紫煙

 夕日が差し込む放課後の教室に、シャープペンシルを走らせる音だけが静かに響き渡っている。
 開け放った窓からは、グラウンドで部活動中の生徒の声と、少しずつ影が長くなっているけれどまだ明るい日差しが差し込み、手元を照らしていた。教室の電気は消され、外からの灯りだけに頼りながら目を細めた綱吉は、漸く最後の一問になったプリントを前に「ん~」と伸びをした。
「終わりましたか?」
「もうちょっと」
 そのうめき声に似た音に気付いて、外を眺めていた獄寺が振り返る。窓辺にある綱吉の席のひとつ前、本来は彼の席ではない椅子に腰掛け、肘を窓枠に置いて顎を預けていた彼の横顔に、オレンジ色の光が反射していた。
 黙っていればイタリア人との混血である彼は十分に美形で、スタイルも良く頭も良いのでモデルとしても通用するだろうに、綱吉の前ではどうも格好がつかないところが多い。現に今こうやって椅子に腰掛け、ぼんやりと意識を外に飛ばしている姿はどこかの雑誌の表紙を飾れそうな雰囲気がある。しかも指には、紫煙煙る煙草を浅く挟み込んで。
 煙自体は窓の外に流れており、綱吉の方には流れて来ていない。獄寺も綱吉が嫌がるのを知っているから、窓を向いて座っている。綱吉の邪魔にならぬよう、けれど手助けが必要な時はすぐ対応できるように、配慮して。
「あと一問ですね」
「うん」
 視線だけを綱吉の手元へ運び、課題として提出を言い渡されたプリントの埋まり具合をチェックして彼は煙草を親指で軽く叩いた。長くなっていた灰が窓枠の外に落ちる。火の粉が散らないか心配でついそちらを向いた綱吉は、そういう何気ないポーズさえ決まってしまう獄寺につい、見とれた。
 結局獄寺は煙草の残りが短いと知り、胸元からポケット灰皿を取り出して口を開き、そこに吸いかけのそれを捻り込んだ。完全に慣れている手つきであり、年不相応な動きでもある。そもそもこの国では、未成年の喫煙を法律上禁止しているというのに。
「どうかしましたか?」
 完全に手を止めていた綱吉は、灰皿をポケットにしまいこむ獄寺に問われ、ハッと我に返った。慌てて握りが甘くなっていたシャープペンシルを持ち直し、視線を下に落とし込む。
 この課題を提出してしまわないと、彼は家に帰れない。宿題を忘れ、挙句授業中に当てられた問題にも答えられなかった上、そもそも前回のテストで欠点だった綱吉は、担当教諭に呆れ返られた後、このプリントを渡された。全問正解の必要はないが、全問解き終えて提出してから帰るように、というお言葉と一緒に。
 勝手に帰ったら単位をやれない、とまで脅されて、結局秀才の獄寺が時間もあるし、とつきあってくれて今に至る。
 もっとも綱吉が獄寺の助けを借りるのも教諭には見破られており、答えを教えないようにと獄寺にも厳重に注意がいっていた。最初は反論していた彼だったが、自分の力で解けなければ身につかないし、綱吉の為にならないとやり込められてしまった。
 だから獄寺は、ほぼ見張り役に近い。綱吉がどうしても分からないと言えば、解を導く手助けこそすれ、正解までは決して教えない。律儀に教諭の言いつけを守っている彼に、綱吉は舌打ちしつつも辛抱強く教えてくれる彼に感謝していた。
 獄寺の手が、三本目の煙草を箱から抜き取っていく。
 いつもならそんなに吸わないのに、と頭の片隅で思いながらも、綱吉は最後の難関をクリアすべく、そちらを優先させて意識を傾ける。シャープペンシルの先を神経質に、机にぶつけて音を立てながら、公式を思い出してはそこに当てはめ、何かが違うと感じれば消しゴムを左手に握る。机の端では見る前に消しゴムのカスが山を成した。
「むぅぅ……」
 小さく唸って綱吉は乱暴に自分の髪を左手で掻き回した。答えを出すまでの道順は出来ているのに、何かが足りないのか綺麗な数字にならない。その欠けている部分が分からなくて、一度最初から全部やり直してみるが、しっくりこないまま時間だけが過ぎていく。
 前にいる獄寺が、外に向けてふぅ、と息を吐いた。白い煙が流れて行き、やがて消える。
「美味しいの? それ」
