断雲(だってあちこち痛い)
気がつけば姿を探している。意識していたわけじゃなくて、そんなつもりもなかったのに、ある時その事実に気付いてしまった。
「よー、ツナ。どうした? 何か見えるのか?」
頬杖尽いて窓の外、グラウンドへと視線を投げていたら後ろからそう声がかかり、続いて大きな影が頭上に降って来た。そうするのが当たり前という風情で山本が、綱吉の頭の上に腕を伸ばしてガラスに手を置き、被さる格好で外を覗き見る。一瞬だけ山本に意識を移した綱吉は、曖昧に相槌を返してまた外を見た。
授業と授業の合間、短いけれど貴重な休憩時間。教室の移動もなく、ある生徒はトイレに行ったり、隣のクラスへ忘れた教科書を借りに行ったりと空気はざわついている。窓の外は晴れ空が広がり、次が体育なのか準備を終えた生徒が数人先走ってボールの準備をしていた。
そんなグラウンドの片隅をひとり歩く生徒がいる。左右に視線を流していた綱吉だけれど、常にその視界中心にその生徒の歩く姿が入っていた。
黒髪、この距離では見えないが瞳も漆黒。性格も闇の色に染まり、その凶悪さは学内どころか地域全般に名を知らしめるほど。並盛中の支配者として君臨し、どこまでも傲慢な人。
「あれ? あそこにいるのってヒバリ?」
山本も気付いて、声をあげつつ眉根を寄せる。望まざる結末だったが、少なからず彼と係わり合いを持ってしまった手前、その性格も他の面々よりも知っているだけに、彼の表情は自然険しいものになる。
「もうじき三時間目始まるってのに、今頃登校かよ。重役出勤もいいとこだな」
羨ましい、と呟き山本は窓から手を離した。寄りかかっていた体勢を真っ直ぐに戻し、肩を鳴らして綱吉を見下ろす。背後で休憩時間の終わりを告げるチャイムが厳かに響きだした。
綱吉は山本の視線に気付かない。
綱吉は窓の外を見ていた。グラウンドを、時間に追われながら生徒が走っている。その横をすり抜けるように、もしくは生徒の方が彼を避けながら、雲雀はゆったりとした足取りで校舎に向かって歩いている。授業の開始を知らせる鐘の音など、まったく意に介した様子が無い。悠々自適、或いは不遜。そんな言葉が彼にぴったりと当てはまる。
「ツナ、お前最近」
「え?」
山本が言いかけて、綱吉は我に返り頬杖の掌から顎を浮かせた。綱吉が振り返る直前、何かに気付いた様子で眼下の雲雀がふと、顔を上げる。
遠く離れ、互いの顔など米粒大にしか見えないだろうに、雲雀は開け放たれた校舎、正確に綱吉がいる窓を見上げた。綱吉もまた彼の目線の変化に気付いたものの、振り返る動作を途中で止めることは叶わず、互いの視線が交錯したのはほんの一瞬。だけれど、この距離でも、綱吉は雲雀が自分を見たと思った。まるで鋭い鏃を持つ矢で射られたように、呼吸が止まり、そして心臓が急激な拍動を開始する。
「よくヒバリのこと、見てるよな」
振り返り仰ぎ見た山本は、綱吉の内情の変化も知らず少し複雑そうな顔をしてそう言った。何か不満そうで、もっと他に言いたいこともありそうだったけれど、綱吉が何か言い返す前にドアを開けて先生が教室に入ってきた為、会話はそこで尻切れに終わる。一気にざわつきが増してまた静かになった教室に、日直の号令が響き渡った。一斉に立ち上がる生徒からワンテンポ遅れ、綱吉は額に自然ではない汗を浮かべて礼後座り直し、また外に目を向けた。
雲雀の姿は、見える範囲で探してみたけれど、もう何処にも無かった。きっと校舎内に入ってしまったのだろう。
『最近よくヒバリのこと見てるよな』
