微睡

 珍しいね、と図書室の陳列棚を前にして言った彼の肩には、いつも羽織っているトレードマークの学ランが無かった。
 夕日が沈む直前の長い影が窓から差し込んで、横顔を照らしている。気まぐれに目に付いた本を手にした彼は、黙っていると凛々しくて大人びている。切れ長の眼を細めてページを捲り、けれど次には進まず本は閉じられた。
 綱吉は自分の肩にかけられた学ランの襟元を掴み、落とさないようにと胸の前にまで引っ張る。襟に入れられたカラーが首に当たる。こんなものを律儀にきちんと着ていたら息が詰まりそうだな、と思う。
 自分たちはもうブレザーしか着なくて、彼の姿はこの中学では異質だけれど、既に見慣れてしまったからだろうか、おかしいとちっとも思わなくなってしまっている自分に気付く。ただ、やはり自分が羽織るとなると別格で、通いなれた並盛中学にあって今の自分は浮いてしまっている錯覚に陥りそうだった。
 開け放たれた窓からは、夕暮れ時の冷たい風と活動も終盤にかかっているだろう運動部の掛け声が流れてくる。時折甲高い金属音が混じるのは、野球部が練習中だからだろうか。
「よく眠っていたみたいだけど」
 本を棚に戻し、雲雀が低い声で呟く。指摘を受け、綱吉は赤い顔を夕焼けで誤魔化し彼から視線を外した。その代わりに何故か、雲雀の体温が僅かに残る学ランの身頃を交差させて掴む手の距離が縮まる。いっそこの学ランで全身を隠せてしまえばいいのに、照れ臭さに綱吉はそんな事を考えた。
 たまには真面目に、自力で勉強してみよう。
 テストがあれば軒並み赤点、クラスの平均点をひとりで下げる活躍を見せる自分への不甲斐なさに落ち込む日々。家に帰ればリボーンにこってり絞られ、秀才の獄寺も人に教えるのはどうにも不得手の為あまり頼れない。山本は赤点仲間なので、言わずもがな。
 結局自力で頑張るしかないと、年に一度あるかないかの一念発起。自宅だとランボやイーピンもいて騒がしく、邪魔されるのは間違いないため、学校の図書室という静かな環境で勉強をしようと誓ったまでは良かったのだけれど。
 ホームルームが終わってその足で図書室に向かい、隅の方にある自習机に陣取ったはずなのに、気付けばもう日も暮れかかった夕刻。真っ赤な太陽がビルの谷間に沈む景色が西の空に広がって、人も多少いてざわついていた図書室もシンと静まり返っている。
 遠くには欠伸をかみ殺す司書の先生が、カウンターの中で雑誌を読んでいた。見回す限り他に人の姿も無い。
 椅子に身体を小さくして机に向き直った綱吉は、目の前に散らばっている自分の筆記用具をぼんやり眺める。端の方へ転がり、仕切りの板に阻まれて落下を免れているシャープペンシル。消しゴムはノートの上に残っていたが、そのすぐ傍にはまったく読み取れない謎の象形文字と涎の跡。
「……」
 黙ったまま右手を自由にして額に手をやる。軽く表面を撫でるだけでも、一部が凹んでいるのが分かる。あと少しすれば元に戻るだろうが、その凹凸は紛れも無く、自身の腕を枕にして机に突っ伏して眠っていた動かぬ証拠。
「いつから、居たんですか」
 そもそも何故雲雀が図書室にいるのか。似合わないと言いたげに唇を尖らせ、綱吉は見られたくなかった醜態を反省しつつ、雲雀に視線を流す。長袖の開襟シャツ姿の彼は、ふっと小さく笑ったようだ。
「放課後の、見回り。風紀委員長として、きちんと活動はしておかないとね」
 確かに遠くの壁にある時計はもうそろそろ下校時刻を指し示す。いつまでも帰ろうとしない生徒に帰宅を促すのも、風紀を取り締まる立場にある自分たちの仕事だと言いたいらしい。綱吉はばつが悪そうにしながら、また彼から目を逸らした。今度は彼と反対側の、窓の外を見る。
