってしまったのも、彼の影響が大きい。プロ野球の実況中継だって、お気に入りの番組が潰れたり、野球放送の時間延長に伴ってビデオ予約していた番組が半分しか映っていなかったり、とあまり好きでは無かったのに、今ではさほど気にならなくなっていた。
 友人の影響というものは計り知れないな、と溜飲を下げながら綱吉は荷物を持っている方の腕を背中側から頭上に伸ばした。空いている左手を曲げて伸ばした右腕の肘周辺に添え、背筋を逸らせる。吸い込んだ息は緑の草のお陰か青臭く、そしてどことなく埃っぽい。
 カキーン、と金属のバッドが小気味良い音を響かせて白球が飛んでいく様が見える。それを追いかける子供の背中に、仲間のかけ声が重なり合う。自分も、もう少し運動神経が良ければ、あのくらいの年頃の時分に、あの輪に加われただろうか。
 ぼんやりと遠い記憶に思いを馳せ、後方の注意がすっかりおろそかになっていた。草を踏み締め、自分の背後、本当に手を伸ばせば簡単に背中を突き飛ばせてしまう距離にまで人が接近しているのにさえ、気づけず。
 リボーンが見たならば、ボス失格だと拳銃を頭に突きつけられそうなくらいの、不覚。
「何、やってるの」
 言葉と同時に首筋にひんやりしたものが押し当てられる。
「ひゃぁっ!」
 あまりに予想外で、唐突な出来事に、裏返った声で悲鳴を上げてしまった。聞こえたのだろうか、足下向こう側のベンチに座っている女性がひとり、振り返る。
 綱吉はと言えば、悲鳴を上げた瞬間に膝から力が抜け、危うく後ろ向きに倒れる寸前。しかし肩を、性格には肩胛骨の下辺りに何か壁のようなものがぶつかって、転ぶのだけは回避された。むしろ凭れ掛かった、と言うべきなのだろうか、これは。
 頸に当てられた冷たいものは既に取り外されている。というか、自分が悲鳴を上げた段階で、そういう悪戯を仕掛けてきた相手も驚き、咄嗟に手を引いたのだ。引かれたのが腕だけで良かった、身体ごと飛び退かれていたら、本当に、情けなくも倒れていたに違いない。
「ひ……ヒバリさん?」
「正解」
 後ろで自分を支えてくれている人が居なければ、今にも腰から落ちそうな膝の状態で、どうにか腕を振りバランスを取り戻しつつ、名前を呼ぶ。やや咎める口調を含ませたに関わらず、相手は飄々とした態度を崩さず、振り返った先で意地悪く口元を歪めさせていた。
 そうしているうちに、本当にバランスが取れなくてこのままでは倒れなくても、膝が崩れて真下に落ち尻餅をついてしまうだろう状況に陥る。素早く察した雲雀が腰に左腕を回して支えてくれたお陰で、どうにか浮き上がった踵を下ろす事が出来た。靴の裏に、柔らかな草を踏み潰す感触が薄く伝わる。
 それにしても。
「いきなり……吃驚させないでくださいよ」
 先程冷たいものが触れた首筋に手を回し、唇を尖らせる。黒髪を川辺から吹く風に流した雲雀は、それでも鼻を小さく鳴らして笑うだけ。見れば彼の右手には、飲みかけらしき缶コーヒーが握られている。黒一色に塗りつぶされたデザインで、白抜きで書かれた文字は見た目そのままに、中身がブラックコーヒーだと告げている。あんな苦いものを平然と飲める人の気持ちが知れないと、砂糖とミルクたっぷりでなければコーヒーを飲めない綱吉は、以前飲まされてしまった味を思い出し、顔を顰めさせた。
 同時に、飲まされた状況を思い出して赤くなる。
「君が、無防備に背中を晒しているのが悪いんじゃない?」
 缶を見つめていると、気付いた雲雀が掴んでいるそれを揺らして笑う。まるで綱吉が立ち惚けているのが悪い、という言い口にまた彼は唇を尖らせるが、そのあまりに迫力が無い表情に雲雀は目を細めて笑った。
 飲む? と目の前に缶を持って来られるけれど、綱吉は渋い表情のまま首を振った。
「そう、残念」
「俺は別に残念でもなんでもないです」
