水光

 ぱしゃん、と不自然に水の跳ねる音が聞こえて、足元に伸びる影ばかりを見ていた彼は顔を上げた。
 夕暮れ時の街が広がっている。なだらかな曲線を描く地表に雨後の竹の子宜しく生えた建物、その上に降り注ぐ陽光はうっすらと赤みを帯び。雲間から幾つもの筋を空に描いていた。
 ぱしゃっ、ともう一度。
 ちょうど爪先は街中を流れる幅十メートルもない川に架かる橋の半ばまで来たところ。腰丈の欄干は水色のペンキが大分剥げ落ち、一段高くなった両側の歩道も端には捨てられたゴミが目立つ。乗用車が一台、規定速度ぎりぎりで走り抜けていった。
 雲雀恭弥は夕焼けに目を細め走り去る車を無言で見送った後、水音の発生源を求めて車道よりだった自分の居場所を欄干側にずらした。歩くペースを緩めないまま、首の角度を変えて下方、即ち今は大分水嵩も減っている川へと視線を落とす。
 斜めになった橋の影が水面に落ち、日向の部分が夕日を受けて一層キラキラと眩しいまでに輝いていた。川は数年前から浄化対策が施され、最近ではその成果が上がってきているのか流れる水は一時の溝川から遥かに見違え綺麗になっている。飲むことは叶わないが、流されないよう注意すれば川辺で水遊びも可能だ。休日の午後には、のんびり釣りを楽しむ人の姿も見られるようになったから、魚も戻ってきているのかもしれない。
 川の両側には幅数メートルの河川敷が残され、市民の憩いの場所として開放されている。車道までは二メートルほどの高低差があり、梅雨時などの増水時にも対応できるよう設計されていた。犬を連れた人がのんびりと散歩をしている、その河川敷から雲雀の目は足元、ちょうど川の中央付近へと向けられた。
 川には橋以外にも、対岸へ渡れるような飛び石が設置されている。もう少し早い時間帯であれば小学生が遊びまわっていただろう場所に、人影があった。
 小柄で、遠目からだと小学生高学年かくらいにしか見えない。爆発気味の癖が強い髪の毛は明るい茶色をしていて、橋が作る影の隙間に差し込む光を受け時々透けて見えるくらいに色を薄めていた。手に片足分ずつ靴を持ち、どうやら素足で、膝の高さまで捲り上げられたズボンから覗く足が眩しい。さっきから指先をちょっとだけ水につけてはその冷たさに驚いて身を竦め、また反対の脚をそろりと伸ばしては「ひゃっ」と声を出して水から足を引き抜いている。
 水音の発生源は彼らしい。見覚えのある顔は全く雲雀の存在に気付く事無く、何がしたいのか水と戯れている。少しだけ目線を横にずらすと、河川敷の水際に肩から吊り下げるタイプの鞄が転がっていた。彼のものだろう。
 時期的にもう長期休暇に入っているのに制服姿なことから、恐らくは補習授業を受けた帰り。この場所は学校と彼の自宅をつなぐ最短経路にはないはずで、退屈な授業を終えてからの気ままな寄り道といったところか。
 他に学生の姿はない。散歩途中の老夫婦が、仲睦まじく河川敷を談笑しながらのんびりと歩いているだけだ。ジョギング中の青年がそのふたりの横を走り抜けていく。誰一人、川で遊んでいる少年にも、橋の途中で立ち止まり、錆びた臭いのする欄干に凭れかかるように立つ青年にも気を留めない。
 雲雀は手にしていた缶コーヒーを揺らした。親指、人差し指、そして中指の三本だけで上辺を支えられている缶は、底の方を大きく揺らして中身を波立たせた。まだ半分ほど残っているのだろうか、手首にかかる負荷もそれなりに大きい。
 彼はそれをゆったりとした動作で持ち上げると、人差し指だけを外し出来上がった空間に口を寄せた。器用に肘を捻って缶を傾け、冷たさの残る黒色の液体を喉に流し込む。二度喉を鳴らしてから缶を遠ざけ、空いている手で口元を拭うとそのまま脇には垂らさず、欄干の残っている青いペンキの上に両肘を置いた。
