策謀

 そよそよと涼やかな風が吹いている。自分の揺れる前髪をぼんやりと見上げ、薄茶色の隙間から覗く青空を流れていく雲を数える。
 身体ごと預けている椅子は背凭れの部分が籐編みで風通しも良く、地面に対して垂直ではなく若干後方へ傾斜している。その角度設定は絶妙であり、綱吉の体型に合わせて作られた特注というのも十分納得がいく職人の仕事ぶりだった。
 高かったのですよ、そう言って新品のそれを屋敷に持ち込んできた男の顔を思い浮かべる。いつも何処か、自分勝手に動き回ってはボンゴレの力をしても所在をつかめぬ事も多々あり、何を考えているのかもよく分からない男。かつては敵であり、今もまた恐らくは、ボンゴレ内部でも彼を仲間として認めていない面々は多い。
 それだけ彼が過去に起こした所業は罪深く、ボンゴレ十代目の名をして彼を赦したとて、納得できない者は一生納得できないままだろう。そもそもそのボンゴレ十代目自身、まだ若かりし頃この男に命を狙われている。
 そんな危険な男を飼い慣らす事が、ボンゴレ十代目の懐の深さを物語っていると、言う人間はそう言う。逆にそんないつ裏切るかも分からない男を手元に置いておくのは危険だ、と言い張る輩の主張も至極もっともであり、だがボンゴレの首領たる沢田綱吉の決断だけが、今彼の男の首をつないだ状態にしているとも言える。
 綱吉が彼を切ると言えば切るし、赦すといえば許される。そして男は綱吉の、そういう立場を理解した上で彼をからかい、時には裏切りにも思える暴挙を起こしては周囲を冷や冷やさせている。己が置かれた環境をむしろ楽しんでいる風情だが、振り回される側からしてみれば迷惑極まりない。
 だから十年という時を経ても未だに彼――六道骸は独自のネットワークと部下を持ち、ボンゴレ傘下にありながら独立したファミリー状態に近く、綱吉を支える屋台骨のひとつに数えられながらその他の面々とも馴染もうとしない。
 ただ綱吉の呼び出しにだけは他と比べると割と素直に従っている。それでも十回中六回応じれば良し、という程度でしかないが。
 綱吉は僅かに地面に届かない爪先を揺らし、椅子に全身を預けて暫く目を閉ざした。
 緑濃い庭を前にしたテラスは日よけの屋根が張り出し、タイル張りの床は磨かれて油断すれば滑って転べそうだ。六畳は軽くありそうなスペースには綱吉が座る木製の椅子と、その横に座っていても手が届く高さで小さめの白いテーブルがひとつ。上には読みかけの本が、まだ始めの辺りに挟まれた栞を風に揺らして置かれている。
 周囲には誰も居ない。綱吉に遠慮してか、ガードマンを兼ねている彼の腹心の姿も見当たらなかった。
 綱吉は時折うつらうつらしながら、流れていく雲と鳥の囀りを聞いていた。此処最近いざこざが立て続けに発生し、その全てに自ら先頭に立って指揮をしていたものだから、蓄積された疲れについに身体が追いつかなくなった為の今日は休養日。
 仕事はせずにのんびり過ごせ、と頭ごなしに命令してきたリボーンの言葉を甘んじて受け、今日は午前からこうして此処に居る。
 のんびりしろ、と言われても此処のところずっと多忙続きだったから、どうやって休めばいいのかが分からない。そういうと、兎に角日向でボーっとしていろと言われてしまった。そこで思い出したのが、以前に骸から送られたこの椅子の存在。
 贈られた当初は何か裏があるのではと、素材に毒物や危険物質が含まれているのではないかと疑いの目を向けられた椅子だけれど、製作者の証言もあり、また科学的にも問題なしと既に判明している。椅子としては甚だ迷惑な経歴であるし、作った職人にしても非常に不愉快な思いをさせられただろうが、贈ってきた相手が相手なだけに、どうも周囲は過敏になり過ぎる。
 綱吉自身はその直観力から問題ないものだと見抜いていたけれど、彼自身もまた骸との確執がまったく無いわけでもなく、疑わしきは疑う精神が優位にたってしまう。
 だがひとたび疑いが晴れたならば、今こうしているように全身寛いで転寝も出来るわけで。