 綱吉の非難など苦とも思わない雲雀は、彼の文句を一切無視して持ち上げた缶をそのまま己の口元へ運んだ。まだ冷たい中身を含み、喉を数回に分けて上下させて飲み干す。綱吉は黙って、その光景を斜め下から見上げる。
 彼の薄い唇が缶の縁を浅く噛み、最後一息ついた後に外に覗かせた赤い舌で缶の先を舐める。なんて事はない仕草であるのに、彼がそれをやるととても卑猥に見え、綱吉は自然顔を赤くしたまま視線を逸らせ、俯いた。
 馬鹿な事を想像している。自分で分かっているのに過去の記憶も交え、頭の中で様々な情景が思い描かれて綱吉は思わず親指を咬んだ。右の踵を持ち上げ、草で埋もれた地面を薄く抉る。雲雀はそんな綱吉の内情など気にかける様子もなく、濡れた口元を手の甲で拭うと、缶を落とさない程度に肩から力を抜き、視線を下方に流した。
 小学生が、元気よくグラウンドを駆け回っている。いつの間にかチーム分けが成され、模擬試合形式で練習が続いていた。綱吉も地面を弄るのをやめ、そちらに目を向ける。
 ただのキャッチボールやノックを通しての守備練習より、やはり試合形式の方が盛り上がるようで、子供達もさっきより随分と威勢が良い。母親達も声を振り絞り、バッターボックスに立つ選手も真剣そのもの。ぼてぼての内野ゴロですら、全速力で一塁ベースまで駆け抜けていく。
 暑いのに、良くやる。雲雀が呟いてまた缶コーヒーを啜るのを横で聞きながら、綱吉は肩を揺らして笑った。
「でも、ちょっと前まで俺たちも、あれくらいの年頃だったんですよ?」
 特に綱吉は、僅か二、三年前が丁度あの年代だ。懐かしい、と呼ぶには少し歴史が浅すぎるけれど、あそこまで元気な小学生で無かった自分を思うと、ちょっぴり彼らが羨ましく思えてしまう。
 盗み見た雲雀の表情はというと、どうにも表現しづらい顔をしており、そう言えば彼の幼少時代がちっとも想像できなくて綱吉は首を捻る。幼少期どころか、人前で「努力」と名が付くような真似をしている感じがしない。群れるのが嫌いだから、無論野球やサッカーのような団体競技も嫌いだろうし、ではいったい雲雀は、どんな小学生だったのだろう。
 矢張り今みたいに、ひねくれてどこか荒んだ感じのする一匹狼だったのだろうか。綱吉もひとりで過ごす時間が多かった分、似たり寄ったりではあるが、きっと周囲が見つめる視線の色は随分違うものだったように思われる。
「野球、好きなの?」
 不意に問われ、綱吉は自分をじっと見下ろす双眸に今更気付いた。
 闇よりも深い黒、漆黒に濡れて光を受け、淡く霞む色。吸い込まれそうだと、毎回思う。
「え、と……やるのは、正直苦手ですけど」
 だからそうやって見つめられると胸が意志に反して弾んでしまい、不整脈のようにドキドキが止まらないので困る。綱吉は勝手に赤く、火照ったように熱くなる顔を見られまいと視線をずらし、懸命にバッドを振り回している小学生を見守る事にした。落ち着け、と数回に分けて小刻みに息を吐く。
 雲雀はそんな綱吉の横顔を見送って、彼もまた川べりのグラウンドに目を向けた。
「見るのは、割と……好き、かもしれないです」
「ふぅん」
 山本の影響で、とはさすがに彼には言えない。けれど綱吉と野球を繋ぐ線は彼しか存在せず、言われなくても雲雀は察したようだ。表情が少し険しく、眉間に皺が寄る。
 カキーン、とバッドに当たってボールが跳ね返る。高くうち上がった白球を追いかけて外野を守っている選手がグローブを胸に必死に走り、塁上を打った選手が必死の形相で駆け抜けていく。回れ回れ、とベンチに構えていた選手が数人立ち上がり、腕を振り回して声援を送る。綱吉も心持ち興奮気味に、拳を作って小さく胸の前で上下させていた。
 雲雀の見守る前で、だ。
 無論、無意識のうちに出ていた行動を咎める事は出来ない。人間、考えていなくても身体が勝手に反応する、というのは至極当たり前の所作であり、それを他人が封じる術は無い。