 そうして、顔を真下に向ける。
「なに、やってるの」
 問いかけるというよりは淡々と語りかける口調で、雲雀は不躾に、川で遊んでいる、少年と青年が入れ替わるちょうど中間地点にある微妙な年頃の彼に声をかけた。
 声をかけられた方としては、まさか頭上から喋りかけられるとは予想しておらず、「え?」と目を丸くして慌てて首を逸らして顔を上向ける。しかし唐突の動きは出しかけていた足とのバランスが崩す原因となり、飛び石の縁で片足立ちを強いられてしまった。
 上半身が前へ傾いだかと思えば、倒れないようにと懸命に踏みとどまり、今度は背中を逸らせて後方へ体重が移動する。するとまた後ろ向きに倒れかけて、両手を大きく広げながら懸命にやじろべえ宜しくバランスを取り戻そうと頑張ったが、所詮は無駄な足掻き。
「う、うあぁ!」
 甲高い、とはちょっと違う悲鳴を残し、彼は手にしていた靴ごと川の中に転落した。二秒後には水しぶきを上げ、膝の高さまでもない川面にしゃがみこむ。
「いったー!」
 どこか誰かを非難する色を含んだ声で叫び、彼はぶるっ、と大きく体を震わせた。そうすることで表面に散った水はどこかへ飛んでいったが、座り込んでいることで下半身はほぼずぶ濡れ。手放した靴も少し流された位置で岩に引っかかり、内側まで水を含んで漂っていた。
 そんな彼を驚きの表情で見守っていた雲雀は、数秒後堪えきれずぷっ、と口元に手をやって噴出した。
「なに、やってるのさ」
 笑いを押し殺しながらでも、声が震えているので笑っているのは伝わったのだろう。濡れて垂れ下がってきた前髪を梳き上げた彼は、立ち上がりもせずに両手を振り上げ、本当に真上にある雲雀の顔を思い切り睨んだ。
「もー、ヒバリさんってば、ヒドイですよ!」
 倒れた時に川底の石に何処かぶつけたのだろう、痛みから涙目になっている沢田綱吉が、子犬の如くきゃんきゃんと吼える。雲雀はそれを見下ろしてまた一際大きく笑いながら、肘を欄干から下ろした。缶コーヒーを持ったまま、軽い足取りで橋を渡りきり東側の河川敷へと降りていく。
 綱吉はその間ずっと、川の冷たい水に濡れてしゃがみこんでいた。不貞腐れていた、とも言い換えられる。
「風邪ひきたいの?」
 軽い身のこなしで飛び石を半分飛び越え、綱吉が落ちた場所にたどり着いた彼はまだ水の中の綱吉に呆れた声で言った。彼が立っている石は、綱吉が落ちた時に立った水しぶきを浴びたのだろう、半分ほど濡れている。
 腰から下、あとは太ももと爪先だけが水に浸かった状態の綱吉は、間近に現れた雲雀を恨めしげにひと睨みしてから漸くのろのろと体を起こし、振り返って自分の履いていたスニーカーを探し出す。左右どちらも別の場所で浮かんでいる、幸いにもさして遠くまで行っていなかった。
 綱吉はじゃばじゃばと荒っぽく水音を響かせながら川の中を歩き、時々苔でも生えているのか岩に滑って転びそうになりながら靴を拾い上げて戻ってきた。つま先部分を抓んで逆さ向きにすると、中に流れ込んでいた水が塊になって落ちていった。
「あー、もう。びしょ濡れ!」
 腹立たしいのか、両手に持った靴の底をぶつけ合わせ綱吉は叫んだ。小刻みに肩が震えているのは、寒いからと怒りからと、両方まぜこぜだろう。
 対する雲雀は涼やかな顔をしており、綱吉がこうなったのが自分の責任だとは全く感じていない様子。それが却って綱吉に苛立ちを募らせ、いっそこの男を突き飛ばして自分と同じ目に遭わせてやろうかと考えもする。
 だが暫くそうやって水の中に突っ立っていた綱吉は、ふとある違和感を感じ取って急に目を丸くした。数回信じられないと瞬きを繰り返し、最終的には自分の太ももを抓ったりもする。ちゃんと痛い、現実だと呟く声を聞き、雲雀は顔を顰めた。