先程の山本の言葉が脳裏によみがえり、気付かぬまま綱吉は自分の左の胸に手を当てていた。多少納まりを見せつつも、まだ若干拍動は速い。ドクドクと波打つ血液に、僅かだが体温も上昇している。背中に汗が浮いてシャツが張り付いている。
「そんな事……」
あるのだろうか。確かに今さっきまで自分は、遅刻なのに悪びれる様子も無く堂々と登校する雲雀の姿を見つけ、そこから目をそらせずにいた。気がつけば、言われてみれば確かに、此処最近よく雲雀と目が合う。知らぬ間に雲雀を見つけると、その背中を目で追いかけていた気がする。
だから山本の言葉を否定して、そんな事ないと言い切れない自分に今頃気付いて、綱吉は愕然となった。
窓の外を見る。視界の端に彼の姿を探すようになったのは、いったいいつからだったのだろう。心臓のどきどきが止まらない。落ち着かない。先生の声もろくに耳に入って来ず、ただ耳鳴りに似た心拍音だけがうるさい。
この感情は、何。綱吉は俯いて目を閉じる。瞼の裏に浮かんだ雲雀の顔は、闇の中に消えていった。
学校は広いようで、狭い。少なくとも行動範囲が限られているので、知っている人間とすれ違う可能性は街中を歩き回っている時よりも格段に高い。
だから別に、彼と廊下ですれ違うのも普通のことのはずだった。同じ学校に通っているのだから、どこかで姿を見かけるのも当たり前の事だった。けれど言われてみれば確かに、自分と彼は遭遇率が高い気がした。それを運命だなんて格好つけるつもりは無かったけれど、一度気になりだしたらずっと、頭の片隅でしこりになって残る。意識すればする程、雲雀を探している自分という現実に綱吉は胸が苦しくなる。
午後からの体育の授業は、正直苦手だけれど、授業なので出なければならない。憂鬱な気持ちになりながら体操服に着替え、綱吉とは違い体を動かすのが好きな山本と並んで外へと向かう。獄寺は面倒だからとサボる気でいるようで、ひとつ前の授業終了の段階から既に姿が見当たらなかった。廊下は特別教室へ向かう生徒や、トイレへ向かう生徒でそれなりに騒がしい。
ただある空間から、唐突なまでに急にざわつきが消えうせて駆け足だった生徒も歩調を緩めるようになった。にこやかな笑顔を浮かべて他愛無い話を振っていた山本もまた、周囲の気配の変化に気付いて表情を引き締める。
なんだろう、と綱吉も顔を上げて廊下の先を見据える。前を行く女子生徒が、肩が壁にぶつかりそうなくらいに端に寄っていた。
「?」
怪訝に顔を顰め、なおも目を凝らすと急に目の前が暗くなった。目線だけを持ち上げると山本が横から前に一歩出て綱吉の行く手を塞いでいる。端に寄るよう後ろ向きに彼の手が動くので、進路を絶たれた綱吉は真っ白な体操服姿の山本の背中を訝しげに見上げた。辛うじて見える範囲での彼の表情は、緊張しているようで強張っている。
なんだろう、と思う。そんな風に視界を塞がれてしまっては、余計に気になるというもの。
「山本?」
まるで背後に綱吉を庇うようにして仁王立ちしている親友の顔を窺いながら、綱吉は彼が何を隠そうとしているのかつい気になって、彼の脇から顔を覗かせた。
何の変哲も無い廊下、毎日通っている学校の一区画だ。だが女生徒数人がひそひそと声を押し殺す話し声に異様な空気を感じ取り、日常とは別の場所に紛れ込んでしまった錯覚に陥る。窓から差し込む光は長閑さを助長しているが、ゆったりとしたペースで前方から歩いてくる数人の集団に気付き、綱吉の指先が反り返った。
この季節、あり得ないと笑ってしまいそうになる、けれど笑えばどうなるか分からない詰襟の学生服に身を包んだリーゼントヘアの男子生徒が数人。綱吉と同年代とは思えない体格と、いかつい顔立ちに、彼らが何であるか知らない生徒も姿を見れば萎縮してしまうだろう。
