それはもう過ぎ去った日の出来事であり、記憶はあやふやでしかないけれど。確か、小学校の低学年だったと思う。
夏休みももう終わりに近づいたある日の夜、団欒中の沢田家に鳴り響いた一本の電話。応対に出た奈々が電話口で、徐々に興奮気味に「あら、やだ」「うそでしょう?」と繰り返していたように思う。
それから家光となにやらふたりで話し込み、奈々は翌日に買い物に出て綱吉の為に黒っぽい服を上下揃いで買ってきた。
何がなにやら分からぬまま、翌日その新品の服を着込んだ綱吉は彼女に連れられ、日暮れ前の明るさが残る中、地域にある様々な用途に使われるホールへと出向いた。正面玄関には左右に大きな花が飾られ、白いテントには綱吉や奈々と同じく、黒い服に身を包んだ人たちが沢山いた。
クラスメイトもいた。皆一様に表情が暗く、女子には感極まって泣いている子もいた。
なんだろう、と綱吉はきょろきょろと、異様に思われる空間を眺めていた。
奈々がテントの前に行き、封筒を差し出しながら「この度はお悔やみ申し上げます」と告げている。小さな綱吉はそれを見上げている。どこからか女のすすり泣く声がする。日本特有の蒸し暑い夏の夕方、白いシャツの上に着込んだ黒いジャケットが熱を吸い込み、じっとりと嫌な汗が浮かぶ。
ここは人の嫌な気配に満ち満ちている。幼い綱吉はそう感じ、早く帰ろうと奈々の手を頻りに引っ張った。しかし彼女は綱吉の気持ちを少しも汲み取ろうとせず、幼い息子の腕を引っ張って大きな建物に入っていく。周囲には大勢人がいたけれど、そのどれもが表情は暗く、沈んでいる。
空気全体も濁った色をしているようで、綱吉は吐き気を感じながら不安そうに母親の背中を見詰めるしかなかった。
やがて道は行き止まりに達し、その先に花に埋もれた祭壇が設けられていた。奈々はその中央に向かって深々と頭を下げている。綱吉も見様見真似で頭だけ下げたものの、目は閉ざさず注意深く周りを観察していた。
花は白色に統一されていて、百合が多く、むせ返るような濃い匂いが綱吉の気分の悪さを増長させた。どこからか響く低い声はお経で、本来はありがたい文言も彼にとっては遊園地のお化け屋敷に紛れ込んだ気持ちにさせるだけ。
顔をあげ、漸く真正面を見る。綱吉はそこに、白い花に囲まれて並ぶ三人の写真があるのに漸く気付いた。
男の人と、女の人と、男の子。大人ふたりは知らない顔だったが、あどけなく笑っている少年の顔には覚えがあった。同じクラスで、あまり会話をしたことはないけれど、いつも明るくて中心的な存在の、元気溌剌という単語が良く似合う人気者。どちらかと言えば不器用で友達を作るのが苦手な綱吉にとっては憧れの存在でもあり、彼も、いつもひとりでいる綱吉を何かと気にかけてくれていた。
今のクラスが楽しいと思えるのも、彼がいたからで。
その彼の写真が、何故あんなところに引き伸ばして額に入れられ、飾られているのだろう。疑問に思い、動けなくなった綱吉の後ろで、順番を待っている人の声が微かに響く。
可愛そうに。
帰省先から戻る途中だったんですって。
下の子だけはどうにか助かったみたいよ。
でも、ご両親がいっぺんにいなくなるだなんて。
追突したトラック、飲酒運転だったっていう話じゃない?
