苛々

苛々(言いわけも忘れてる)

 本日は快晴なり。
 そういう表現がぴったりと当てはまる、燦々と照り注ぐ日差しを恨めしげに見上げ、元から細い目を一層細め舌打ちをひとつ。
 雲雀恭弥は不機嫌だった。
 目が覚めた時刻は既に、世間的に学校で一時間目の授業が開始されている頃だった。壁に吊るした時計をむっつりと睨んで、役立たずと罵ったところで仕方がない。中学全体の規範であり遅刻者は許すまじの立場たる風紀委員長としては珍しい失態だった。自分で自覚しているだけに、余計に腹立たしい。
 手早く準備を整え、髪に櫛を通してネクタイをきちんと締める。両手で掴んで左右バランスが崩れていないかを鏡に映る自分で確認して、彼は自分の顔色が平素と比べて若干悪いことに気がついた。
 そもそも寝坊した原因は何であるか。単純である、夢見が悪かったのだ。
 具体的にどんな夢であったかは覚えていない、意識が覚醒し天井が視界いっぱいに広がった瞬間、全ては押し寄せる現実という荒波に飲まれて彼方へと押し流されてしまった。だから薄ぼんやりとしか覚えていない、しかし寝汗をびっしょりとかく程の悪夢は彼の機嫌を著しく損ねさせた。
 顔色が悪いのは、夢の所為で熟睡とまで行かず、前日の疲れが若干残ってしまっているからと思われる。自分の顔なのに気に入らないと不機嫌に顔を歪めた彼は、つい力を入れすぎて櫛が絡んでいた毛先を強引に引っ張った。鈍い痛みが頭皮に走り、顔の前に櫛を持っていくと黒髪が二本程そこにまとわりついていた。
 益々苛立ちが募る。なんなのだろう、今日は随分と色々巡りが悪い。
 櫛を置き、蛇口を捻って乱暴な手つきで顔を洗った。飛び散った雫が鏡を濡らし、長く伸びた前髪を湿らせた。手首の外側で鼻の下を擦って左手を伸ばしタオルを掴む、水気だけを吸い取らせたそれを投げ捨てて足早にその場を後にした。
 苛々する。理由の無い怒りとも焦燥感ともいえない何かが、彼の胸の奥で小さな漁火となって遠巻きに彼を眺めているようだった。
 靴を履き、外へ出る。既に頭上高い太陽のお陰で気温も上昇気味、濡れた前髪も気がつけばすぐに乾いていた。薄っぺらな鞄を脇に挟んで持ち、通行人も少ない道をゆったりとした歩調で歩いて学校へと向かう。当然だが中学生が登校するような時間はとっくに過ぎているので、彼の姿を見て顔を顰める主婦も何人か見受けられた。
 しかしいずれもが遠巻きに彼を眺めるだけで、面と向かって注意や苦言を呈そうとするお節介は世の中に存在しないらしい。
 授業もろくに受けていないのだから学校に行く意味はあるのか。一瞬そういう考えが雲雀の頭を過ぎったけれど、左腕の袖に回した腕章を思い出して頭を振った。行く意味はある、あの中学は自分の王国であり自分はその王国を守る義務があるのだ。
 だからどれほど遅れようとも学校へは出向く。あそこへ行けばこの、息が苦しくなるようなまでの苛々は治まるだろうと勝手に決め付けて、途中からは段々と急ぎ足になっていた。
 学校の正門が道の遠くに見えるようになった頃、頭の上随分高い位置を聞きなれたチャイムが流れていった。時計を見ると二時間目の授業が終わった合図らしい。何気なく学校の方を窺って視線を向けると、校舎の壁面に並ぶ窓が幾つか開放されて外気を招き入れているのが分かった。
 正門を曲がり、グラウンドに足を踏み入れる。次は体育らしい生徒が何人か、授業の準備を始めている姿が目に飛び込んでくる。短い休憩時間を謳歌しているのか、学校全体が浮き足立つような騒がしさだった。
「……」
 自然、眉間に皺が寄り表情が険しくなっていくのが自分でも分かる。何故だろう、どうして今日は普段感じないのにこうも苛々しているのか。
