どこかで校歌が流れている。
運動会の練習の時期だったっけ? それとも卒業式か何かイベントの季節だったっけ?
まだ眠りから半分も醒めていない頭で考える。なんだっけ、この音楽。いつも歌うのに恥かしさを堪えているメロディーと少し違う気がする。
でも、間違いなくこれは並盛中の校歌だ。聞きなれたフレーズが妙に頭に残るから間違えようがない。
どこから聞こえてくるのだろう?
薄目を開ける。ぼやけた視界は白く濁っていて何も見えない。
不意に、音が止んだ。
「もしもし?」
校歌が聞こえなくなった代わりに、よく通る耳に心地よい声が響く。静かに、また眠りを呼び込む甘い声色に綱吉はうっとりと目を閉じた。
「ああ、いるよ? 寝てるけどね」
寝ている、とは自分の事だろうか。小さく衣擦れの音が聞こえて、人が近づく気配がする。優しい手が、額にかかる髪の毛をゆっくりと梳き上げていった。手は遠ざかるのかと思いきや、恐らくは近い場所に下ろされ、また別のものが近くに下りてくる風に空気が動いた。
人の気配が近く、濃くなる。
「んぅ……?」
「ああ、待って。起きそうだ」
鼻から息を漏らすと同時に唇の隙間からも吐息が零れた。少しだけ大きく聞こえるようになった声が誰かに向かって告げる。肩を軽く揺すられた。
重い瞼を少しだけ持ち上げる。やはり視界は白く濁ったままで、正常な世界は広がらない。けれど僅かな変化といえば、白い布がさっきよりも目の前に迫っていることだろうか。
そちらに手を伸ばす、片方が体の下敷きになっているので上手く動かないけれど、もう片手を伸ばして布を掴むと、それはサラサラと指の間で摺れて絡みついてきた。引き寄せようと肘を曲げると、額から頭にかけてゆっくりと撫でられた。その心地よさにまた目を閉じる。
布に顔を寄せる。間近に腰を下ろす人は困った風に息を吐いて、誰かに向けてまた言葉を放った。近くには他に人の気配がない。誰と話をしているのだろう、不思議に思えてならずまだ完全に浮上しない意識を懸命に叩いて片目を開けた。
白い布の向こうに、笑っている人の顔が見える。
「電話。出る?」
「むー……」
そう言って目の前に掌サイズの物体を近づけられた。まだぼやけている視界ではっきりと輪郭さえ捉えられずにいるけれど、どうやらそれは携帯電話らしい。通話中を示すアイコンが液晶画面で踊っている。
綱吉はいやいやと、子供がするように首を振ると瞼を下ろし、顔を伏せ、雲雀のシャツに頭を押し付けた。温かく力強い肉体が布越しに感じられ、ホッと安堵の息を吐く。お陰で雲雀が来ているシャツはすっかり皺だらけだ。
仕方が無い、という風情で雲雀が肩をすくめる。彼は持っていた自分の携帯電話を耳元に戻し、猫のように甘えて擦り寄ってくる綱吉を撫でながら電話の向こうへと語りかけた。心持ち声が柔らかいと感じられたのは、何も相手の錯覚ではないだろう。
「悪いね。お姫様はまだ眠り足りないらしいよ」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれてそんな事を言われ、綱吉は聞こえているよ、と手を伸ばした先にあった雲雀の太ももを抓った。頭の上で彼は笑い、全く効果がないことに少しばかり腹を立てて綱吉は唇を尖らせる。
けれど押し寄せてくる眠気の波には抗えず、すう、と吸った息を吐くともう指に力は入らない。綱吉の脱力具合をまた笑って、雲雀は電話の相手にまたひとこと、ふたこと付け足しているようだ。その会話までは聞こえてこない。
その代わり彼は綱吉との距離を一層狭めるよう座り直し、転がっているだけだった彼の頭を太ももの上に乗せ直してくれた。首の位置が高くなる、シャツを掴んだまま寝返りを打ち、少しだけ目を開けると真上に雲雀の顎のラインがあった。
視線は絡まない、彼はどこか遠くを見ている。それが残念で、綱吉は「ちぇ」と呟いてまた目を閉じた。
「ああ、そうだね。折角勉強を見てあげると言ったのに、これじゃ。……心配しなくても、明日にはちゃんと送り届けるよ」
いったい何の話をしているのだろう。自分が話題の中心にあると感づかないまま、綱吉はぼんやりする意識を宙に浮かせ雲雀の腰元へ腕を伸ばした。電話相手ではなくもっと自分に構って欲しくて、両手で彼の身体にしがみつく。鼻先を胸元に押し付けると、彼独特の匂いがして気持ちが昂ぶる。
雲雀は知ってか知らずか、変わらない動きで綱吉の頭を撫でてから指先を頬に這わせた。顎の輪郭をなぞり、小さく膨らんでいる喉仏をくすぐったあと、人差し指で彼の唇を小突く。
「ん……」
鼻にかかる甘い吐息とともに、綱吉は迷うことなくそれを口に咥えこんだ。舌を絡ませると、呼応して彼の細くしなやかな指先が表面をなぞり、綱吉の背筋に淡い刺激をもたらす。柔らかく暖かい肉に包まれた人差し指と、すぐに閉じようとする唇の表面を撫で転がす親指とを交互に動かしながら、雲雀は元から細い瞳を更に細めた。