 綱吉の神経の太さ、その懐の広さは評価に値するだろう。裏を返せば彼はこの世界において過分に甘く、隙だらけなのだけれど。
「……」
 薄く唇を開き、そこから息を吐く。瞼を下ろせばすぐに寝入ってしまえそうだったが、たとえ敷地内であっても壁の無い場所で眠るのには勇気が居る。呼べばすぐ駆けつける距離に仲間は控えているだろうけれど、姿が見えないのはやはり少々、心細い。
 だけれど、どうにも眠い。睡眠時間三時間足らずの生活が続いていた影響は確実に綱吉の身体を蝕んでいる。少しくらい昼寝をしても足りないくらいだ。
 長らく使うことなく放置していた椅子の存在を思い出したのは偶然で、行き場もなくうろうろとしていた先で偶然テラスに置かれているのを見つけた。そういえば此処に置くように言ったのは綱吉だ。自室には既にソファがあって必要なく、執務室に置くには不向き。骸が綱吉の為に贈ったものだから綱吉以外の誰かが使うわけにも行かず、日々に忙殺されるうちに綱吉自身忘れかかっていた。
 座ってみれば思いの外居心地がよく、見た目以上に肌触りも柔らかい。意外に気の利いたものを贈ってくれたものだとその時の骸を思い返し、けれどどこか複雑な気持ちも同時に沸き起こる。
 何か裏があるのではないかという思いは、本人に確認しない限り知る術はないのだけれど。
 そういえば彼は今何処にいるのだろう。またしても連絡が取れなくなり、所在を突き止めようにも最近のいざこざのお陰ですっかり二の次になってしまっていた。彼のことだから余程でない限り無事であろうが。
 たとえかつての敵、そして今はいけ好かないとはいえ仲間。見知った顔がいつの間にか消えて二度と会えないというのは、どういう付き合い方をしてきたかによって多少違うが、悲しくもあり寂しいものを感じずにいられない。
「無事でいるなら連絡のひとつくらい寄越せば良いのに」
 薄目を開け、ぼそりと呟く。視線は遠く彼方、行方も知れぬ背中に向けて。
 しかし。
「それは、誰に向かって仰っているのですか?」
 思いもがけず、脳裏に浮かべた声は背後から。
「っ!」
 反射的に綱吉は身体を起こし、肘置きに両手をついて振り返った。その勢いの良さに、むしろ声をかけてきた相手が驚きを隠せない。ふたりして目を丸くしながら殊の外近かった距離で見詰め合う。十五秒ほどたっぷり互いの顔を見合わせてから、漸く骸は手にしていた盆を持ち直して肩を竦め、笑った。
 こげ茶色の丸盆には、淡い緑色のティーポットカバー。骸はグレーの品の良いスーツに身を包み、ネクタイはせずにシャツの第二ボタンまで外して鎖骨を見せていた。左右で色の異なる瞳を細め、彼は隙の無い動きで綱吉の視線を避け、テーブルに盆を置く。カバーの下から現れたのは、花柄が綺麗な白い陶器のティーカップ。白い湯気を立て、仄かにハーブの香りがした。
「……戻って来るという連絡は、受けてないけど」
 相変わらず無駄の無い動きで紅茶の用意をする骸に、警戒心を露にしながら綱吉が姿勢を正す。やや棘のある冷たい口調に、骸は皮肉げに口元を歪めた。
「ええ。ですからこうして今、帰還のご挨拶に」
 どうぞ、とソーサーごとカップを差し出される。中の液体の色合いは薄く、香りだけが強い。
「最近は十代目もお疲れと伺っていましたので」
 ハーブにはリラックス効果があるのですよ、と瞳を細めて言う彼の顔を、綱吉はしげしげと見返した。彼がこういう笑い方をする時には、たいてい何か裏でよからぬ事を企んでいる場合が多い。過去何度となく経験済みの為、無意識に警戒する心を持ってしまっている綱吉は、なかなかカップを受け取れなかった。
 骸と罪も無い美しい陶器の芸術品とを見比べ、やがて首を振り背中を椅子に沈めた。
「おや、お気に召しませんか?」
「中に毒でも入れられていたら、困る」
 カップを手に首を捻る骸に、綱吉は素っ気無く言葉を切った。彼はその口ぶりに怒るわけでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに目を細める。
「それは心外ですね。僕はあくまでも、ボンゴレを心配して用意しただけなのですが」