 学校の敷地内ではあるが教室がある区画から外れ、周囲は緑の木々に覆われている。外を歩く人の姿も無く、本当にグラウンドから遠く響く声だけが耳に入る唯一の音に等しい。空調設備もないので初夏のこの季節、窓は開けっ放し。レールの端まで引かれ、固定されたカーテンの裾が時々風を受け動きづらそうに揺れている。
 ただ、徐々に下がりつつある気温、まだ夏本番とはいえない季節柄少々肌寒くはある。今は雲雀がかけてくれた学ランでそうも感じないが、家に帰り着く頃には日も暮れて、気温も昼間より大分下がってしまっているだろう。
 偶にやる気を出して勉強しようと机に向かっても、十分と経たず眠気に襲われてそのまま寝てしまった綱吉は、ほぼ真っ白なノートに視線を落として溜息をついた。無駄に時間を使っただけの放課後に、自分のだらしなさを恨む。
 こんな調子だから、名前の前に「ダメ」とつけられるのだ。最近でこそそう呼ばれる機会は減ったが、未だしつこく「ダメツナ」と呼んでくるクラスメイトはいる。反論は面倒くさくて随分前からしなくなっているけれど、改めてそう呼ばれると、本当に自分はダメで役立たずの人間なのだと酷く落ち込んだ。
 運動も出来ない、勉強も出来ない。取り柄らしい取り柄もない。
 周囲に獄寺や山本が集い、にぎやかになって少々特殊な環境になれば力を発揮できても、日常生活でそのパワーを持ち越せなければ周囲の評価は変わらない。その他大勢であるクラスメイトは、綱吉の非日常を知らないのだから。
 足音が短く響いて、綱吉は顔を上げた。油断していたからか目に直接夕日が飛び込んでくる。慌てて瞼を下ろすものの既に遅く、瞳を浅く焼いた陽光が瞼の裏側でちかちかと明滅を繰り返した。柔らかい風が、顔を顰めさせた綱吉の頬をあやすようにして撫でる。
 中学校のではないチャイムの音がどこからか聞こえた。恐らくは近所の工場の、業務終了を知らせる鐘の音だろう。それは周辺地域にも大きく響き渡って、工場に係わり合いの無い人にも時の経過を教えてくれた。グラウンドを駆け回っている部活中の生徒たちも、今の鐘を聞いてもうじき活動時間が終わり、帰らねばならない時間だと気付くだろう。
 耳の奥で反響を残し、やがてチャイムは掻き消える。何をするでもなく、ただ雲雀の、綱吉にとっては大きすぎる学生服を落とさないよう左手でしっかりと握りながら、滅多に足を向ける機会も無い図書室内部を眺める。雲雀本人は立ち去ろうという気もないらしく、それでいて綱吉に構う様子も無く背の低い書架の間をうろうろしながら、雑に本が並べられている箇所を見つけると逐一取り出しては綺麗に並べ直していた。
 だが途中で飽きたようで、手にしていたハードカバーの小説で右肩を叩きながら、小さく欠伸をした。
「早く帰りなさいよ」
 カウンターから声がかかり、顔を上げると帰り支度を始めている司書の姿があった。本当は自分が早く帰りたいだけなのだろうな、とその手際よさを遠目に見やり、綱吉も自分の荷物を片付けようと腕を伸ばした。
 転がっているシャープペンシルを指でつまみ、口が開いたままだったペンケースに押し込む。無論、出っ放しだった芯は尻部分を叩きながら机に先端を押し付けて中に仕舞いこんでから。消しゴムも続けようとして、少し考えてからノートに残るミミズ線は消してしまうことにする。だが、片手で学ランを掴んだままでいるので、消しゴムを動かす度にノートも一緒にずれ動いてしまい、なかなか上手く行かない。
「何やってるの」
 呆れた物言いで雲雀が言い、視線だけを持ち上げるともうそこに彼の顔があった。