 時折地表を撫でるような風が吹き、校庭の端に植えられた木々がざわめきを起こして去っていく。舞い上がった砂埃は雲雀の靴を薄らと汚し、爪先が触れた小石が想像以上に遠くへと飛ばされて行った。
 グラウンドに石が落ちている。たったそれだけのとても些細な事にさえ胸がむかむかする。自分はこんなにも度量の小さい人間だっただろうか、自問しても答えは闇の中、藪の中だ。機嫌が悪いのがオーラになって周囲にも分かるのだろう、いつも以上にすれ違う生徒は彼を大きく避けていく。
 それまで騒いでいた生徒たちも、雲雀が近づいてくるに従って声を潜め、体を小さくしながら離れていく。モーセが海を左右に割り開いたかのようだ。
 そういった、なんにでも群れて他人に押し流されやすい人間にも腹が立つ。気分が悪い、視界から消えてしまえ。
 稀に見る悪態をつきながら雲雀はゆっくりと校庭の端を進む。頭上を風に弄られた木々がざわめき、彼の登校を知らない生徒たちの声が校舎の窓から響き渡る。外にいた時は学校に来るのをあんなにも焦がれたのに、今は自分がこの学校で唯一浮き上がった存在のように感じられてならなかった。
 雲雀は知らず、奥歯を噛んだ。
 授業と授業の合間の、僅かばかりの休憩時間が終わりを迎える。そんなにもゆっくりと歩いていた自分に気付き愕然としながら、雲雀は流れて行くチャイムの音色に耳を澄ませ風の中、静かに顔を上げた。
 幾つも並んでいる窓、瞳を細めるとそのひとつひとつが見えるようだ。もう授業が開始されるので、先ほどまでの細波立つような喧騒は徐々に成りを潜め始めている。誰もが窓の外を歩く雲雀になど気にも留めず、自分の世界に没頭するのだろう。
 やはり自分はこの世界でひとり、孤独なのだろうか。寂しいとは感じなかったが、曖昧な虚しさとも言える感情が風と共に雲雀の心を駆け抜けていく。虚ろに開いた瞳の前で、黒髪が左右に定まる事無く揺れ続けている。
 こんなに沢山の人間が世の中にはいるのに、誰一人として自分と真正面から目を向け合わせようとしない。それが彼の孤独を助長させているのだと、本人ですら気付いていない。また或いは、ほんの一握りの人間でしかないけれど、彼の強く鋭い視線を真剣に受け止め、打ち返してくれる相手がいることにも。
 黒髪の間で景色が揺れている。誰一人雲雀を気にする様子もなく、壁一枚を隔てた先の世界はとても遠い。だのに。
 不意に。
 視線を、感じたのだ。
 ――誰?
 何故そう思ったのか。
 どうしてその視線に気付いたのか。
 雲雀自身、分からなかった。
 けれど誰かが自分を見ていて、その視線が痛いくらいに悲しいように思われて、吸い寄せられるままに、雲雀は視線の主を探していた。
 僅かに開いた唇から息を吸い、飲み込む。瞬間、吐き出すのも忘れた二酸化炭素と一緒に心臓も止まるような衝動に駆られる。
 遠く、校舎の開かれた窓のひとつ。豆粒よりも小さな姿に、薄茶色の柔らかそうな髪の大きく見開かれた瞳と、――視線が、合った。
 驚きに目を見張る。本当に目があったかどうかなんて、この距離だから分かるわけがない。相手が誰であるか見分けるのさえ骨が折れるのに、雲雀はあの窓辺に佇む少年が誰であるか、瞬間的に、正確に理解した。
 脳裏にフラッシュバックする、強烈なまでの個性と瞳の力強さ。
 雲雀が大嫌いな、弱いもの同士で群れているくせに、時折顔を覗かせる全てのものが敵だと言わんばかりの激しさ。弱いくせに強くて、強いと思わせておいて、実際は弱い。その浮き沈みの激しさに、雲雀でさえ翻弄される事もしばしばで。
 名前を、なんといったか。
「……沢田……」
