螺旋

 ずっとこの時間が続けば良いと思っていた。けれど無情にも時は行き過ぎ、漂う風に紛れてどこかからか遠く、電子音処理された鐘の音が鳴り響く。
「あ……」
 小さく唇の隙間から漏れた息に、すれ違った視線がほぼ同時に保健室の扉に向けられた。ガラリ、と無粋に開かれた扉から、無精髭とだらしなく櫛の通らないぼさぼさ髪の男が入ってきたのだ。眠そうな目をした男は、最初真正面を向いている為ベッドにいる綱吉達に直ぐには気付かない。
 けれど人の気配には鋭敏で、さすがに人殺しとして名前が知れ渡っているだけある。綱吉の吐いた息に反応したわけではなかろうが、唐突に鋭利な刃物の光を瞳に浮かべ、彼は白衣の裾を揺らすことなくふたりを射抜いた。
 隙のない動き、油断ならない空気。一瞬にして氷河よりも冷たい空気が宙を裂いた。彼のこんなに鋭い目つきを見るのは随分と久しぶりであり、ずっと忘れかけていた、彼もまた血に染まった存在である現実を綱吉は思い出す。背中を、生温い汗が伝った。
 雲雀はと言うと、相変わらずの無表情を少しだけ不機嫌に歪め、右手を綱吉の頭の上に置き去りにしたまま肩越しに入ってきた男を睨んでいる。今にも飛びかかって彼へ一撃を見舞わせようとしている、そんな荒んだ気配が間近にいる綱吉にも伝わった。
 だが、保健室が緊張に包まれたのはほんの数秒。瞬きをふたつ繰り返す程の短い時間でしかなかった。
 シャマルが、大仰に肩を竦めてわざとらしい溜息を吐き出す。
「おいおい、お邪魔虫なのは俺か? 一応これでも、ここの主は俺なんだが」
 昼休みから五時間目の授業が終わるまで、まるまる行方を眩ませていた男がよく言えたものだ。そう言いたげな雲雀の視線に、シャマルは少し赤くなっている己の頬を指先で掻きむしる。視線はうろうろと室内を彷徨い、最後は綱吉で止まった。
 彼の、泣きはらした赤い目と涙の跡が残る顔に、何を感じたのだろう。ふっ、とシャマルの吐く息が甘いものに変わる。
「続きは余所でやって貰えると有り難いんだがな」
 ははっ、と声を立てて笑うので、言われた綱吉も雲雀も、何の事か即座に理解できず目を見張った。思わず、という感じで綱吉に向き直った雲雀の後ろで、シャマルが髪を梳き上げて流し目でふたりを見やる。
「ここはラブホじゃねーんだぜ」
「いっ!?」
 なんて事を言うのだろう、この男は。
 目を丸くして喉を引きつらせた綱吉に対し、雲雀は言われた意味がまだ分からないのか不機嫌に眉根を寄せて口元を歪めている。綱吉だけが赤くなり、青くなって、慌てて姿勢を崩し床に並んでいた靴に両足を突っ込んだ。丸めた靴下を中に押し込んでいたのを、爪先半分だけ入れてから思い出したが、履き直している時間も惜しい。構わずそのままにして、はみ出た部分は踵を踏む事で回避する。
 右手を振り払われた雲雀は、焦っている綱吉に困惑しつつ手を引っ込める。立ちつくしている彼の脇を、今にも脱げそうな靴を履いた綱吉がすり抜けた。
「シャマル、ベッド借りた! ありがとう」
 これ以上此処に居て不用意な事を言われては堪らない。赤い顔と熱い頬を誤魔化して、綱吉は雲雀の完全に裾が出てしまっているシャツを掴み、強引に引っ張って早足に歩き出した。
「……」
 綱吉に引きずられるのが不満なのか、雲雀は一層顔を顰めるが反論せず大人しくついていく。むしろシャツがこれ以上乱れるのが嫌なようで、歩きながらひとまず背中部分だけを直している。
 シャマルは窓際の椅子に腰掛け、出て行くふたりを、手を振りながら見送っていた。片手で頬杖を付いて、「若いねぇ」等と笑っているのが微かに聞こえる。それがますます綱吉の耳を先端まで真っ赤に染めさせて、次会った時は絶対にからかわれるんだろうな、と肝が冷えた。
 保健室のドアを抜けて、やや乱暴に戸を閉める。先に廊下に出ていた雲雀が驚いて綱吉を見下ろす。荒く息を吐き、肩を上下させて呼吸を整えていた彼が、顎を伝った汗を手の甲で拭ってから壁によろめき、凭れ掛かった。その頼りない動きに手を出して支えようとした雲雀だったけれど、結局肘の位置まで持ち上がった彼の腕は綱吉に触れる前に元の場所に戻された。
 綱吉は気付かないまま、額を手に項垂れる。最悪だ、と唇が動くのを雲雀は見ただろうか。
 恥ずかしさで顔から火が出そうだった。シャマルは自分たちを見て、何かに気付いたようだ。それでなくとも彼は綱吉達よりずっと年上で、色々な経験をしている。無論色事にも精通しているのだろう、でなければあんな事を言うわけがない。
 逆に言えば、そんな雰囲気が自分たちにはあったという事であり、むしろ喜ぶべきなのだが、綱吉はまだそこまで頭が回らない。
 さっきまで散々泣いたり、怒鳴ったり、うれしがったりと忙しかった彼は、今度は照れ臭さで死にそうな気持ちになっている。雲雀は百面相する綱吉を物珍しげに眺めた。
 今日一日だけで随分と記憶のアルバムに綱吉の表情が増えた。誰かひとりに執心し、ここまで記憶に忘れないように、と刻み込むのも初めてで、もっと見ていたいと思っている自分に驚きを隠せない。これまでは必要ないものだと切り捨ててきた感情が、今頃鎌首をもたげ雲雀の心臓を狙っている。
 それは驚異であり、脅威だ。
