息音

息音(いらないのに欲しい)

 世界が変わったと思ったんです。
 夕焼けを見ながら呟いた綱吉に、先を歩いていた雲雀が足を止めて振り返る。彼の目には逆光を浴び、光の中で輪郭を浮かび上がらせている綱吉が、切り取った絵画のように映った。片手で髪を押さえ、流れゆく風に少しだけ微笑んで。
 どうしたの、と雲雀は開いてしまったふたりの距離をゆっくりと詰めて問いかけた。振り返る綱吉が、ややして右手を持ち上げて彼方の川辺を指さした。似てませんか、と。
 雲雀は何の事だか分からず、首を傾げて彼の横に並んだ。示された川は、田舎町の風情を残す一画を、静かに、ゆっくりと流れている。架けられた橋の上を車が一台行き過ぎて、川面はオレンジ色に染まった水がキラキラと輝いて眩しい。
 どこに、と問おうとして一瞬頭を掠めた過去の、随分と懐かしい記憶に雲雀は眉根を寄せる。気付いた綱吉が、口元に指をやってクスクスと笑った。
 全然似てないよ、と雲雀が不満げに言って、余計に笑い声を大きくした綱吉は、そうですか? と逆に問い返す。似てますよ、そっくりです。
 懐かしいな、と郷愁に思いを馳せ、綱吉は雲雀に寄り掛かった。雲雀は動かない、夕日を受けて赤くなった頬で、どこか遠くを見ている。それを下から見上げ、綱吉は目を細くして微笑んだ。甘える猫のように彼にすり寄り、胸に顔を埋める。
 ねえ、ヒバリさん。厚い胸板に頬を寄せ、砂糖菓子にも負けない声で呼びかける。雲雀が視線を落とし、綱吉の白い項を見詰める。指をそこに這わせると、彼はピクン、と動いて雲雀の服を掴む手に力を込めた。
 また、言ってくれませんか。あの時、初めて俺に言ってくれたこと。
 イタリアの小さな村の隅っこで、小さなふたりが寄り添い合って。不機嫌そうにしている雲雀と、意地悪が出来て楽しそうな綱吉の世界が回っている。

 何故追い返さなかったのだろう。あの時はまるでそういう考えが起こらなかったし、彼が泣きながら叫んだ時も、追い出そうとは思わなかった。
 ただ、その泣き顔が。
 どうして自分には笑ってくれないのだろうかと、そう逆の考えに気持ちが向いていて、苛々していた。
 あいつらには笑いかけるのに、自分ではダメなのか。潤んだ目で見上げられ、怯えた顔ですぐ目を逸らされて。そんな風にして欲しいわけじゃないのに、彼を笑顔に戻す術が分からない。
 なんで泣いてるの? そう聞けたなら一番早いとは分かっていても、人ひとり笑わせられない自分の卑小さを認めるのは癪に障って、口に出せずに居た。人生で最も己の不器用さを呪う日になってしまった、そして自分を不器用だと認める思考回路に呆然とする。
 用もないのに部屋に来て、でも帰るのを渋っているようだったから、招き入れてみた。どうこうしたいとかは、特に考えなかった。ただあのままひとりで帰らせるのは、可哀想……そう、可哀想に思って。
 いや、違う。違う? なにが。なにが違うと?
 嗚呼、いや、そうか。帰したくなかったのだ。応接室でひとり、すっかり忘れていた資料に目を通していたら時間の経過を忘れていて、ドアをノックする控えめな音で現実に戻される。一度、間を置いて二度。風紀委員の誰かとも違う、ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな音に顔を上げて、「誰」と問いかけた瞬間に聞こえてきた、上擦った声。
 その声を耳にした瞬間、膝に斜めに置いていたファイルを危うく落としそうになって反応が遅れた。予想外の人物が扉の向こうに立っている。目を見張り、信じられないと一度首を振ってから、どう返事をしようか迷う。けれど口をついて出たのは酷く事務的で、淡泊な答えだった。
 帰れ、とも言えず。何の用かと問えば、特に用事は無いけれど、と言葉を濁される。浮き足立つ心を悟られまいと素っ気ない態度しか取れない自分に心の中で舌打ちして、裏腹に手と目は事務作業をこなし続ける。
 自分がふたりになったみたいだ。
 入り口で立ち止まったままでいる彼は、進みもせず戻りもしないから、そこに突っ立たせておくのも不憫に感じて顎でソファを示す。すると戸惑いながらも歩み寄り、ソファに腰を沈めてまた黙り込む。こんなに大人しい子だったろうかと、記憶の中にある様々な姿を順繰りに思い出してみても、そのどれとも一致しない彼の挙動に疑問を抱いた。
 何かが、変わった。具体的に何が、までは分からないものの、確かに昼休み後の保健室での出来事は、ふたりの関係を少しだけ変化させていた。
 前と同じようで、間に漂う空気は少しだけ色が違っている。
『好きです』
 真っ直ぐに目を見て言われたことば。その意味が果たしてどれだけの重さを込められたものだったのか、他者に対してその感情を抱いた過去がない雲雀にとって、綱吉の気持ちを正しく即座に理解しろというのは、酷な命令だった。ただ、彼のこれまでの環境や交友関係を知らない綱吉もまた、その現実を理解しない分おあいこだったかもしれない。
 一瞬で何もかも相手を理解するなんて、地球上に存在する数多の人間の誰ひとりとしてなしえる技ではない。だから人は相手を知ろうとするし、分かり合おうと努力する。はねつけられ、痛めつけられ、時に心が離れてしまっても、歩み寄る努力を続ける限りいつか門は開かれる。
 そう信じていれば。
 けれど、最初から信じていない人はどうすればいい? 信じる術を知らない人は、どうすればいい?
 俯いたままでいる綱吉を見て、喋りもせず下を見て、何をするでもなくただ座っているだけの彼を見ているのは、雲雀だって楽しくない。それどころか苛立ちが募り、どうして、が頭の中で堂々巡りを繰り返す。
 どうして、自分を見ない。どうして、笑わない。どうして、そんなにも怯えている。どうして、どうして、どうして。
 あいつらには笑いかけるのに、自分にはにこりともしない?