振り返れば、額を寄せ合って黒服姿の中年女性が話し込んでいる。奈々はそんな彼女達から目を逸らし、矢張り綱吉の手を引いて足早に祭壇前から引き返した。半ば引きずられるように歩く綱吉は、ジッと女性達の群れを目で追いかける。しかし距離が開いてしまい、その背中が見えなくなる頃、自分とは入れ違いに入ってくる小さな姿を見つけた。
同じクラスの、喋ったことはないけれど、写真の彼と仲良しだった女の子。白いリボンで黒髪を纏め上げて、服装はやはり黒一色で。
泣きはらした目をしている、それでもまだ涙が止まらないのか、時折ハンカチで目頭を抑えて母親らしき女性に抱きかかえられながら祭壇へ向かって歩いていく。すれ違う瞬間、綱吉と目が合った。彼女は大きな目をより大きく見開いて、悲しみいっぱいの表情を作りすぐさま目を逸らしてしまった。
なんともいえない感情が、綱吉の胸を通り過ぎていく。
「……くん、死んじゃった」
完全に立ち去る直前、写真の子の名前を口にした彼女。辛うじて聞き取れるくらいの、か細い声に綱吉は振り返る。しかし人ごみに紛れて小さな背中は見えなくて、奈々は一秒でも早く此処から立ち去りたいのかぐいぐいと綱吉の腕を引っ張る。
「死んじゃった?」
去り際の彼女の言葉が頭から離れない。
呟いた綱吉に、奈々はハッとしてから急に立ち止まった。前方から与えられていた勢いが失われ、綱吉は前に出していた右膝が危うく崩れるところだった。
「死んじゃったの?」
綱吉は良く分からぬまま、奈々を見上げる。彼女は目にいっぱい涙を浮かべていた。そして何も言わぬまま膝を折り、綱吉を抱きしめる。
どうしたの、お母さん、苦しいよ。
彼女の心が分からなくて、綱吉は声もなく泣いている奈々を抱きしめ返す。いつも家光がやってくれているように、彼女の背中をぽんぽんと叩いて、自分は何かいけないことを言ってしまったのかと考える。
死んじゃった。死ぬ、その言葉は奈々を悲しませる。だったら、もう言わないから。綱吉はわけが分からぬままそう答え、どうしてか胸の奥から悲しい気持ちが押し寄せてきて、奈々に引きずられる格好で綱吉も泣いた。
夏休みが終わって、学校が始まった。埃っぽい教室に入ると、ほぼ中央にあった机に誰が置いたのか、一輪挿しの花瓶が飾られていた。
先生が入ってくる。全校集会が体育館で始まる。どちらも「悲しいお知らせがあります」で始まった長い話は、綱吉の頭に正確に流れ込んではこなかったけれど。
その日が終わる頃になっても、次の日になっても、次の週に入っても、花瓶が置かれている机に座る男の子は現れなかった。最初の一週間はみんな暗い顔をして、特にあの日の夕方にすれ違った女の子は突然授業中に泣き出したりもして大騒ぎだったけれど、それでもクラス中がまるで海底に沈んでしまったように、静かで薄暗かった。
死んじゃった、という意味がその頃になって綱吉にも分かるようになった。
もう会えない、もう一緒に遊べない。おしゃべりも出来ない。とても、とても遠いところへ行ってしまった。さよならも言えないまま、ある日突然に。
いなくなってしまった。
誰も表立って何も言わなかった。不幸な事故だったのよ、と奈々がある時、どういう状況だったのかまでは覚えていないけれど、ぽつりと呟いたのが印象的だった。
机の一輪挿しは、誰かが時々花も水も交換していたようだけれど、段々と平常の生活が戻りだした九月の後半に向かうに従って、その頻度は減っていった。そうしてカレンダーが変わって十月に入る頃に席替えがあり、花瓶は姿を消して無人の机は教室に片隅に引っ越した。
その後、唯一助かったという彼の弟がどうなったのかとか、そういう話は一切聞かなかった。誰もが重く口を閉ざし、触れてはならないものという暗黙の了解のもと、学期は終わり学年が変わって、いつの間にか写真にあった笑顔は記憶の中から薄れてぼやけていった。
綱吉もまた、もうおぼろげでしか覚えていない。ただ、新学期の初日教室に入った時、目に飛び込んできた一輪挿しの色鮮やかさ、通夜の場で聞いた会話や母の涙、鬱陶しいほどに暑い日だったことはよく覚えている。
懐かしい気持ちはまるで起こらずにただ、今でも背中に張り付く汗の感触も生々しい記憶は長く封印されていた。その蓋が開かれるきっかけになったのが、ヴァリアーとの闘いであり、血に濡れる獄寺の横顔だったから。
鮮やかに咲く一輪のダリア。決して忘れることの出来ない、夏の記憶。
もう会えないなんて思いたくなくて。
君は、笑うだろうか。
泣かないで。泣かないで。泣かないで。
小さな自分が背中を撫でながらそう言っている気がする。
綱吉はベッド脇のパイプ椅子に腰掛け、眠っている獄寺の顔を暫くの間黙って眺めていた。
今日はもう帰った方が良い、ディーノはそういったけれど、手当てが完了する前に気を失ってしまった獄寺を置いて帰るのは、どうにも気が引けた。
帰っても眠れそうにないと告げると、彼は困った風に少し考えて、残るのは構わないがならばお前も眠った方が良いと諭された。開いているベッドはまだあるのだし、獄寺もいつ眼を覚ますか分からないのだから、と。