 綱吉が座っている机の向かい側に立ち、目隠しとなっているついたて越しに覗き込んでいる。片手を腰に当てる柔らかな立ち仕草で、身体の右半分だけに夕日を浴び陰影が濃い。長めの前髪が垂直に垂れ下がって、綱吉の、跳ねてばかりいる髪の毛を掠めていた。それくらいに距離が近い。彼の吐く息が綱吉の鼻先を通り抜けていく。
 思わずぼうっと、彼の顔を斜め下から見つめてしまうほどに。
 ――綺麗な顔だよな……
 彼が意外にも女子に人気があるのを、綱吉は知っている。顔立ちは整っているし、傲慢な性格をしているが誰よりも強く、芯も強い。無論傍若無人な彼に付きまとったり、告白をする勇気ある女生徒は殆どいないわけで、遠巻きに眺めるしかない彼女たちの背中を知っているだけに、こうやって至近距離から彼を見つめられる自分に、少なからず綱吉は自尊心を擽られる。
 自分は特別なのだと、錯覚してしまう。
「聞いてる?」
 やや不機嫌に彩られた声。ハッと我に返ると、雲雀もまたジッと綱吉を見据えていた。その瞳の色に険があり、綱吉は慌てて顔を下向けて消しゴムで無駄な落書きを消す作業に戻る。だけれど片手では矢張り上手くいかなくて、もどかしいくらいに手間取っていると唐突にノートのブレが止まった。
 見かねたらしい雲雀の左手が、最初の位置から随分とずれてしまっているノートの端を抑えていた。
「あっ……有難う御座います」
 瞬間的に顔をあげ、また下げて、赤くなっている自分を意識して余計に赤くなりながら、綱吉は急いで作業を終わらせる。全身から汗が噴出して、顔が熱い。雲雀は気付いているのだろうか、彼の手は変わらずそこに置かれたままだったけれど、先ほどよりもリラックスして衝立に肘をき、焦る綱吉を見て肩を震わせ声を立てずに笑っていた。
「そんなに、笑わないでください」
 漸く綺麗になったノートに消しゴムのカスを集め、綱吉は頬を膨らませる。足元の小さなゴミ箱にカスを落とし込んで、衝立に凭れ掛かっている男を睨み上げると、彼は片方の眉を持ち上げて少しだけ目を見開き、しかし皮肉そうに口元を歪めて笑うだけだった。
 ノートから離れた手が、綱吉の教科書に伸びる。ぱらぱらと端を抓んでは一頁ずつ落として行き、表紙まで終わるとまた同じ事を繰り返す。その間に綱吉は消しゴムに残っていた黒いカスもゴミ箱へ落とし終え、筆記用具の片付けを完了させた。今度は広げているノートと教科書を仕舞いたいのだけれど、雲雀が弄っているので出来ない。
 恨めしげに彼を見上げると、気付いた雲雀がまた表情だけで笑った。
「なに?」
「……いえ」
 分かっているだろうに、ワザとらしく聞き返されて綱吉は憤然としながらノートだけを閉じた。下敷きを抜き取り、それで顔を仰ぐ。
「君は」
 不意に、雲雀の声のトーンが下がった。いつもと違う彼の調子に胸がドキリと跳ねる。ちょうど綱吉の視界には薄いクリーム色をした衝立と、薄い板であるそれに沿うように置かれた彼の右手しか入らない。左手は何処に行ったのだろう、瞳だけを左右に動かした綱吉は、いつの間にか自分の綺麗過ぎる教科書が机から消えているのに気付いた。
「数学は、苦手みたいだね」
 言われて顔を上げる。左手一本で教科書を持ち上げた雲雀が、折り癖のついているページに親指を挟んで残りの指を背表紙に沿わせていた。長くしなやかな中指が、頻りに背表紙を撫でている。その持ち方があまりにも教鞭を揮う人を思わせるものだから、緊張で背筋が伸びた綱吉は唾を呑んだ。
「数学……も、苦手なんです」
 返した言葉は想いもがけず、自嘲気味な色合いを持って掠れた声で紡がれる。