袖には一揃いの腕章、風紀と書かれていることから分かる通り、彼らは並盛中を取り締まる風紀委員だ。彼らの権限は生徒会などよりはるかに強く、また教員陣さえ容易に太刀打ちできないと聞く。そんな彼らのトップに立つのが。
「あ……」
綱吉の口から思わず声が漏れる。
威風堂々と、否、周囲を威嚇するように練り歩く学生服姿の生徒ふたりの後ろに、前を行く彼らには全く興味が無い風にもうひとり、こちらは半袖開襟シャツに黒ネクタイ姿の生徒が歩いていた。見た感じは前を行くふたりに護衛されているようであるが、その気になればこの二名を蹴り倒してでも乗り越えて先へ行ってしまえる実力の持ち主であることを綱吉は知っている。
左の袖に、矢張り風紀と書かれた腕章。
山本が僅かに動く。すれ違う前に、雲雀から隠して綱吉を更に壁側に追いやろうとする。
けれど綱吉は顔を上げたまま雲雀を見ていた。山本の手が邪魔で、払いのける仕草を無意識に繰り出して、叩かれた痛みに振り返った親友が嫌そうな、悔しそうな顔をしているのにも気付かない。
雲雀は外を見ながら歩いていた。進行方向に、そして道を譲る大勢の生徒にも気を向ける様子が無い。いや、なかった、というのが正しいか。
不意に、前髪を風に弄られた彼が切れ長の眼を細め、今まで向いていたのとは逆方向に視線を流したのだ。すなわち、外から校舎内、廊下へ。歩くペースは変わらない、だけれど綱吉の目にはその動きがスローモーションに映った。
雲雀が顔を前方に、そして流れる動作で綱吉の側へ。短い間隔で瞬きをし、薄い唇を僅かに動かして息を吸って吐き出す動作さえ綱吉の目はしっかりと捉えていた。そして彼の闇よりも濃い漆黒の瞳が、校庭から頭上遥かを仰いだ時同様に綱吉を射抜く。
山本の腕をかいくぐり、斜め対角線上にあった二者が目を合わせる。雲雀は歩を休めず、しかし綱吉の顔をジッと見つめ続けたまま進むので必然的に首の角度が曲がり、徐々に真横に向かって動いていく。彼から目を離せない綱吉もまた、前方を向いていたのがゆっくりと横を向き雲雀を追いかけていた。そして完全にすれ違い終えた頃、興味が失せたのか、雲雀は顔を逸らし前に向き直った。チクリと胸のどこかが痛みを放つ。
「ツナ」
いつの間にか綱吉は、両手で山本の背中にしがみついていた。至近距離から低い声で名前を呼ばれ、完全に意識を外に飛ばしていた綱吉はハッとなって飛び退きながら手を離した。即座に背後へ手を隠し、赤い顔を下向ける。
山本には綱吉の頬が染まっているのが、自分への照れ隠しなのか、それとももっと前からのものなのか、判断がつかない。だが今の数秒間だけだったとしても、完全に自分が綱吉の意識外にあったのだけは気付いていた。
苦々しげに彼は顔を歪める。
「ごめっ、授業始まっちゃうよね。急ごう」
ぴょんぴょんとその場で二度跳ねて、綱吉は体育の授業開始まで間がないのを思い出した。動こうとしない山本の背中を押し、何かを誤魔化すかのように歩き出す。前方にいた女生徒たちの姿は既に無い。
「分かった、分かったから押すなって」
山本もまた、綱吉が平常に戻ったのを受けて小さく笑んだ。手を伸ばし、綱吉の癖毛を乱暴に撫でて自分の横に強引に引っ張る。
彼らの背中を追い立てるように始業のチャイムが鳴り始める。急ぎ足で教室へ戻る生徒を避けてグラウンドへ駆け出し、既に準備をしていたクラスメイトに声高に謝って自分たちも準備体操に移る。
太陽は眩しく彼らを照らし、陽だまりに包まれた時間は優しいものになる筈だった。