 柔らかく、それでいて強情な髪の毛が今は主の気持ちを反映してか元気なく、しなだれている。あの鋭く、それでいて柔らかい瞳が気に入っていたのに、翳りを帯びた表情は薄暗く、雲雀の求めているものとは全くかけ離れてしまっている。
 どうすれば、いい。どうすれば、君は。
――笑うの?
 囁きは、音を刻まずに溜息と共に。
 ソファの座る場所を変えたのは、気紛れでしかない。俯いたままでいる彼を真正面に見据えるくらいなら、見えにくい真横に置いた方がずっと仕事が捗る気がしたのだ。ただそれは大きな間違いだったのだけれど、唐突に予告なく横に座った雲雀を見て、綱吉は久方ぶりに声を上げた。
 驚きに染まった目と不機嫌に顰められた瞳とが至近距離でぶつかり合う。彼の吐息が鼻先を掠めていった。
 衝動的な感情に裏打ちされた罵声に呆気に取られたけれど、その最中に聞かされた「優しくない」という言葉はあまりにもおかしくて、けれど笑う事も出来なかった。
 そんな風に自分を捉えた事は一度としてなく、けれど彼には自分が、そんな風に見えているのだと知る良い機会だった。
 自分を決して、優しい人間だとは思わない。どこをどう見て、そう彼が感じたのかは分からないけれど、胸の奥にくすぐったいような、甘い匂いが漂ったのは確かだった。
『好きです』
 そう言われた時を思い出す。その言葉の意味を考える。
 今でも、よく分からない、その感情の真意が。ただ、ひとつ言えるのは。
 嫌いではない、と。
 それだけは、確実。

 
 一緒に帰ろう、とは言わなかった。けれど、雲雀が資料のチェックを終わらせてそれを風紀委員室へ持って行く間も、彼は綱吉に「じゃあね」と言わなかった。
 だから綱吉も、金魚の糞ではないけれど三歩遅れて雲雀の後ろをついて回り、一階にある応接室から上の階まで鞄を持ったまま往復した。雲雀がなにやら副委員長とドアの前で話し込んでいたので、その間に綱吉はまたしても廊下にある水道で顔を洗い、一足先に用事を済ませた雲雀は、そんな綱吉が持っていたハンドタオルで顔を拭くまで離れた場所で待っていてくれた。
 お互い何も言い合ったりせず、ただ振り返った先に相手の姿を探している。目が合うと綱吉は嬉しそうに微笑むので、無意識に雲雀も表情は軟らかくなる。それを盗み見た草壁は、天変地異の前触れかと唖然として言葉を失い、立ちつくしていたけれど、それはそれで雲雀に失礼な話である。
 夕暮れ間近の校庭はまだ部活動の真っ最中で、かけ声や号令があちこちから複数飛び交い、混じり合って響く。綱吉はその中で、無意識に野球部の姿を探していた。山本とは妙な空気のまま教室で別れてしまったので、また明日、とだけは言いたかったから。
 しかし目的の人物の姿は見あたらず、グラウンドの片隅で機材を片付けている女子マネージャーの姿があるだけ。部員は外にランニングに出ているのか、ミーティングの最中なのだろう。しょんぼりと肩を落とす綱吉に、雲雀は何を思うのか、表情からは相変わらず感情が読み辛い。
 危うく置いて行かれるところだった綱吉は、既に正門の手前まで達している雲雀の背中に気付き、慌てて足を速める。彼は門柱の真横まで来た時点で一度足を止め、軽く背後を振り返る。そうして綱吉がついてきているのを確認すると、また黙って歩き出した。
「え……」
 学校が面している道は東西に延びており、最初に曲がる第一歩で進む方向が全く逆になる。そういえば綱吉は雲雀の家が何処にあるのかを知らない、そして彼が進んだのは綱吉の自宅がある方角だった。
 一緒だったっけ、と考えるが、知らないものは幾ら考えても分かるわけがない。ただ、少しでも傍にいられる時間が増えるのは純粋に嬉しくて、綱吉は肩から襷掛けした鞄を脇に抱え直した。
「ヒバリさん、歩くの速いです」
 僅かに息が上がるのを感じながら、綱吉は揺れる鞄を押さえて雲雀に追いつく。横に並んで歩くと、身長差がはっきりと分かる。彼の肩にまでしか届かない自分の背の低さを実感しつつ、ふたつ並んだ大きさの異なる影が嬉しい。
 どこまでも続く道、車道と歩道を隔てる石のブロック。幅の狭い道路でも交通量が多い為に設置された信号、車が通らなくても目の前が赤信号だったならきちんと立ち止まって青に変わるまで待って、雲雀は右脇に薄っぺらな鞄を抱えて一定のリズムを崩さない。幼稚園くらいの子供を乗せた女性が自転車を漕いで通り過ぎていく、仕事中らしい社名をプリントした乗用車が走り抜ける。
 なんでもない日常、なんでもない世界。なんでもない景色、大きな変化も見せず、ただ淡々と過ぎていく時間。
 綱吉は歩きながら、自分の家までの距離を数える。あそこの角を曲がり、直進して今度は左へ。それから、それから。
 タイムリミットは案外短い。少し遠回りしてもバチは当たらないだろうか。
 伺うように盗み見た雲雀の顔は逆光の中にあり、綱吉は目を細めた。そうしなければ見えない彼に、少しだけ寂しさを覚える。
「あ」
 見上げた後足下に落とした視線の先に、見覚えのある茶斑の猫がいた。この辺りが縄張りなのか、偶に下校時に見かける野良猫は、獄寺はあまり好かれていなかったけれど山本と綱吉には甘えた声で擦り寄って来てくれる。警戒心は強いのだけれど、何度か餌をやったら顔を覚えてくれたらしい。
 今日もいつも通り、通り沿いの住居のブロック塀上で座り込み、欠伸をしている。
 声を出してしまった綱吉に、雲雀も数歩進んだところで振り返る。
「猫?」
「えっと、はい。野良なんですけど、俺とかに懐いてくれてて。おいでー」