 休み時間に入った事で、廊下は少しだけ賑わいを取り戻している。綱吉は自分が体操服のままであり、次の授業を受けるにはまず着替えなければならない現実を思い出す。遠くから、誰かが彼を呼ぶ声が響いた。
「おーい、ツナ!」
 山本だ。
 雲雀と揃って声がした方向を見る。背の高い山本の姿はすぐに見付かって、少し汚れた体操服姿で手を振っていた。彼の表情が、壁に凭れ掛かる綱吉を見てホッとした風になり、直ぐさま綱吉の前に立つ雲雀に気付いて険しくなる。
 明らかな敵意を向けられ、必然的に雲雀の表情と気配が尖った。綱吉は唾を呑み、どちらに気を配ればいいのか分からずゆっくり近付いてくる山本と雲雀とを交互に見て汗をかく。
 と、唐突に雲雀が踵を返した。無言のまま、綱吉に背中を向ける。
「あ……」
 待って、と言いかけた綱吉の視界が急に暗くなったのは、離れていく雲雀に代わって現れた山本がふたりの間に割り込んできたからだ。昼休憩時に廊下ですれ違った時とほぼ同じ状況に、綱吉は戸惑いながら親友の背中を見上げる。
 雲雀が歩き去る足音が嫌に大きく聞こえて、綱吉は逸る気持ちのまま山本の腕を掴み、その脇から顔を出した。
「ヒバリさん!」
 既に十歩分以上距離が出来ていた雲雀の背中に叫ぶ。
「あの、俺、俺……っ」
 山本の肩越しの視線を感じる。けれどそれを振り払って、綱吉は山本を押しのけて前に出ようとした。彼が居なければ遠慮無く雲雀に駆け寄っていたに違いない。
 だが山本は動かず、壁となってふたりの間に聳えている。彼としては綱吉がこんな動き方をするのは不本意であり、予想外だったに違いない。眉間に浮かんだ皺と、何かを言いたそうにしながら言えずにいる半端に開いた唇がそう物語っている。但し綱吉は、気付かない。
「ヒバリさん……!」
 今日何度目か分からない名前を呼んで、綱吉は歩き続けている彼の背中を凝視した。角を曲がる寸前、雲雀は一寸だけ立ち止まる。
 僅かに振り返った姿は綱吉には微笑んで、山本には不遜に笑っているように映った。口端を僅かに持ち上げて目を細め、状況を弄んで楽しんでいる、そんな表現がぴったりと当てはまる。
 彼は去った。過ぎた嵐の後に訪れるのは、静かな凪の時。
 綱吉は山本から手を放し、再び壁の人となった。最後の笑みはどんな意味があったのだろう、胸がどきどきと跳ねて落ち着かない。ぎゅっと締め付けられるような痛みはもう無かったけれど、違う種類の痛みが綱吉の中で暴れ回っている。
「ツナ」
 一瞬でも存在を忘れかけていた山本が、振り返って綱吉の顔を覗き込んだ。心配に揺れている表情に、伸ばされた手が躊躇無く頬を辿る。それはそのまま、綱吉が流した涙の痕。
「ヒバリに、何かされたのか?」
 彼のことばは綱吉にしてみれば的外れも良いところだったが、彼としては真剣な問いかけだったのだろう。聞かれた瞬間目を見開き、「え?」と首を捻った綱吉を見ても、彼の表情が和らぐ様子はない。
「何って、……何もないよ?」
「けど、泣いてる」
 綱吉の返事に首を振り、赤くなった目とまだ湿り気を残している頬を山本は親指でなぞる。ああ、と本気で忘れかけていた十数分前の出来事を思い出し、頷いて、それから綱吉は少し困る。
 まさか雲雀に告白しました、なんて言えるわけがない。そもそも同性に思慕の情を抱くのは可笑しいと、綱吉自身理解している。けれどそんな世間の定義を覆してでも、抑えきれない感情というものは確かに存在する。誰に何を言われて、咎められようと、自分の気持ちを否定するつもりはないが、親友に笑って「雲雀が好きなんだ」とはさすがに言えない。
 無論山本の事だって綱吉は好きだ。しかしそれは雲雀に向けられているベクトルとは異なる「好き」の種類。
 綱吉は視線を浮かせ、少しの間迷った後、
「ちょっと不安定で……ヒバリさんに癇癪、起こしちゃって、さ」
 でももう落ち着いて、大丈夫だから、と。
 嘘ではない笑顔で綱吉は親友を安心させようと、慎重に言葉を選んだ。それでもまだ恐い顔をしている山本の肩を、腕を伸ばして叩いてから綱吉はほら、と視線を逸らし天井を仰ぐ。
「次の授業始まっちゃう。着替えないと、間に合わないよ」
 ざわつく上層階に耳を峙て、綱吉はわざとらしく話題を変えた。これ以上不用意に突っ込まれたら、いくら自分でも誤魔化しきれない。授業の合間の休憩時間は短くて、体操服のまま授業を受けるのは格好悪いし、と言い訳を色々と早口に並べながら綱吉は山本を置き、壁から身体を浮かせて歩き出した。
 小走りに、急ごう、と告げて。
 まるで逃げるようだと、心の片隅で山本に詫びながら。
「ツナ」
「なに?」
「……本当に、何もないのか」
 まだ保健室の扉前で立ち止まっている彼を振り返ると、山本は俯き加減でそんな事を口にする。
「ないよ」
 あっさりと、心にもない否定を口に出来る自分にチクリと胸が痛んだ。
「そっか。なら、良い」
 完全に納得して出来たわけではないだろうが、自分に言い聞かせるように山本は深く頷いて綱吉に続き、歩き出す。詮索がひとまず終了した事に安堵の表情を作り、綱吉ははにかんで笑ってそれから、歩幅の違いであっさりと自分を追い抜いていった山本の背中を見上げた。
