「放っておけばいいだろう!」
そう叫んだ瞬間、地面が揺れて、天井が落ちてきたように感じた。
その後は、覚えていない。
雨の音がする。
鼓膜に張り付くように思えて、鬱陶しい。汗ばんだ肌が気持ち悪くて、しかも前髪が乱れて張り付いているようで、余計に気持ち悪さに拍車を掛けていた。
ぼんやりと、どうにも焦点が定まらない視線を首が動く範囲で揺らす。見知らぬ――いや、知っているのだけれど思い出せない天井が一面に広がって見えた。思考が安定しない。今自分が考えている内容が何なのかも漠然としか浮かんでこず、そのままぼうっと一点を見つめていると、また意識が沈んで行きそうだった。
雨の音が五月蝿い。
ずっと降り続いているのだろうか、長い間その音を聞いていたような気がする。けれど窓がある壁を探そうとしてもそこまで首が曲がってくれず、外の様子さえ分からなくて重い息が漏れた。
何故だろう、とても身体がだるくて重い。まるで自分の身体ではなく、魂だけが鉛で出来た彫像に押し込められてしまった気分だ。腕どころか、指一本を動かすのでさえ、とてつもない労力を要する。
ここはどこだろう、どうして自分はここにいるのだろう。
ここに来る前の自分は、どこで何をしていたのだったろう。
分からない。分からない事だらけで、混乱しそうな頭は逆に冷静だった。ゆっくり考えればいい、恐らく時間はたっぷりと残されているはずだから。
根拠はわからないがそう思って、開いたままでいるのも辛い瞼を下ろす。時間をかけて胸を上下させ、熱い息を吐き出して気持ちを静める。油断をすれば寝入ってしまいそうだが、それも悪くないと意識の片隅で考えていると、どこからか今までとは違う音が聞こえた。
金具と木が同時に軋むのと、重みを受けて僅かに沈む床板の音がほぼ同時に。
閉じていた目を開いて、動く範囲内で音の根源を探す。しかしこちらが見つける前に向こうからそれは近づいて来て、頭部の真横にて停止した。狭い視界に入り込んできたのは、大柄の男。見上げるしかないこちらの様子に気づいて、どこか複雑そうな笑みを浮かべている。
「良かった。目が覚めたっスね、スマイル」
それから安堵の息を漏らしてつむがれた名前、それが恐らく自分の名前だろう。何度か頭の中で反芻させて意識に植え込む。そういえば、そんな呼び方で日々自分は呼ばれていたような気がする。間違いないだろう。
しかし、その前の「良かった」の意味が掴みきれない。そういうくらいだから、自分がこうして横たわっているのは彼、もしくは彼らに心配と迷惑をかけたということか。そして続けて「目が覚めた」のに安堵しているから、自分は相当、覚えていないけれど、長い間眠っていたらしい。
傍らの彼の手が伸び、乱れてしまっていた掛け布団を直してくれる。その無骨だけれど繊細な動きを眺め、けれど無言で通していると流石に少し心配になったらしい、浅黒い肌の彼が眉尻を下げつつ問うて来た。
「えっと……スマイル、大丈夫っスか?」
何に対しての大丈夫なのか、が分からない。返答に窮してまた黙っていると、彼の右手が音も無く伸ばされて肌に張り付いたままの前髪をそっと掻き揚げてくれた。そのまま肌が触れ合う、熱を計っているらしい。暫く難しい顔をして彼もまた、黙った。
時間はどれくらいだったろう、長いようで案外短かった。
やがて離れていった掌に身体の熱が一部持って行かれたような気がして、少し楽になる。だが逆に彼は難しい顔を崩さず、小さくだが、舌打ちしたようだった。
「……?」
何かを言いたかったのだが、言葉が思いつかなくて結局薄く開かれた唇は間をおかず閉じられた。しかめっ面の彼はとても見覚えがあって、親しみを抱いているのだけれど肝心の名前が思い出せない。何かきっかけがあれば或いは、あっさり思い出せそうなのに。
「お腹空いてないっスか? さっきお粥作ったっスけど、食べられそうっスか?」
お粥。すると自分は体調が悪いのか。
ならばこの、ベッドの上に横になり身動きがろくに出来ない状況も頷ける。長く眠っていたのも、身体の調子が優れなかったからだろう。彼の心配具合からして、前触れも無く唐突に倒れた可能性も否定できなくなってきた。記憶が混乱したまま様々なことが思い出せないのも、その辺に理由があるのかもしれない。
彼の口調からして、熱はまだ下がっていないらしい。
ただ残念ながら食欲は沸いておらず、空腹感も程遠い。無理に胃の中にものを入れてもきっと吐くだろう、そんな妙な自信だけはあった。