 誰かに呼ばれたのか、彼は目が合った直後に視線を逸らし教室内部に向き直って窓辺から姿を消した。
 ゾッとするような、低い地鳴りを思わせる衝動が雲雀の頭の上から爪先まで貫いていく。一瞬消えかけた苛立ちが、今度は倍増して彼の心臓の動きを速めさせた。ドッドッ、と波打つ音が鼓膜を破き、外まで響いていくようでもある。
 よろめくように、雲雀は休めかけていた足を動かした。ジッとして立っているのが困難で、歩いていなければその場で崩れ落ちてしまいそう。瞬間的に駆け抜けていった衝撃の原因も分からず、けれど遠目でありながらはっきりと知覚した、零れ落ちそうなまでに大きな瞳が脳裏に焼き付けられ、離れない。
「綱吉……?」
 名前を呼ぶ。確か、そんな名前だったはずだ。クラスメイトや仲間からは違う呼び方、愛称でいつも返事をしているようだけれど、本来それは彼の名前ではない。だから、雲雀にとって彼は、沢田綱吉。
 喉がカラカラに渇いている、今の数秒間だけで全身の水分が干乾びてしまった気分になる。しかし水を飲んだところで、この渇きはきっと癒える事は無い。何かに焦がれ、追い求めているのにそれが分からなくて、雲雀は段々と早足になりながら荒くなった呼吸を懸命に整える。
 苛々が募る。何なのか、この腹立たしいまでの苛立ちは。
 時間が過ぎれば治まるのか。消えるのか。それすらも見えなくて、雲雀は応接室のドアを開けると、閉めると同時に飛び込むように鞄と一緒にソファへと体を投げ出した。
 目を閉じればきっと忘れる、この感覚も消えうせる。微かな期待を込めて祈るように目を閉じた。頬に触れる革の感触が冷たく、心地よい。程なくして浅い眠りが呼び寄せられる。
 それでも尚、瞼の裏に消えない瞳がある。
 苛々する。あの縋るような小動物の瞳は嫌いなのに、時折、ほんの一瞬だけ垣間見える、底知れぬ、どれほど強大な相手さえも呑み込んでしまう圧倒的な瞳の強さに、心ゆすぶられる。あの瞳に気圧された自分に呆然とし、その瞳に心躍っている自分を自覚する。
「さわだ、つなよし……」
 舌の上で転がした名前は、飴玉のように甘い。
 息と一緒に呑み込むと、少しだけ苛立ちが和らいだ気がした。
 

 目が覚めた。否、起こされた。
 遠慮がちにドアをノックする音と、控えめな音量で名前を呼ぶ声に目を開ける。窓から差し込む光の眩しさでまた目を閉じるが、首を振りながら顔を上げると枕にしていた腕にソファの型が出来上がっていた。額に手をやり、体を起こしてまた頭を振る。まだ現実感が遠い頭では、視界に入った時計の文字盤が指し示す時間を理解するまで数秒必要だった。
 昼休みだ。
 今日はよく眠る日だ、自分に呆れながら欠伸をかみ殺す。腕を真っ直ぐ上に伸ばして左手を頭の後ろで曲げる、肘を掴むと背骨が一回大きく鳴った。
「雲雀さん、いらっしゃいますか」
「うん、いる」
 愛想の無い口調で短く返すと、音を立てないように注意深く扉が開かれて、向こう側から風紀委員の制服を着た男子生徒が姿を現す。一様に心配そうな顔をしているのは、今朝から一度も彼らに姿を見せていなかったからだろうか。
 普段から群れるなと、あれほど強く言ってあるのに。
「なに?」
 息苦しさからか、無意識に緩めていたネクタイを締め直しつつ問いかける。彼らの顔は見ない、名前すら覚えていないメンバーに興味は無くて、雲雀は再度欠伸をして目尻を擦った。雲雀に問われた方は少し狼狽気味に、互いの顔を見合わせてお前が言え、と相手の肩を小突きあっている。
 寝起きでなければ今すぐに殴り倒してやるのに。荒んだ雲雀のオーラに気付いたのか、彼らは慌てて姿勢を正して雲雀に向き直った。直立不動で胸を反らし、横並びになって応援団の声援よろしく声を張り上げる。