 雲雀に似て大きく頼り甲斐のある背中、けれど明らかに雲雀とは違う背中。綱吉は彼の背中に安心を感じる事はあっても、胸が抉られるような痛みを伴う、強い感情を抱く事はない。彼にとって山本の背中は求めなくても常に傍にあるものであって、探さなければ見付からない、無意識に求める程に焦がれるものではない。
 人は時として、近すぎるが故に見えていないものがある。当たり前のように感じすぎて、それが当たり前でなくなる日が来る事を考えようとしない。
 綱吉もまた、気付かない。綱吉が雲雀を見ている間、山本がどれだけ苦々しい表情を浮かべているのかに。そしてお互いに気付かないままでいる方が幸せだというのも、また現実。
 ぱたぱたと足音を響かせて綱吉と山本は自分たちの教室へ、雲雀は静かに硬質な足音を残して応接室へ。それぞれが持つ生活の場所へ、当たり前の日常へ戻る。
 保健室の机で、保険医にあるまじき煙草に火をつけ煙を燻らせながら、シャマルは顎髭を撫でて外を眺めていた。
「まったく……」
 扉を飛び越して廊下まで漏れていた綱吉の言葉を思い出し、彼は自分の事のように照れ笑いを浮かべる。
「若いってのは、良いねぇ」
 感慨深く呟いて、彼は仕事に取りかかるべく煙草を灰皿に載せた。
 

 慌ただしく制服に着替え直し、教室の自席に着くと同時に六時間目の担当教師が入ってきた。
 まだ落ち着きを取り戻せていない心臓を大事に抱きしめ、綱吉は日直の号令に合わせて一礼をし、急いで引き出しから教科書とノートを取り出して広げる。胸底からわき上がってくる、ワクワクした気持ちは誤魔化しようがない。
 体育をサボっていた獄寺は戻ってきていたけれど、どこで時間を潰していたのか眠そうに欠伸を繰り返している。綱吉は教室に戻る途中、水道で顔をざっと洗って来たので、涙の痕はもう残っていなかった。若干白目の部分が赤くなっているけれど、それも時間が過ぎれば元に戻るだろう。
 表情はとても楽しげで、嬉しそうだ。苦手な理科の授業なのに終始にこやかにしているので、気持ち悪がった教師がわざと綱吉の順番を飛ばすくらいに。
 苦痛でしかなかった授業も、今日ばかりは楽しい。時間の経過が早いと感じながら、綱吉はノートに板書を写し取る。開け放った窓から差し込む光は柔らかく、暖かく心地よい。カーテンが時折大きく膨らんで視界を埋めたが、それさえも新鮮に見えた。何もかもが生まれたばかりの新しい世界に思える、それくらい綱吉の心は弾んでいた。
 雲雀は今どうしているだろう、何をしているだろう。時々窓の外を見下ろし、居るはずがないと知りつつもそこにあの黒髪を探している。そわそわと心が浮き足だって、机の下で並ぶ両足を互いに擦り合わせながら、彼の横顔を想像しただけで表情が崩れて口元が弛んだ。
 今日はどうしようか、放課後は特に用事はない。雲雀のところへ行っても許されるだろうか、いや、彼の都合などお構いなしに兎に角綱吉は、彼に会いたかった。一緒に帰れたら嬉しい、お願いしてみようか。色々な事が頭の中を駆け回っている、そのひとつひとつが胸に暖かな光を放っている。
 誰かを好きになるだけで、こんなにも幸せになれるなんて知らなかった。
 授業が終わる。話半分でしか聞いていなかった内容は一瞬で頭から抜け落ち、綱吉はホームルームの間もずっとそわそわと自席で落ち着かなかった。たった数分で片付くことでも、一刻一秒を争う気分にさせられる。手は机の引き出しを握ったり放したりし、踵が何度も床を蹴った。
 担任教師が出て行く。後ろからザッと流れ出す開放感に首筋を撫でられ、綱吉は大急ぎで他の生徒に紛れながら帰り支度を整える。
「十代目、帰りましょう!」
 いったい何の為に学校に来ているのか分からない、薄っぺらの鞄を肩に担いで近づいてくる獄寺は、いつも通りに元気だ。最後の教科書を鞄に入れ、口を閉ざした綱吉は椅子に座ったまま、その人懐っこい笑みを見上げ少し小首を傾げた。
 いつもなら帰り道は大体獄寺に誘われて一緒だけれど、今日は、どうしよう。
「ごめん、獄寺君。ちょっと俺、用事あるから」
 考えようとした矢先、口が勝手に答えていた。自分でも驚くくらいにスラスラと言葉が出てきて、綱吉の方が面食らって目を丸くする。言われた獄寺は、まさか断られると思っていなかったようでこちらも少々驚きつつも、
「なら、俺もつきあいますよ」
 にっ、と笑って白い歯を見せた。しかし綱吉の言う用事は、きっと獄寺と一緒だと成立しない。綱吉は数秒間沈黙した後、獄寺をジッと見つめて首を横に振った。
「ううん、獄寺君に付き合ってもらうほどじゃないし」
 深く追求されると言い訳が苦しくなるだけ、だから綱吉は先手を打って彼ににっこり笑いかけると、そそくさと立ち上がった。鞄を掴み、座っていた椅子を机の下に戻す。彼が何か言う前に立ち去ってしまえ、と教室の出口へ向かおうと方向を変えたところで、唐突に山本と目が合った。
 自席に立っていた彼は、しかし何事もなかったかのように顔を逸らしてしまう。そして自分の鞄を持ち、足早に教室を出て行った。
「十代目?」
「ああ、ごめん。じゃあ、また明日ね」
 山本の反応に違和感を覚えるものの、綱吉にはその理由が分からない。ぼんやりとしてしまったようで、歩き出そうとする姿勢のままでいた綱吉は獄寺の声に我に返った。そして逃げるように手を振り、教室を出る。
