蒼空

 その日は、稀に見る快晴だった。
 特別教室への移動中、歩いていた廊下で何気なく外を見た。二階の廊下から見える景色は高々知れていて、どこか色の褪せた町並みが広がっているだけ。決して綺麗だとは言えない自分たちの暮らす世界は、銀色の窓枠に飾られてとてもちっぽけに見えた。
「十代目、どうかしましたか?」
 しかし何故かひとつだけ開いていた窓から見上げた空は、目を見張るような透き通った蒼。意識して空を見上げることなど滅多にしないから、余計にその蒼さに心惹かれた。
「ツナ?」
 ひとり立ち止まっていた綱吉に気付いた獄寺と山本とが、互いに身体を半分だけ後方に捻り、ぼんやりしている綱吉を呼ぶ。ノートと教科書、それにペンケースとを片手にひとまとめで持った山本が、それを肩の上で左右に振る。
「あ、ごめん」
 我に返った綱吉が、胸に抱いていたノート類を持ち直して慌てて休めていた足を前に動かした。それを見て、獄寺たちもまた、ゆっくりとした歩調で歩き出す。
 すれ違うクラスメイトの談笑が耳に遠い。街中を歩いている時に商店から流れてくるFMラジオの番組のように、右の耳から入って左の耳に抜けていく。そんな状態。綱吉は胸の前で両手を交差させ教科書を大事に持ちながら、廊下の左側を埋める窓と、そこに映る自分の姿を順番に眺めていた。
 気がつけば特別教室の入り口を通り過ぎ、非常階段へ通じる扉に正面衝突する寸前。ハッとして振り返ると、入り口のところに凭れ掛かった獄寺と山本が、笑いをかみ殺しながら綱吉を見ていた。
「ひどいよ、ふたりとも!」
 教えてくれたって良いではないか。そう憤慨しながら綱吉は急いで廊下を戻る。道を譲られて教室に入り、今度こそ声を立てて笑い出したふたりに唇を尖らせて空いている席に腰を下ろした。当たり前のように、左右に分かれて両側に獄寺と山本が居場所を定める。
 程なくしてチャイムが鳴り響き、担当教諭が入ってくる。それまで雑談に花を咲かせていた生徒たちも一斉に静まり返り、日直の号令後は教諭の説明に従って実験器具を扱い、ノートを取り、ごく当たり前の授業が行われた。
 何かしら山本に対して張り合いたがる獄寺が薬品を多めにビーカーに入れ、それが原因で教室中煙だらけになった以外は大きなトラブルも無かった。沸き返る笑い声の中、ばつが悪そうにしてむくれる獄寺を宥めるのに忙しく、綱吉はその時間中窓の外へ意識を向けることは無かった。
 授業が終わっても先ほどの失敗で周囲からからかわれ続け、最後は怒鳴り声を上げて残りの授業をボイコットしてしまった獄寺は、放課後になっても戻ってこず彼の鞄だけが寂しそうに主の帰りを待っている。
 綱吉もまた暫くの間、誰もいなくなった教室で待ち惚けてみたものの、彼が取りに来る様子は無い。もしかしたらもう帰ってしまったのだろうか。そんな風に思いながら、綱吉は窓辺の机に行儀悪く腰を下ろしながら窓の外を見ていた。
 開け放った窓から吹き込む風は少ない。代わりに差し込む日差しは眩しかったけれど、日中のそれよりも若干勢いも弱まっているので、太陽を見つめない限りは問題なかった。徐々に西の地平へと傾いていく陽光と、数を増し始めた雲の行方に瞳を細め、綱吉は靴を脱いで椅子に足を下ろす。
 聞こえてくる部活動の掛け声、下を見れば走り高跳びの練習中らしく陸上部の数名が順番を待って列を作っていた。外周を短距離走の選手が走り、ストップウォッチを片手に先生が何か叫んでいる。会話の詳細までは、教室にいる綱吉の耳に届かない。
「どこ行っちゃったのかなぁ」
 探しに行く方が良かっただろうか。だが授業を放棄することも出来ず、そのうち帰ってくるだろうと安穏と構えていたらこの結果だ。小さく嘆息し、教室の時計を見上げる。授業が終わってから、軽く一時間が経過しようとしているのに驚く。
 その一時間があれば宿題のひとつやふたつ片付いただろうし、もっと有意義な時間が過ごせただろうに。些かショックを隠せず、だがこうやって偶には、空を見上げながら何もせず、何も考えない時間も貴重ではなかろうか、と自分を慰める。
