無色

 ダメツナ、と呼ばれていた。
 何をやってもダメ。テストになれば赤点連発、運動オンチに至ってはむしろ天才的で、走っては遅く団体競技では和を乱す。特技と呼ばれるものは何一つなく、何をやってもぱっとせず、そのお陰で地味だけれど逆に目立つ。
 いつの間にか彼についたあだ名が、ダメツナ。誰が呼び始めたのか、いつからそう呼ばれるようになったのか、本人でさえ覚えていない。しかし気付けばそれが通り名となっており、他クラスの生徒にまでそう呼ばれるようになっていた。
 もしかしたら自分の本名を知っている人間はクラス中に誰も居ないのではないだろうか。そんな猜疑心さえ胸に抱くようになって久しい。表面上は失敗だらけの自分をネタにして笑いを集めているけれど、それが沢田綱吉本人に対してどんな影響を及ぼしているか、きっと気にする人間も居ないのだろう。
 更に彼はよく授業をサボったり、勝手に帰ったりもするが、それ以外で特別問題行動を取るわけでもなく、他校の生徒とトラブルを起こしたり、警察騒ぎを起こしたりしない分、言い方は妙だが大人しい問題児、というのが教諭陣の共通する見解だった。
 無難に単位を与え、無難に卒業させ、その後は責任を持たない。義務教育最後の三年間、多感な時期を過ごすはずの空間で、入学早々見放された空気を感じた彼が、絶望以外の感情を中学にどうやって向けられるだろう。
 しかし家に居たところでやることは少なく、綱吉の状況を重要視しない楽観的な母親に追い立てられるように学校に通う日々。失敗しては笑われ、恥を誤魔化す為に自分も笑い、道化を気取って自分で自分を傷つける。
 見えないところで精神的なダメージはじわじわと彼を浸食し、やがては目に見える形でその変調が現れる。吐いたのは、何もこれが初めてではない。
 体育館裏、授業中だからという理由ではなく、場所柄的に使用者が限られ、滅多に人も訪れない所に設置された水道。四角いコンクリートの足場、さび付いて動きの悪くなった蛇口がその上に。元々は足を洗ったりする為の場所だったようだが、先にも言った通り設置場所の関係で今では用務員が周辺の掃除をする時くらいにしか使われていない。
 ここを見つけたのは、入学して三日目くらいだったろうか。
 ひとつ前の授業は体育だった。その前は理科、実験室での授業。どちらも失敗の連続で、理科室では危うく扱い注意の薬品を床に落としてしまうところだった。大事は無かったが肝が冷え、恐らく教室に居た全員が「こいつは本当に大丈夫か」と思ったに違いない。
 無論被害妄想かもしれないと綱吉自身も分かっているのだが、一瞬にして静まり返った教室、ワンテンポ遅れて発生した笑い声に、綱吉はいたたまれない気持ちで本当は逃げ出したかった。しかし今更場の空気を悪くしてまで自分の気持ちに素直になれず、だから彼は己を誤魔化し、おどけるしかなかった。
 体育の授業でもそうだ。サッカーの模擬試合、ボールをパスされればトンネル。頭で合わせようと思えば額ではなく顔面でキャッチ、挙句オウンゴールと良いところはひとつもなし。しっかりしろよ、の言葉がどれくらい綱吉の心を抉っているか、発言者は知りもしない。
 制服に着替え、次の授業を待つ。しかしざわつく教室でひとり席に向かい座っているうちに、次はどんな失敗をするのか自分で自分が怖くなる。今はまだ、誰かを傷つけたりするような酷い失敗は無いけれど、いずれやらかすかもしれない。その瞬間が怖い。
 思考がぐるぐると同じ場所を高速回転して、やがて彼は始業チャイムが鳴る直前、我慢できずに席を立った。授業に向かう先生とすれ違っても挨拶する余裕も無く、彼は早足に校舎を出てここまで来た。もうこの場所で何度同じ行為を繰り返したか分からない。膝を真っ直ぐ伸ばして腰を直角に曲げ、右手は蛇口に、左手は壁に。顔を下向けて口を開けば、吐き出されるのは嗚咽と今朝食べたもの。
 既に一部の消化が始まっていたそれは胃液にまみれ、正直な感想、綺麗とは言い難い。自分でも直視に耐えず、綱吉は蛇口の拘束を更に緩めて真下に落下していく滝の勢いを強めた。
 排水溝に通じる小さな穴に、水と吐しゃ物とが交じり合って流れていく。当然ながら臭いは僅かであるけれど、残る。誰かが通りがかれば言い訳は出来ない、しかし此処ならば滅多に人が来ないと知っているから、綱吉は遠慮なく腹の中にあったものを全部ぶちまけた。
「げぇっ、がっ……、は、あ……」