 廊下にはもう、山本の背中は無い。今日は部活だろうが、さよならの挨拶もなしに別れるのは久しぶりの気がして綱吉は少し胸の痛みを覚える。
 けれど彼の足は確実に階下へ向かって動いていた。大勢の生徒に紛れて階段を降り、踊り場に差す西日の眩しさに目を細めて、正面玄関へ出る方向へは行かず、ひとりこっそりと集団から離れる。背中で聞いていた生徒達の喧騒は遠ざかり、鳥の囀りが耳を掠めた頃、静まり返った空間で綱吉は漸く足を止めた。
 僅かに視線を持ち上げる。自分の背丈よりも高い位置に構える、応接室の文字。足元は窓からの光で明るく、室内の照明が灯っているかどうかの判別は出来なかった。つまりは、中に人がいるかいないか、外からでは分からない。
 綱吉は今更にゴクリと音を立てて唾を飲んだ。恐る恐る右手を持ち上げ軽く握り、ノックをする姿勢を取る。けれど、本当に叩いて良いものか。
 中に彼はいるのか? 機嫌はどうだろう? そもそも彼は保健室に来た用事を済ませられたのだろうか。今忙しいかもしれない、最悪此処には居なくて既に帰った後だという可能性も決して否定しきれない。自分の都合ばかり考えていて、ちっとも雲雀の都合を念頭に入れていなかった現実に、綱吉は一瞬にして目の前が真っ暗になった。
 大体、次に会う約束したわけじゃない。何をしに、自分はここへ来たのだろう。分からなくなる。
 綱吉は震えている自分の右手を見た。小さくて細く、頼りなく、この手で一度に捕まえられるのは本当にちょっとだけ。そして彼は、この手で、雲雀を掴んだ。雲雀を選んだ。その意味を、今一度振り返る。
 迷って、悩んで、尻込みして逃げ出すだけの自分はもうやめたんじゃなかったのか?
 目を閉じる。大丈夫、その呪文を口にして綱吉は右手に意識を集めた。
 ドアを叩くのは最初に一度、軽く。僅かに間をおいて二度、今度は連続してさっきよりも強めに。
「誰?」
 中からの声はすんなりと返されて、綱吉は心臓が口から飛び出すのではないかと思った。
「ぅあ、の、俺ですっ」
 だからか、第一声が裏返ってしまった。顔から火が噴出しそうな勢いで綱吉は真っ赤になり、誰かが見ているわけでもないのに俯いて顔を隠す。
 室内にいる人物は暫く考えているのか、沈黙した後、短く「開いてるよ」とだけことばを返した。それで少なくとも拒絶されてはいないと安堵して、綱吉はドアに張り付いたままだった右手でノブを掴んだ。
 開くと、室内は薄暗い。明かりをつけていないのかと天井付近にまず目をやってしまい、滅多に訪れる機会の無い応接室を眺め回しながら足を踏み入れる。ドアをしめようと廊下側に向き直ると、
「電気」
 またしても短い、感情の篭らない声が。反射的にひっ、と息を吸って喉を震わせる。ガラにもなく緊張しているのが丸分かりで、見る人が表現すれば怯える猫のようだ、と笑っただろう。
「でんき……?」
「点けて」
 ドアノブにしがみついたまま振り返ると、雲雀は部屋の中央に並んでいるソファにゆったりと腰掛けていた。視線は上向かず、手に持った何かにずっと向けられたまま。それが却って綱吉を落ち着かせてくれて、彼は深呼吸の後言われた内容を反芻し、視線をドア近くの壁に移した。
 オフホワイトの長方形の板、その中央にスイッチを見つけ、押す。途端に後ろがぱっと明るく染まり、それにすら綱吉は驚た。震え上がった肩が大仰で、落ち着けと何度も心に繰り返し心臓に手を置いて、再び深呼吸。やっとのことで振り返ると、ソファの雲雀が彼を見詰めていた。
 漆黒の瞳が、訝しげに綱吉を射抜く。
「それで、なに?」
 保健室でのやりとりを思い出す。綱吉は胸に手を当てたまま視線を泳がせ、答えを探して最後は目を伏せた。至近距離で真正面から雲雀と向き合うのはまだ少し勇気が足りなくて、彼は爪先を綺麗に掃除がされている床に強く擦りつける。
「あの、俺……えっと、その、特に用ってわけじゃないんですけど」
 無意識に動いた手が胸の前で指を絡め取る。左右の人差し指を小突き合わせながら、綱吉は保健室での時ほど強気に出られない自分を意識した。
 雲雀がふいっと顔を逸らす。彼は手元のファイルを捲り、そこに気持ちを切り替えたようだった。
 ホッとしたような、がっかりしたような。自分よりも優先されてしまう、恐らくは風紀委員の資料か何かだろう、それにさえ僅かだけれど嫉妬を覚えた。
 彼は何も言わない。ただ黙って資料を読み解いている。彼が紙を捲る音だけが少しの間応接室を支配し、己の呼吸音さえ彼の邪魔になるのではと綱吉は無理をして息を殺した。しかし限度は当然あるわけで、苦しくなって一度喘いだところで、再び雲雀の鋭い目が綱吉に向けられた。
 咬み殺される、そんな単語が頭を過ぎった。しかし雲雀は予想外に静かな目をしていて、未だ扉前で佇んでいる綱吉を認めると、顎で自分が座しているソファの向かい側を示した。そちらにも、テーブルを挟んで向き合う格好でソファが置かれている。今は誰も使っていない。
 綱吉は目を見張り、それから息を呑んだ。好意的に解釈すればそこに座れということであり、悪く考えても出て行けという合図ではなかった。
 いても良いのだろうか?