 今日はあげられる餌がないけれど、癖で綱吉は両手を広げ猫に向かって語りかけた。猫は訝しげに雲雀をちらっと見てから、綱吉を見下ろす。値踏みされているように感じた雲雀は顔を顰めさせた。
 斑の猫はもう一度欠伸をすると肩をすぼめ、柔らかい毛並みに顔を埋める。綱吉はそれでも諦めきれないのか、しつこく名前のない猫に呼びかけたが、反応は芳しくない。
「懐いてる?」
 懸命になって綱吉が呼ぶ程、猫の態度は頑なになっていく。雲雀の呟きに、綱吉もまた肩をすぼめ、おかしいな、とひとりごちた。
「山本とかと一緒の時は、いつも寄ってくるのに」
 それはとても自然に、何の考えもなくこぼれ落ちた言葉。しかし綱吉の元まで近付こうとしていた雲雀は、彼の何気ない呟きに足を止める。
「……ふぅん」
「見慣れない人がいるから、警戒してるのかな」
 暗に雲雀の事だとほのめかし、綱吉は肩を竦めた。小さく舌を出し、すみません、と謝る。
「なんで謝るの?」
「え? えーっと、なんとなく……?」
 ここで謝るべきは、本来なら綱吉の呼びかけに応じなかった猫の方だ。だから綱吉は雲雀に詫びる必要は何処にもない。鋭く突っ込まれ、綱吉は視線を浮かせ首を傾げる。そういえば、何故だろう、と。
「いいや。行きましょう」
 だけれどじっと雲雀に見つめられたままだと、考えられる事だって浮き足だって考えられなくなってしまう。綱吉ははにかんで笑って、今度は自分が先立って歩き出した。そうしてさりげなく、本来の自宅に通じる最短コースから道を外す。
 雲雀は黙って彼の背中を追いかけた。
 まだ多少の緑と、開発途中に放置された空き地と、洗浄実験が成功して清水が戻ってきた川。都会と呼ぶにはおこがましく、田舎と呼ぶには開けすぎている町。気が付けば本当に随分と自宅を大回りして、区画で言えば隣の町内にまで来てしまっていた。
 流石にもう、綱吉がわざと遠回りしているのだと雲雀も気付いているだろう。彼は以前に綱吉の自宅を襲撃しているから、場所だって分かっているのだし。
 けれど何も言わない。数歩先を行く綱吉の後ろを、黙々とついて歩く。
 路肩の石、等間隔に並ぶ車止めの上に乗り、綱吉は自分の影を追って、石と石の間はジャンプで飛び越えて次に乗り移る。
「……で、ランボってば、どうしたと思います?」
 沈黙が耐えきれなくて、一方的に喋る綱吉の声が空に溶けていく。時々振り返って、そこにいる雲雀の姿を確かめて、希に返される、聞こえているのかいないのか分からない相槌に、寂しさとうれしさが混同する感情を胸に幾つも溜め込んで。
 綱吉の爪先がコンクリート製の車止めを蹴った。反対の脚を伸ばし、一メートルほど先にある石の手前に着地。素早く右足を伸ばして十五センチほど高い場所に立つ。
「あいつってば、信じられないかもしれないですけど、箪笥の上まで登って逃げちゃって。それで、高すぎて恐いから、自分で降りられなくなってるんですよ」
 可笑しいでしょう、と自分でも当時の事を思い出して綱吉はケラケラと声を立てて笑った。それでも、伺い見た雲雀はにこりともせず、やはり聞こえているのか、どうなのか、綱吉には判別がつかない表情で、佇んでいる。
 彼の黒髪が風に撫でられ、細い毛先が少しだけ舞い上がる。右手に川、左手に道路。交通量は多くなく、思い出した頃に乗用車が一台、トラックが一台と通り過ぎるだけ。太陽は西に大きく傾いて、昼間の名残を棚引く雲に流し空を朱色に染めていた。
 進行方向は川の上流、このまま進み続ければ家に帰り着くどころか、日が高いうちに帰れないかもしれない。次の橋が見えたら曲がって、住宅区に戻らなければいけない。遠く前方に、その橋が見える。
「それで、俺、凄い怒ってたからそのまま暫く反省してろって言ったんですよ。そしたら大声で泣き出しちゃって。結局、可哀想になって下ろしてやったんです」
 小さい子って、それだけで得ですよねー。そんな風に嘯いて綱吉は置き石の上から雲雀を振り返った。
 夕日が左の頬にぶつかって拡散する。長く伸びた影が車道にまではみ出し、頭の先を掠めて車が走り去った。
 川面を見ていた雲雀が、立ち止まった綱吉に気付いて同じく足を止める。その間は三歩程。一瞬で埋められるのに、なかなか埋まらない、とても微妙な距離。
 綱吉は漸く並んだ視線を自分から逸らし、陽光を浴びてキラキラ眩しい川を見た。水量は少なくて、川底に転がる石が幾つも顔を覗かせている。その表面も濡れているからか、輝いている。
 川全体が光に包まれているようで、だからこそ余計、自分たちを取り囲む空間の暗さが際立っている。
「……どうしたの」
 低い、久しぶりに聞く雲雀の声。
 黙り込み、完全に足を止めてしまった綱吉に、雲雀がその場から問いかける。抑揚のない、感情の薄い声。綱吉が好きで、好きで堪らない筈の声が、今はどうしてだろう、とても哀しい。
 胸がぎゅっと締め付けられ、彼の放つ一音ずつが、棘となって刺さる。少しだけ開いていたふたりの間にある扉が、またゆっくりと、重い音を立てて閉じていく。細い隙間から辛うじて覗く雲雀の姿さえ、直視できない。
「ヒバリさん、俺」
 雲雀は黙って綱吉を見ている。綱吉は話しながら、遠くの景色を眺めている。
 こんなに近くにいるのに絡まない視線がこんなにも哀しいだなんて、知らなかった。
「俺。俺って、迷惑ですか?」
 ずっと聞けなかった、聞くのが恐かった。否定して欲しいけれど、肯定されてしまいそうで、だから言えなかった。言わなかった。それなのに。
 不満や不安を押し込んでいた黒い心の蓋が外れてしまったみたいだ。中身があふれ出て、どんどん自分が汚い色に染まっていく。止めたいのに、止まらない。
「俺、迷惑ですか? 邪魔ですか? 鬱陶しいですか?」