 到底そう思っているとは考えられない穏やかな口調で言い、彼は仕方なくソーサーを盆に戻す。カチリと硬い音が僅かに響いた。
 綱吉は背凭れに身を預けたまま横目で一瞥し、再び視線は前方へ。抜けるような青空が憎らしいほど遠くに広がっている。かつて、自由気ままにあの空の下で駆け回っていた日々が嘘のようだ。
 切なさが胸を過ぎり、綱吉は骸の登場ですっかり飛び去ってしまった眠気をどうしようか思い悩む。そろそろ自室に戻っても良いだろうか、ぼんやり考えているとまた耳元で陶器の擦れ合う音が聞こえた。
 目を開け、首に角度をつける。見上げた先で骸は、自分が持ち込んだ綱吉の為に用意したというハーブティーに口をつけているところだった。喉仏が一度大きく上下し、紳士然とした態度で彼は優雅に傾けたカップを左手に持ったソーサーに返す。
 何をしているのかと怪訝に眉を寄せた綱吉へ、彼はにこりと微笑んだ。
「毒など、入っていないでしょう?」
「……」
 呆れてものが言えないとは、こういう事をいうのか。悪気は無いのだろうが骸の行動にドッと疲れが押し寄せてきて、綱吉は額に右手を押し当てた。
「ボンゴレ?」
「あー、もう。分かったから」
 額を押さえたまま、左手を揺らす。溜息の末に顔を上げると、満面の笑みを浮かべている骸と目が合った。そのまま左手を差し出すと、中身が若干減ったカップを与えられた。色の薄い液体が波立ち、こぼれる寸前まで行って内壁にぶつかり、砕けた。
 風は相変わらず静かに庭を通り抜けていく。どこかの枝で囀っていた鳥が羽音を立てて飛び去っていった。音に驚き、綱吉はカップを手にしたまま思わず身を竦める。頭上の気配が笑いを押し殺していて、恥かしさに綱吉の頬は赤く染まった。
 ソーサーは受け取らず、カップだけを右手で持つ。まだ暖かさの残るカップに、何故かホッと息が漏れた。昼食後からずっと外にいたから、自覚が無いところで身体が冷えていたのかもしれない。ゆっくりとカップの縁を指でなぞりながら、波も穏やかになったハーブティーに映る自分の顔を見つめる。顔色が優れないように感じるのは、お茶の色合いの所為だろうか。
「冷めてしまう前に、どうぞ」
 にこやかな骸の声に、我に返る。ああ、と小さく頷いて綱吉はカップを唇に寄せた。だがふと、触れる寸前であることに気付いて動きを止める。喉元まで寄せていたカップを再び胸の前にまで降ろし、もう一度カップの縁を親指でなぞった。
「どうかしましたか?」
 今度は骸が怪訝に思う番で、僅かに距離を詰めて綱吉に問いかける。彼は曖昧に返事を濁し、暫くの間カップを凝視する。右手で持ったそれの、ちょうど口を着けるのにちょうどいい箇所の外側がほんの少しだけ濡れていた。
 先ほど毒見を買って出た骸が口を着けた場所。
「ボンゴレ?」
「あ、いや……」
 飲まないのかと言外に問う声に、綱吉はちらりと彼へ視線を流してすぐに目を逸らした。座っているお陰で、今の視線の角度からでは立っている骸の顔は殆ど見えない。だが顎のラインはぎりぎり視界に納まって、赤い彼の唇は否応が無しに綱吉の目に留まった。
 まさか今時、間接キスなんていうものに照れるなどありえない。小中学生の頃の、甘酸っぱい初恋に胸をときめかせた時分では十分あり得ただろうけれど。それに何より、相手は男、しかも六道骸。
 綱吉はしばし考え、カップの底を支えて持ち手を左に変えた。特に意味は無かったのだが、一度気になってしまうとなかなか頭がそこから離れない。結局彼が口をつけたものを飲もうとしているのだから、間接以前の問題なのだけれど、そこまで思考が巡らなかった。
 そして今度こそ、いい加減冷めかけているハーブティーで喉を潤そうと試みる。だが。
 またしても寸前までもって行ったところで、安っぽい推理小説などに出てきそうな殺人トリックを思い出してしまい、ぐっと吐き出した息を飲み込んで綱吉は頭を垂れた。
 どうして今日のような日に限ってこうも雑念が多いのだろう。小さなことがとても気になってしまって、脱力感が全身を襲う。
