向日葵

 じりじりと、肌が焦げ付く音が聞こえて来そうだ。一年中、一日も休む事無く登っては沈む、を繰り返している太陽に罪は無いが、この季節、もう暫く夏日が続くだろうとテレビも告げる、鋭い日差しに晒されていては、罪ない相手でも恨みたくなるというものが人間の悲しい性。
 黒色のアスファルトで覆われた地面は熱を吸収し、中には打ち水をしている家もあるけれど、それもすぐに熱されて乾きあまり効果が感じられない。蜃気楼さえ浮かんでいそうな、八月某日。
 綱吉は犬の如く舌を出し、だらしなく口を開けてその道を歩いていた。
 行き交う人の姿は少なく、時折通り過ぎる自転車に跨った主婦も、日傘を使ったり帽子を被ったりと日光から自分を守る防御策を徹底させている。そんな人の姿を見送っていると、せめて帽子のひとつでも被ってくるべきだったと、ひたすら後悔が先に立った。
 とはいえ、今更来た道を戻るのは辛すぎる。このまま酷暑に耐えて目的地まで歩き続けるか、多少の涼しさと引き換えに、二倍の距離を歩くのか。両天秤にかけられた選択は、もれなく前者に軍配が上がった。
 諦めよう、どう考えても戻っていては遅刻だ。かと言ってだらだらと流れ落ちる汗に体力を奪われながら進んだとしても、遅刻寸前の時間にしか目的地には到達出来そうにない。幸か不幸か、待ち合わせの約束をしている相手も割りと時間にルーズで、決めた待ち合わせ時間に綱吉より先についていたためしがない。
 無論、誇れることではないが。
 だらりと両腕を脇に垂らし、前傾姿勢で随分と格好悪い歩き方をしながら綱吉は一歩ずつ、非常にゆっくりと道を進んでいく。なだらかな上り坂は冬場であればなんて事はない傾斜に思えただろうが、今の彼の目には富士山よりも高く感じられた。陽炎が地表を覆い、対向車線からは自動車が唸りを上げて走ってくる。
 すれ違う瞬間に風を受けるが、むっとした湿度の高い空気は綱吉から熱さを奪うどころか、逆に体感温度を上げる役割を果たしてくれた。じっとりと噴き出す汗がシャツの色を濃く染めていく。肩に担いだ鞄は、鉛でも入っているのかと思うほどに重い。
 排気ガスを吸い込んでしまい、一頻り噎せた後、既に小さく、そして見えなくなった車を恨めしげに睨みつけ、彼は深々と、それこそその場にしゃがみこんでしまいかねない勢いで溜息をついた。
 暑い。考えるのはただそればかり。
「はやくはやくー」
「待ってよー」
 この近所の子供達だろうか、綱吉の胸の辺りまでしか背丈がない、小学生低学年か幼稚園児らしき子供達が数人、隊列を組んで掻けて来る。家を出るときに母親にかぶせられたのであろう麦藁帽子を、中には親の心子知らず、小脇に抱えている子もいた。どの子も一様に汗だくで、黒く焼けた肌が眩しい。
 ほんの数年前までは、綱吉もあの中にいたかもしれない。どうにも不器用で友人を作るのが苦手ではあったけれど、だからと言ってひとりきりで部屋の隅に座っていたわけではない。浅く、広くも狭くもない交友関係。だから親友と胸を張って言い切れる相手は、いなかった。
 彼に会うまでは。
 子供達はプールの帰りなのだろう、透明なビニルの手提げ鞄にタオルやらなにやらを詰め込み、まだ湿り気を残している髪の毛を振り乱して走っていく。彼らが来た方角に目を向けてみると、灰色と白の中間辺りの色をした壁の、四角い建物がある。恐らくは、小学校。
 これから会う約束をした相手とは、小学校が違う。もしかしたらあそこが、彼の通っていた学校なのかもしれない。そう考えると、ほんのりと胸の奥が明るくなった気がした。
「っと、いけない」
 その小学校の壁に据え付けられた大時計が、約束の時間十分前を指し示しているのに気付き、綱吉は慌てて息を吐いた。熱い。
 全身の血液が沸騰しているのではないか。フライパンの上で焦がされている錯覚に汗を拭い、綱吉は瞳に力を込めて道の先を睨んだ。
 休めていた足を再び、前へ。この坂を登り終え、少しすれば目的地だ。高台の、元は山だった場所を切り開いて作られた公園、その一角に建てられた公立の図書館。まだ建設されてから十年と経っていないそれは外観もまだ綺麗で、公園はよく整備されて季節の花々が咲き乱れている市民の憩いの場でもあった。