 早口にまくし立てる。問いかけるというよりはもう、言葉にした途端それらは事実と化して綱吉の上に落ちてきた。悔しい、寂しい、悲しい、情けない、馬鹿みたいだ。色々な感情がまぜこぜになって、目の前が真っ暗になる。
 じゃり、と道路を踏み締める音に気付いた頃にはもう、雲雀は目の前にいて。
 平行になっている視線の高さに戸惑いながら、綱吉はそれでも強気で雲雀を睨んだ。目尻に浮かんだ涙を払おうと、頭を振る。
 雲雀の顔は不機嫌に染まっていた。今まで幾度となく見かけた、自分の気に入らないものは全てが敵、という彼の顔だ。
「なに、それ」
 低い、地鳴りを伴うような呟き。
 どうして。
 真っ先に浮かぶ言葉が、それ。
 どうして、分かってくれない。どうして気付いてくれない。
 だってそれは、最初から彼が、綱吉に、綱吉の心に、興味も関心もなくて。最初から、全く、綱吉を分かろうとしていなくて。
 ただ懐いてくるから、あの野良猫のように、餌を与えたら勘違いして擦り寄ってきたから、物珍しくて傍に置いただけではないのか、と。
 勘違いだったのだ。保健室で頭を撫でてくれた手も、応接室で拗ねた綱吉を宥めて隣に座って来たのも。帰り道、一緒に歩いたのも気紛れな退屈しのぎ。最初からなにひとつ、綱吉の思いは届いていなかった、勘違いだった。
 少しでも、雲雀が自分の事を好いてくれているのだと思った、一世一代の勘違い。綱吉は道化の如く、彼の行動に踊らされただけ。滑稽だ、笑い話にもならない。
「帰ります、遠回りさせてすみませんでした」
「待ちなって。いきなり、何」
「だって、ヒバリさん。俺の事迷惑でしょう? 鬱陶しいんでしょう? だったらそう言ってくださいよ、先にそう言ってくれたら良かったのに!」
 拳を作り、震わせて上下に激しく動かす。突き出した上半身、ぶつかりそうな位置に雲雀が立って黙って彼の言葉を聞いている。表情は僅かに困惑が浮かび、しかしそれ以上の事は分からない。
 憎らしい。こんなにも好きだけれど、同じくらいに嫌いになりそうだった。
 こんな気持ちになるくらいだったら、こんな感情を雲雀に持つくらいなら、最初から好きだって事に気付かないまま、遠くから眺めている頃の方が良かった。
 悔しい。奥歯を噛みしめる、ギリという音が口の中に響いた。
「だって」
 好き。貴方が好き。
 好き、だからこっちを見て。この気持ちに気付いて。この感情を受け止めて、受け容れて。
 でも届かない。扉は閉まってしまった、もう貴方の姿は見えない。探したくても見つけられない。貴方が扉を閉じてしまったから。
「だって、ヒバリさん、さっきからずっと黙ってるじゃないですか。俺ばっかり、はしゃいで、喋って、喜んで……これって、これじゃ、俺が、俺ひとりが、馬鹿……ばっかみたい! ひとり調子に乗って、嬉しがって、でもヒバリさんはそうじゃない。俺だけだ。俺だけが!」
 流れ落ちた涙は、悔しさに染まっている綱吉の、僅かに残っていた綺麗な部分を結晶にしたみたいで、それが頬を伝い地面に落ちて砕けた瞬間、綱吉の中にある何かも、一緒になって砕け散った。
 雲雀の眉間に、深い皺が刻まれる。明らかに雲行きが怪しくなっていくふたりの間の空気に、通りがかった人はそそくさと去っていった。
 雲の合間に隠れた太陽が日影を作り、そしてまた直ぐに顔を覗かせる。凪いだ空気が、綱吉の頬に貼り付いた。
 雲雀が何かを言いたそうに唇を揺らす。しかし綱吉は振り切って、叫んだ。
 なりふり構わない、人が異様なものを見る目を向けてこようと、一切気にならなかった。ただ、目の前に立つ男にだけ、必死に伝えようとして。
「なんで……なんで黙ってるんですか。言ってくださいよ、黙ってないで言えばいいじゃないですか。俺のこと迷惑って、俺の事なんとも思ってないって。俺の事、馬鹿みたいだって笑ってくださいよ。最初から、期待持たせるようなことしないでくれたら、俺だってこんな惨めな思いしなくて済んだのに!」
 惨め。
 そう、惨めだ。
 彼を好きになって、姿を見かけるだけでドキドキして。背中を探していつもあちこち見回して、見つけたらまた胸が苦しくなって。好きだと自覚して、彼が好きだという自分がもっと好きになって、彼も自分を好いてくれたらもっと嬉しいと思った。触れられて、伝わってくる体温と優しさに心が躍った、何気ない気配りと言おうか、言葉にしない優しさが嬉しかった。
 何故自分が好きなのか、と聞かれた。その答えは今だって分からない、ただ理屈ではない感情が綱吉の胸の奥底で蠢いている、巨大な渦となって彼自身を飲み込もうとしている。
 たったひとつの感情に揺さぶられて、揺り動かされて。このままでは自分自身が壊れてしまう、もう綱吉は元の自分に戻れない。自分の方が聞きたい、何故、どうして、雲雀だったのか。
「どうせ心の中で笑ってたんでしょ、気持ち悪いって思ってるんでしょ? 俺だって、そう思いますよ、こんなの馬鹿みたいだって、男が男の人好きになって、それで真剣に泣いたり笑ったりしてるって、ありえないって、冗談じゃないって。俺の……俺が、面白いですか? おかしいですか? 馬鹿みたいですか?」
 こんなにも自分が嫌いになりそうな程、相手を罵る言葉を繋いでいるというのに、雲雀はどうして、何も言ってくれないのだろう。
 本当に、彼にとって綱吉とはそれだけの価値も無かったというのか。
 綱吉の気持ちは、一欠片さえ彼に届いていなかったのか。
 涙が、止まらない。
「……れ」 
 雲雀が押し殺した声で呟く。ただ、綱吉には聞こえない。聞きたくないと、全身で拒絶を表す。