「なに」
「いえ……」
 それはごく当たり前の事だった。綱吉だって家に帰れば制服から私服に着替える。ましてや今はもう終業式も終わり、夏休みに突入している。綱吉は成績が悪すぎて補習を命じられている為制服だが、雲雀はそんなわけもなく。
 折り目正しい濃紺のストレートパンツに、派手さを感じさせないプリントTシャツ。制服の時はいつだってシャツの裾はズボンの中に入れている彼だけれど、今日は私服だからかシャツの裾はズボンの上に被さっていた。それがとても新鮮に映る。
 左手にはブレスレットタイプの腕時計をして、銀色のそれが西日を受けて時折眩しい。黒髪は若干毛先に跳ねが残っているのも印象的だ。右の中指には、獄寺がよくつけている程派手でごつくはないが、男性の色香を際立たせるに十分な役目を持つシルバーの指輪が嵌められていた。その指が、黒一色に白抜きカラーの缶コーヒーを握っている。
 ぽかんと間抜けに口を開けている綱吉の顔を怪訝に見下ろし、雲雀はもう一度「なに?」と繰り返した。片眉が上がっている、不機嫌になる前触れだ。
 綱吉は咄嗟に我に返り、大慌てで首を振った。
「いえっ、その、ヒバリさんが私服だなんて珍しいからそのっ」
 決して吃驚していたとかそんなわけではなく、といわなくていいところまで言ってしまって、綱吉は自分の失態に気付き即座に後悔した。一方の雲雀は数回瞬きをしてから改めて自分の服装をまじまじと見詰める。
「変?」
「いえ……でもいつも、制服ばっかりだったから」
 問われ、綱吉は息を呑んでから慎重に言葉を選んで返した。何故か真正面から見詰め返せないのは、照れが入っているからだろうか。滅多に見ることのない雲雀の私服姿は、元々年上の彼をより年嵩に見せていた。対する自分の小ささが際立つようで、綱吉は恥かしくなる。
 同じ中学の制服を着ている間は、同じ土俵にたつことが出来る。しかしいざ一歩でも学校の外に出てしまうと、そこからは個人主義。考えてみれば綱吉の知る雲雀は制服姿が当たり前すぎて、私服がどんなものか想像もしたことがなかった。
 だから余計に、面食らっている。
「ああ。今は、休みだから」
 しかし綱吉の戸惑いを正確に理解せぬまま雲雀はそう相槌を返し、徐に右手を伸ばして綱吉に差し出した。
「風邪を引く。いくら夏だからって、身体に悪い」
 つかまれ、ということらしい。しかし綱吉は自分の立ち位置と格好を思い出し、躊躇する。
 上半身は跳ねた水を軽く被っただけで済んだが、下半身はそうではない。特に水に浸かっていた腰の辺りと踝から下部分はずぶ濡れで、更に腰付近に染み込んだ水が重力に導かれて無事だった部分にまで占有面積を広げつつあった。綱吉のスラックスは元の色からかなり濃い色に変色していて、斑模様が肌に直接張り付いている。
「でも……」
「でも、じゃない」
「ヒバリさんまで、濡れちゃいます」
「いいよ」
 早くしないと無理やり引っ張り上げるよ、とまで言われて綱吉はしぶしぶ彼の手を取った。強く握られた瞬間、肩が抜けそうなまでに水から引き上げられた。なんだか一本釣りされた鰹の気分だと、運ばれていく最中考える。
 だがそうしていられたのも一瞬だけで、狭い飛び石の上に男ふたりが並ぶのは流石に無理がある。雲雀は落ちないよう両足で踏ん張り、凭れ掛かって来る綱吉を身体全体で受け止めた。踵が僅かにぶれて石からはみ出したが、それも一部だけ。
 ただ、雲雀が持ったままだった缶コーヒーが飛び石の上に落ち、底をぶつけて小さく音を響かせた後水柱をあげて水面に消えた。しまった、と雲雀の表情が険しくなる。綱吉もまた、雲雀の胸に顔を預けながら横目で落ちていく缶の行方を見ていた。