 答えを求めて綱吉は雲雀の横顔を見詰めたけれど、視線に気付いていないのか彼は資料ばかりを眺めている。どうする、どうしよう。さっきからずっと、考えが同じ場所を何度も駆け回っている。ちっとも上に登れない螺旋階段を全力疾走している気分だ。綱吉は唾と一緒に息を飲み、肩から提げた鞄の紐を握り締めた。
 そろり、と動く。壁際から室内へ。足音を極力立てぬよう神経をすり減らし、雲雀の視線を逐一気にしながら普通に歩くより何倍もの時間をかけ、彼はやっとのことで雲雀の対岸へとたどり着いた。黒い革張りのソファは照明を浴びてテカテカと輝いている。硬そうだけれど柔らかそう、と相反する感想が同時に頭に浮かんで、綱吉は再度窺うように雲雀を見た。
 今度はちらり、と雲雀も距離が狭まった綱吉を見る。一瞬だけ目が合い、直後に紙を捲る音。
「なに?」
 静かな、凪の海を思わせる低い声。誰もいないソファと雲雀とを交互に眺めていた綱吉は、やや不安げに瞳を揺らした後、
「いえ……」
 自信なげに呟いて、ソファへと腰を下ろした。鞄の紐を繰って膝に載せる。雲雀の真正面に座るのは憚られたので、彼が遠慮がちに座ったのはソファの端っこだった。だが慣れない所為と緊張からか位置取りを誤り、左肘が肘掛に引っかかって何度か座り直さなければならなかった。
 許可は出た、ことばには表現されなかったけれど。出て行けと言われなかったのは、恐らく自分は雲雀に何らかの形で許容された人間となった証拠。しかし、と思う。
 教室や廊下にいた頃はあんなにも雲雀に会いたくて、会った後どんな話しをしようかとか色々考えて楽しかったのに、今はその気持ちもすっかり萎んで小さくなってしまっている。両膝を行儀良く揃え両手を置いて、そこばかりを見ている綱吉は、まるで泣き出す寸前の子供の顔をしていた。
 紙がこすれ合う音だけが静かな室内の空気を裂いている。それすらも心に痛い。
 多分、不安なのだ。雲雀が明確な言葉で綱吉に対し、なんらアクションを返してくれないことが。だから綱吉は逐一、雲雀の動向を窺って彼の仕草を読んで、彼が考えていることを想像しなければならない。もし読みが外れていたらどうしよう、という不安と、自分には語る言葉も無いのかと言う若干の憤りが、彼の中でぐるぐると駆け回っている。無意識に寄せられていた眉間には皺が三本も刻まれ、不服そうに膨らんだ頬に挟まれた唇は若干尖っている。
 何をしに、ここへ来たのだろう。雲雀に用件を問われた時、ちゃんと言えたならこんな気持ちにはならなかったのだろうか。
 盗み見た雲雀の表情は相変わらずの鉄面皮で、文章を読み取る彼の細い目は左右に忙しく揺れ動いている。時々立てた人差し指でファイルを挟んでいるクリップボードの側面を叩いたりして、これもきっと無意識の所作なのだろうが、曲げた指を顎にやったりしながらなにやら考え事をしている。
 滅多に見ることの出来ない、風紀委員長としての顔を前面に出している彼。邪魔をしてはいけないと分かっているのだけれど、自分達の間には途方もなく高くて分厚い壁があるように思えて、綱吉は切なくなった。
 息苦しい。雲雀が「好き」だと自覚する前にあった痛みとは違う辛さが綱吉を包み込む。どんよりと濁った空気が自分の周囲を取り巻いているようで、ただ呼吸するのでさえ苦痛だった。
 雲雀が何を考えているのか分からない。自分をどうしたいのかもさっぱり見えてこない。だから綱吉は不安になる。自分が次にどうすればいいのか、そのヒントすら与えられずに放り出されている。
 見ているだけで、追いかけた背中に追いつければそれで良いと思っていたのに、いつの間にかそれじゃ足りなくなっている。
 もっと話をしたい、もっと一緒にいたい、もっと傍に居たい、もっと近くに行きたい。
 もっと、分かって欲しい。
 綱吉は俯いた。両手をぎゅっと握り締め、ズボンに新しい皺を作りながら、肩を寄せて丸くなる。
 帰ろう、帰りたい。ここにいたくない。
 どうしよう、どんどんと自分は我が儘で身勝手で、貪欲になっていく。足りない、これじゃちっとも足りない。ただ好きなだけなのに、好きになっただけなのに、もっともっと、と天井の無い欲が幾本もの触手を伸ばして雲雀にしがみつこうとしている。
 こんなにも醜い自分は、嫌だ。
 泣きたい気持ちを懸命に堪え、綱吉は下唇を噛み締める。空気が動いて頬を撫で、僅かに遅れて物音が聞こえた後も、綱吉は顔を上げなかった。
 だから見えない、雲雀がどんな顔をして綱吉を見下ろしているのか。
 彼は読み終えたファイルをボードに固定し直して立ち上がっていた。至極つまらない報告書ではあったけれど、考えなければならない案件はいくつか見られて頭が痛くなる。だからついつい、訪問者への対応もぞんざいなものになってしまった。