「最初に言えばよかったんだ、俺のこと嫌いだって、どうでもいいって! 俺ばっかりヒバリさんのこと好きで、でもヒバリさんは俺のことどうだって良いって!」
 貴方が好き。
 大好き。
 だから、悲しい。だから、悔しい。だから、寂しい。
 貴方を好きになれば成る程、貴方を好きであればある程、この届かない思いがもどかしい。
 膨れあがった感情は、限界を超えて破裂する。
「黙れ」
 雲雀の声。
 届いていないのは、もしかしたら、逆だったのかもしれない。ただ、それに気付くのに、綱吉は幼すぎた。雲雀は、己に無関心すぎた。
 些細なすれ違い、感情の行き違いが、ふたりの足場を揺らしている。
「そうしてくれた方が良かった。なんで俺だけ、こんなに苦しくなんなきゃいけないんですか。俺だけ、俺ばっかり……これじゃ、あんな風に優しくしてなんか欲しくなかった!」
 綱吉の両手が己の頭を抱きかかえる。掻きむしった髪の毛が乱雑に乱れる。柔らかかった彼の薄茶色い髪が、刃となって彼の指を切り裂いて見える。頑なに雲雀を拒む衝動こそが、雲雀を傷つけている事にさえ気づけずに。
 彼は。
「黙れ!」
 突然、空を裂く怒声。ぐっ、と引っ張られ綱吉の三半規管が若干狂った。涙で濡れた視界が揺らめき、世界を違うものに写し取る。力強く、暖かく、そして柔らかなものに包まれ、綱吉は呆然と、舌を噛みそうになりながら、瞬きを数回繰り返した。
 吐き出そうとしていた言葉は音になる前に、膨らませすぎたシャボン玉のように弾けて消えた。
 抱きしめられているのだと気付くのに、たっぷり五秒はかかった。その間に雲雀は綱吉の腕ごと彼の小さな身体を全身で包み込み、その髪に頬を寄せる。綱吉の流した涙は彼の胸元に吸い込まれ、自分のものではない心音が、息音が、彼を覆い尽くす。
「黙れ……」
 息を殺し、声を殺し、感情を懸命に押し殺す雲雀の声が間近から響き、綱吉の胸に落ちてくる。顔を上げる事を許して貰えない綱吉は、代わりに雲雀の胸に自らを押しつけた。
 昼間、保健室で感じたあの太陽の匂いがした。

 
 確かに、言われてみればそれは単なる好奇心に裏打ちされた、気紛れだったのかもしれない。否定は出来ない、後から考えても。
 けれど真摯に向けられた瞳は確かに空っぽだった心に何かを満たし、激しく揺さぶったのもまた事実。
 嫌いではない、そう結論づけはしたもののそこから先は未開の地。誰かを特別に思ったり、感じたり、大切に思う事が今まで一度もなかった自分にとっては、そこから先に足を踏み入れる事を、どこかで恐いと感じていたのかも知れなかった。
 恐いもの知らずと言われた雲雀恭弥とあろう者が、たったひとりの相手に心を動かされ、その動揺にひたすら戸惑っている。猫の話をする君は笑いながら、自分とは違う男の話を楽しそうにする。君自身の事を、最近の出来事を、自分の知らない誰かの事を、楽しそうに話す。
 その度に、自分を「好き」と言っておきながら、君は自分を蚊帳の外に追い出そうとしているのでは、と陰鬱な気分になる。
 君が語る世界に、その場所に、自分の居場所は無いのだ。その苛立ちを、どう表現すれば良かったのか。なんと言い表せば良かったのか。
 だから、不意に話止んで立ち止まった君が、振り返って自分を見た時は、少なからず心が弾んだのだ。漸く目線が重なって、やっとあの瞳が自分を見た事が純粋に嬉しかった。
 それなのに、君は。
 君は。

 乗用車が走りすぎていく。静まりかえった空間に響くエンジン音、それもやがては遠ざかり、住処へ帰る途中らしき鳥の鳴き声が頭上高く、静かに消えていった。
 耳を澄ませば、相手の心臓の音、そして呼吸の音だけが心を埋め尽くす。最初こそタイミングがちぐはぐだったのに、いつの間にかひとつの音として綺麗に重なり合っていた。触れあったところから相手の血液が自分に流れ込み、そして別で触れあっている箇所から相手に戻っていく。そんな気分になる。
 ひとつに。
 その間、ふたりは何も言わなかった。綱吉だけがしゃくりを上げ、懸命に涙を堪え、喉を鳴らしている。そうしてやがて、酷く弱々しい声で呟いた。ごめんなさい、と。
「……どうして、謝るの」
「だって」
 綱吉の後頭部を抱いたまま、雲雀が低い声で問いかける。綱吉は答えようとして、答えらしきものが見あたらなくて言葉を詰まらせた。
「……分かんない……けど、ごめん……なさっ……」
 途切れ途切れに、それでもどうにか必死に言葉を繋いで、それでも紡げたのは謝罪のことば。雲雀の手に力が込められる。更に強く、彼は綱吉を自分の側へと引き寄せた。
 車止めの石の上で引きずられ、綱吉の爪先が宙に浮く。
「いいよ。謝らなくて」
 この場合、本当に謝らなければならないのは、きっと雲雀の方。本人もそれが分かっているからこそ、余計綱吉に謝られるといたたまれなくなってしまう。だからぐしゃぐしゃに綱吉の髪を掻き回して、抱きしめて、それを伝えようとする。
 まだ高い位置にあった綱吉の手は、力を失い脇に垂れ下がった。指が小さく痙攣し、意志を持って動こうと空気を掻いたものの、結局はどうする事も出来ずまた固く拳となって握りしめられた。
「……でも」
 油断するとまた涙がこみ上げてきて、綱吉は瞼を閉ざしそれを堪える。口を開けば「ごめんなさい」ばかりが溢れそうで、唇を噛みしめた。
「それ以上謝ったら、君でも、殴り飛ばすよ」
 その言い方があまりにも雲雀らしくて、そして雲雀らしくなくて、漸く心にゆとりが持てた綱吉は、硬直させていた頬を弛ませ、気配だけで笑った。雲雀の拘束がほんの少し弱まる。呼吸が、楽になった。