「本日、お姿が見えませんでしたので、お迎えにあがりました!」
 自分は彼らの保護者ではないのに、なんとまあ甘えたことばだろう。生温い、と殴り飛ばしてやろうか考えたものの、寝起きの怠さが先立って気分が乗らない。どうでもいい、という投げやりな気持ちが専攻して、額を抑えたまま扉前で仁王立ちのふたりをねめつける。
 多少臆した風に彼らは体を震わせた。馬鹿馬鹿しい、見下す視線に気付いてかふたりは揃って雲雀から目を逸らす。
 こいつらも、弱い。
 雲雀は立ち上がった。履きっ放しだった靴で床に立ち、もう一度伸びをする。上機嫌とまではいかないが、雲雀を動かすのに成功した二人は、明らかに安堵と分かる表情で息を吐く。肩の荷が下りたという素振りに、彼らの苦労が窺い知れた。
 彼らも怖いのだ、雲雀が。彼は自分たちの上に立つ人物であり、ひいては並盛中学全体のトップに立つ人物でもある。しかし彼の考えが全て周囲に知れているわけではない、ただ恐怖政治を敷くだけの存在だと思っている人物も実際多い。
 扱いあぐねている、そんな感じだ。
「それで? どこに連れて行ってくれるの?」
 腕を下ろして肩を鳴らす。雲雀の静かな問いかけに、再度顔を見合わせた風紀委員は敬礼のポーズをとりながら、一度風紀委員室へ顔を出すように願い出た。今朝の報告がしたいという、副委員長の意思だろう。
 仕方ない、行かなければ小言が五月蝿い。肩を竦めて雲雀は歩を進めた。若干呆気に取られている男子生徒の間を、強引に割り込む格好で外に出る。眺めるように見送っていたふたりは、雲雀がドアを閉めようとするので慌ててそれを阻止し、廊下に転がり出た。雲雀だけを行かせるわけにはいかない、とでも言いたげに、媚び諂う目でドアを閉める。そして先に立って歩き出した。
 明らかに不機嫌に雲雀の眉が歪む。への字に曲がった口元と、表情は険しい。しかし彼に背中を向けるふたり組は全く気付かず、兎に角雲雀を連れ出すのに成功したのが嬉しいのがズンズンと先を行く。
 体格もよく、見た目も厳つい彼らは着ている服装もこの季節にあるまじき長ランなので、半袖開襟シャツ姿が当たり前の学内では否応なしに目立つ。他人を圧倒する姿に、風紀委員という肩書きも手伝って、休憩時間中で人も多い廊下にも関わらず彼らの姿を認めると生徒たちは一斉に左右に道を譲った。
 後ろを数歩遅れて雲雀がそれに続く。しかし彼はそうやってゴミのように片寄せあって群がっている生徒たちにも、ましてや雲雀の権限を笠に着て威張り散らしている軟弱な風紀委員にも興味が無い。どうでもいい、という気持ちのまま彼は視線を窓の外に流した。
 日差しは相変わらず強く、眩しい。鬱陶しいくらいの太陽の陽気さに辟易しながら、ぼんやりと雲雀は意識を遠くへ飛ばした。ざわざわと低い位置で波立っている心を持て余しているとも言える。なんとも言葉で表しようがない感情が、彼の神経を苛立たせていた。
 木の葉の隙間から漏れる光が眩しくて、目を細める。その鋭さが何かに似ていると感じて、なんだっただろうかと記憶の糸を解きほぐす。乱雑に乱れた結び目から零れ落ちたのは、握れば容易く壊れそうなのに、最後の最後まで抗うのをやめない芯の強さを秘めた相貌。
 ざわり、と。
 雲雀の肌を撫でる、身震いを伴う高揚にも似た感覚に彼は意識を浮き上がらせる。全身から静電気がおきているようで、それは何か見えない糸となり彼をある方向へ引き寄せる。不意に、彼は視線を窓から逸らした。
 ゆっくりと、非常にゆっくりと、斜めに振れていた首の向きを真正面に、そして左前方に向かってずらしていく。一変する視界、学生服の背中を通り越した先を見据え、雲雀の細い目が僅かに開かれた。