 出て行くかと思いきや、促すとあっさりと従う。ソファに小さくなっている姿が視界の片隅でちらちらとしだしてからは、若干集中力が落ちた。気もそぞろになってページを捲っていると、思っていた以上に読み終えるのに時間がかかってしまった。時計を見ると、下校時刻にはまだ到達していないけれど、部活などの用事があって残っている以外の生徒は既に岐路に着いた後だろう。
 いつもなら、彼だってきっともう家に帰り着いている時間帯。それでも帰ろうという素振りが見えないのは。
 いや、それよりも、なによりもまず。
 どうして、俯いているのだろう。彼らしくない、と雲雀は緩く顔を顰めた。
 彼の中では、綱吉と言う存在は常に笑っていて、あとはころころとよく表情が変わる。小動物、と表現すればぴったりと当てはまりそうで、怯えたり怒ったり泣いたり拗ねたりと、じっと見ていても飽きることが無い。雲雀はそこまで感情表現豊かではないと自覚しているから、余計に彼のわかりやすい喜怒哀楽は新鮮だった。
 保健室での無防備な寝顔や泣き顔も、また。
 だのに今は俯いてしまっていて、顔が見えない。表情が分からない。表情が知れないと、彼が何を考えているのか半分も分からなくなってしまう。それでなくとも綱吉は、部屋に入って来たときからずっと無口だ。
 自分の事を棚に上げ、雲雀はしかし自分の職務を全うさせるべくソファ前から離れた。ファイルを窓辺の机に置き、外側を回りこんで引き出しを開ける。承認印と朱肉を取り出して、手早く表紙の指定された箇所に印を押していく。
 いつもは気にならないのに、今日に限って壁時計の秒針が進む音が、チッチッ、と神経質なまでに彼の心を苛立たせた。
 必要箇所に印を押し終えると、今度は片付けを。開けたままだった引き出しに戻すだけの単純作業だったが、苛立ちが募っていたのが表に出たのか、閉める時、乱暴に力を込めすぎてしまった。大きな音を響かせ、室内の空気が大仰に震える。下を向いていた綱吉もまた、音に驚いて目を見開き顔を上げた。
 雲雀を見る、その目が揺れている。
 あの時は闇夜から落ちてきた星のようだと感じた大きな瞳が、光を失って急速に萎んでしまった風にしか見えない。頼りなく彷徨う視線を雲雀も感じて、彼がまた最後は俯いてしまうのを非常に腹立たしいことと受け止めた。
 でも、誰に対して?
 綱吉を驚かせたのは他でもない自分自身であり、雲雀は引き出しに指先を引っ掛けたまま暫くの間じっと、綱吉の髪の毛からはみ出す柔らかそうな耳朶を見ていた。
 その下から伸びるほっそりとした白い首筋、前傾気味になっている肩と背中。並盛中の模範生にしてやりたいくらいにきっちりと着込まれた制服、膝に載るさして重くなさそうな鞄。全体的に平均的な生徒より一回り小さな身体、拳で殴るよりも広げた掌で誰かを撫でる方が適している腕。
 雲雀を真っ直ぐに見上げた瞳が、今は雲雀から逸らされたまま。
 分け隔てなく皆に振りまかれ、雲雀にも向けられた楽しげな笑顔は、すっかりなりを潜めている。
 らしくない、と思う。まったく、彼らしくない。
 そして、そんな風に思っている自分も、また。
 雲雀はペン立てから赤色のペンを抜き取った。先ほどまで広げていたファイルと一緒に持って机をまた大回りに通り過ぎる。そして自分が座っていた場所に戻りかけ、つま先が宙を掻きやがて床に下ろされた。次の一歩は、出ないままで。
 ほぼ真横には、綱吉。
 理由もなく、わけもわからず、ただ苛々する。何故、と自分に問いかけても答えは見えてこない。ただ綱吉が自分を見ず俯いたままで、握り締めた拳が小刻みに震えているのに気付くと途端、冷水を浴びせられた気持ちになった。
 ひとりの人間に、ここまで激しく心揺さぶられるのは初めてで、しかし迂闊に感動も出来ない。自分で制御できない感情とはとかく不便でならない。雲雀は奥歯を噛むと、少しも笑わない、いつもと違う表情しか見せない綱吉をどう扱えばいいのか分からなくて溜息をついた。
 それは綱吉にも当然聞こえて、彼はそれを自分が雲雀に呆れられたのだと勝手に思い込む。顔を上げないが故に雲雀の気持ちを正しく理解できない、ただ悪い方へ、悪い方へと気持ちが沈むに任せ思考をめぐらせてしまう。
 いたたまれなくて、逃げ出したい。それなのに身体は凍りついたように筋肉も硬直し、指の一本さえ動かなかった。助けて、と目を閉じて心の中で悲鳴をあげる。
 雲雀を困らせようとしたのではない、けれど自分ばかりが浮かれ気分で調子に乗っていたのは事実。獄寺と一緒に帰ればよかった、今更考えても遅いけれど。
 と、不意に。
 目の前が薄暗くなって、また明るくなった。なんだろう、と瞼を持ち上げてそろりと上目遣いに前方を見る。しかし障害物らしきものは見当たらず、おや? と首を傾げかけた瞬間。
 ズン、と綱吉の右側がいきなり沈んだ。
「うわっ」