 ただ彼はそうなっても綱吉を放してくれなくて、ふたりの間に挟まれた綱吉の鞄が居心地悪そうにしている。綱吉は腰を引いて鞄の間に隙間を作った。膝で角を押すと彼の狙い通り、教科書が入って角張っている鞄は右の脇へとずり落ちていった。左肩に、ズシンと重みが増す。
「えと、すみませ……あ、いえ。はい」
 また無意識に謝りそうになって、目を見開いてから細め綱吉は小さく頷いた。髪を撫でる雲雀の手が、ほんの少し、優しくなる。
 彼はそのまま、また暫くの間黙り込んでいた。綱吉も、言葉を続けるタイミングを逸してしまい、無言を貫く。そわそわと、雲雀の背に回したいけれど出来ない手が彼の両脇で揺れている。怒られないだろうか、構わないだろうか。ぐるぐるとそればかり考えていたものだから、頭上で流された音を拾い損ねてしまった。
「……らない」
「え?」
 反射的に聞き返す。雲雀の拘束が弛んでいたから、今度はちゃんと彼を見上げられた。視界いっぱいに、雲雀の整った顔立ちが広がる。彼は遠くを見ていた。
 けれど、分かる。彼の視線は綱吉に向けられていないけれど、彼の心はちゃんと綱吉に向けられているのが。今ならそれがよく分かった。
「よく、分からない」
「……なにが、ですか?」
 紡がれた言葉は綱吉の予想を遙かに超える場所にあって、だからきょとんとしつつ、問い返してしまった。雲雀の髪を梳く手が止まる。顎を引いて下向いた彼と、久方ぶりに目が合った。
 綺麗な、澄んだ色に胸が一瞬高鳴る。
「こういう事を、した事も、したいとも思った事が無かった」
 こんな事、とは果たして何を差すのだろう。綱吉はちょっと首を捻り、考える。雲雀はまた遠くに目線を向け、綱吉の頭を強引に胸に押しつけた。今度こそ置き石から踵まで外れ、危うく落下しかけた綱吉は、すんでの所でつま先立ちになり衝撃を堪える。実際のところは、雲雀が抱えてくれていたお陰でそう大変ではなかったのだが、唐突に足場が無くなるのは矢張り恐い。
 意識しないうちに、両手が雲雀の背中に回って彼にしがみついていた。そして放せなくなる。
 心音がもっと近くなって、胸のどきどきが一層速まった。
「どういう事をして、どんな風にすればいいのか、分からない」
 雲雀は話し続ける。思えば、彼がこんなにも綱吉に対して多弁になるのは、初めての気がした。
「どんな顔をして、どんな事をしてやればいいのかも、知らない」
 誰かに好きだと言われたのは初めてだった。逃げるのではなく、向かってくる相手も初めてだった。面と向かって、視線を逸らさず、真剣に、真摯に、一途に、自分を見つめ、そして笑いかける相手は、綱吉が初めてだった。
 物珍しさが先に立った。どうしてこの子は自分につきまとうのだろうと思った、そして目で追ううちに、逸らせなくなった。
 好きかどうか、なんて分からない。その感情がどういうものなのか、雲雀は知らない。
 けれど嫌いではない。綱吉が雲雀に与えてくれる感情は、決して嫌なものではなかった。ころころと変わる表情、泣いたり笑ったりと忙しくて、一瞬でも目を離せない。弱いくせに強いものに楯突いて、どんなに力の差があっても諦めずに屈せずに、立ち向かって。
 その強さに興味があった。その強さに憧れもした。
 まだるっこしい感情は欲しくなどないのに、どうしてだろう。弱いくせに誰よりも強くなれるその心が、羨ましかった。
「あの、……ヒバリさん……?」
 綱吉の指が雲雀の着ているシャツに絡む。保健室の時のように、彼は撓んでいる部分を掴み、そして軽く引っ張った。
 綱吉の顔がゆっくりと夕焼け色に染まっていく。ああ、そうか。なんだ、そうなんだ。雲雀のことばが、岩場に染みる水のように綱吉の中に広がっていく。
 この人は、なんて、不器用なのだろう。
「君はいつも、悔しいけれど、あいつらと一緒の時はよく笑うのに。僕と居る時は、泣いてばかりだった。でも、笑って……くれていたから」
 綱吉は両手で雲雀の背中を強く抱きしめた。アスファルトの地面に下り立ったお陰で、ぐんと開いた身長差がもどかしい。
「君が、笑っているなら……それで構わないと、思って」
 だけど、と雲雀が続ける。綱吉の左肩にかかる負荷が増した。なんだろう、と首を傾がせると、雲雀の耳がとても間近に、真横にある。
 綱吉の肩に顎を置いた雲雀が、顔を伏せていた。放たれる声が、若干くぐもっている。
「僕じゃ、やっぱりダメみたいだ」
 初めて聞く、雲雀の、気弱な声。胸にずしりと重くのし掛かる、泣いているのではないかと錯覚させられる、雲雀の声。
 綱吉はつい手の力が抜けて彼のシャツから指が外れ、慌てて掴み直す。けれど少し迷った末、指を揃えて伸ばすと背で左右の手を交差させた。ただ抱きしめられているのではなく、雲雀も自分の腕で抱きしめる。
 深まった交わりに、雲雀は少しの動揺を見せた。離れようと藻掻くのを、綱吉は両手に力を込めて引き留める。
「そんなこと、ないです」
 舌の上を転がったことばば、自信に溢れていた。
 雲雀が顎を浮かせる。綱吉の襟足を見下ろして、瞳を戸惑いの色で染める。
「今、だけれど、君は……僕を、嫌いだと」
「ちがいます」
 ああ、嗚呼、この人が。
 この人が、好きだ。
 どうしようもなく、自分は、沢田綱吉という人間は、彼が、雲雀恭弥という人間が、好きで、好きで、堪らなく好きだ。
「俺は、……その、なんていうか。寂しかっただけ、です」
「さみしい?」
 鸚鵡返しに聞き返され、綱吉は赤い顔でちょっと迷う。目線だけを上向けて、雲雀のネクタイの結び目を見つめて、そして瞳を伏せた。彼に甘えて、頬を寄せる。
「ヒバリさんと一緒にいられるの、俺、凄い嬉しい。今日だって、こうやって一緒に帰れるの、凄く嬉しかった。でも、そう思ってるのは俺だけじゃないかって、だからちょっと、寂しくて」