それなのに綱吉の心臓はちっとも落ち着きを取り戻さず、時折不意をついては思い出される真っ直ぐな瞳に奥歯を噛む。何故だろう、たった数秒間目があっただけなのに、もうそこから意識が離れない。
「痛い……」
目を逸らされた瞬間、小骨が喉に刺さるような小さな痛みが胸を襲った。あれもなんだったのか、分からない。まだ疼くような痛みを放つ左胸を見下ろし左手を添えて佇んでいると、山本がどうした? と近づいて顔を覗き込んでくる。
「ツナ、具合悪いんなら休んでろよ」
「ああ、ごめん。大丈夫、なんでもないよ」
本気で心配している彼に慌てて首を振って否定し、綱吉は元気だから、とわざとらしく笑って腕を振り回した。山本が大袈裟な動きでそれを避け、何をやっているのかと周囲がまた笑う。
笑いの輪の中に立って、綱吉もまた今度こそ本気で笑った。間もなく体育担当の教師が出てきて笛を吹き、一列に並んでグラウンドの外周を走り始める。気を緩めるといつも最後尾についてしまう綱吉は、息せき切らせながら懸命に走るもののどう頑張っても周回遅れぎりぎりのところが精一杯。
後ろから余裕のある山本が追いかけてくるのが分かって、彼には抜かれまいと必死に足を交互に前へ繰り出す。砂埃が舞い上がり、荒い息を口で繰り返して喉が渇く。
フッ、と。
視界に小さな影が横切った。
自分が動くことで流れ過ぎて行く周囲の景色。校舎の側を向いていたかと思うとトラックはカーブを描き、今度は校庭が目の前に大きく広がる。その風景が一気に切り替わる直前、綱吉の目に確かに映った人影。
空間を隔て、窓を隔て、行過ぎる瞬きの瞬間それでも綱吉の網膜に焼き付けられた人の姿。それが誰であるか脳が判断した瞬間、全身は硬直し、電撃が身体を貫き、綱吉は巨大な槍に串刺しにされた気分で暫くの間思考も完全に停止した。数秒間呼吸さえ実際に止めていたようで、吸い込んだ空気が肺胞を余計に刺激する。指先が悴んで、細かな痙攣を起こし自分の自由にならない。ばくばくと鳴り響く心臓は、そのまま地面へと落ちていって大地震を引き起こしそうだ。
――どうして?
自問しても答えは出ない。ただ、窓に背を向けて立つ見慣れた人の背中に目を奪われ次第に歩みも緩まり、やがて完全に止まる。後ろから走って来た生徒がよろよろと頼りなく揺れる綱吉にぶつかりそうになって、怒鳴り声をあげながら慌てて避けていった。山本の奇異なものを見る視線が、綱吉の何処を向いているか分からない横顔を通り過ぎていく。
気がつけば探している。
意識しなくても、見つけてしまう。
「……痛い」
声は乾いた舌と唇の上を転がり落ち、地面に沈むより先に風に攫われていった。
胸が苦しい。息が出来ない。
『最近よくヒバリのこと見てるよな』
繰り返し山本の言葉が頭の中で響く。そんな事はない、そんなわけはない。自分に言い聞かせ否定したいのに、無意識に彼を見つけ出そうとしている自分が居る。
彼と目が合って心が弾み、逸らされて心が痛む。姿を見かけては胸が躍り、見つからないと不安になる。
「沢田、どうした?」
トラック上で立ち止まり、動かない綱吉を不審に思った体育教師の声が飛ぶ。他のクラスメイトは全員走り終えており一箇所に固まっているのに、綱吉ひとりだけがぽつんと佇んだまま。視線は遠くどこかへ飛んでおり、傍から見ている側からすればそれは大層異様に映っただろう。
「ツナ!」
山本の大声に漸く振り向いた彼はしかし、どこか泣きそうな辛そうな顔をしていて、返事もせずに小走りに地面を蹴った。つま先は皆が待つのとは反対の校舎へ。何処へ行くのかという教師の問いにも答えず、一目散に逃げるかのような綱吉に、山本は眉目を顰め、首を振った。