 けれど、見ていて不機嫌になる事は、当然あり得るわけで。
「野球なんて、簡単だろうに」
 ぽつり、いきなり脈絡もなく呟いた雲雀の声に、綱吉は首を捻りながら彼を見た。雲雀は、綱吉の脇を抜けて空っぽになった缶を凄い握力で握りつぶし、大股で草に覆われた坂を下っていく。彼を取り巻くオーラというか、空気のどす黒さに、綱吉は一瞬声を失い、それから慌てて彼の背中を追いかけた。
「ヒバリさん、急に、どうしたんですか」
「野球なんて、簡単だろ。ボールを投げて、打ち返すだけなんだから」
「それはそうですけど、だからって、急に」
「あいつに出来て、僕に出来ないわけないじゃないか」
「はいぃ?」
 全く持って綱吉には意味が分からない。けれどこのまま彼を行かせると、折角練習に熱中している小学生の群れに乱入し、何かとんでもない事を引き起こすに違いない。それだけは想像できて、綱吉は走って雲雀を追い越し、彼の前に回り込んで両手を広げた。
 この際なりふり構っていられないと、自分を押しのけても進もうとする雲雀にしがみつき、全身の力を使って彼を止めに掛かる。
「放して、綱吉」
「いや、ですからー、なんだか分かんないけどヒバリさん、兎に角ダメですって!」
 グラウンドからは、試合に関係ない人たちが、ふたりの騒動を何事かという顔で見上げている。特に綱吉の声が大きく、よく通るものだから騒々しい限り。試合を邪魔するつもりなのか、と訝しむ表情も見られて、綱吉はそういう視線を背中にひしひしと感じて余計に焦る。
 自分の力では雲雀を押さえ込むのは不可能に近い。けれどここで止めなければ、どう考えても彼は試合に乱入する気満々だ。どういう理由か、動機かは分からないけれど、綱吉にしてみれば目の前で小学生が一所懸命やっているのを邪魔したくはない。
 靴の裏が坂に密着して、土を捲り上げていく。鼻腔に青臭さが広がり、彼は顔を思い切り顰めさせた。
 雲雀の厚い胸板に額を押しつけ、全身を使って彼の動きを封じ込める。両腕を彼の腰に回して、背中で左右の手を互い違いに組ませ手首を握り、抱きつくというよりはしがみつく、という格好で綱吉は雲雀を押しとどめる。
 ふと我に返って、その体勢があまりにも一方的に、自分から雲雀に密着している現実に気付いて顔を赤くしても、もう遅い。
 いつの間にか雲雀もまた、前に進むのはこれ以上無理と諦め、脚を止めて力を緩めていた。知らぬ間に落としていた綱吉の手荷物が、少し先の草の上に横倒しになっている。
「え……と、あの」
 坂の中腹、という場所柄も手伝って、綱吉はいつもより高い位置にある雲雀の顔を見上げ、返答に困った。じっと、ものを言いたげに見下ろされても、困る。何かを言われる前に弁解しようにも、そうやって間近から見つめられると思考がショートして火花が飛び散りそうだ。
 そうでなくとも、人前で、少し行けば無垢な小学生が沢山いる場所の近くで、こうやって傍目には抱き合っているようにしか見えない状態でいるのは、綱吉にとってあまり好ましい状況でない。ご近所さんが通りかかるかもしれない、お宅の息子さんが川辺で男の人と抱き合ってましてよ、なんて口軽のおばさんが噂を広めてくれるのは、困る。
 しかも奈々はきっと、否定しない。あらまぁ、とか言いながら楽しげに笑うのが関の山だ。あの人はそういう人だ。だから困るのだ。
「ふむ」
 いや、だからそこで納得気味に肩から力を抜かないで欲しい。綱吉は耳まで真っ赤に染まりながら、再び顔を伏せて雲雀の胸元に額を押し当てた。
 そうやって抱き合っているのを見られたくなければ、彼の背中に回している自分の腕を解いて、自分から離れれば簡単なのに、そこに考えが回らない。既に思考回路はショートしてチリチリしている。頭の先から焦げた煙が噴き出しているのが、雲雀にも見えた。