 肩で荒く息をし、体をゆすって胃袋を空っぽにし、最後は胃液に噎せて涙目になる。毎回繰り返される行為、いい加減身体も慣れてくれて良いものを、まだどこかでこんなことではいけないという理性が残っているらしい。胃液交じりの唾を吐き、最後は水の流れに手を添えて口の中を濯ぐ。歯の間に詰まっていたものも吐き出して、口元を濡らしたまま彼は身体を起こした。
 同じく濡れたままの手の甲を唇に押し当て、僅かに開いた隙間から息を吐く。長く伸びた前髪も少しだけ湿っていた。
 彼は蛇口を閉め、先ほどより勢いを殺した水を手に掬い、飛沫が散っている壁に水をぶちまける。荒々しい気持ちをそこにぶつけるかのように、しつこいまでに、何度も、何度も。やがて壁の色が完全に変わり、既に乾いて濡らしただけでは落ちない汚れ以外が見えなくなってから、彼はやっと水を止めた。
 肩で息をするのはまだ変わりない。鈍い色が宿る瞳は暫くの間蛇口のくすんだ銀色を睨みつけている。奥歯を噛み締め、こみ上げてくる感情を懸命に堪えて彼は目尻に浮いていた涙を袖で拭った。
 ざっ、という、何かを地面に擦りつけ引きずる音がしたのはまさにその瞬間。綱吉は息を呑み、後先考えずに音のした方角を振り返っていた。そして硬直する。身体だけでなく、心まで彼は凍りつき、その場で石になった。
 誰も来ないと信じていた場所に、人がいる。たった今体育館の角を曲がり、日陰になっている空間に姿を見せたのは、数年前に制服が切り替えられたために既に使われなくなっているはずの学生服を肩にまとった、黒髪の青年。鋭い目つきに、頬には彼自身のものか、そうでないのか、べっとりと血糊がこびりついている。
 白の開襟シャツを袖までまくりあげ、露出した腕にも血が散っていた。不機嫌に歪められた表情、無言の威圧。綱吉は逃げることも出来ず、余りにも唐突な男の出現に全思考を停止させてしまった。蛇に睨まれた蛙、とはこのことを指すのか。
 冷や汗が首筋を伝う。息をするのも忘れていたらしく、数秒後苦しくなってやっと綱吉は我に返った。男が、右手に持っているものを突然綱吉に向かって――実際には綱吉のところまでは飛んでこなかったけれど――放り投げたのだ。
 重い音がして、砂埃が薄く舞い上がる。反射的に両腕で顔を庇った綱吉だったが、腕の間から覗かせた目で見た光景はすぐに信じがたいものだった。綱吉と同じ制服を着た男子生徒がふたり、ボコボコにされた状態で地面に転がっていた。先ほど聞いた音は、このふたりを引きずる音だったのかもしれない。しかし綱吉よりも体格のいい、恐らくは上級生だろう生徒を易々と扱うとは、なんていう豪腕。
 呆気に取られ、綱吉は倒れている生徒を見下ろした。時々呻くように唇が痙攣しているから、気を失っているだけだろう。それにしても彼らは揃って原型が分からないくらいに殴られ、見事に腫れあがっている。片方は鼻骨が折れているのか鼻が妙な方向に歪んで、赤黒い血で顔全体を汚していた。
 人の気配。息を呑んだ綱吉が急ぎ顔を上げる。気付けば先ほどの、学生服の生徒が綱吉のすぐ前まで迫っていた。袖を通さない制服の左腕に、安全ピンで留めた風紀の文字が目に付く。綱吉は即座に思い出した、この学校を裏で取り仕切っている団体の存在を。
 普段そんな団体と関わりあいの無い綱吉が直接目にする機会は、登校時に正門で服装検査をしている時くらい。彼らは揃って他とは違う学生服を身にまとっていたから、今この場にいる青年もまた学生服であると認識した段階で、綱吉は気付くべきだった。
 しまった、と思う。自分は何も悪いことを――本来授業中であるこの時間に、こんな場所にいること事態既に悪い事に分類されるのだけれど――していないのに、風紀委員に見つかったというだけで、全身が緊張に戦慄いた。
 風紀を乱すものを律する、そういうふれこみではあるものの、その実風紀委員長の独善的な行動が幅を利かせ、彼の気に入らない人間であればたとえ上級生、生徒会長、学校教師と雖も容赦なく叩きのめされる。並盛中学の影の権力者といわれる所以はその辺に。
 とはいえ、まだ入学して日の浅い綱吉。滅多に人前に姿を現さない風紀委員長の顔を知るわけがない。目の前の男が腕章から風紀委員とは知れても、それが極悪非道の委員長本人だという思考は結びつくはずがなかった。ただ綱吉の直感が、この男は危険だと告げている。頭の中で真っ赤なランプが激しく明滅し、警告音が甲高く鳴り響いている。逃げよう、逃げなければ。その思いが全身を駆け巡るのだけれど、接着剤で足の裏が固定されてしまったかの如く、足が震えて動かなかった。