授業を中断させられて腹立たしげにしている教師に、綱吉がさっきから気分悪そうにしていたと教える。それは本当ではないが、嘘でもない。ずっと、綱吉はおかしかったのだ。
なんでもない、と言いながらなんでもいい顔をしていない。山本はずっと綱吉を見ていたのに、彼は殆どその視線に気付いていなかった。いつもならちゃんと目を合わせて会話が成立するのに、どこか虚ろで、心此処にあらずの時間が長くて。
「ツナ……」
小さな背中は校舎に吸い込まれ見えなくなるのにそう時間はかからなかった。体育教師は仕方が無い、と肩を竦めざわついている生徒に向き直り、気を取り直して授業を再開させるべく笛を吹く。雑談に興じていた生徒もそれに反応して、山本も一歩遅れたものの姿勢を正し授業へ意識を戻した。
けれどちらつくのは、綱吉の横顔。校舎の一部をジッと見つめる彼の瞳。
「くそっ」
舌打ちして地面を蹴り飛ばし、山本は走り出した。今は何も、考えていたくなかった。
体育の授業を放棄して校舎に戻って、周囲が一気に薄暗くなった。背後を振り返るけれど壁に阻まれてもうグラウンドは見えなくて、きっと先生は怒っているだろうな、と考えると気が重くなる。
何故抜け出してしまったのか、自分でもよく分からない。だけれどあのままあそこに留まっていても、きっと自分はまともに動けなかっただろう。ダメツナと呼ばれる典型の運動オンチに拍車をかけてクラスメイトの迷惑になるくらいなら、最初からいない方がいい。綱吉は肩を落とし、深々と溜息をついた。
折角体操服に着替えたのに、無駄になってしまった。額に浮かんでいた汗を袖で拭い取り、そのまま埃っぽい手を置く。熱は無いと思うのだが、自分では分かりづらく困惑は収まらない。胸の痛みは治まりつつあるがまだちくちくと針が刺さっているようで、俯いた彼は自分の足元を見つめたままもう一度息を吐いた。
緩やかに首を振る。
気持ちが落ち着かず、嫌な汗が出ている。息が上がっているのはさっきまで走っていた所為だと思いたい。心臓の音が随分と五月蝿いのも、きっと。
全身は力が入らずだるくて重い、意識は散漫としていて定まらず、喉が渇いてならなかった。
綱吉は意を決し、歩き出す。教室には戻らず、今日は授業を全部ボイコットしてしまおう。家に帰るのも億劫だし、授業をサボる言い訳に使えるからと足は自然、保健室へ向かう。シャマルにあれこれ聞かれるかもしれないが、他にいくあてもないし教室へ戻りたくなかった。着替えたかったが贅沢はいえない。
授業中の為に静まり返っている廊下に、綱吉の影だけがやたらと長く伸びている。人の気配がすると背筋が強張るが、それも大体が扉を隔てた先のものであり、誰かとすれ違うことはなかった。
「……」
大勢いるはずなのに誰ともすれ違わない。学校内は広いのに、今はとても閉鎖的な空間に思えて息が詰まる。透明な迷路に迷い込んだ気分で角を曲がり、保健室のプレートを見上げた先に見つけホッとする。閉まっているドアを二度ノックしたが、返事は無かった。
少し躊躇して、それからドアに手を添える。溝に指を入れて横に引くと、やや立て付けの悪いドアは僅かな抵抗を見せて横にスライドした。廊下とは違う空気が流れ出てきて、綱吉の火照った頬を優しく撫でる。
「シャマル、いる?」
腰を曲げて上半身だけを保健室に入れて問うが、やはり返事は無い。また職場放棄して遊びに行ったのか、髭面の男を思い浮かべながら綱吉は呆れ顔を作った。
それにしても、どうしようか。誰も居ないのに勝手に入るのは気が引ける、しかし戻るのはもっと気が引ける。二秒ほど入り口で逡巡して、綱吉は結局左の足から無人の保健室に潜り込んだ。後ろ手に扉を閉めると、鼻先を消毒薬のツンとした臭いが漂う。