緩く首を振って返すと、彼はやや肩を落として「そうっスか」とだけ呟く。そして曖昧に微笑んだまま、再度手を伸ばして額、頬、それから首筋を順番に優しく撫でていった。最後に全開に出来ずにいる右の目を掌で覆い隠した。
暗がりが視界を埋め尽くし、無意識に瞼が下ろされる。
「もう暫く、休んでくださいっス。今度は、無理なんかしないで……」
いつも耳にする彼の声よりも、遥かに優しく労わる声。耳に心地良い声色に意識を傾けているうちに、次第に全身がふわふわと波に浮かぶような感覚に包まれる。
ああ、彼はアッシュだ。
唐突に思い出した意識の裏側で、身体はゆっくりと闇に沈み気づかぬうちにまた、眠っていた。
その日はいつに無く焦っていた。
依頼された仕事の期日が迫っているのに自分の納得できるものが形にならず、頭の中では出来ているのに何故巧くいかないのかと必死だった。心のゆとりが持てない時程何をやっても失敗ばかりという教訓はまるで生かされず、迫り来る時間と睨みあっていた。
理由を説明すれば先方だって理解を示し、多少の猶予を与えてくれるだろうに、そうするのは自分の恥だと思い込んでいる節があって、変なプライドが邪魔をして言い出せない。兎に角納得のいくものが完成するまでは頑張ろうと、食事どころか睡眠時間さえ削って我武者羅に仕事をしていた。
しかも丁度その日は別のセッションも予定されていて、遅刻は許されず半端に手をつけたままの仕事に半分意識を持っていかれたままの参加はもうズタボロ。
チームの面々からも「いつものお前らしくない」と言われ続け、やり直しの連続。予定の時間を過ぎてもまったく終わる様子が無い打ち合わせに、ついにリーダーが切れた。
いい加減にしろ、お前の身勝手で皆がどれだけ迷惑していると思っているんだ。
確か、そんな台詞だった。
言ったのはリーダーだったけれど、その時既に意識は朦朧としていたらしい、彼がどんな顔をしていたのかもさっぱり思い出せなかった。
周囲に立つスタッフも、困惑しつつも迷惑そうな顔を隠さず、自分だって苛々しているのにそんな風にひとりだけ責め立てられるのは溜まったものじゃない。売り言葉に買い言葉で、確か……そう、だったら自分を外して誰か外部から呼んでやればいいじゃないか、と返したのだ。
その瞬間、場が凍りついたのは覚えている。
アッシュが握っていたスティックが落ちたのだろう、シンバルが珍妙な音を立てた。異様に長い余韻はまるでその場にいる全員の心を代弁しているようだった。不安定で、痛いくらいに。
リーダーがややくぐもった、感情を押し殺した声を出す。吐き出す、と表現する方が的確かもしれない。
『貴様……本気で言っているのか?』
心の奥から怒りを噴出させているのだと分かる、知らぬものが聞けば身を震わせて恐怖に慄くであろう声にも気持ちは動かなかった。ああ、彼は怒っているのだなと感じつつ、その原因が自分にあるのだという自覚はこれっぽっちも湧き上がらない。
何故怒るのだろう、もうこんな下手な演奏を聴きたくないのであれば、元凶である自分を排斥するだけで事足りるだろうに。そして自らが、そうした方が良いと提案しているのに。
頭がクラクラする、シンバルの余韻が耳の奥で響いてまるで波のようだ。
ああ、雨の音がする。さっきまで外は晴れていたはずなのに、夕立だろうか。いや、今は既に日も暮れて空は闇色だ。
くわんくわん、と音が反響している。なんだろう、この音は。意識が揺らぐ、目の前の視界も一緒に左右にぶれて歪んでいく。
『答えろ、スマイル。貴様、私を侮辱しているのか!』
なにをそんなに、怒っているのだろう。
彼を馬鹿にしたつもりも、侮辱しているつもりも毛頭無い。ただこの五月蝿い音から逃れたいだけなのに。
気分が悪い。気持ちが悪い、吐きそうだ。
景色が歪む、世界から音が遠のく。だのに耳の奥を刺激し続ける、鬱陶しいばかりの波の音。
リーダーの怒号ももう雑音、周囲を埋め尽くすノイズのひとかけらに過ぎない。何かを訴えている、必死の顔がムンクの叫びのように縦長く、細く揺れている。
ああ、気持ちが悪い。
『聞いているのか!?』
返答をしないのに苛立ちが限界に達したのだろう。リーダーが白い顔を赤く火照らせながら怒鳴り、腕を伸ばす。手首を掴まれた、その手の冷たさに全身があわ立つ。
気持ちが悪い、気分が悪い。
触るな。触るな。触るな。触るな。触るな!