 がくがくと膝が震える。風紀委員の青年は、自分が投げ捨てたふたりには目もくれず、そして綱吉も興味がないのかちらりと一瞥しただけで、すぐに身体の向きを変えた。体育館の壁に設置されている水道へ手を伸ばそうとして、なにやら怪訝に表情を歪める。鼻がクン、と動いたのは、其処に残る臭いを敏感に嗅ぎ取ったからだろう。
 やばい、と綱吉は震え上がった。
 黒髪の青年は背後で心臓を破裂寸前まで掻き鳴らしている綱吉に気付かず、そのまま視線を足元に。配水管へ続く穴の傍には、流しきれなかった吐瀉物の残骸が散らばっている。それ以外でも、綱吉が以前吐いたものが乾いてこびりついたりもしていて、排水溝周辺は明らかに汚れていた。
 綱吉は右足をやっとのことで持ち上げると、前ではなく後ろへ動かした。続いて左足を、そろりと慎重に持ち上げて下げる。身体は前向いたままバックでゆっくり歩き出そうとしていた矢先、青年が不機嫌なオーラを漂わせて振り返った。ひっ、と反射的に身をすくめ綱吉はそれ以上動けない。
「君」
 初めて放たれた、低い声。自分を指しているのだとコンマ五秒後に気付いて閉じていた眼を開け、青年を見返す。彼は立てた親指を壁に向けた。
「あれ、このままにしていく気?」
 顎をしゃくって壁際を示す。彼が言う「あれ」とは、他でもない綱吉が先ほど吐き出したばかりの、元は食べ物だったものだろう。綱吉は青年の気配に圧倒されて返す言葉もなく、ただ小さく呻くのみ。しかし彼を逃すつもりはない青年は、無言の圧力をかけ続けている。どうやら片付けろ、という意味らしい。
 逃げられず、彼は結局長い時間をかけて「はい」とひとつ返事をした。
 見回せば掃除用らしき、古びた束子が転がっている。長い間使われていないのか、もう掴み取るのも躊躇するくらいに汚れていたけれど、綱吉はどうにか我慢してそれを手に水道まで戻ってきた。吐瀉物を直接手で片付けるよりはずっとマシだと自分を叱咤して、流水で表面を濡らし、コンクリートで固められている洗い場を擦っていく。
 古くからある、綱吉がつけたのではない汚れさえも残しておくと容赦なく鉄槌が下されそうな気がして、綱吉は隅々まで力を込めて磨き上げた。吐いたばかりで気分も悪く、体調だって万全ではないが、そうも言ってはいられない。自分を誤魔化したまま額に汗を浮かせ、綱吉は一心不乱に水場周辺を洗い流す。
 両手を柄杓代わりにして壁に水をぶちまけ、最後にもう一度束子で表面を軽く擦り、どうにか満足できるくらいまで終わったのは、果たしてどれくらい時間が過ぎてからだっただろう。一息ついて汗を拭った綱吉は、いつの間にか掃除に熱中していた自分に気付き、驚く。
 そうして、これでどうだとばかりに青年を振り返ったのだけれど、あの風紀委員は待ちくたびれてしまったのか、もう姿が何処にも見当たらなかった。
「なんだよ、ちぇ」
 自分で命じておいて、最後まで監督していくべきでないのか。綱吉は悪態をつきながら、手に握ったままだった汚れた束子を濡れている足元に投げ捨てる。鈍い音さえ立てず、それは地面に一度だけ跳ねて転がった。
 若干臭くなっている自分の手に顔を顰め、水道を捻る。水に浸すと、仄かに冷たい。
 磨かれた分見違えるくらいに綺麗になった水場周辺は、綱吉に少なからず自信を与えた。ダメな事ばかりではない、と自分にそう言い聞かせる。
 ダメツナ、だなんて言わせなければいいんだ。
 人生もう何十回、何百回と繰り返し心の中で告げた呪文を、今一度胸に刻む。やれば出来る事を示して、自分を馬鹿にする連中を見返してやるのだ。
「ああ、終わった?」
 流れ落ちる水の行方を眺めていた綱吉の背中に、声がかけられる。姿勢をそのままに振り返ると、両手を叩きながらあの風紀委員がゆっくりと歩いてきた。頬の血糊は乾いて色が変わってしまっている。どうやら彼の血ではなかったようだ。改めて見詰めても、怪我をしている様子は見当たらない。
 そういえば投げ捨てられていた生徒ふたりも、どこかに消えている。
「あの、さっきの……」
 気を失っていた二人の行方を問おうとしたら、出だしの台詞だけで青年は片眉を持ち上げた。ああ、と頷いて彼が歩いてきた方角を目で示す。
「捨ててきた」
 人を捨てる、とはどういう了見か。いぶかしむ綱吉を前に平然と物騒なことを言い放った青年は、見違えるほど綺麗になっている水道に目を向けてふむ、と一度頷いた。その様子に、綱吉はどうだ、と流れから手を離して胸を反らせる。しかし彼は他に感想を述べもせず、綱吉が出しっ放しだった水に左手を突き刺した。
