氷菓

「あつ~い」
 手を団扇代わりに使いながら、綱吉はアスファルトの照り返しも激しい街中を急ぎ足で通り過ぎる。最高気温が三十度を超えると予報されていた通りの天候で、頭上の太陽を恨めしげに睨みながら目的地への近道となる角を曲がる。
 そこから百メートルほど更に進み、また右に曲がって少し行った先。視界には既に入っている緑が目立つ一角が、ゴール。微かながら、元気の良い子供たちの笑い声が聞こえてくるようだった。
 そこは広い公園で、遊戯施設もそれなりに整えられた街中の憩いの場。とはいえ時間帯は真夏日を迎えた真っ昼間。元気が有り余っている子供たちならば別だが、散歩がてらに立ち寄ったという人の姿は殆どない。平日ならばサラリーマンが営業の中休みにベンチに座っていそうだけれど、今日は生憎日曜日でその姿もない。
 どちらかと言えば、閑散としている。
 綱吉は額に浮き出る汗を拭って公園の入り口に立ち、視線を左右に動かした。約束の時間からは十分ほど遅れてしまっており、それが気がかりでならない。家を出る前に居候している子供たちに発見されてしまい、一緒に連れて行ってとせがんでくるのから逃げ出すのに時間がかかってしまった。
 そんな彼の肩にはお気に入りのリュックがぶら下がっており、中にはタオルやら何やらが詰め込まれている。
 夏休みを少し前にして、まだ本格的な季節には早いけれど十分夏真っ盛りを思わせる天候が連日続いているだけあって、綱吉も周囲の皆も大分参っていた。そこへ山本から持ち込まれた魅力的な話が、プールに行かないかというお誘いだった。
 最近出来たばかりで、郊外の温水プールへ行こうという話はとんとん拍子に決まり、いつの間にかハルや京子まで参加することになっていた。子供たちを連れて来ても良かったのだけれど、プール熱の感染の危険性もあるので今回は見送ることにした。だからばれないように心がけたのだけれど、子供の勘は侮れないもので、どこから情報を得たのか出かけようとしていた綱吉にぴったりくっついて離れない。どうにか奈々に宥めてもらって、逃げるように家を飛び出してきた。
「山本は……」
 本当は現地集合だったのだけれど、綱吉だけがプールのある場所を知らず、山本が一緒に行ってくれる手はずになっていた。そこで待ち合わせに指定されたのがこの公園であるのだが、背の高い彼の姿は綱吉の視界には見当たらない。
 ひょっとして遅刻に呆れて先に行ってしまったのだろうか。やはり道を急ぐのを優先せず、携帯電話に連絡を入れておくべきだったろうか。道を走りながら葛藤した時間を思い出し、綱吉は呆然と立ち尽くす。
 だが、
「よっ。遅かったな」
 拍子抜けするほどお気楽な声が聞こえ、同時に背後から肩を叩かれる。吃驚して飛び上がりそうになった綱吉だったが、聞き覚えのある声に冷静さを即座に取り戻す。振り返って確かめるまでもない、声の主は山本本人だった。
 白地に青と赤のラインが縦に入ったランニングシャツに、ミリタリー調のカーゴパンツ。素足にサンダルで、頭には野球帽。手にはこげ茶色のトーとバッグを肩に担ぐようにして持ち、反対の手には残り半分以下になっているアイス。対する綱吉は色違いのTシャツの重ね着に、オフホワイトのハーフパンツ、素足にスニーカー。急いで家を出てきた為、日差し避けの帽子などはすっかり頭から抜け落ちていた。
「あー、アイス……」
 山本が公園側を向いている綱吉の後ろにいるのは、どこかで寄り道をしてアイスクリームを買っていたからだろう。とすると、彼もまた綱吉同様遅刻になるのか。だが彼は今さっき、「遅かったな」と綱吉に言った。
 わけが分からないと混乱していると、公園を出て反対側の通りにあるコンビニエンスストアを顎で酌って示された。ガラス張りの店内が、この距離でかなり見づらいけれど一応見える。
「待たせた?」
「別に、大して遅れてないだろ。つーか、この場合俺の方が遅刻?」
 山本に向き直って尋ねると、彼は「ははは」と笑いながら肩を揺すった。どうやら暑さに負けて、綱吉が遅れているのを良いことにコンビニエンスストアで涼んでいたらしい。走ってきた綱吉は汗だくなのに、彼は綺麗な顔をしてアイスを齧っている。