「先ほどから百面相をして……香りが苦手でしたか?」
 更に距離を詰める骸の声にゆるゆると首を振り、綱吉はいつの間にか目の前に来ていた彼にカップを押し返した。不思議そうにしながらも黙ってそれを受け取り、骸は綱吉の顔をじっと見る。理由を言わなければ許してもらえそうになくて、綱吉は神経質になっている自分を嗤った。
「ボンゴレ?」
 骸が膝を折り、綱吉の前に体を沈める。跪く体勢で見上げられると、もう視線を避けるわけにもいかない。
「いや……。飲み物に毒はなくても、カップに塗ってあれば、ってね」
 言いながら綱吉は、今は骸の手中にあるカップの縁を指で辿った。
 嫌な言い訳の仕方だ。どこまでも彼を疑って、疑って、悪い方向にばかり考えて素直に好意を受け止められないでいる自分に腹が立つ。
 俯き、苦しそうに表情を歪めて綱吉は奥歯を噛んだ。柔らかな彼の髪が風に揺れる、泣いているのかと一瞬思われたがそうではなくて、押し殺した声は音にならずに綱吉の胸の中でひっそりと消えた。
 骸が僅かに驚いた風に目を開き、ややしてからどこか呆れた感じで吐息を零した。表情は優しく穏やかで、微笑んでいるようにも見える。
「構いませんよ」
 言って、骸は空いた手で綱吉の手を取った。膝の上で重なる掌は確かに暖かくて、彼が血の通った人間であるのを思い出させる。ビクッと震えた綱吉の肩の細さに彼は口角を持ち上げて笑い、やがてゆるりと首を振った。
「貴方が責任を感じる必要はありませんよ」
 ざわっと木立が風を受けて波立つ。久方ぶりに吹いた強めの風に、羽を休めていた鳥が立ち去り流れた雲に日差しが消えた。
 一瞬周囲が薄暗くなり、綱吉の背後を風が行過ぎる。
 鼻腔に微かな、ハーブの香り。
「怒らないのですか?」
 間をおいて放たれる、骸の意外そうな声。綱吉は己の口元に左手をやりながら、少し考えて首を振った。
「怒られなきゃならないのは、俺の方だろう。俺はまだ、お前を信頼していない」
 指先が唇を撫でる。僅かに残る他者のぬくもりに、言い表しようの無い安堵を覚えている自分に気付く。
 実際骸にはひどいことを言っているし、怒りを訴えられてもおかしくないというのに、彼は。本当にどうかしていると珍しいものを見る目で彼を眺め下ろすと、カップをテーブルに戻した骸は悪戯な笑みを浮かべて綱吉を見返した。
 色の違う瞳が、どこか蠱惑的な雰囲気を漂わせている。
「いいのですよ、ボンゴレ。貴方が潜在的に僕を拒絶したがっているのは、承知しているのですから」
 それでもなお、意識して骸を仲間として認めようとして。過去の罪を赦し、今を受け入れて。
 時に彼を思い出し、無事を願い、その姿を見て安堵して。
「それでも僕は、僕たちに居場所をくれた貴方に、感謝している」
 誰からも望まれず、誰からも求められず。ただ復讐の為だけに生きていた頃よりはずっと、今の生活は心地よい。たとえ心の底から綱吉の信を得られずとも、いつか報われると思えば生きることも辛くない。
 いつか、がいつになれば来るのかなんて、本人同士でもきっと分からないのだろうけれど。
 綱吉は唇を浅く噛んだ。彼を本当は全て赦してやりたいのに、身体が覚えている恐怖心が骸を拒絶する方向に働こうとする。もうあんな思いはしたくないという辛さが先に立ち、骸本人と向き合うのを畏れている。思春期に刻まれた記憶は、良くも悪くも大人になってから過分に影響を及ぼすものだと今更に自覚する。
 彼の手は、こんなにも暖かいのに。
 つと零れた涙は頬を伝い掌に落ちる。散って砕けた僅かな雫に顔を顰め、骸は何も言わずに伸ばした指で彼の頬を拭った。その動きは柔らかで、けれど染み込んだ彼の匂いはどこか血生臭い。
「ちゃんと風呂……入れよ」
 洗っても、洗っても消えない血の香り。誤魔化しでしかないと知りながら綱吉は、自分の頬を撫でる男を見返して言った。浅く、骸が笑う。
「ならばご一緒に、如何です?」
 反対の手で綱吉の膝を撫でながらの男のことばに、今度こそ明らかにむっとした表情を浮かべた綱吉は頬に添えられている手の甲を思い切り抓った。爪も立ててやると、彼は苦笑いを作って離れていく。