 そう、きっと無駄なものは何ひとつないのだ。
 こうやってぼんやりしている時間を。戻らない獄寺を待つことも。人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた獄寺がクラスに馴染み、クラスメイトもまた、獄寺に馴染んできているのも。
 全て、何か意味があって、必要なことなのだろう。
 ホイッスルの甲高い音が教室にまで届く。意識を手元に戻し、綱吉は両腕を頭上に伸ばして背筋を反らせた。骨が鳴り、実感の無い疲れを綱吉に教える。もう少し待って獄寺が戻って来なければ帰ろうと、更に行儀悪く膝を立てて踵を机の縁に乗せた。この机を使っている生徒が今この場に居なくて良かったと、僅かな申し訳なさを感じながら。
 見下ろしたグラウンドで、跳躍に失敗した生徒が高飛びのバーごとマットに沈んでいく。笑い声が飛び交い、楽しそうだ。
 正直、ああやって部活動に勤しみ高飛びの練習をする意味が綱吉には分からない。将来その道のプロになるわけでもなし、大人になった時に役に立つわけでもなし。だが彼らは毎日のように放課後グラウンドに出て、せっせと準備運動をし、地面を蹴って走り、コンマ一秒の記録更新に懸命になっている。
 きっと綱吉には分からないところで、彼らは走ることに惹かれているのだろう。意味が無いように見えて、意味のないものはなにもない。先ほどの持論を頭の中で繰り返し、綱吉はもう一度時計を見上げた。
 教室の扉を開ける音が、嫌に大きく響き渡る。
「あ……」
 ワンテンポ遅れて聞こえてきた声。教室前方の入り口で佇む影に視線を向け、綱吉は立てていた膝を崩した。
「やっと帰ってきた」
 心底疲れた声で、呟く。のろのろと歩いてくる獄寺から視線を外し、綱吉は脱ぎ捨てていた靴に爪先を突っ込んだ。机から降り、引いていた椅子を戻す。その頃には獄寺も教室の真ん中辺りまで来ていて、教壇前で立ち止まった彼は呆然と、綱吉を見つめていた。
「もしかして、俺を待って?」
「もしかしなくても、そう。ほら、さっさと帰るよ」
 帰り支度はとっくに出来上がっている自分の鞄を取り、綱吉は獄寺の席を指差す。特別教室から戻ってきた後のまま、教科書とノートが並んでいる机だ。命令され、獄寺は慌てて自席に戻り鞄を広げた。目に付くものだけ、急いで放り込む。
 窓を閉めた綱吉が扉前に移動する間に、獄寺は支度を終えて駆け寄ってくる。息急く彼からは日向の匂いがした。
「何処でサボってたの?」
「屋上で……気付いたら、この時間でした」
 不貞腐れて屋上で昼寝をしていたら、寝過ごしてしまったということか。どうりで戻ってこない筈である。
「その、十代目。どうして先に帰らなかったんですか」
 鞄を脇に抱え、歩き出した綱吉を追う格好で獄寺が問いかける。何故と聞かれても、特別彼に用事があったわけでなし、待っていた理由は思いつかない。ただ憤慨して出て行った獄寺が、転校してきた頃よりずっと皆と打ち解けているのが嬉しくて、皆がからかったのも君が嫌いだとかではないと教えてあげたかったから、だろうか。
 それに、空を見ていたかった。
「なんとなく、かな」
 一緒に帰る約束をしていたわけではない。だが、一緒に帰りたい気分だったのは間違いない。言えばきっと獄寺は曲解して、有頂天になるだろうから黙っておくけれど。
「なんとなく、ですか」
 鸚鵡返しに聞いてくる獄寺の訝しげな顔に笑いかけ、綱吉は夕焼けが差し迫っている空に目を向けた。
校舎を出た先は、静かな青空がオレンジに染まりつつある。綺麗だ、と素直に思った。
「そ、なんとなく」
 後ろ手に持った鞄が歩く度に小さく跳ねる。リズムを数えながら、綱吉は同じ言葉を繰り返した。二歩後ろを獄寺が歩く。戸惑いを隠せぬまま、綱吉の背中を見つめている。
「今度は、寝坊しないようにします」
「そうしてくれると、凄く助かる」
 的外れなことを言って弁解されて、綱吉は小さく笑った。
 空を見上げた。夕焼けに彩られつつある西の空で、名残の蒼はどこまでも澄んだ色をしていた。