 頭の切り替えをしたくて、つい綱吉はそんな事を口にしていた。獄寺がゆっくりと彼の方を向いて、それから視線を右手に持つ煙草に流す。綱吉が見ているものに気付いて、ああ、と頷いた。
「どうでしょうね」
 くっ、と喉の奥で笑いながら彼は引き寄せた煙草を口に含んだ。指に嵌めたいかつい銀の指輪が、日の光を反射して眩しく光る。眩しさに目を細めると、勘違いをしたのか獄寺はまた窓に向いて煙を吐き出し、腕ごと外に追いやった。ガラス越しの紫煙が燻り、ゆらゆらと空へ登っていく。
 綱吉は煙の行方を追いかけて目線を上向け、それから手元へと戻した。気がつけばプリントに添えたままだったシャープペンシルが蛇行線を描いており、慌ててその上に消しゴムを走らせる。一連の動きを見ていた獄寺が、左手で口元を押さえながら笑った。
「……もう」
 笑われたのが恥かしくて、頬を膨らませながら綱吉はプリントを傾ける。消しゴムのカスを一箇所に集め、解きかけの問題に再挑戦。邪魔をするつもりはないだろうが、その綱吉へ獄寺が言った。
「十代目が嫌なら、止めますよ、煙草」
 顔を上げ、上目遣いに見た獄寺の顔は夕日を浴びて若干表情の細かい部分まで捉え辛かったけれど、声の調子はとても真剣で、真っ直ぐに思われた。
 綱吉は吐息を零し、自力では終わらせられそうにない問題に匙を投げる。
「あのさ、獄寺君」
「はい」
「今と同じ台詞、前にも言われたことあるんだけど」
 シャープペンシルを親指と人差し指とで挟んで持ち、先端を獄寺に向けて揺らす。獄寺が「そうでしたっけ?」という顔をするので、綱吉は、今度は持ったシャープペンシルの尻で自分の額を軽く掻いた。
「そうそう。で、結局守られてないわけだし。そんなに美味しいのかなって……あ」 
 溜息混じりに呟いていたら、ストン、とまったく関係ないものが頭の中に落ちてきて、即座に綱吉は大判で印刷された課題プリントの最下部にシャープペンシルを走らせた。どうでも良い時に答えというものは落ちてくるもので、今まで悩んでいたのが嘘のようにすらすらと答えが導き出せてしまった。
 獄寺のお陰といえば、その通りだろう。この方程式は以前にも教えて貰った経験があったのだが、すっかり忘れていた。その時に、確か今と同じ事を彼に言われたのだ。
 難しい顔をして眉間に皺を寄せた獄寺は、しかし綱吉が無事に問題を解き終えると数回目を瞬かせ、正解です、と囁いた。耳の奥にじんわりと響く甘い声に、心臓が一瞬だけ跳ね上がって綱吉の顔は朱に染まった。
 暮れかけの夕日を横から浴びているので、うまく誤魔化せていればよいのだけれど。もう消しゴムカスも残っていないプリントの表面を頻りに撫でながら綱吉は思った。
「お疲れ様です。やれば出来るじゃないですか」
 煙草の灰を落としながら獄寺が感心したように言う。褒められたのが嬉しくて、頬を緩ませて笑っていると、不意に真剣な顔をした獄寺が首を背け、煙草を咥え直した。深く息を吸って、指で挟んだそれを遠ざけながら息を吐く。鋭く細められた唇から飛び出していく煙に僅かに咳き込んで、綱吉は首を傾がせた。
「獄寺君?」
「じゃあ、俺から十代目に御褒美を」
 彼の左肘が綱吉の机に置かれた。身体を窓に向けたまま、上半身だけを捻って綱吉の方へと身を乗り出してくる。気がつけば眼前に迫っていた獄寺は目を閉じていて、反射的に綱吉もまた目を閉じた。
 触れ合った唇を押し開き、獄寺の舌が綱吉の側へと侵入を果たす。歯列の裏をなぞられて深まった繋がりから、注ぎ込まれるのは紫煙に濡れた甘い吐息。
「ん……」
 鼻で呼吸をしようとしたら、くぐもった、けれど妙に艶めかしい声まで漏れてしまい、綱吉は一瞬にして耳の先まで赤くなる。獄寺が笑った気配がして、最後に音を立てて唇を吸い離れていった。
 苦い、それでいてどこか煙たい味が舌の上に残される。
「美味しかったですか?」
「……ぜんっぜん!」
 にっ、と目の前で悪戯っぽく笑われて、綱吉は握った手の甲で濡れた口元を拭いつつ、真っ赤になりながら怒鳴った。
「やっぱり、獄寺君は煙草やめなさい!」
 はーい、という軽い返事に、憤慨した綱吉が鞄とプリントを引っつかんで教室を出て行くまで、残り時間はあと三秒。