「それはそうと、気に入っていただけましたか?」
 ゆっくりと立ち上がった彼がその途中で綱吉の座る椅子を指差した。抓られた甲がまだ赤い手が嫌でも目に留まり、綱吉は背中を浮かせて背凭れを振り返った。硬すぎず、また柔らかすぎない弾力で風通しも良く、完全に身体を預けきってしまうとつま先が浮く以外は非の打ち所が無い。
 こういうものを職人技と言うのだろうなと感心しながらも、いったい骸はどこから綱吉の詳細なサイズを知ったのか疑問にも思う。前を向き直ると彼は飲み干されることのなかったハーブティーを片付ける最中で、綱吉の視線に気付き肩越しに振り返った。
「どういうわけか、サイズがぴったりで気持ち悪いくらい」
「それは良かった」
 肩を竦めて皮肉を口にした綱吉に対し、骸は目を細めて嬉しそうに笑うものだから変に勘繰っている自分が悪者の気分にさせられる。どうしてもっと純粋に、彼の好意を甘受できないのか。この微妙な距離感に戸惑いを禁じえず、綱吉は次に続ける言葉を見失って頭を掻いた。
 骸はというと、大して気にする様子もなく、倒してあったカバーを退けて盆の中央にカップを載せ、その横にカバーを添える。このまま行けば会話も打ち切られ、骸は去っていくだろう。用事といえそうなことは全て片付いたのだから。
 ただ、綱吉にはそれが少しだけ、寂しく思えて。
「あの、骸」
「そうそう、その椅子ですけれど。実はとてもすばらしい秘密があるんですよ」
 勇気を振り絞って椅子から身を乗り出し、話し掛けようと口を開いた綱吉を遮って、骸が唐突に手を叩いた。
「秘密?」
 タイミングを逸し、勢いを削がれた綱吉は元から大きな目をもっと大きくして骸を見上げる。にこにこと悪意を感じない笑みを浮かべた彼が「はい」と頷いて、綱吉に椅子へもたれかかるよう促した。彼はというと、わけも分からず椅子に磔になった綱吉の背後へと回り込む。
 何をする気かと、肘置きを掴みながら眉を寄せた彼へ、後ろから骸は両手を伸ばした。
 背凭れごと、綱吉を抱きすくめる。
 雲に隠されていた太陽が顔を覗かせ、庭に眩しい光が戻ってくる。明るく照らされたテラスに、ふたり分の影が短く落ちた。
「この椅子は、こうやって、僕が貴方を抱きしめるのに丁度良いサイズなんですよ」
「……馬鹿、じゃない?」
 心底呆れて、なんとか吐き出せた冷たいひとことは、台詞の中身とは裏腹に随分と声も掠れていて説得力が感じられなかった。
 空を見上げる。雲が若干増えた中で覗く青空と太陽は、どこまでも高く、どこまでも気高い。
「馬鹿だよ、本当」
 辛うじて胸の閊えから吐き出されたことばに、俯いて、綱吉は己の掌に爪を立てた。薄い肉に食い込む刃に骸の手が重なって、そっと彼の力を剥ぎ取っていく。
 肩に圧し掛かる重みは彼の生き様そのものであり、綱吉は彼を生かす道を選び取った分、彼の過去の罪もまた、一緒に背負うと約束した。その重圧に時に負けそうになりながら、これで良いのかと迷いながら今こうして生きている。
 彼がずっと綱吉を裏切る事無く、気まぐれながら傍に居続けることこそ、その選択が正しかったという証拠には、ならないのか。
「でも俺は、まだお前が……いつか、俺を裏切って去っていくのが」
 言えば本当になりそうでずっと言えなかった。その可能性は否定できず、骸もまた匂わせておくだけ匂わせて否定してこなかった。
 不安定な足場で、不安定に揺れる綱吉を見て楽しんでいる風情のある彼を許せないとののしる仲間たちを宥め、けれど綱吉自身が一番、彼の裏切りを恐れている。
 こんなにも必要な存在になる前に、関係を絶ってしまえば良かったと願うほどに。
「嫌いだ、お前なんか」
「ええ」
「自分勝手で、我が儘だし、居て欲しい時にちっとも居ないし、人の気も知らないで、好き勝手やって迷惑かけてばっかりで」
「ええ、そうですね」
「なのになんでもう、そうやって、人が弱ってる時ばっかり狙って来るのかなあ」
 ぐい、と綱吉は軽く握った拳で目頭を押さえた。抱きしめてくる力が強くなる。胸に回された手が熱い。