 片手で水を適量掬い上げ、頬に張り付いて乾きかけていた血に押し付ける。肌に吸収されぬ水は薄紅色に染まりながら彼の顎から伝って落ちていった。
 綱吉は半歩下がり、その光景を見守る。用事は済んだのだから立ち去っても問題ないだろうに、足が上手く動いてくれなかった。まだ濡れている手を抱いて、綱吉は口から吸い込んだ息を呑み込む。その前で青年はこびりついた血を洗い落とす作業を続けていた。
 いったい、なんなんだろう、彼は。
 吃驚するほどに端正な顔をして、黙っていれば男であっても見惚れる姿なのに、目つきは獰猛な肉食獣のそれに似て、無言のうちに人を威圧する。人を人と思わない口ぶりから冷酷な性格も窺い知れて、間違いなく綱吉にとって係わり合いを持ちたくない人種トップスリーに入るだろう。
 けれど、目が逸らせないのもまた事実。
 綱吉は右の肩を引いて身体を庇いつつも、目の前で人の血を単なる汚れとして扱っている男に見入る。彼の視線に気付いているだろうか、青年は平然と満足いくまで水を滴らせると、深々と息をひとつ吐いて蛇口を閉めた。
 反応の鈍い水が数滴、名残惜しむように水道管から垂れ下がる。雫の形をしたそれがゆっくり落ちていく光景を見守る。青年は手の甲で顎を撫でて水気を払い、親指で唇をなぞって浅く爪を噛んだようだ。
「あ、の……」
「君、一年?」
「え? あ、はい」
 指で頬に残っていた雫を弾き飛ばし、風紀委員は綱吉を振り返った。身長差はゆうに二十センチはあるだろうか、目の前に立たれるだけで圧倒されてしまう。それほど横幅があるわけでもなく、むしろ細いのに、綱吉の眼には彼が門前で堂々と構える仁王像の如く映った。
 彼はまだしつこく手で鼻の辺りを擦り、残っている湿り気を気にしている。最後は袖で乱暴に拭って、下ろした手を腰に当てた。
「授業は?」
「う……」
 聞かれるだろうと分かっていたけれど、実際聞かれてしまうと答えが浮かばない。想像はしていても受け答えの予習をサボっていたお陰で、綱吉はただ視線を浮かせて宙を彷徨わせるのみ。その態度だけで、自習時間などではなく本当に、授業を抜け出してきたのだと彼に教えてしまっていた。
 けれど青年はふぅん、と曖昧に相槌を打っただけでそれ以上追求してこない。最終的にまた青年の顔の中心に視点を置いた綱吉は、彼が意地悪げに微笑んだのでドキリと胸を鳴らした。
「別に、いいけどね。でも、気分が悪くて来る場所は此処じゃないと思うけど」
 腰に置いた手を持ち上げて胸の前で交差させる。腕組みをし、一層威圧感を増した青年のことばに、綱吉は反論できない。
 嘔吐する程気分が悪い、体調が悪いのであれば、本来出向く先は保健室。それが、こんな人気のない場所でこっそりと吐いているのは、何か後ろめたいものがあるから。
 自分が吐いていることを周囲に知られたくない。ダメツナと呼ばれているのに心が拒絶反応を起こしていると知られれば、自分はもっと「ダメ」のレッテルを貼られてしまう。弱い、情けない男だと決め付けられてしまう。
 だから人前では笑っていよう。誰も居ないところで泣こう。そんな二重の生活を強いられて、もうどれくらい経つのだろう。
「君、名前は?」
 返事をせずに俯くだけの綱吉に、彼は少なからず興味を抱いたらしい。左の肘を立てて顎を持ち、苦々しげに表情を作っている綱吉を試すように見下ろす。
 告げなければならないだろうか。しかしここで答えなければ、自分があの捨ててきたと言い放った男達と同じ末路を辿るかもしれない。綱吉は左側へ視線を逸らしながら、渋々苗字を口にした。
「さわ、だ……」
「沢田?」
「……つな、よし、です」
 語尾を上げて繰り返され、綱吉は一呼吸置いてからか細い声で下の名前も告げた。青年は頭の中で姓名を繋げて反芻しているのだろう。一瞬だけ綱吉から視線が外れる。そうして、何か思い当たるものを見つけたらしい、彼の手が顎から下りてまた腕組み状態に戻された。
 ああ、という呟き。
「ダメツ……」
「その名前で呼ぶな!」
 脊髄反射だった。
 怒鳴った綱吉も、怒鳴られた風紀委員の青年も、互いに驚いて目を丸くしている。いや、実際は綱吉の方が大仰に驚いていた。呆気に取られ、呆然と、怒鳴る時に一緒に踏み込んだ前足もそのままに、限界まで目を見開いて青年を見詰める。
 今、自分は、なんと言った?