 まだ中身が残っていて、飲み口から黒い液体が飛び出していく様がスローモーションとなって視界に焼き付けられる。軽いものには容赦ない川の流れはあっという間に飲みかけの缶を押し流し、すぐにふたりの見える範囲から消し去ってしまった。
「参ったね」
 心底困った風に呟き、雲雀は片手で綱吉の腰辺りを支えながらもう片手で前髪を梳き上げる。彼の涼やかな瞳は、下流へ押し流された空き缶を探しているのだろう。けれど物理的にそれは不可能に近く、意図せずして不法投棄に手を貸してしまった自分を悔いている感じだ。
 その原因になってしまった綱吉は、穴があったら入りたい気持ちいっぱいで他にどうすることも出来ず、無言で雲雀にしがみついていた。ぎゅっ、と彼の背中に両手を回し、湿っぽいスラックスが彼のズボンを濡らすのも構わず雲雀の胸に顔を埋める。
 ごめんなさい、と呟いたのは聞こえただろうか。ややしてから、降りてきた雲雀の左手が綱吉の背中をぽんぽん、と叩く。子供を宥める仕草に似たそれに顔を上げると、ちょうど河川敷を歩いていた大型犬を連れた女性がしっかりこちらを見ているのが見て取れた。
 綱吉が顔を上げたと分かると、咄嗟に視線を逸らしそそくさと立ち去っていく。綱吉は自分の顔が真っ赤になっていくのが分かって、しかも頭の上では雲雀が楽しげにクスクスと笑みを零している。
 彼は知っていたのだ、通りがかる人々が物珍しげに見詰めていたことに。むしろそれは当然のこと、だって此処は河川敷に挟まれた飛び石の真ん中。公の場所なのだから、一般の人が通り過ぎるのも当たり前であって。
 たとえ十数秒間であってもその現実を忘れていた綱吉は、かーっと全身の体温が上昇するのを感じた。夏だから、と言う単純な理由ではない汗が背中を伝う。雲雀はまだ、笑っている。
「ひどいですよ、ヒバリさん。知ってたんなら教えてくれてもいいのに!」
「教えてあげたじゃない、ちゃんと」
「もっと前から教えてくださいってば!」
 まだ腰を抱えられているので、ぽかすかと両手を動かして雲雀の背中を痛くない程度に叩き回す。しかしそうすればする程雲雀の拘束は強まり、挙句彼はずっと笑いっ放しだ。いい加減放して欲しいのに許されなくて、綱吉は真っ赤になりながら子供のように地団太を踏む。
 放してください、と懇願すると今度は「ダメ」と切り替えされて、ぐうの音も出ない。
「暴れると、落ちるよ」
「良いです、落ちても」
 どうせもうとっくにびしょ濡れなのだから、もう一度水に落ちることなどどうってこともない。頬を膨らませて唇を尖らせた綱吉に、雲雀は少しだけ表情から笑みを消した。気配を悟り、綱吉も彼の背を叩く手を止める。ただ、行き場がないままなので仕方なしに、シャツの裾を抓んで伸びてしまえ、と引っ張ってやる。
「それは、だめ」
「なんでですか」
「綱吉だけが落ちるのは、ダメ」
 ぶすっとしたまま聞き返すと、真剣な声が耳元に響いた。肩口に降りてきた雲雀の顔が、綱吉の鎖骨に顎を預けて横を向く。瞳を見える範囲まで横に寄せて、苦しいなと感じるまでに首の表皮を突っ張らせる。
 唾を飲むと、その動きがダイレクトに伝わったのだろうか。雲雀は顎をずらして額を綱吉の肩にこすりつけた。
 背中を両手で抱きしめられる。
「落ちるときは、一緒だ」
 掠れるような、けれどしっかりと綱吉の耳に響いた声に全身の血液が沸騰しそうだ。
「綱吉、顔が赤い」
「夕日が反射してるだけです!」
「本当に?」
「本当です!」
 だからいい加減放して。両手を突っぱねて雲雀を押しのけようとするが、元から腕力で叶わない綱吉の抵抗などあまり意味がない。それでも叫びながら暴れていると雲雀も多少は怯まざるを得ず、位置取りをやり直そうと両足を動かした直後に綱吉の膝が雲雀の際どい部分を掠める。息を呑んだ雲雀が中途半端な状態でぴたりと動きを止めた。