 予想もしておらず、だから身構えることも出来なくて綱吉はみっともなく声を出した後慌てて両足を床につけて踏ん張った。座っているのが柔らかなソファだったから、瞬間的に何かが落ちてきたのだと察したけれど、肝心の落ちてきたものが何であるか分からなくて、おっかなびっくり彼は自分の右手を振り返った。
 驚きすぎて、膝の上から鞄が転げ落ちそうになり、首に回していた紐がひっぱられて息が詰まった。
「ヒバ……リさ、ん?」
 目を見張る。そこには雲雀の端正な横顔があって、どっしりと構えて座っていたのだから。
 彼が真横に座ったぶんだけソファにかかる重みが増し、クッションが沈んでいく。右側に引きずられそうになり、綱吉は慌てて左手で肘掛を掴んだ。対する雲雀は涼しい顔そのままで、綱吉など気にも留めていない風に優雅に脚を組み、資料を数枚飛ばして捲っている。そして予め目星をつけていたページに到達すると、片手で赤ペンのキャップを外しなにやら書き込みを始めた。
 どうしていいのか分からず、綱吉は肘掛によりかかったまま暫く呆然と雲雀の仕事ぶりを眺める。サラサラと音を立ててペン先が紙上を走り、何を書き込んでいるのかまでは分からないけれど、盗み見た彼の字は性格を象徴してか右肩上がりの角張った形をしていた。
 綱吉はそのまま、視線を上にずらす。気付いた雲雀も、手を一旦休め瞳だけで綱吉を見返した。
「なに?」
「え、あ、いえ……」
 こういう時に咄嗟に言葉が出ない自分がもどかしくてならない。舌で歯の裏を弄りながら視線を泳がせていると、次のページを捲った雲雀が目線をそちらに戻しつつ、小さく呟いた。
「君は」
 え、と思う間もなく。
「さっきから、そればかりだね」
 ぺら、と紙が擦れる音。目の前が真っ暗になって、開いていた扉が地鳴りをあげて閉じていく。辛うじて細い光の線を残した扉を前に、綱吉は呆然と立ち尽くす。
「……だって」
 しかし、言われてみれば確かにその通りで。雲雀は職務中であり、押しかけてきたのは綱吉の方。仕事中にあれこれ構えってというのは我が儘でしかなく。
 でも、それでも、もしあの時、最初に、部屋に入った時に、一緒に帰りませんか、そのひとことが言えていたなら。
「だって」
 涙が自然に溢れてくる。悔しいけれど、悲しい。寂しいし、痛い。
「だって……」
 しゃくりをあげ、綱吉は腕で涙を拭った。これ以上彼に弱い自分を見せたくないのに、どうしても止まらない。こんなに涙脆かっただろうか、自分は。喉が擦れて嗚咽が漏れ、そこに雲雀の紙を捲りものを書き込む音が重なり合う。
 自分は雲雀が好きで、好きで、たまらなく好きで。
 でも、雲雀は? 雲雀はどう思っている?
 保健室でその返事を聞いていない。廊下でも、今も。彼はなにひとつ、綱吉にことばを返してくれていない。ただ手を伸ばして髪を撫で、頬を撫で、今は隣に座って体温を感じさせてくれるけれど、たったひとことで片付く答えを綱吉にくれない。
 思わせぶりな態度だけをとって綱吉を喜ばせるくせに、肝心要の答えだけはいつも宙に浮かせたまま。言って欲しい、教えて欲しい。その唇で音を刻んで欲しい。そう思うのは我が儘なのだろうか。
 こんな風に誰かを強く思うのは初めてで、だから綱吉はこの感情が誰しも持ちうる当たり前の感情なのかどうかさえ、区別がつかない。想いだけがあふれ出て、ことばが押し流されていく。
 見詰める先に雲雀がいてくれるだけで幸せだったのに、今は雲雀を見ていると不安で押しつぶされそうになる。同じ場所を、ずっと気持ちが空回りしている。ぐるぐると、壊れたレコードが同じ音を奏で続けるみたいに、終わりの無い螺旋階段を駆け上り続けているみたいに。どれだけ息せき切らせて走っても、終着点は見えなくて途方に暮れる。
 こんな思いをするくらいなら、最初から好きにならなければ良かった。惨めな気持ちのまま泣きじゃくる自分が嫌で、綱吉は頭を振りながら俯いて涙を膝に落とす。
「だって?」
 ペンを置く音がする。辛うじて見上げると雲雀が綱吉の側を向いていた。クリップボードに蓋をした赤ペンが紙と一緒に挟み込まれている。彼はそれを膝に置いたまま、綱吉を見ていた。
 漆黒の、闇よりも深い闇色の双眸に胸がドキリと跳ね上がる。浅ましくもそれだけで心臓の脈拍数があがり、頬が上気して自分の気持ちが昂ぶっていく。綱吉は消え入りたくなった。
 やはりどう考えても自分はこの人が好きで、見詰められただけで舞い上がり、全思考が停止してしまうくらいに好きなのだ。
「だって……」
 言えたらいいのに。貴方は俺のことをどう思っているのですか? たったそれだけ、簡単なのに聞くのが怖い。もし否定されたら、拒絶されたらと一ミリでも考えてしまうと、その先から進めない。臆病者、そう罵る自分の声がする。
 カラカラに渇いていた喉が水を欲し、量も無い唾を呑み込む。音が響いた気がして、それだけで恥かしくて顔が赤くなった。
 雲雀が見ている。口元に薄らと笑みを浮かべ、綱吉のことばを待っている。
 ずるい。そんな顔をされたら、拒みきれない。