 どこで噂を聞いたのかわからないが、青年は綱吉のことを知っていた。直接ではなく、間接的に。それは名前を聞いて初めて気付いたところから容易に想像がつく。しかし綱吉はその彼が知る、綱吉に対する知識を否定した。拒絶した。
 そんなところにまで自分の噂が知れ渡っている事への絶望、初対面の相手にまでそう呼ばれる絶望。
 悔しい。どうして、自分は何も悪くないのに。ただちょっと人よりも不得手なものが多く、行動も思考の鈍いのは認めるけれど、それでも精一杯生きているだけなのに。
 綱吉は茫然自失のまま、右手で己の口元を覆い隠した。まだ信じられない。もしかしたら自分は、いつも今のような言葉をずっと頭の中に浮かべていたのだろうか。いや、違う。浮かべていたのだ、ただ言わなかっただけで。
 負の感情は、蓄積される。そうしてやがて、個々人に設定されている許容量を超えたとき、爆発して噴出する。俗にキレたといわれる症状だが、綱吉の場合は今がまさにそれに当たった。とはいえ、爆発は非常に小規模で、火がついた直後に消えてしまったに等しいのだけれど。
 青年もまた、呆気に取られはしたものの、急に反抗的になった綱吉を小さく笑った。肩を震わせる。
「弱い犬ほど良く吼える、って言うけど?」
 相手を挑発する言葉。遠慮のない、それでいて容赦ない棘に綱吉は口元から手を離した。これもまた、本人の弁を借りるなら無意識に。
 奥歯に力を込める。ぎっ、と軋むほど噛み締めて、綱吉は強く青年を睨みつけた。
 迫力で負けたら気圧されるだけ。気持ちで最初から負けていたら、勝てる勝負だって勝てなくなる。せめて、気持ちだけは。
 ダメツナな自分を否定したい。
 認めたくない。
「どんなに弱い犬にだって、牙はあるんです!」
 思いの丈をぶちまけて、綱吉は勢い良く踵を返した。吐いた直後で身体がふらつくのも我慢し、頼りない足取りながらも懸命に、拳で宙を叩きながら暗い校舎裏を走り抜ける。
 自然に浮かんでいた涙は、立ち止まる頃にはとまっていた。目尻に残っていたそれを袖で拭い、歩を緩めて後ろを振り返る。そこはもう体育館裏ではなく、明るい日差しが照りつける校舎の前面。まだ授業中の為人の気配は少ないが、担当のない教員にでも見つかったら小言が降ってくるのは間違いない。
 身を屈め、綱吉は自分の心臓に手を当てた。まだバクバクと激しく脈打って、自分がしっかりと生きている事を持ち主に伝えている。
 あの青年の姿はもう見当たらない。追いかけてくる道理もなし、綱吉は肩を落とし、漸く安堵の息を吐く。
 何故あんな風にいえたのだろう。あそこまで強気に抵抗できる自分が存在するとは思ってもみなくて、綱吉は驚きと疑問に板ばさみになりながら姿勢を正した。
「ダメじゃない、よな……」
 自分で言ったではないか。弱かろうと、立派な牙があると。再び言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。胸いっぱいに空気を吸い込んで、吐き出し、彼は妙に清々しい気持ちで上を向いた。
 久方ぶりに見た空は、いつになく青く澄んで、綺麗だった。