「なんなんですか、ヒバリさん……」
 いきなり現れたかと思えば、いきなり動き出して、綱吉を混乱させて。前から神出鬼没の意味不明な人だとは思っていたが、今日の出来事は綱吉のそういう偏見に要らぬ拍車をかけてしまったようだ。
「別に? 散歩していたら君が居たから」
 押し当てた雲雀の白い開襟シャツからは、きっちりとアイロンが当てられて糊の匂いがする。僅かに覗く胸元と、鎖骨が妙に艶めかしい。首には銀色のチェーンが巻かれ、制服姿とは違う私服の彼に今更気付いて頬が染まる。
「ところで、いつまで君はそうしているつもり?」
「へ?」
 持ち上げられた彼の手が綱吉の頭を優しく撫でる。少しだけ噴き出していた煙も納まり、冷静さが戻ってきた綱吉はやっと、自分の両腕がしっかりと雲雀を拘束したままだというのを思い出した。
 視線を雲雀から彼の腰元、そこに回されている自分の腕と来て、やっと手首を拘束している己の手から力を抜いた。赤く指の形が残った手首に、自分で驚く。どれだけ必死だったのかと、綱吉は自分自身に呆れながら溜息をついた。
「なに、外すの?」
「当たり前です」
 とても残念そうに肩を竦めた雲雀を睨み、綱吉は手を交互にさする。見た目にも痛そうなそれに舌打ちしていると、いきなり伸びてきた雲雀の左手が綱吉のそれを下からすくい上げた。
 抵抗する間も与えられず、手首の赤みに雲雀の唇が触れる。傷を舐めると治る、とか言うけれど、今回はそうではなく、淡く口づけた、という表現が正しそうだ。
 どちらであっても、やられた綱吉にしてみれば大差ないのだけれど。
「ヒ……バリさん?」
「なに?」
 どうしよう、と本気で悩む。ドキドキが止まらなくて、上気した頬で彼を見上げている自分が、どんな顔をしているのか楽に想像できた。ただ、それを口には出来ない。
 彼は気付いただろうか。相変わらず綱吉の手を取ったまま、雲雀は瞳を細めた。赤い唇を少しだけ開いて、隙間から覗かせた蛇の舌で鬱血している箇所をくすぐる風に撫でる。反射的に目を閉じた綱吉の心臓が、一度大きく跳ねた。
 ばれている。今自分が何を望んでいるのか。何を欲しがっているか。口が裂けたって言えない台詞を、本当は吐き出してしまいたい葛藤に囚われているのさえ、狡賢い彼はとっくに気付いているに違いない。
 頭に添えられている手は拘束力を持たないのに、その場から動けない。完全に固まってしまっている綱吉に微笑んで、雲雀は少しだけ身を屈めた。目を閉じたままの綱吉の鼻先に、熱の籠もった息が掛かる。
 ここが人前だとか、公共の場所のど真ん中だとか、そういうのを一瞬だけ忘れ去る。ただ、相手が与える熱が欲しくて、綱吉は無意識に雲雀の唇を見えない世界で探そうと動いた。
 直後。
「あー、ちゅーしてるー!」
 その雲雀を、両手で突き飛ばしていた。
 赤い顔のまま背後を振り返ると、いつから見ていたのだろう、まだ練習中だろうに小学生の、練習試合には未参加だったのか、一際小柄な子がふたりを指さして立っていた。先程の声も、恐らくは彼。興奮気味に頬を赤くして、「ちゅーしてる」と連呼している。
 傍に居た女性が彼の口を閉じさせるが、聞きつけた好奇心旺盛な小学生や、応援以外にする事が無い主婦達が一斉に綱吉たちを見上げている。皆、男ふたりが何をしていたのか気になるのだ。
 そして綱吉は、その答えを彼らに与えられない。足下では倒された雲雀が頭を押さえながら身体を起こしている。その彼にも、何をするのか、と咎められる前に、綱吉は首筋まで茹で蛸宜しく真っ赤になって、彼を飛び越えて走り出した。
 しっかり鞄を拾うのは忘れず、その場から逃げるように駆け出す。いや、実際に逃げだした。雲雀を置き去りに。
「振られた?」
「ふられた?」