 惜しむらくは、街の中心部から若干遠いということだろうか。
 交通の便もあまり宜しくなくて、残念なことに綱吉が住んでいる一帯からここに直接乗り入れているバスの便はない。自転車を使えば良かったのだろうけれど、それも生憎パンク中という、なんたる不幸。父親が居たなら修理して貰えただろうに、長く不在である為、自転車屋まで修理を依頼しに押していかなければならない。
 その労力が嫌で、もう二ヶ月ほど自転車は軒下で埃を被ったままだ。いい加減修理してやらねばと、前を通りかかる度に思うのだけれど、世間は連日炎天下。結局はもうちょっと涼しくなったら、と毎回自分に言い訳して放置する日々。
 チェーンが錆びてしまう前にどうにかしないとな、と心の中で呟いて、拭ったばかりだというのにまた噴き出る汗を拭う。
「あちー」
 漸くたどり着いた公園の入り口、設置された銀色の車止めに手を置くと火傷しそうなほどに熱を持っていて、慌てて腕を引いた。拗ねた風に唇を尖らせ、じっと動くことのない無機物を睨んで綱吉は園内に視線をめぐらせる。
 中央には噴水があり、二、三歳くらいの子供達が中に入ってはしゃぐ声が綱吉の耳にまで届いた。周辺に配置されたベンチには家族連れやカップルが並び、日陰を提供する植樹は青々とした葉を茂らせている。
 綱吉の顎を伝った汗が地面に落ち、ジュッ、と蒸発して消えた。一歩踏み出すと周囲に緑が多いからだろうか、歩いてきた道路より若干気温が下がった気がした。 
 肩の鞄を掛け直し、綱吉は歩き出す。具体的な待ち合わせ場所を決めていたわけではないが、噴水近くに聳える背の高い時計は、程なく約束した時を告げた。
「来てない、か」
 矢張り時間にルーズだ。大体いつも自分が先に着き、待たされる。それが癪に障るので、一度くらい自分が思い切り遅刻して、相手を待たせてやりたいとさえ思うことがある。けれどいつだって、綱吉は彼と約束をした二時間前に眼を覚まし、準備を整え、用意万端で家を出てしまう。
 今日は帽子を忘れるという些細なミスを犯したものの、きっちり約束の時間には目的地に到着してしまった。思い返せば、彼との約束で遅刻をしたことがない。案外自分は律儀な性格をしていたのだな、と自分自身を新鮮に思いながら綱吉はぐるっと園内を見回した。
 ベビーカーを押した若い母親、幼子の手を引く父親。のんびりとベンチに腰掛けて時間を潰す老夫婦、はしゃぎまわる子供達。図書館へ向かうのだろう、鞄を背負った綱吉より年上の青年に、遊びに来たらしく楽しそうに談笑する少女達。皆、暑そうにしているけれど、同時に楽しそうだ。
 太陽を見上げる。雲ひとつない晴れ間に笑う太陽は直視に耐えず、右手を庇にして指の隙間から覗きこむ。片目を閉じ狭められた視界に、光の帯が何筋も四方に広がって見えた。
 腕を下ろし、自分が通った入り口方面を振り返る。しかし考えてみればあそこは自転車の通行も禁止されているから、ひょっとすれば図書館へ先に着いてしまっているのかもしれない。あそこならば駐輪場も、駐車場も完備されている。それに中に入れば日差しは遮られ、冷房設備も整っているから屋外にいるよりは涼しい筈。
 盲点だった、と舌を出した綱吉は汗を拭きつつ、樹木の間から見え隠れする建物に向かった。周囲の気温が低く感じられるからか、スニーカーを履いた足の動きも軽い。重ね着したシャツの裾が動くたびに翻り、僅かながら感じる風の流れが心地よかった。
 ふと、図書館と公園とを隔てている道路の手前に大き目の花壇が設置されているのに気付く。女の子が数人、携帯電話に付属しているカメラを構えて記念撮影をしているし、何よりもそこに咲き乱れている花が非常に遠くからでも目立っていて、綱吉は思わず足を止めてしまった。
 咲き誇る、大輪の花。鮮やかに黄色に染まり、惚れ惚れするほどに背筋を真っ直ぐ伸ばしている。
 向日葵。
 その背丈は、中には綱吉の身長を凌駕して見上げねばならぬ高さのものまでも。よく手入れされているのだろう、遠くから眺めるとまるで金色の絨毯が敷かれているようだった。
「すご……」