右を見ると真っ白なカーテン越しにベッドがいくつか並んでいて、どれも無人だった。反対側を向くと、薬品の並ぶ戸棚と窓の前に机があって、それなりに綺麗に使っているらしく机上は予想外に片付いていた。棚の一部には鍵がかけられていて、中を覗くとなにやら舌を噛みそうな名前が印刷されたラベルの瓶が並んでいる。
「ベッド借りるだけなら、良いよな」
小さく掠れた声で呟き、自分の言葉に頷く。興味の無い棚から視線を逸らし、足は折り目正しく揃えられた布団とパイプベッドの方へと。短い距離を短い時間で移動して、綱吉は一番手前窓側のベッド前に立った。畳まれていた布団は自宅の布団とは違って消毒薬の匂いがして少し硬い。それを落とさないように広げ、靴を脱いで上がりこむ。寝転がる直前見えた自分の足元、思い当たるところがあって綱吉は靴下も脱いで左右まとめて丸めると、行儀よく左右並んだ靴に落として今度こそ布団を被って寝転がった。
少しひんやりしている布で鼻の頭が隠れるくらいまで包まり、膝を曲げて体を小さく丸め込む。開け放たれた窓からは外の匂いが絶えず流れ込んできて、風が吹くたびに煽られたカーテンが裾を翻して踊っていた。
自分の自由にならない、周囲からの影響に踊らされているもの。まるで今の自分のようだと、顔を半分枕に埋めながら綱吉は動き止まないカーテンを見据える。腕に抱きこむようにして布団の端を握り、そのまま手を左胸に押し当てた。
鳴り止まない拍動、耳障りなまでに大きく感じて痛い。
「なんなんだろう……」
頭の中がぐるぐると、色々なものが駆け巡っているのに考えはひとつにまとまらない。目を閉じると瞼の裏側に人影が浮かんできて、彼と関わった記憶が順繰りに思い出されてはまた消える。出会い頭にいきなり殴られたことや、夏祭りに一緒に喧嘩に巻き込まれた日や、桜にまつわる場所で見た意外な一面や。
そういえば最初の頃は、突然殴られたことが印象深く彼のことが怖くてならなかったのに、いつの間にか平気になっている自分に驚く。いつからだろう、ただ怖い人だという印象が違うものになったのは。
常に人の上に立ち、人の前に立ち、強さを求めることに貪欲で、実際に並び称するものが無いほどに強く、傲慢で不遜であるけれど決断力は優れ行動力にも秀でている。自分には無いものを沢山持っていて、彼の方が余程マフィアのボスになるに相応しい人物でないのかとさえ、思う。
憧れ、羨望。彼の揺ぎ無い心が羨ましく、妬ましい。
どうすれば彼のようになれるだろう、彼のような強さを手に入れられるだろう。自分も彼のように、凛々しい背中をいつか手に入れられるだろうか。
「ヒバリさん……」
広げた右掌を見つめ、綱吉は呟く。
気がつけば探している背中がある。思い出すだけで心臓が波打つ。声を聞けば心臓が跳ねる。目が合えば呼吸が止まる。
京子と話をする時も胸が高鳴るが、それとはまた感覚が違っている気がする。彼女との会話は胸がほんのりと温かくなるけれど、これはぎゅっと絞められたような痛みを伴う。
「痛い……です、ヒバリさん」
彼を思い出す度に、彼の名前を呼ぶ度に。胸の痛みはどんどんと強さを増して綱吉の全身を硬直させる。このまま土人形になってぼろぼろに崩れてしまうのではないか、そんな気持ちになってまた目を閉じる。
薄闇に消える後姿に、手は届かない。
そうしていつの間にか、綱吉はうとうとと眠っていたようだ。意識が途切れ、時折浮き上がってはまた沈む。夢を見ていたような気はするが、内容などないに等しい。熟睡には程遠いが現実と夢との境界線が非常に曖昧で、頬を撫でる風の香りが本物なのかどうかも分からない。