 ゆっくりと起きあがり、頭についた草切れを振り払った雲雀は、勝手な事を口々に言い合っている小学生をひと睨みして無言で威圧、声を揃えて泣かせた後、潰した空き缶をその場に棄てて歩き出した。
「誰の所為だと……」
 ますます野球が嫌いになりそうで、雲雀は不機嫌にポケットへ両手を突っ込み、綱吉が去っていた方角へ足を向ける。目的の人物は直ぐに見付かった。全力疾走は二百メートルも続かなかったようで、グラウンドが遠くなった橋の傍でしゃがみ込んでいた。近付いて来る雲雀に気付くと、恨みがましく涙目で睨みあげる。
 しかしその雲雀に反省の色が感じられないと知ると、また溜息を吐いて立ち上がった。そして無言で歩き出す。
「綱吉?」
「なんですか」
「何処へ行くのさ」
「帰るんです」
 そもそも、買い物帰りだったのだ、自分は。今日の夕食が定時通りに始まる為にも、自分は一刻も速くこの鞄の中身を奈々へ届けなければならない。それをすっかり忘れていた。
 雲雀と会うと、ペースを乱されっぱなしで困る。しかも自分はそれが嫌だと感じていない。それがますます困る原因になっていて、綱吉はふっと見上げた。夕暮れが迫る空は少しだけ暗く、そして西の地平線間際は明るい。
 自然の世界が描き出すグラデーションに、心がちょっと落ち着きと優しさを取り戻す。
「大体、ヒバリさんは」
 さっき、小学生にからかわれて逃げだしてから雲雀が追いつくまでの間、ほんの少し平静さを取り戻して、思った。あの雲雀の行動は、とどのつまり、自分が好きだと言った野球に対し、何らかの不穏な感情を抱いたからではないか、と。
 それが、あの小学生がやっている野球を滅茶苦茶にしたいという考えだったのか、野球そのものに対して挑戦しようとしていたのかは、分からないけれど。もしかしたら両方かもしれないし、両方とも外れかもしれない。答えは本人にしか分からないし、きっと雲雀は答えてくれないだろう。
 ただ、綱吉にはどうしても想像できないのだ。ユニフォームに袖を通し、チームプレイに勤しむ雲雀恭弥が。
「似合わないですよ、野球」
 ね? と小首を傾げながら振り返ると、数メートル後ろを歩いていた雲雀はまだ機嫌悪そうに、それでいてどこかばつが悪そうに視線を逸らした。彼から目を逸らされるのは珍しく、だから綱吉は今自分が言った内容が、そのものズバリ図星なのだろうとほくそ笑む。
 雲雀に言い勝つのは、小気味が良い。
 肩を揺らして声なく笑っていると、頭上に影が落ちてきた。無音で急接近するのは止めて欲しいと思いつつ、彼を見上げて微笑みかける。
「ヒバリさんは、ヒバリさんだから、良いんです」
 間もなく完全に太陽は地平線に沈む。そうして空には無数に輝く星が散りばめられるのだろう。紺青の空をもう一度見上げ、綱吉は目を細めて背の高い相手を見返した。
 それから、爪先を揃えて背伸びをする。踵を持ち上げて背筋を伸ばし、互いの距離を詰める。
 目を見開き、反射的に身を逸らそうとする雲雀を逃す前に、首を傾けて角度をつくり、先程貰い損ねたものを自分から奪い取る。夕暮れに伸びた長い影を邪魔するものは、何もない。
 触れるだけのキス、淡い気持ちをその場に残し、綱吉は走り出した。
「それじゃあ、また学校で!」
 呆然としている雲雀が追いかけて来る前に、赤い顔が夕焼けの所為だと誤魔化しきれる間に、距離を作って、綱吉は橋を渡って行った。
 雲雀は暫くその場に佇み、ややしてから腕を持ち上げ手の甲で顔の下半分を覆い隠す。最早夕焼けが映った程度ではない顔を持て余し、何か言いたげな視線を遠ざかる小さな背中に向けた。
「似合わないのは、どっちだよ」
 してやられた、とそう呟いて。
 仕返しは、彼の言葉をそのままに、学校で、だろうか。そんな事を思いつつ、群青色の空を仰ぐ。
 気の早い一番星が、天頂からふたりを見下ろし笑っているようだった。