 テレビや写真で、向日葵の大群を見たことはある。しかし自分が住む場所の近くで、無論テレビで知られている花畑よりは遥かに小規模ではあるけれど、こんな風に向日葵が群生しているのを見るのは初めて。率直な感想を口にした綱吉は、産毛が目立つ茎に顔を寄せ、より近くから花を見上げた。
 女の子達の集団が遠ざかっていく。甲高い話し声が小さくなって、周囲にはむさ苦しいまでの蝉の声と、時折走り抜けていく無粋な乗用車のエンジン音ばかりが耳に残る。じっとりと背中に張り付くシャツは相変わらず気持ちが悪いけれど、何故だかこの場所をすぐに離れる気になれず、綱吉は暫くの間ぼんやりと、太陽の花と揶揄される向日葵と、その向こう側で誇らしげに輝く太陽を眺めていた。
「ツーナ!」
「わっ!」
 どん、と背中から何かに押される。あまりにも唐突で、身構える余裕さえなかった彼は大声を出して前方につんのめった。危うく倒れるところで、しかし身体は背後から回された腕に阻まれてそれ以上前にいかない。
 肩から前に垂れ、胸の前で交差している、二本の太い腕。日に焼けて健康的に黒く、ところどころ既に皮が剥けた痕がある。背中に感じる重みは暑苦しいが、相手が誰だか分かっている以上綱吉にとっては嫌ではない。ただ、やはり体重を掛けられると、小柄な彼としては苦しいし辛い。
「やまも……っ、重いって」
 振り返らずに非難めいた声を出すと、悪い、と耳元で囁いて山本は綱吉を解放した。ワザとらしく咳き込んでから、綱吉はずれた鞄の向きを直し姿勢を正す。
「全然来ないもんだから、心配したんだぜ?」
 言っている彼は、白のバッグを担いで居なければ、まるで波打ち際でサーフィンを楽しんだ帰りの大学生のようだ。立てた人差し指にキーホルダーが絡み、くるくる回転している。その先に繋がっているのは、自転車の鍵だろう。
「ごめん、そっちから入らなかったんだ。公園をぐるっと抜けて、それで、咲いてたから」
 軽く謝り、綱吉は太陽の花を仰ぐ。山本は興味がないのか、ふうんと相槌を返すだけ。
「凄いな、でっかいなと思って。ほら、あれなんか俺より背が高い」
 しかし綱吉は構わず、通り沿いに咲いている中でも一際目立っている、背高の向日葵を指差した。頭の後ろで手を組んでいた山本も、綱吉の動きにつられてそちらを見る。確かに山本ほどではないが、綱吉より若干背丈がありそうな向日葵が、のんびりと緑の葉を広げていた。
「ああ、だな」
 頷いた山本に嬉しそうに笑って、綱吉はほら、とでも言わんばかりにそちらへと移動する。仕方なく山本もついて動き、向日葵の葉を抓んで自分の身長と比べている、小学生のようなはしゃぎ具合の綱吉を苦笑交じりに見詰めた。
 それから、でも、と呟く。
「でかい向日葵もいいけど、やっぱり俺は、もうちょっと小さい方がいいな」
 顎を撫でて言った彼を振り返り、綱吉が首を傾げた。彼の腕が伸び、手近な向日葵を指差す。それはちょうど、綱吉と同じくらいの背丈で。
 大きいほうが良いに決まっているじゃないか、と素直に聞き返した綱吉に、山本は白い歯を見せて楽しげに笑った。両腕を広げ、いきなり許可なく綱吉を前から抱きしめる。
「やっ、山本!?」
 突然のことに驚き、目を剥く綱吉に構わず、彼はぎゅうぎゅうと暑さも構わず綱吉を胸に抱え込んだ。
 その頭を胸に押し付け、彼は柔らかい髪に指を通し、不意に真剣な表情をして人ごみから綱吉を隠す。彼にしか聞こえない声で何かを囁き、綱吉を茹蛸よりも真っ赤にさせて、腕を引っかかれると声を立てて笑った。
 全てが冗談であり、本気であり、どちらの比重が重いかを誤魔化して、綱吉を混乱させる。
「もう、山本の馬鹿!」
 拳を振り下ろして地団太を踏みながら怒鳴り、綱吉は山本を突き飛ばして図書館へ駆け出す。怒られてしまった山本は、失敗したかなと頭を掻きつつもあまり反省した様子もないまま、腰に手を当てて向日葵を見下ろした。
 だって、仕方ないじゃないか、さ? そう同意を求められても、物言わぬ向日葵から返事があるわけはなし。
 図書館の入り口前で立ち止まった綱吉が、心細げに振り返るのが小さく視界に映る。肩をすくめ、山本もまた彼を追い歩き出した。ゆっくりと、のんびりと。それでいて、堂々と。
 向日葵だけが聞いていたことば。

――やっぱり、ツナが一番抱きしめやすい。