 本人は意図しない行動だっただろうが、一瞬顔を険しくした雲雀が何かを言う前に、膝頭が危うい場所を蹴り上げる寸前だったと気付いた綱吉ははっとして、咄嗟に違う、と口走る。
 ただ、既に遅い。
「う、あ、あー!」
 みっともない悲鳴を上げて綱吉は雲雀に殊更強くしがみついた。後ろ向きに、既に踵が浮いた状態であった雲雀はそれ以上堪え忍びきれずぐらりと身体を揺らし、胸に抱えた綱吉ごと真っ逆さまに川へと転落した。
 一際大きな水柱があがり、子供同士がじゃれあって微笑ましいと見守っていた通行人も、驚いた顔で互いを見つめ合った。
「ぶはっ」
 大きく息を吐いて雲雀が水面から顔を出す。僅かに遅れて綱吉がその胸元から頭を出した。背中から落ちたお陰で雲雀もほぼ全身水浸しで、綱吉は乾きかけていた服を更に水で濡らした。黒い毛並みの雲雀が顔全体に水を滴らせ、ぶすっとした顔をする。
 ただ、先に噴き出したのは、綱吉で。
「本当にっ、一緒に落ち……あは、あはははっ」
 不機嫌に顔を歪めているくせに、全身ずぶ濡れのお陰で格好が付かない雲雀が可笑しくて、綱吉は腹を抱えて笑い出した。手でばしゃばしゃと水面を叩き、水しぶきを飛ばしながら涙まで流して、本当に心の底から可笑しいと言って笑っている。
 そんな彼を前にして、いつまでも不機嫌のままでいるわけにいかない雲雀もまた、くしゃりと前髪を掻き上げて表情を緩めた。やれやれ、と肩を竦める。
「水も滴ると言うし?」
「滴るっていうより、もうぐしょぐしょ?」
 お腹痛い、と悶絶寸前まで行っている綱吉につられて笑い、雲雀は両手を水底に置いて一度空を仰いだ。
 夕日が間もなく西の空に沈む。間延びした赤い色が雲を鮮やかに染め上げ、東の天頂からは藍色の手が空一面を覆い尽くそうと蠢いていた。
 水に映る光もまた、柔らかく弱々しいものになろうとしている。くしゅん、と雲雀の前方で綱吉のくしゃみが聞こえた。
「風邪を、ひく」
 立つように促し、雲雀もまた身体を起こした。水がざぁっと音を立てて遠ざかり、一緒に体温も奪われて鳥肌が立った。もう一度髪の毛を掻き上げて頭を振り、さてどうしようか、と唇だけを動かし呟く。遠目に、河原で置き去りにされたままの綱吉の鞄が見えた。
 振り返ると両手で身体を抱きしめた小柄な青年が、茶色の髪の毛を水で重そうに垂らしている。
「僕の家に寄っていきな。そのまま帰るわけにはいかないだろう」
 君の家よりは近いしね、と囁くと綱吉は一寸驚いた顔をして、返事に窮したまま雲雀の顔をじっと見つめた。その頬が、夕焼けが薄くなった今でもまだ赤い。
「どうする?」
 手を伸ばし、彼の色味の薄れた唇に人差し指で触れる。小突くように動かすと、我に返った彼は何を想像したのか、更に顔を赤めて俯いた。クスクスと雲雀が悪戯っぽく笑う。
「た……タオル借りるだけですから!」
「いいよ、おいで」
 良いようにからかわれているのだと気付いて、綱吉は怒鳴っている自分が恥ずかしくなった。飛び石に戻った雲雀は濡れた足跡を表面に残しながら川岸へ向かって既に歩き出しており、その場に立ち惚けていた綱吉もまた、慌てて駆け出す。
 川面で水が跳ね、光が飛び散りキラキラとまるで宝石箱の中を歩いているようだ。
 川岸にたどり着いて、綱吉はふと後ろを振り返る。ふたり分の足跡が残る飛び石も、近いうちに表面が乾いてふたりが歩いた痕は消えてなくなってしまう。
「綱吉?」
 どうしたの、と人の鞄を勝手に肩に担いだ雲雀が呼ぶ。なんでもないです、と首を振り綱吉は彼に並んで歩き出した。ずぶ濡れではあったけれど、不思議と彼と歩いていると寒さを感じない。
 心の何処かで、ほんのりと淡く光る暖かさ。

 それは水辺に輝く日の光にも似て。