 綱吉には得意教科が無い。どれも苦手、どれも不得意。読解力が必要なものも、理解力が必要なものも、記憶力を試されるものも、運動神経を問われるものも、全てが全て。
 思い返し、唇を浅く噛む。雲雀にまで「ダメツナ」と思われるのは辛くて、綱吉は顔を俯かせた。肩からずり落ちそうになる自分のものではない学生服を、強く握り締める。
 自分で言っていて悲しくなってくる。好き好んでこんな風に育ったわけではない。それなりに改善しようと努力はしてきたし、運動オンチだって練習すればきっと上手くなると信じた時期もあった。
 けれど無駄に張り切って、頑張って、それでもダメで。いつからか、最初から諦めてしまった方が楽な現実に気付いた。足掻いて、藻掻いて、苦しんで、悩んで迷って落ち込んで。そんな時間を過ごすくらいなら、最初から全部諦めてしまった方が傷つかずに済む。
「自分は何をやってもダメ」というレッテルを自分で自分に貼り付けることで、楽になったつもりでいた。
 それが間違いだったこと、自分は全然ダメじゃないと教えてくれたのは、リボーンや獄寺や、山本や。沢山の仲間、友人、この一年足らずの間で出会ったかけがえの無い人たち。
 綱吉は思い切って顔を上げた。雲雀に否定されるのは怖かったけれど、俯いて下ばかり見ていても状況は変わらないことを、綱吉は既に知っている。
 雲雀は教科書を閉じた。夕闇が迫り、ふたりの距離を曖昧にする。
「それで?」
 雲雀の声は素っ気無い。いつもの事ながら、あまり感情を含まない抑揚の無い声に、綱吉は尻込みしながらもぐっと堪えた。これでまた俯いては、最初から全部諦めている頃と同じだ。
「でも、頑張ればなんとかなるかな……って」
 語尾が若干弱くなってしまった。あはは、と笑い飛ばそうとして失敗して、綱吉は表情を変えない雲雀の顔を見つめた後、小さく肩を落とし溜息を零した。
 やはり彼の前だとどうにも緊張してしまう。何もかもを見透かしたような透明な瞳の前では、多少の勇気も薄っぺらな紙切れに等しい。まだまだ「ダメツナ」な自分を自覚して泣きそうになっていると、いきなり頭を叩かれた。
 痛くはない。なんだろうと顔を上げると、視界を塞ぐ格好で数学の教科書がそこにあった。どうやらこれで叩かれたらしい。指で押しのけると、雲雀が教科書を支えていた手を離す。バランスを崩し、テキストは綱吉の右肘の上に転がり落ちた。
「いたっ」
 痛くはないけれど、受けた衝撃で思わずその単語が口に出る。綱吉の見ていないところで雲雀が眉根を寄せた。不機嫌に、顔を顰めさせる。
 テキストを拾い上げる。落ちた衝撃で両側に広がった教科書は授業中以外だと滅多に広げられる事もなく、表面以外は殆ど汚れていない。裏返してやると、先程まで綱吉が枕にしていたページが勝手に開かれた。解きかけだった問題が、脳裏に甦る。問題を書き写したところで脱力してしまった問題だ。
 よく寝ていたという雲雀の言葉も一緒になって頭の中で繰り返された。いつ眠ってしまったのだろう、まったく覚えていないのだけれど、ノートの真っ白さ加減からして問題を解こうと取り組みだしてそう時間は経過していなかった筈。実際、問題を解き終えたという記憶が綱吉にはない。考えながらシャープペンシルで頭を弄っている最中、ひたすら欠伸が漏れていたのは、覚えている。
 とすると、その直後くらいだろうか。誰かに間近で名前を呼ばれた気がして、目が覚めた。その時にはもう、肩には雲雀の学ランがかけられていた。僅かに残っていた彼の体温を思い出し、綱吉の頬にサッと朱が走る。