「だって……ヒバリさんが」
「僕が?」
「優しく……ない、から……」
 拗ねていた、と。顔から火が噴出しそうな勢いで真っ赤になり、綱吉は言ってから後悔しきりでまた俯いた。その頭を、伸びてきた雲雀の手が優しく撫でる。
「へえ?」
 興味深そうな雲雀の相槌に、益々顔をあげられない。
「だって、全然俺の事見てくれないし、相手してくれないし、喋ってもくれないし! だから全然優しくないし!」
 これじゃあ保健室での癇癪と一緒ではないか。そうは思っても止められなくて、綱吉はがむしゃらに拳を振り上げて叫んだ。子供の我が儘だと分かっていても、一度堰を切ってしまった感情は簡単には止まってくれない。恥ずかしさは募るのに、不満を吐き散らす事で頭の中に掛かっていた靄もまた晴れていく。
 冷たい手が、頬を辿った。まだ続きを吐き出そうとしていた綱吉の口が、半端に開いた状態で停止する。
 他でもない雲雀の手が、彼の頬を撫でていた。ゆっくりと右頬をさすって、それからよしよし、と頭を撫でる。ひょっとして彼はこうするのが好きなのだろうか、等と上目遣いに事の成り行きを見守っていると、雲雀は数回撫でて満足したのか離れていく。
 毒気を抜かれた感じだ。言いたかった内容もすっかり抜け落ちてしまい、ただ握った拳が行き場を失って胸の高さで浮かんでいる。自分の頭の高さ、それから雲雀の手を追いかけて最後は自分の手元に落ちた視線でそれに気付き、綱吉はハッとしてから手を膝に戻す。
 雲雀の手は、ファイルの後ろの方を捲っていた。
「僕は」
 闇に漂う雲のように静かな、雲雀の声。
「優しくはないよ」
 自分のことばに笑って、彼はクリップから抜き取った赤ペンでまた何かを紙に書き込んでいく。その間一度も綱吉を見ない彼は、風紀委員長の顔でもなく、綱吉の知る恐怖政治を敷く雲雀恭弥の顔でもなかった。
 綱吉だけが知っている、綱吉だけが見た事のある雲雀が。
「あと五分で終わるから」
「え」
「下校時刻までに生徒を帰らせるのも風紀委員の仕事だよ」
「あ、ああ、はい」
 そうですね、と返した綱吉は、肩を竦めた雲雀の言葉が何を揶揄しているのか直ぐに分からなくて、目を泳がせ、おや? と天井の角を眺めてから首をやっと捻った。それから雲雀を振り返って伺い見るけれど、その横顔からは詳しい感情を読み取る事は適わない。
 ただ、なんとなくではあるけれど。
 ポッと、胸の奥で弱まっていた炎が淡い光を放って明るく輝きだした気はした。
 鞄を両手で抱き上げて、口元まで隠してソファに座り直す。ソファに凭れ掛かって背中ごと身体を沈める。ちょっとだけ、心持ちちょっとだけ、座る位置を右にずらしてみた。
 肩が触れる、腰が触れる、肘が触れる、腕が触れる。
 雲雀の体温に、触れる。彼は逃げなかった。微動だにせず、綱吉を見てくれる事は無かったけれど、彼がそうやって甘えてくるのを黙って受け止めてくれた。
 えへへ、と綱吉が小さく笑う。
「なに?」
「いえ、なんでも」
 こんな単純な事で喜んでいる自分は、やっぱりとても単純なのだろう。けれど触れたところから伝わってくる雲雀の温もりは、彼の言葉とは裏腹に優しさに溢れていると綱吉は思う。
 自分が好きになった人なのだから、と。
 でも。でも、やっぱり、ね。
 直接、貴方の言葉で、聞きたいのです。
 機嫌が一気に良くなった綱吉は、調子に乗って首を傾けて雲雀の肩に寄りかかった。彼の邪魔をしないよう、体重をかけすぎないように気をつけながら、彼の骨張った肩にこめかみを預ける。雲雀は、負荷が大きくなった直後こそは身体を揺らしたけれど、寄り掛かる綱吉の姿を横目に見て、呆れたように息を吐いただけだった。
 仕方ないな、とでも言いたげに、細い目をもっと細めて。
「昼寝には遅いよ」
「そうですね」
 淡々と呟き仕事を再開させた彼に笑って返し、綱吉は目を閉じる。あと五分、いやもういくらか経過しているからあと三分くらいだろうか。この時間が、二倍、三倍になればいいのに。
 何も考えず、ただ彼に甘えていられる時間が、ずっと続けばいいのに。叶わない夢と知りながら、そんな事を祈って。
 気を抜けば、また螺旋階段の一段目に佇んでいる自分を見つけてしまうから、考えないで済むように。

 好きです。
 好きです。
 あなたが、好きです。
 大好きです。
 貴方を見ているのが好きです、貴方の声を聞くのが好きです。貴方の傍で、貴方の隣で、貴方の横で、笑っていられる今がとても幸せです。
 けれど、だけど。
 貴方は思わせぶりな態度を取るだけで、幸せなのにとても不安になるのです。幸せだけれど、不安なのです。
 貴方を見つめていると、嬉しくなるのに、不安で胸が押しつぶされそうになるのです。胸が高鳴るのに、息が苦しくて切なくなります。
 ねえ、ヒバリさん。
 ヒバリさん。
 届いてますか? 俺の声、ちゃんと届いていますか?

 この想いは、届きますか。