 歩いてくる、ふたりの男子生徒。次が体育なのだろうか、白い半袖の体操服に黒の短パン姿。じゃれあうように語らいあっていた彼らだったが、先を歩く生徒が雲雀たちに気付いて急に顔を顰めた。足を止めて腕を伸ばし、後ろを進む小柄な生徒を庇うように立ちはだかる。
 敵意剥き出しの視線は挑発的。見覚えのある顔の敵愾心に、雲雀は表情を険しくさせた。だが。
「山本?」
 聞こえてきた小さな声に、瞬間的に雲雀の心臓が跳ねた。同時に動揺を周囲に悟られぬよう、勤めて平静を装い、足を動かし続ける。大丈夫誰も気付いていない、そんな事を頭のどこかで誰かが囁いている。背中を生温い汗が一滴流れて行った。
 顔を突き合わせている女生徒の横を抜ける。ひそひそ話し合う声がするが内容までは聞き取れない、否、耳に入ってこないまま雑音として処理されてしまった。まるでこの空間の、自分と彼とがいる場所だけ切り取られたような錯覚に陥る。
 遅れて雲雀の存在に気付いた小柄な少年もまた、雲雀を見た。
 視線が――――絡む。
 今度こそ確実に、目が合う。
 グラウンドと校舎の窓という隔たれた距離ではない、腕を伸ばせばその細い肩に手が届くくらいの近さに、雲雀は眩暈がした。しかしふたりの間には邪魔するように背の高い、確か野球部だったか、生徒が割り込んで雲雀を牽制している。山本と呼ばれていたから、多分そんな名前なのだろう。興味は無いけれど、意識の片隅に刻み込む。
 邪魔だな、とそんな風に思った。
 瞬きを、それから一瞬忘れていた呼吸を。肺に流れ込んできた空気の冷たさにハッとして、山本の背に庇われている小さな姿に改めて見入る。
 何故、目を、逸らさないのか。
 何故、目を、逸らせないのか。
 雑音入り乱れる学内の廊下で、ふたりの視線がスローモーションで重なり合う。廊下ですれ違う、偶然の産物でしかない出来事に、しかし雲雀の心が妙に沸き立っているのを彼自身自覚していた。理由もなく、意味も無いのに胸が高鳴っている。
 大抵の人間は雲雀の、普段から愛想悪い目つきに見つめられると、睨まれていると思えるのだろう、向こう側が先に怖がって顔を逸らす。だから雲雀は誰かとジッと顔を突きつけあって話す機会があまりない。風紀委員内部でも、その状況はあまり変わらない。ましてや学内で、雲雀の評判が知れ渡っている場所で、彼と正面切って向き合おうなどという大それた気概の持ち主など皆無に等しく。
 それ故に、新鮮だった。純粋な驚きでもあった。
 すれ違う瞬間、真横に並んだ瞬間、お互い不自然なまでに首を横向けて相手の顔を見詰めていた。誰かが気付いただろうか、変に思いやしなかっただろうか。歩は進み続ける、油断すれば今すぐに立ち止まってしまいそうだった。
 歩き続ける、もうこれ以上は曲がらないという位置まで首を捻って、鼻先を掠めた微かな他人の匂いに意識がぶれた。先に視線を逸らしたのは、雲雀。そうしなければ本当に足を止めなければならず、けれどそれは彼の高すぎるプライドが許さなかった。だから歩き続ける、この場から立ち去ろうとする。後ろ髪を引かれる思い、という表現がここまでぴったり合致したのは人生で初めてだ。
 雲雀の中にある確固たる何かが、音を立てて崩れていく。
「ごめっ、授業始まっちゃうよね。急ごう」
 背中から聞こえた、明るい弾んだ声。そのことばは自分に向けられたものではない、そんな事分かりきっているのに心臓が落ち着かない。どうしてあそこに立っているのが自分ではないのか、湧き上がってきた苛立ちに気付き、直後「え?」と自分自身が信じられず愕然とする。
 今自分は、何を想像した?