 ずっと、知りたかった。雲雀が自分をどう思っているのか、自分の気持ちをどう受け止めているのか。
 ただ、彼は無口で、無愛想だから表情もあまり変化を見せてくれなくて、けれど時々優しく笑いかけてくれるから、それに甘えていた。明確な答えが与えられないまま、ひょっとして自分の思いこみだけで彼を振り回しているのではないかと考えて、悲しくなった。
 好きな人には、自分の事も好きで居て欲しい。でもそれは、エゴ。
 そして、明らかな答えをくれない雲雀に不満を抱き、自分の気持ちと相反する答えが返されるのが恐くて、自分から聞きもせず、曖昧に濁して逃げていたのは、綱吉。
「雲雀さんは群れるの、好きじゃないから、だから俺といても、楽しくないし嬉しくないのかなって」
「それは……」
 確かに言われる通り、雲雀はひとりを好み、孤高を好み、弱い者同士が馴れ合っている中に混じるのを極端に嫌う。そういう連中が目の前にいるだけでも、激しい嫌悪感を示す。知っているからこそ、綱吉はどこか雲雀に対し引け目のようなものを感じていたのかもしれない。
 自分が傍にいる事で、雲雀までもが弱くなってしまうのではないかと。
 自分のような人間が、雲雀の傍に居て良いものか、と。
「君は……言う程弱くないだろう」
「そりゃっ、リボーンが居れば少しは違うけど」
 綱吉が語尾を弱めて言葉を濁すのは、死ぬ気弾の事を雲雀がどこまで知っていて、理解しているのかが分からないから。それにあの力が無ければ、自分が無力な人間だと彼に思われたく無かった。
 我ながら情けない理由。その上、狡い。
 言い訳がばれてはいないだろうか。ちらりと盗み見た雲雀の顔は、矢張り何を考えているのか読み取りづらい鉄面皮。その薄い唇が、開かれる。
「情けない」
 一瞬自分の事を言われたのかと、綱吉はドキリとしたが、雲雀の目は遠くを見据え、少し悲しげに表情を曇らせている。綱吉は彼を見上げながら、腕の交差を緩めて自分の手を握った。彼が何処かへ行ってしまわぬよう、しっかりと捕まえる。
「君を泣かせて、悲しい思いをさせて。そうさせている自分に、一番腹が立つ」
 髪を梳く手はどこまでも優しい。
 雲雀の言葉が胸を突いて綱吉を締め付ける。彼の行動はこんなにも優しいのに、彼はどこまでも自分に厳しくあろうとする。確かに雲雀は言葉少なく、綱吉を不安にさせたけれど、その事を表立って表現せずに胸の中に鬱積させるばかりで、直接雲雀に確かめる術は幾らでもあったのに、実行に移さなかったのも綱吉本人の責任だ。
 雲雀はずっと、綱吉の事を考えてくれていたのに、綱吉はそれに気が付かなかった。考えようともしなかった。ただ自分の事ばかり優先させて、雲雀の気持ちを本当に理解していなかった。
「ヒバリさん……」
 悲しみとは違う涙が、綱吉の頬を伝い落ちていく。
 どうしようもなく雲雀が好きだという気持ちが、溢れ出す。
 彼の顔を見たくて、綱吉は首を振った。頭に添えられたままの彼の手をふりほどこうとしたけれど、綱吉の行動の意図を察した雲雀が、先手を打って掌に力を込める。胸に押し当てられて、彼のシャツに新しく涙の染みが出来上がった。
「ヒバリさん、顔、見せて。俺、だって、ヒバリさん」
 千切れて上手く繋がらない言葉、回りきらない舌で懸命に自分の気持ちを伝えようとするのに、彼は放してくれない。尚更ぎゅっと抱きしめられ、最後に耳元で「ダメ」と囁かれた。
 耳たぶをくすぐる吐息に、綱吉の頬が鮮やかな朱に染まる。
「今、君にどんな顔をすれば良いのかも、分からない」
「そんなの」
 例え雲雀が、どんなにみっともない表情をしていようと、いまいと、だからと言ってそれが雲雀でなくなるわけではない。綱吉が好きな彼から、そうでない彼になってしまうわけではない。むしろ、綱吉がそうであるように、色々な表情を見せて欲しい。
 自分だけが泣いたり笑ったり、感情の動乱を表に出しているなんて、不公平だ。
 それに、と早口でまくし立てた後、綱吉は両手を解いて自分の顔の前に移動させた。即ち、雲雀の胸元へ。
 右の掌に左の手を重ね合わせ、雲雀の左の胸に押し当てた。耳を寄せれば、彼の心音が子守歌のように心に響く。
「分からないなら、俺も一緒に考えます。ひとりでは答えが見付からなくても、ふたりならその倍、探せるじゃないですか。見落としているところがあっても、気付いてあげられるかもしれないじゃないですか。ヒバリさん、俺も手伝います。だから、俺の事、もっと思い出して」
 もっと頼って欲しい。顔を向けて貰えないなら、せめてその気持ちだけでも自分に向けて欲しい。雲雀の心臓に触れながら、綱吉は切に願う。
 届けばいい、届いて欲しい。貴方が好きだという気持ちが、もっともっと、雲雀の中に満ちて欲しい。
 たわいもない話をして、つまらない冗談を言い合って笑って、時に本気にして。たまには喧嘩をして、けれど直ぐに仲直り。
 夕日を背に一緒に帰って、別れ際、ちょっとだけその瞬間を惜しんで立ち止まる。互いに違う方向へ歩き出すけれど、後ろ髪を引かれる思いで何気なく振り返ったら、そこにまだ貴方が居て、貴方もまた振り返って目が合えばそれだけで嬉しい。また明日、と手を振って、約束をするわけではないけれど、次の日も同じように道を歩けたら、それだけで幸せ。
 特別な事など、なにひとつ、必要ないのだ。ただ他に大勢居る友達と違って、少しだけ、ほんの少しだけ、心が近い場所にある。触れあう距離が近くて、時々で良い、手を繋いで抱きしめて、貴方の体温を、息音を感じさせてくれるだけで。
 過ぎていく時間は一瞬だけど、たった一秒でも長く共に居られたら、いい。