 骸が言う通り、椅子のサイズは彼が綱吉を後ろから抱くのにぴったりのサイズ過ぎて、心臓の音さえ筒抜けになりそうなくらいに、距離が近い。
「……そんな、貴方だから」
 耳元に響く、低い声。不覚にも跳ね上がった心音に自分自身が一番驚き、綱吉は涙さえ止まって呆然としたまま肩に圧し掛かる男を振り返る。
 目の前にまで迫っていた赤い瞳に、魂が吸い込まれる錯覚。
「愛しくて、壊してしまいたいほどに」
 ああ、そうか。目を閉じながら綱吉は思う。
 触れ合う唇の熱さも、全身で感じる彼の重みも、全て。
 全てに。
 既に狂わされているのだと。
「怒らないのですね」
 楽しげに目尻を下げて微笑む彼の頬を思い切り抓って、舌を出してざまあみろと笑い返す。赤く腫れた頬をさすって、骸はやれやれと首を振った。
「凶暴にはなるのですね」
「悪かったな」
 すっかり涙も乾いて、悪態をつきながら綱吉はどっかりと椅子に座り直した。骸の姿はもう視界になく、彼の言葉に胸が高鳴ることもない。
 平穏無事な日常が舞い戻る。火照った身体に、庭を駆ける風が心地よい。
「折角親密になれると思ったのですが、ダメですか。仕方ありませんね、どうですボンゴレ。明日一日、僕とどこか遊びに行きませんか」
 どういう風の吹き回し、もとい思考回路の巡り方。一向に悪びれもせず反省の色も感じさせない骸に、綱吉は彼を一瞥して肩を落とした。明日の予定は既に決まっている、トリエステの周辺で起こっている問題が現在棚上げになっており、その処理に向かうことになっている。
 考えるだけで気が重い。なるべく力に頼らずに済ませたいところだけれどそうは行かず、下手に出れば付け上がられる。手っ取り早いのはトラブルの根源を断ち切ることだが、その相手は現在行方をくらませて所在不明。まるで普段の誰かのようだ。
 椅子から離れた骸を見る。手にした盆のバランスを取りながら彼はいったい何がそんなに楽しいのか、綱吉の気も知らず鼻歌交じり。
「ええ、ですから予定が空いたらで結構です。ふたりでどこかに行きましょう、気晴らしになると思いますよ」
 仕方なしに「いいよ」と返すと、満足げににっこりと微笑んで骸は去っていく。そんな日は永遠に来ないと心の中で悪態をついて、綱吉は遠ざかる後姿に一瞥を投げた。入れ替わるように、どたばたと足音を響かせて獄寺がテラスに姿を見せて、すれ違う骸に「げっ」と声を立てる。
 しかし構う様子はなく、急ぎ足で綱吉の傍へ駆け寄って膝を折った。どうしたのかと、綱吉は体を起こし彼を見下ろす。獄寺は息せき切らせ、トリエステ近郊で拳銃に打ち抜かれた死体が上がったと早口で告げた。その遺体の特徴が、綱吉が先ほど気にしていた、所在不明の男とぴったり一致するという。
 ボンゴレ総力を挙げて行方を探っている最中だったのに、その相手が先に、死体で発見された。
 綱吉は背後を振り返る。そこにあの男の姿はなく、乾いた空気が漂うだけ。呆然と、骸と交わした約束を思い出す。
「あの野郎……」
 無意識に呟いて、口元を覆っていた。笑いがこみ上げてきて、突然肩を震わせ出した綱吉に獄寺が目を丸くする。
「十代目?」
「あ、いや。ごめん。なんかおかしくって」
 最初から計算尽くだったというわけか。そして自分はまんまとその策略にはまって、踊らされている。
 実に、憎らしいほどに、六道骸。あの男らしい。
「明日の予定は、どうなる?」
「えっ、そうですね。まだ確定ではないのですが、恐らく十代目が出る必要はもう無いかと思われます」
「じゃあ明日も一日、開けていいかな。約束が出来たんだ」
「ええ?」
 笑いながら言う綱吉に素っ頓狂な声を出し、獄寺があからさまに驚いて綱吉を不機嫌にさせた。そして二言目を告ぐ前に、もう決めたから撤回しないと釘を刺す。もとより綱吉に絶対服従の彼は逆らえない、うなだれながら了承の意味で首を二度縦に振った。
 明日どんな仕返しをしてやろう、してやられた顔の骸を思い浮かべ胸の奥でほくそ笑む。
 今夜は久しぶりに、ぐっすりと眠れそうだ。