 彼の匂いが染みついたそれの袖を掴む。彼に抱きしめられている錯覚に、綱吉は首を振って目の前の本物を見上げた。その頃にはもう雲雀の表情はまたいつもの愛想無いものに戻ってしまっていて、ただ彼はじっと、綱吉の腕を見ていた。
 衝立にあった雲雀の手が降りて、赤くもなっていない綱吉の腕を指が撫でた。
「雲雀さん……?」
 怪訝気味に綱吉は雲雀を呼んだ。返事はなく、ただ数回皮膚を撫でて彼の指はまた遠ざかる。ふたり分の体温が重なり合った場所だけが、妙に熱い。
 あとから赤くなっていそうな箇所を今度は綱吉の指が辿った。そこが先程、雲雀が手を離した事で角から落ちていった教科書がぶつかった地点だと綱吉が気付くのはそれからで、おや? と思って雲雀を見直すと、彼は夕日も薄れて暗くなる空を見上げていた。
 その素っ気なさに隠れる照れや、優しさに、綱吉は頬が弛んだ。腕にやっていた指を曲げて口元に置き、微かに笑う。横目で見下ろす雲雀は不機嫌そうだ。
「なに」
「いえ、別に……」
 なんでもない、と言いながらも綱吉はまだ笑っている。雲雀は眉間に皺を寄せ、それからぶっきらぼうに自分の前髪を掻き上げた。額に手をやって暫くそのまま停止し、ひとつ息を吐くとその手を綱吉の顔の前に持って行く。
「?」
 疑問に思った綱吉が声を上げる前に、軽く握られた彼の手から、人差し指が勢いよくはじき出された。避ける余裕もなく、綱吉のおでこに指が直撃する。
 弾き飛ばされはしないが、首から上が後ろに仰け反った。
「いっ……ったぁ!」
 何をするんですか、と大声で怒鳴る。今度こそ本当に痛くて、皮膚も赤くなっているに違いない。
 場所をわきまえずに怒号を上げて、椅子を蹴り立ち上がり額を抑えた綱吉だけれど、二秒後ハッと我に返って現在地を思い出した。ここは図書室、大きな音や声はご遠慮下さいの空間だ。しまった、という顔をしてももう遅いが、お叱りの声は飛んでこなかった。
 カウンターに目を向ける。そこにいるはずの司書の姿は見あたらなかった。何処に行ったのだろう、毒気を抜かれた綱吉が視線を巡らせていると、今度は雲雀が笑う番。
「心配しなくても、戸締まりは僕の仕事だから」
 言って、綱吉の前に垂れ下げられる鍵、二種類。一目見ただけではどこの鍵なのかは分からないけれど、雲雀の口ぶりからして、図書室の鍵であるのは間違いなさそうだ。いったいこの男は、どこまでこの学校の中枢に食い込んでいるのだろう。
 実質校長よりも権限が強いのではなかろうか、そんな風に思って呆れていると、不意に笑いがこみあげてくる。いかにも彼らしくて、それがなんだか可笑しかった。
「ふぅん」
 雲雀が頷く。目尻を下げて笑っていた綱吉が顔をあげると、鍵を手のひらで握り直した彼は衝立に両肘を置いて身体を凭れさせていた。真正面から見下ろされており、その表情はどこかしら満足げでもある。
 綱吉は首を傾がせる。
「なんですか?」
「別に?」
 問いかけると、先程綱吉が返した台詞をそのまま返された。いつもの事ながら意地が悪いと頬を膨らませると、雲雀のしなやかな指がそこを小突く。
「落ち込んでいたのは、何処かへ行ったみたいだね」
 だからそんな風にいきなり言われて、面食らった。
「え?」
「さっき、泣きそうな顔してたから」
「え!」
 慌てて両手で自分の顔を、頬を隠す。支えを失った雲雀の学生服が、ずるずると綱吉の肩からずり下がっていった。
 泣きそう、とはどういう事だろう。ひょっとしなくても、数学が苦手云々の会話の時だろう、他に思い当たる節がない。しかし泣きそう、とは。
 そして。
 雲雀が綱吉の頭を教科書で叩いたのも、今、綱吉の額を指で弾いたのも。
 綱吉が、落ち込んでいたから……?