陽だまりの、優しい匂いがする。
「……ん……」
小さく鼻にかかる声で息を吐く。人の動く気配がして、衣擦れの微かな音に眉根を寄せる。髪に触れられ、お日様の匂いがほんの少し強くなった。頭を、誰かが撫でている。
日の匂いと同じ優しい動きで、爪を立てたり絡まった髪を引っ張ったりしないよう、慎重にゆっくりと、手は布団からはみ出している後頭部を下から上へ、繰り返し、繰り返し。その仕草は幼い頃膝枕をしてくれた母親のそれに似ていて、なんだかとても幸せな気持ちになった。
家の庭先で、耳掃除をしてもらいながら眠ってしまって、奈々は困ったわねと笑いながらも邪険にせず頭を撫でてくれた。その小さくて柔らかい手とは違っているけれど、撫で方から自分を大切に思ってくれている人なのだと感じた。
――誰……?
目を開けて確かめたいのだけれど、脳が眠たさを訴えて身体に信号を発してくれない。ただ幸せな気持ちで口元が緩んで、瞼は開かないものの目尻は下がったようだ。もし布団に隠れていなければ、笑っているように見えただろう。
――シャマルが戻ってきたのかな? それとも獄寺君?
けれど酒の臭いも煙草の臭いも全くしない。綱吉の鼻腔をくすぐるのは暖かな日差しの匂いだけ。ならば山本だろうか。体育の授業はもう、終わったのだろうか?
「……んー……」
顔を顰めさせ、綱吉は意識朦朧の状態で背中を大きく反らせた。横たわりながら伸びをした格好で、太ももの裏側の筋肉が突っ張り、軽く痙攣を起こす。吸った息を深く吐いて反らした背中を丸めると、さっきよりもずっと体が小さくなった気がした。
子供の頃に戻ったような、そんな錯覚。
頭を撫でていた手は綱吉の呻き声に驚いて一瞬離れて行ったが、彼が一向に眼を覚ます様子が無いと知ったのか小さく笑う気配がした。ちゃんと起きていますよと言いたかったけれど、舌は動かず唇から漏れるのは吐息ばかり。
握っていた布団の端はいつのまにか顔の正面にあった。両手とも肘を曲げ、その傍に転がっている。時々指先がピクリと動く以外、綱吉に表面上大きな変化は見られない。
誰かの手は休まずに綱吉の頭を撫で続ける。時々気まぐれに道を逸れた指の背が綱吉の耳やこめかみを掠め、弾力のある頬を突いては感触を楽しんでいるようだ。
人が眠っていると思って好き勝手し放題。いったい誰なのだろう、思い当たる人物を描き出すがなかなか心当たりにぶつからない。窓から風と一緒に入ってくる掛け声は遠い世界のようで、短いけれど濃密な時間が綱吉の周囲を漂い去る。
ふっ、と手の主が息を吐く。細いしなやかな指が綱吉の前髪を掬い上げ、狭い額に降りていく。それは山本の息遣いとは違い、野球のやり過ぎでタコが潰れた指とは異なっている。
――誰……?
可能性がまたひとつ消えて、綱吉は困惑した。煙草や酒の匂いを身につけず、スポーツをやる指とも違っている。ただ、ザラッとした皮膚の感触は怪我をした後に出来る新しい皮膚と、そうでない皮膚が重なり合った箇所のそれに似ていた。
夢見心地のまま、綱吉は息を深く吸った。ヒクリ、と鼻先が動く。リボーンと出会ってから嗅ぐ機会の増えた、洗っても磨いても拭い切れないと知った、人の流す血の臭い。
本当に微かで、僅かで、簡単には気付けない、体臭に混じってかすむ他人の血の臭い。
自分はこの人を知っている、綱吉は直感した。この指も、この息遣いも過去巡り会った事がある。けれどその相手はこんな風に優しく撫でてくれる人ではなくて、それが余計に綱吉を混乱させた。
――誰?