 無意識に持ち上がった手が口元を覆っている。頬に僅かな朱が差していることは、間もなく鳴り響いた予鈴に周囲がせかされたお陰で、幸いにも誰かに気付かれずに済んだ。
 雲雀は今度こそ足を止めた。前を行く二人連れはそうとも知らず、どんどん先へ進んでいく。
 振り返る。腰から上を完全に捻り、後ろを見た。
 そこにはもう、体操服姿の生徒どころか制服を着た学生もひとりとして見当たらず、がらんどうとした寂しい廊下が広がっているばかり。微かな喧騒の名残が漂っているものの、何の変哲も無い学校の一風景が雲雀の視界を埋め尽くしている。
「雲雀さん?」
 漸く気付いた風紀委員の片方が肩越しに振り返って雲雀を呼ぶ。だけれど呼ばれた彼は返事をせず、先ほど脳裏に浮かんだ夢想と現実とのギャップ酷く苦しめられている。口元にやっていた手を、ぎゅっと爪が皮膚に食い込むくらいに握り締めた。
 痛い、とは思わない。だけど。
「気分が悪い」
 ただひとこと、そう呟いて雲雀は今来たばかりの道を取って返した。後ろで、唖然とする風紀委員がなにやらわめいているが気にも留めない。彼らの声は最早雲雀にとってうるさいだけの雑音でしかなく、そんなものに耳を傾けている自分にさえ腹が立った。
 奥歯を噛み締める。拳はまだ、指先から血の色が失せるくらいに力を入れられたままだ。雲雀は乱暴に、自分専用として使っている応接室のドアを開けた。中に入ると、壊れるか、というくらいの音を響かせてすぐに閉ざす。鍵はかけない。かける必要は無い。
 肩が激しく上下している。興奮してすっかり乱れていた呼吸をゆっくり整えながら、雲雀はよろよろと部屋の中心部へ移動した。窓辺に置かれている机に両手をつき息を吐いて、そのままぐるりと体を反転させる。臀部が机の縁に乗りかかって、背中を若干丸めると自然視界に自分の手が映し出された。
 太ももに寄り添うようにしてふたつ並んだ、血の気の失せた両手のひら。右手には力を込めすぎたのか、爪が食い込んだ形跡が残っている。うっすらと、切れた皮膚から血も滲んでいた。
 雲雀はぼんやりとしたまま切れた掌に浮かぶ血球を見下ろす。さっきまでは急上昇を続けていた心拍数と体温も平常値以下に収まり、落ち着いたかのように思われる心臓は、けれど、どくん、どくん、と力強さを失わない。
 床に、自分の鞄が落ちていた。投げ出してそのままだったらしく、雲雀は腰をあげて机から離れ、床に転がっているそれを掴んでソファへ置いた。重みのないそれは硬い弾力のソファに跳ね返され、情けなく横倒しになる。ぼんやりとした目つきでそれを眺め、雲雀はよろめきながら再び机へと戻った。
 崩れるようにして膝が折れ、机の角に手を置くことで完全に沈むのを留める。顎が仰け反って顔が天井を向いた、照明の灯らない室内は薄暗く窓から差し込む光だけが唯一今が昼間だと彼に教える。外では体育の授業が始まったようで、笛の甲高い音が窓を隔てても聞こえてきた。
 あの子も、その輪の中にいるのだろう。
 唐突に蘇った人物像に、雲雀は思わず噎せた。
 柔らかそうな髪、弾力のある頬、いつもは弱々しく頼りない瞳、けれどひとたび炎が宿ればどんな劣悪な状況をも打破してしまえる強靭な精神。雲雀にさえ臆さない、生意気な表情。
 雲雀には決して向けられない、無邪気な笑顔。
 雲雀から逸らされない、零れ落ちそうなくらいに大きな瞳。
 何故、こうも彼は雲雀を苛立たせ、ささくれ立った心を逆に宥め癒すのか。
「さわだ……つなよし」
 譫言のように繰り返し呟く。額に腕を置き一緒に瞼も下ろし、浮かんでは消える意識しないままに集めていたらしい幼い姿を追いかけたがる意識を払いのける。
 知っているようで知らなくて、知らないつもりで案外知っている。次々と、消えては現れる様々な表情をした彼に、自分で驚きを隠せない。思い返せば確かに、随分と自分は彼と接触を繰り返していたのだ、それこそ意識しないレベルに到達するまでにも。
 雲雀の生活に、彼の存在が欠かせないまでになっている現実に、気付く。