 ぷっ、とその綱吉が噴き出す。
「雲雀さん、それ凄い、分かりづらいですよ」
 口元に手をやったまま、ケラケラと笑い出す。心底おかしくて、苦しくて、また泣きそうな気持ちになったけれど今度はさっきのような、落ち込んだから、の涙ではない。嬉しくて心が温かくなる。それでいて、ぎゅっと締め付けられたような切なさが肉薄して、綱吉は余計に泣きそうになった。
 雲雀が唇をへの字に曲げて不機嫌を一層露わにしたけれど、綱吉が笑っているからと肩を竦め、受け流す事にしたらしい。
「うるさいよ、君は」
「あはは、すみません」
「ここ、図書室だって分かってる?」
「あー、はい。でも他に誰もいないし」
 それはさっき、大声を出した綱吉に対して雲雀が示した事だった。だから悪戯っぽく舌を出して目を細めると、雲雀は明らかにムッとした顔で自分の先程の失言を悔やんだ様子。手にしていた鍵ごと、衝立から腕を下ろし机に両手をつけた。
 白い開襟シャツが、綱吉の視界いっぱいに広がる。
 夕凪の時、朱と紺が混じり合う空にふたつの影が重なり合う。
「少し黙りな」
 低い声で囁かれる命令は、綱吉の耳元を掠めて沈んだ。黙るも何も、言葉を発する器官が物理的に塞がれて、綱吉は一度大きく目を見開いた後、仕方がないなと雲雀の我が儘ぶりに目を閉じる。
 こういう時の彼は、実際は綱吉よりも年嵩のくせに、綱吉よりずっと子供っぽくて。
 この人が好きだと、心底、実感する。
 綱吉の肩から落ちた学ランが椅子の背もたれに引っかかって止まった。不思議とその重みは感じず、肌寒さもどこかに消える。ただほんのりと、窓から差し込む今日最後の陽光が暖かい。
「良いんじゃない? 君は君なんだし」
「え?」
 キスの終わり、囁かれた言葉は綱吉の耳には遠く。
「なんでもないよ」
 そんな台詞に誤魔化され、不満顔は夕日に沈む。
 近すぎて雲雀の顔がちゃんと見えない。悔しいな、と思っていると、上唇を甘噛みした雲雀が薄目を開けて至近距離で視線がぶつかり、綱吉は咄嗟に目を閉じた。必死に瞼を下ろして照れを隠していると、雲雀の手が優しく頭を撫でて来るものだから、強ばった全身の力がそこから抜けていく。
 敵わない。キスを続けたまま、雲雀が笑った。宥めるように舐められた舌から淡い痺れが指先まで駆けめぐる。背筋が粟立ち、震える。首を傾けると、外れて出来た空間から埋め直されて、尚深く交わりが続いた。
 きっと、今のような時間は再び訪れる事はないだろうし、こんな風に甘い空気を楽しみながら彼に心を委ねられる時間も短いだろうけれど。
 せめて、今だけは。
 綱吉は少しの間迷った末、机上で硬直させていた手を解き、同じ机に置かれた雲雀の手に重ねて置いた。ぴくり、と彼の指が僅かに動いて一瞬の緊張を伝えたけれど、逃げ出さず彼は綱吉の体温を受け止めてくれる。
 今度は二人揃って笑って、額を小突き合ってまた笑う。
 今が幸せだと思う。馴れ合うように求められて、綱吉はまた顔を上げ、雲雀を受け容れる。
 今だけかもしれない、とは思う。壱秒後の世界さえ分からない自分に、いつまで彼と一緒に居られるかどうかも分からないけれど、でも。
 ずっと、いられたら良い。そう願って、ふと、綱吉は締め付けられる胸の苦しさに涙を浮かべた。雲雀が気付いて、静かに名前を呼ぶ。その声ですら、余計に悲しさを募らせて、綱吉はぎゅっと、彼の首に腕を回ししがみついた。
 もし、いつか。
 いつかなんて、分からないけれど。
 さよならを言わなければならない時が来ても、きっと、自分は、また貴方を、好きになる。
「甘えん坊」
 雲雀が綱吉の背中を撫でながら薄く笑ってそう言った。
「嫌ですか?」
「まさか」
「ねえ、雲雀さん」
「なに」
 低い、語尾の上がらない声。綱吉の心をくすぐり、落ち着かせなくする声。この声を、ずっと、いつも、聞いていけたらと切に願う。
「また、俺の事、起こしに来てくれますか」
 答える代わりに頭を撫でる手はどこまでも優しくて、綱吉はまた泣きたくなった。