リボーンではない。彼の手はもっと小さい。ランボも違う、そもそもあの子は今家で留守番をしているはずだ。京子だろうか、けれどこの手は男性のもの。それとも了平? だけれどさっきも否定した通りこの手はスポーツマンのそれとは違う気がするし、何より彼はもっと行動が粗雑だ。
曲げられた中指の背が頬を小突く。起こそうとしているのか、そうでないのか、戯れを続ける手に感覚を向けながら綱吉は吸い込んだ息を吐く。
「……りさ、ん……?」
小さな声に、動いていた指が止まった。頬骨の上辺りで指は行き場を失い、静かに離れていく。
綱吉の知る限り、この指の持ち主はひとりきり。
「ひば、り……さん……?」
吐息を零すように言葉を紡ぎ、漸くはっきりとし始めた意識の片側で右の瞼だけを持ち上げる。完全に開ききらない寝起きの状態で、なおかつ視界の半分が枕と自分の腕に埋もれてしまっていたけれど、明らかな動揺を見せて手の持ち主は指だけでなく腕ごと引き戻し、己の胸の前で折りたたんだ。
制服に指定されているスラックスと、黒色のネクタイ。下半身の多くはベッドの下に隠れ、開ききらない目で見える範囲はごく限られている。だけれど綱吉には、腹部を中心に殆ど見えないに等しいその立ち姿だけで、相手が誰かを悟った。
何度も、気がつけば背中を捜していた。射抜かれた瞳に釘付けになって、心臓が自分のものではないと思える程に跳ね上がり、苦しかった。
何故彼を前にすると息苦しく、全身があちこち痛むのか、分からない。姿が見つからないと不安になって、余計に苦しくて胸が痛い。その背中に追いつきたい、その手のぬくもりを手に入れたい。
彼に、並びたい。
僅かに遅れて左目が開かれる。一気に広がった世界に、表情を硬直させた黒髪の青年が現れる。後ろで、風を浴びたカーテンが楽しげに揺れている。
他に誰もいない。グラウンドの喧騒も遠く、静かだ。
「ヒバリさん……」
呆然と。本当にその表現がぴったり当てはまる、普段は見ることの叶わない雲雀の姿に不安を抱く。どうして彼は何も言ってくれないのだろう、自分は起きないままの方がよかったのだろうか。
けれど、こんなにも落ち着きを失った心臓はもう黙っていられなくて。彼の離れて行った指先の温かさが恋しくて。
綱吉は縋るような目で雲雀を見る。瞬間、視線は逸らされた。
「―――――っ」
心臓を。
抉り取られたような。
そんな痛みが。
反射的に左手で左胸を押さえる。今までとは比べものにならない絶望的な痛みが彼の全身を駆け抜けた。爪先が痺れ、指先が戦慄く。嫌な汗があらゆる汗腺から噴き出し、呼吸の仕方さえ忘れた綱吉は喘ぐように口を大きく開いた。懸命に息を吸い込もうとするけれど、うまく行かない。
意図しない涙が目尻に浮かぶ。どうして、という声が喉を通らない。
痛い。
イタイ。
助けて、ということばは音にもならずに最初の涙ひと雫と一緒に零れ落ちていく。
もがくように綱吉の手が虚空を掻く。
雲雀が踵を返した。遠ざかろうとする背中に、綱吉は必死に手を伸ばす。指先が虚しく何も無い場所を引っ掻いた。
届かない。このままでは届かない。それでも、なお。
「ヒバリさんっ!」
いかないで、と。
それは、まだ、恋が甘くて柔らかいだけのものだと思っていた頃のお話。