 この感情の名前までは、まだ彼の心に浮き上がっては来ないけれど、それでも、確かに。
 雲雀は沢田綱吉という人間を、その他大勢という大雑把なくくりからはみ出して知覚している。少なからず特別な存在だと意識している。
 怠さを訴えだした腕を下ろし、雲雀は丸めた肩で息を吐いた。今日一日で随分と疲れてしまった、精神力が限界に近い。今頃になって自分で作った手のひらの傷がじくじくと痛みだし、眉根を寄せて雲雀は小さく舌打ちした。
 これしきの傷、手当も必要ない。しかし今日に限って気まぐれが働き、雲雀は短い息を吐き出すと首を振って身体を起こした。机から離れ、鞄の前を素通りして応接室を出る。今度は音も殆ど立たぬくらいに静かに扉を開閉させていた。少し戸がぐらついているのは、気のせいという事にする。
 踏み出した廊下は、自分の他に人間はいないのではないかと思わせるほどの静謐に包まれていた。グラウンドの喧噪も、各教室で教鞭を執っている教師の声も届かない。
 耳に痛い静寂と、胸の奥底でさっきからちくちくと刺さる針の痛みに眉根を寄せ、雲雀は爪先を保健室のある方角へ向けた。慣れ親しみ、目を閉じていても歩き回れそうな並盛中学の廊下を、ひとり歩く。そう遠くない位置に設けられている保健室の看板を頭上に認め、彼はノックもせぬままドアを開けた。
 頬を撫でる淡い風は、ドアのほぼ真正面にある窓が全開にされているからだ。白い清潔なカーテンが、淑女のスカート宜しく風に煽られて踊っている。手前の机は無人で、無精髭のあの白衣を着た男の姿は見付からない。
「留守か」
 丁度良い、そう呟いて雲雀は保健室に入って後ろ手に扉を閉める。ぴしゃりと音を立て、ドアと壁の継ぎ目は外界と室内を切り離した。
 彼は迷う事無い足取りで、手のひらの傷を消毒しようと薬品棚にまず向かう。しかしカーテンに挟まれて大きく二分されている保健室のほぼ中央に至って、先客がいる事に気が付いた。
 歩いている動作そのままに動きが止まり、彼の首は磁石が一定方向に決まって向くかのように自然と、右手のカーテン向こう側にあるベッドのひとつに固定されてしまった。ひとたび気付くと、もうそこから目がそらせない。
 ベッド、一番手前の窓際にあるパイプベッドの上部が膨らんでいる。足先から頭の先まで布団を被り、床には脱がれた靴が行儀良く並んでいる。顔は布団に覆われて見えないけれど、収まりきらなかった髪の毛がはみ出していた。あまりにも特徴的すぎる、一度見たらなかなか忘れられない、柔らかそうな薄茶色の癖毛が。
 沢田綱吉。
 ズン、と雲雀の身体を何かが頭の上から足下にかけて落ち、貫いて過ぎていった。衝撃に心臓が歪み、一気に吐き出された血液が煮えたぎって全身を駆け回る。無意識に止まっていた呼吸が、息苦しさの末にたっぷりと時間をかけて吐き出された。喉が焦げるかと思う程に熱い息に、じっとりとした汗が拳を濡らしている。
 掌の傷よりもずっと痛く、激しい何かが雲雀の心を激しく揺さぶっている。
「どうして……」
 彼が、沢田綱吉が、ここに、いるのか。体育の授業ではなかったか、どこか体調が悪いのか。気分が優れないのか、他に誰も付き添いの生徒や教師は居ないのか。背後を振り返っても無人の空間が広がるばかりで、鼻につく消毒薬の臭い以外には彼の髪を揺らす風しかない。
 眠っているのか、沢田綱吉はベッドに横たわったまま顔を右に向けて動かない。ひょっとして、と嫌な予感が先立ってしまい、雲雀は後先考えないまま彼の前まで歩み出ていた。一歩進むたびに心臓が痛み、息が荒く呼吸が苦しい。
 手を、伸ばす。
 ずっと触れたかった柔らかい髪の毛が、そこにある。
「……ん……」
 鼻に掛かる吐息にびくりと、触れる直前だった手が硬直した。しかし眠っている彼は布団の端を掴む手の力を抜いただけで、お陰で隠れていた顔が少しだけ露わになった。目を閉じて、時々むずがって顔を顰めながらも、穏やかに眠っている。雲雀の記憶の中にある様々な表情にも、眠っている時の顔はなかった。新たに心のアルバムに刻まれた表情に、暖かなものがじんわりと広がっていく。