 一緒に居られるだけで、安いと笑われるかもしれないけれど、貴方が好きだと実感させてくれる。その気持ちだけで、充分に幸せ。
 この幸せが、雲雀に伝わればいい。
 綱吉は顔を起こし、雲雀を見上げた。いつの間にか弛んでいた拘束のお陰で、今度はすんなりと彼の顔を仰ぎ見る事が出来た。
 夕焼けを背負い、影が濃い彼の瞳は迫り来る闇に翳り若干暗い色をしている。
 綱吉は腕を伸ばし、広げた右手で彼の髪を梳き上げた。黒く細い、綱吉のそれよりもずっとしなやかな髪が指の間をすり抜けていく。雲雀は一瞬だけ目を見開き、驚いた風に表情を崩したけれど、すぐに息を吐いて頬の緊張を解き、綱吉の掌に頭を寄せて目を閉じる。
「ね? ヒバリさん。俺も考えるから」
「ああ、そうだね」
 腕を上下させて彼の頬を撫でる。するとその手に雲雀は自身の手を重ね、包み込んだ。吐く息に合わせて呟かれた雲雀の言葉が嬉しくて、綱吉も彼の体温を感じながら目を閉じる。
 その手は力強く、逞しく、そして暖かく、優しい。
 触れあった場所から新しい心臓が生まれて来たようだ。ドキドキが止まらない。
「ヒバリさん、あったかい」
 体温を感じる。夕暮れと一緒に溶けていきそうで、綱吉は雲雀に僅かに体重を預け寄り掛かった。その背を、右腕一本で支えた雲雀が引き寄せる。彼は左手で包んだ綱吉の手を下へ強引に下ろし、彼の耳元に顔を沈めた。
 密やかに、囁かれる言葉は。
「……要らないと、ずっと、思っていたんだ」
 主語もない、唐突に途切れた会話。脈絡を感じさせない台詞に、綱吉は数回瞬きして雲雀の顔を見ようと首を捻った。しかし耳元ギリギリに雲雀の頭が密着しているので、上手くいかない。
 彼の声は続く。
「こんな感情は邪魔だと……僕を弱くすると、ずっと、思っていたのに」
 綱吉は吐き出しかけた息を慌てて飲み込んだ。重なり合ったままの右手を解く。指を広げ、暫く苦闘した末になんとか、互いの指を絡め合って再び手を握った。
 掌を伝って、雲雀の心音が痛いくらい胸に響く。
「やっぱり、……嫌だな」
「え?」
 雲雀の背中越しに見える世界が、朱色に染まる。空も雲も、町も橋も、川を流れる水でさえ。
 キラキラと輝いて、宝石箱の中に潜り込んだような、そんな世界が。
「要らないと……信じてた。けど」
「けど?」
 雲雀の背中に左腕を回す。彼のシャツを掴んで引っ張り、綱吉は色鮮やかに、今一瞬だけしか存在しない景色に見入った。
 綱吉の中で、世界が色を変えて行く。
「他の誰かに、渡したくない、な」
 触れさせたくない、笑顔を向けさせたくない。子供じみた独占欲。狼よりも凶悪な感情、しかし他でもない綱吉が、何よりも切望した感情が。
 渦を巻いてふたりを包み込む。腹の底から震えが沸き起こり、綱吉は自分が立っているのか、居ないのかも分からなくなりそうだった。耳元で雲雀の、底意地が悪い声が響く。悪魔の囁き、天使の誘惑。そんな表現が頭の片隅で浮かんで消えた。
 ぎゅっと目を閉じる。食われる、本気でそう思った。
 雲雀が笑う。実に楽しげに、綱吉の心をくすぐる声で。甘い蜜を注ぎ込む。

『君が欲しいよ、綱吉』

 その時確かに、ふたりの中では世界が変わった。
 バラ色に染まったわけでも、闇色に堕ちたわけでもなく、本当に微細な変化でしかなかったけれど、確実に、世界は変わった。
 綱吉の背後を、唸りを上げて年代物のエンジンを搭載したトラックが走り去っていく。荷台からははみ出しそうな藁が山盛りに積まれ、その頂上では青年が仕事あがりの一杯を楽しんでいるのが見える。
 影が足下に長く伸び、間もなく日が暮れる。しばしの間抱き合って、満足した綱吉は自分から離れた。両手が宙を抱く格好になった雲雀は、やや不満そうに唇を尖らせる。
 学生時代に通った道、あの河原はすっかり遠くなった。恐らくはもう二度と足を向ける事も無いだろう、そう考えると少し寂しい。
 思い出が詰まった町は、今も鮮やかな夕焼け色に染まっているだろうか。
 風が出てきた。長い後ろ髪を浚われて、綱吉は枯れ葉を巻き上げて去っていく風を追いかけ目を空に向けた。水の跳ねる音は、きっと魚だろう。
 雲雀が両手をポケットに入れ、深い息を吐いた。
 あれから随分と年月が過ぎ、自分たちは大人になった。様々な経験をし、様々に記憶を積み上げ、過去を背負い、人の命を背負い、今もこうして生きている。
 息音は、絶えず彼と共に。
 一瞬でも長く、共にあれたら。
 不意に涙がこみ上げてきて、綱吉は大きく首を振った。赤いリボンで結われた彼の後ろ髪がその都度跳ね上がる。軽く握った拳でこめかみを数回叩き、雲雀を振り返った。
 彼は変わらずそこに居て、綱吉を見守ってくれている。あの時から何ひとつ変わらない、綱吉だけに向けられる優しい笑顔を浮かべて。
「ヒバリさん、あの、俺」
 急に十年、時が逆戻りした気がした。自分は学生服を着た中学生で、雲雀もまた同じ学生服に身を包んだ綱吉の先輩。腕には風紀委員の腕章をして、小難しい顔をしていた頃の彼。
「俺、ヒバリさん、好き。大好きっ」
 いきなり何を言い出すのかと、拍子抜けした顔で雲雀が唇を開く。しかし綱吉の、真面目に赤くなっている顔を見て、なにやら考え込む素振りをする。肩を竦め、間を置いてから彼は綱吉に右手を差し出した。
 左手を伸ばし、綱吉はその手を取る。
「僕も、だよ」
 言ってさっさと歩き出した雲雀の顔を慌てて見上げ、綱吉は声を押し殺して笑った。
 彼の顔は、夕焼けよりもずっと赤く染まっていて。

 例え君と歩む道が、血の色に沈んでいようとも。
 今日を見送る夕焼けは、君といつまでも共に――――