しかし綱吉はそれすらもやんわりと首を振って断り、同伴を申し出る山本も、大丈夫だからと笑って家に帰らせた。彼は翌日に出番を控えている、自分の我が儘に付き合わせるわけにはいかない。
いや、そもそもこの闘いこそが、自分の我が儘のような気がしてならない。
戦いたくない、争いたくないといいながら結局済し崩し的に皆を巻き込んでしまった。自分がもっとしっかりしていれば、ランボも獄寺も、こんな目に遭わずに済んだかもしれない。そう考えると悔しくて拳が震える。
事態はもう後戻りできないところまで進んでしまっていて、今更足掻いたところでどうしようもないのは分かっている。自分だって負けたくないし、これ以上関係ない人を巻き込むのも嫌だ。ならば正面切って戦うしか道は残されていない。
けれど時折思い出しては膝が震え、立っているのがやっとになることもある。今回みたいに、誰かが犠牲になるような戦い方だけは、したくなかった。
誰も失わず、誰も欠けず。みんなで最後まで、ずっと一緒に。
これもまた随分と我が儘な話だ。勝手過ぎるかな、とは思うけれどきっとこの先何があったとしても、この気持ちは分かることはないだろう。
苦笑を浮かべた綱吉は姿勢を正し、椅子を揺らしてベッドに向き直る。肩までしっかりと布団をかぶせられた獄寺が仰向けに寝かされていて、呼吸は落ち着いているけれど時々傷が痛むのか表情が険しくなったりもする。綱吉はその度に汗をタオルで拭ってやり、前髪を払いのけてやったりして時間を潰している。けれどやはり話し相手のいない空間は退屈で、寂しい。
たまに舟をこいでは自分の身体が沈みかける衝動で眼を覚まし、いけないと首を振っては欠伸をかみ殺す。時計の針だけが黙々と己の仕事をこなし、夜明けまでの残り時間を数えている。窓の外はまだ暗い。
シャマルが投げ出したお陰でロマーリオが手当てをしてくれたのだが、獄寺の傷は本人が強がっていた以上に酷いものだった。傷が互いに近接しすぎており、縫合するのも難しいといわれた。それでもどうにか縫い合わせられる分は針を通し、その過程の中で獄寺は気を失ったのだ。
綱吉ならば全身麻酔でもなければ、それだけで悲鳴を上げて逃げ出しそうになる治療を、獄寺は寡黙に耐えてみせた。最後まで格好はつかなかったけれど、ぐっと奥歯を噛み締めて痛みを堪えている彼は立派だった。
多少傷は残るかもしれないが、内臓まで達する傷は無かったので命に別状は無いと言われ、綱吉も安心した。しかしちゃんと調べたわけではないので、もっとしっかりとした施設で一度診て貰った方がいいというのがロマーリオの見解。綱吉もそれには同意している。
ただ、今は無事でよかったと。
包帯を当てるまでもない傷が頬に残っている。消毒だけをすませた傷口では血が凝り固まり、瘡蓋が出来ていた。
痛そうだな、と眺めていてつくづく思う。自分の痛みは他人に分からないけれど、他人の痛みは自分に伝わるのだな、と取り留めないことを考えて綱吉は小さく呻いた獄寺の額に、折り畳んだタオルを添えた。
そっと、傷に触れないように汗を拭ってやる。
獄寺はタオルの感触が心地よいのか、険しかった表情が少しだけ緩み、熱のある息を吐いた。怪我の具合からも、今夜は高熱が出る可能性があると言われている。タオルを置いて直接指先で触れてみると、確かに獄寺は発熱していた。
その暖かさも確かに彼が生きて、生きようとしている証。しかし綱吉は不意に襲ってきた泣きたい気持ちをぐっと堪え、残っている腕で両目を押さえた。
泣いたところで、どうにもならない。泣くな、泣かないで。小さな自分が背中を撫でて励ましてくれている。
獄寺は死んでいない、生きている。綱吉の目の前で、今は怪我に苦しんで熱を出し、魘されているけれど、ちゃんと、息をしている。ちゃんと、生きている。
また話が出来る。
また、一緒に遊べる。
約束どおり、花火を見に行こう。花見もしよう。みんなで、誰一人欠けることなく、一緒に歩いていこう。
君が眼を覚ましたら、真っ先に言いたいことがあるんだ。君が気を失う前に一度言ったけれど、あの時よりももっと気持ちを込めて、改めて君に言いたいことばがある。
寂しい教室、ぽっかりと空いた胸の隙間。あの言い表しようが無い感情を二度も感じずに済んだこと、君がちゃんと、生きて戻ってきてくれたこと。
指輪なんかよりももっと大事なものがあると、気付かせてくれたこと。
直に手を伸ばし、獄寺の頬に触れる。傷口に指が当たってしまったのだろうか、顔を顰めた獄寺はそっぽを向く格好で首の角度を動かした。綱吉はそれにショックを受けもせず、逆に少しだけ嬉しそうに微笑を浮かべ、目を細める。
ベッドに寄りかかり、柔らかな布団に右の頬を預けた。目を閉じると共に、静かに睡魔が彼を包み込む。
君が目を覚ましたら、真っ先に言いたい事があるんだ。穏やかな気持ちのまま、綱吉は心地よい眠りに落ちていった。
生きていてくれて、ありがとう――