 指先が辿った彼の髪は、予想通りに柔らかくて、子犬の背中を撫でている気分になった。絡んでいる毛足は引っ張らないように注意深く避けて、下から上へ、何度も、何度も。
 誰かへこんな風に優しい手つきで触れられる自分が居た事に、少なからず驚きながら。
 枕と布団に埋もれた綱吉が、頬を緩めさせる。僅かに覗く表情の変化に、見下ろしていた雲雀までもが表情を弛ませた。気持ち良いと思ってくれているのだと、嬉しくなる。
「……んー……」
 だが一瞬、顔を顰めさせた綱吉は身体を縮めこませた。と思うと、今度は背中を反らせる。目覚めるのかと身構えて、雲雀は手を引き表情を硬直させた。だがすぐにまた身体を丸めた綱吉は、いっそう気持ちよさそうに目を閉じて寝入っているので、安堵の息を漏らし彼はまた綱吉の頭に手を伸ばした。
 こんなにも近くに人がいるのに、まったく気付かずに安心しきって眠っている。子供のような彼に、雲雀は知れず笑っていた。
 髪を撫でるだけでは飽きたらず、時々耳たぶをくすぐったり、襟足を指でなぞったり、ふっくらとした頬を指の背で小突いたりも。こんなにも触れているのに、まったく目覚めない、その警戒心の無さに僅かに呆れさえ胸に抱く。
 こんなにも弱くて、甘くて、頼りないのに、目が離せなくて、気になって。今は閉じられている瞳に映るのが、自分の姿だけになればいい。他の誰かではなく、自分だけを見つめていればいい。
 早く、目覚めて。
 祈りにも似た感情を吐き出す。目の上に掛かっている髪を掻き上げてやろうと、額に指を這わせる。もうとっくに治っている指先の瘡蓋が、すべすべの綱吉の肌を擦った。ひくり、と引きつるように綱吉の鼻の頭が動く。目を閉じたまま、雲雀の手を追いかけるように顎が上を向く。
 何かを伝えようと、薄く開いていた唇が動いた。雲雀は気付かず、曲げた指の背で相変わらず綱吉の頬を突っついている。押すとはじき返す弾力に、目を細めて。
「……りさ、ん……?」
 耳に流れ込んできた声に、そのまま全身が意識ごと凍り付いた。
「――――」
 声にならない声、というのか。反射的に息を呑み、間を置いて雲雀は綱吉の頬から手を引きはがす。非常にゆっくりと、名残惜しそうに、指先から逃げていこうとする綱吉の体温を掴み取ろうと、一度だけ拳が虚空を掻いた。
「ひば、り……さん……?」
 嗚呼、何故。
 何故、こうも。
 君は。君という存在は。
 目覚めを心待ちしていたのに、いざその時が訪れると雲雀は酷く狼狽して、声を失いその場に立ちつくした。いったい自分はどうしたかったのだろうと、真っ白になった頭の中で綱吉の紡いだ声だけが、ふぁんふぁんと反響している。
 最初は右目が。次いで、遅れて左目も。綱吉の視界は徐々に広がり、ついにはベッド脇で佇む雲雀の姿を射抜く。まだ若干寝ぼけ眼ながら、雲雀もよく知る大きな瞳が、じっと、少しだけ驚いた風に見開かれている。
 ざっ、と背後で風が吹いた。それ以外に音が響かない、いや、お互いの心臓の音がうるさい時間が、過ぎていく。
 何かを言わないと。けれど、何を言えばいい?
 言い訳さえも忘れて、雲雀は凝り固まった表情で綱吉を見下ろした。
「ヒバリさん……」
 縋るような、甘えるような声に、ハッと、我に返った瞬間。
 雲雀は。
 綱吉から、目を逸らした。
 今度も、自分から、綱吉の視線から。
 逃げた。
 踵を返し、歩き出す。ここに来た目的を思い出す、この場から立ち去る理由を探している。情けなく、あざとく、身勝手で、卑怯な雲雀が綱吉に背を向ける。
 息を呑む音が聞こえる。今彼がどんな表情をしているのかは見えないが、泣きそうな顔をしているだろう、とは容易に想像出来た。
 そんな表情は見たくない、けれどそんな表情をさせているのは紛れもない自分自身であり。
 雲雀は、奥歯を噛む。
 後ろで動く気配がある。布同士が擦れ合う音が響く。
「ヒバリさんっ!」
 心を抉る声が。
 他でもない、綱吉の叫びが。

 それは、まだ、恋というものが甘くも苦いものだと、知らなかった頃のお話。