ゆっくりと引き抜いた指先には唾液が糸をたらし、張力に負けて途中で千切れ散る。濡れた指でまた綱吉の唇をなぞると、それは仄明るい天井照明の光を反射して蠱惑的な艶を放ち雲雀を挑発した。
眠そうに潤む綱吉の瞳が盗み見るように雲雀を見上げ、すぐに逸らす。喉を甘く鳴らし雲雀の胸に顔を埋める。背中に回していた右腕が爪を立てて彼の背中を掻いた。左手が肩へよじ登っていく。
雲雀はまだ湿り気を残す指を己の唇にも押し当て、その背に浅く歯を立てた。奇妙な沈黙がその場を伝い、未だ通話中の電話先でも、何かを察知したのか静寂が応対する。
やがてその沈黙に飽きたのか、通話口からなにやら言葉が聞こえてきた。雲雀は綱吉に目を落とし、彼の肩を抱きかかえるように支えてやりながら携帯電話に耳を寄せる。呆れた声が電子的な処理を受け、雲雀の耳に届いた。
彼はくっ、と喉を鳴らして笑い、それに答える。
「ちゃんと送り届けてあげるよ。無事は保障しないけどね」
意味ありげに告げる。その頃にはもう、抱え上げられた綱吉は座っている雲雀の足の上に腰を置き、両手は彼の首に回して、しどけなく寄りかかっていた。時々首の角度を変えながら、まだ通話を終わらせようとしない雲雀を咎めるように肩に額を押し付けたり、背中を掻き回したりしている。
雲雀は綱吉の腰に片腕を回して支え、夢うつつのままどちらともつかない領域をしきりに往復している綱吉の耳朶を噛んだ。上下の唇で挟んだまま、舌の先で舐めあげる。
「……っぁ」
短い、けれど明らかに熱の篭る甘い声。首から背にかけて回されていた綱吉の腕が撓み、背が軽く仰け反る。崩れていきそうになる小さな身体を支え直し、雲雀は再度、電話の向こうへと挑発的な笑みを向けた。
見えてはいないだろうが、想像は出来るだろう。獣の瞳を爛々と輝かせる男の姿を。
綱吉としてみれば、眠りたいのに全身を走る熱のお陰で意識を水面下に落とすことが出来ない。いいように弄ばれて、好き勝手されてばかりなのに腹は立つのに雲雀に対してどうしてか、怒る気になれないのも困りものだった。
自然と赤くなる頬を隠し、彼の肩口へ顔を沈める。ゆっくりと息を吐くと、その熱が彼の首筋に触れた。
「分かったよ、約束は守る。じゃあ、ね」
プツッ、という電子音を残し通話はそこで一方的に打ち切られた。のろのろと顔を上げると雲雀もまた綱吉を見下ろして、口角を持ち上げて怪しい笑みをそこに浮かべる。彼の右手から、ふたつに折り畳まれた携帯電話が滑り落ちていった。
綱吉の目線だけがそれをおいかける。だが床に落下する手前で視界は覆われ、世界は暗転した。
「ん、ふっ……」
先ほど指に侵されたとは全く異なる熱が綱吉の咥内を侵食していく。甘く、そして切ない香りが彼の胸にいっぱいに広がって、夢見心地のまま目を閉ざすとあやすように背中をさすられる。
柔らかな舌に刺激され、下腹部から背中に淡い電流が駆け抜けていく。顎を抑えている雲雀の指に飲み下しきれなかった互いの唾液が滴り、息苦しく喘いだ綱吉は、しゃくりをあげる要領で喉を大きく上下させた。
親指の腹が、その窪んだ喉元から薄布一枚しか隔てるものがない胸に降りていく。前身ごろを繋いでいるボタンがひとつ、音もなく外された。続いて、もうひとつ。
「ヒバリさん……」
困った風に赤くなったまま瞳を泳がせた綱吉が、未だ焦点合わぬまま微かに呟く。耳朶を舌で撫でられて身体が竦み、落ちそうになって慌てて彼にしがみついた。
「いいよ、おやすみ」
「ん……でも」
触れるだけのキスを頬に受け、その時はうっとりと目を閉じた綱吉だったけれど、半分も開かない瞼を辛うじて持ち上げて呟くことばは、しとどに濡れて独特の色香を放っている。彼を抱きかかえる雲雀が、思わず喉を鳴らす程に。
無意識に嬌艶とした動きを作り出している綱吉の腰を片腕でしっかりと支え、雲雀は深く息を吸うと己の中にある熱と一緒に時間をかけて吐き出した。更に強く、綱吉を腕に抱え込む。
「いいよ」
おやすみ。
もう一度耳元で優しく囁いて、背中を痛くない程度に繰り返しさする。それでもまだ当惑したままの綱吉は、きっと苦しいだろう雲雀を思い、なおさら強く彼の身体にしがみつく。離さないで欲しい、引き止めて欲しい。
けれど押し寄せる睡魔は徐々に彼から冷静な思考力を奪い、瞼を閉ざし、世界を闇に包もうとする。
いいよ、とまた雲雀の声。
「夢の中まで、会いに行く」
頬に彼の体温を感じる。力強い拍動を感じる。そのぬくもりに安堵を覚える。
「だから、おやすみ」
また、後で。
囁きは波に溶け波紋を残し静かに消えた。
2006/7/26 最終アップ