 それはよくある「当たり」くじ付きのアイスで、文字が書かれているだろう棒はもう半分以上露見していた。山本の反応が薄いところからして、どうやらハズレであったらしい。じっとそこばかり見ていたら、食べるか? と食いさしのアイスを顔の前に持ってこられてしまった。
「え、いいよ」
「でも欲しそうな顔してっぜ?」
 慌てて首を振って否定するが、山本は口角を持ち上げて笑い、更に綱吉にアイスをつきつける。だがさすがにもらうのも悪い気がして、綱吉は両手を顔の前まで持って行き更に首を振った。その頑なな抵抗に山本も折れるしかなく、残り三分の一を切っていたアイスを口いっぱいに頬張った。
 これで蝉の合唱でも聞こえたなら夏真っ盛りを思わせるのだが、そこまで小道具は用意されていない。変わりに公園から子供たちのはしゃぎまわる声と、通り過ぎる車の排気音が混ざり合ってふたりを包み込む。
「暑いね」
「だな」
 しゃり、と溶けかかっているアイスの最後一欠けらを口に入れ、もごもごさせながら山本が同意する。ハズレの棒は公園入り口脇にあったゴミ箱へ投げ入れられ、半分ほど不要物で埋もれている中に消えていった。
 綱吉は南の空を見上げた。憎らしくなるくらいに燦々と輝く太陽、照りつける日差し、それを反射する黒い大地。扇風機やクーラーといった文明の利器に囲まれて安穏と過ごすのに慣れてしまった身体には、その日差しの強さは酷過ぎる。指を揃えて立てた右手を庇にして太陽を睨みつけると、山本も帽子の鍔を下げながら同じ方向を向いた。
 彼の唇は、冷たいものを食べた直後だからか、ほんの少し青褪めていた。
「そろそろ行く?」
 腕時計に視線を戻し、動かない山本に問いかける。立っているだけでも暑くて、汗がだらだらと流れていくのは流石に気持ち良くない。庇にしていた手で顔を仰いだ綱吉だったが、不意に視界が閉ざされて目の前が薄暗くなった。
 頭にぼふっ、と何かを被せられる。それが山本の帽子だと気付くのに、たっぷり三秒ほど時間が必要だった。しかも上から御丁寧に手を置かれ、逆立ちしている綱吉の癖毛を押しつぶしていく。しかも。
「んんっ!?」
 暗くなったのはそれだけが原因ではなくて、背中を丸めてかがみこんだ山本が、不意打ちで綱吉の頭と顎を掴み、上下から拘束した。逃げられないように抑え込んでから、公園の入り口である石垣と自分の身体の間に綱吉を隠す。公園内部からも、道路からも綱吉が見えないように庇って。
「んぅ……」
 ねっとりとした感触に思わず顔を歪め、綱吉は他に縋るものを持たず山本のシャツを握り締める。唇を強引に割って入り込んできた彼の舌は、綱吉のそれを容易く手中に収め表面を撫で回しながら口腔内を蹂躙する。
 抵抗する力も与えず、綱吉を消耗させていく山本の技巧に息をするのも忘れ、綱吉は固く目を閉ざした。光さえ差し込まない闇の中で、けれど頼れるのが山本しかいないという現実に打ちのめされる。
 漸く開放された時には綱吉の呼吸は絶え絶えで、肩を幾度か上下させながら濡れそぼる唇を手の甲で拭い取る。こんな場所で昼真っ赤ら何をする気だと、眉を吊り上げて飄々としている山本を睨みつけるが、彼は反省の色なく、むしろ楽しげに笑っている。挙句の果てには、
「アイス食べたばっかだし、少しは涼しくなったろ?」
 己の唇を指差しながら、そんなばかげたことまで言い放つ始末。綱吉は思わず、彼に向かって背負っていたリュックを叩き付けた。暑さが原因ではない熱が、過剰に全身を暴走して行き場を欲していたのも手伝っているが、その行動は八つ当たりに近い。
 リュックの直撃を食らい、山本は目をぱちくりさせる。
「余計に暑くなったってば!」
 怒鳴りつけ、彼を置いて歩き出す。山本が後ろから呼びかけてくるが、振り返らない。知るもんか、と足元を睨みつけてずんずんと進んでいく綱吉だったけれど。
「おーい、ツナ、プールそっちじゃないぞ」
 お気楽な調子の山本の、しかし的確な間違いの指摘に綱吉は思わずその場にしゃがみこみ、穴があったら入りたい気持ちにさせられた。