「放っておけばいいだろう!」
反射的に腕を逸らし、彼を薙ぎ払っていた。
驚いたような顔が、その一瞬だけクリアに目に映る。だがそれもすぐに見えなくなり、目の前で天地が逆転した。
全身を襲った苦痛と衝撃の記憶は、無い。床が眼前に迫ったところで、意識はぷっつりと途切れている。
ただ、波のような雨音が耳の奥にこびりついて剥がれない。
あれからどれだけの時間が経過しているのだろう。全ての感覚から遠ざかって、世界と世界を隔てるガラス窓の向こうは、どこまでも降りしきる雨のカーテン。
――ええと……
――なんだったっけ……
身体がふわふわする。安定感が無くて、今にも頭の上にあるものが足の下に来そうだ。柔らかすぎる綿の上を歩いている気分、或いは雲の上を歩いていると表現すればいいのだろうか。
チャンネルの合っていないラジオから流れてくる騒がしいノイズに近い音。これは雨?
身体の上の一枚上をずっとずっと流れ続けている。耳に痛いし、なにより頭に響く。邪魔だ、五月蝿い、消えろ。そんな風に心の中で舌打ちしながら、どこへ行けばいいのか分からないまま、どこかに身体は進んでいく。
待て、止まれ。一瞬何かを見つけたような気がして、前に進み続ける身体を止めようと念じたが、身体はまるで反応しない。
待て、待てってば。止まれ、止まるんだよ今すぐに。戻れってば、聞こえないのか?
自分の身体なのに、思い通りに動かない。身体だけが別の意思を持たされているみたいで、ちっともこっちの言うことを聞かないどころか、ずんずん前に進み続けている。ふわふわしているのは身体の中からはみ出した自分という意識体だけであって、身体はしっかりと大地を踏みつけて歩いているみたいだった。
このまま進めば、いつか自分という意識だけが置き去りになり、中身が空っぽの身体だけがどこかに行ってしまうような気がした。いや、それはほぼ確信に近い。
だのにどうしてだろう、危機感が沸いてこない。それどころか心のどこかで、それもいいな、と考えている自分がいる。
止まらない器、浮き上がったまま安定せずに彷徨い続けるココロ。
離れ離れになったお互いが、やがてそれぞれを完全に見失った時自分はどうなるか。
恐らくは、想像して最初に思い浮かんだ通りの答えだろう。けれどそれでも良いと、思ってしまっている。
成すがまま、流されるがまま。いい加減滅びるのも、悪くない。
『放っておけば良いだろう!?』
不意に、耳を劈く勢いで止まないノイズを打ち破って襲ってきた声。
普段感じているのとは若干違っているが、それは聞き間違えようのない自分自身の声だ。
世界が反転する、あの一瞬が脳裏に浮かび上がる。全てが歪む前の、綺麗な景色だ。大きく目を見開いたユーリの顔が、見える。
彼の唇が動いていた。何かを叫んでいる。
なんだ?
自分はあの時、彼の声の何を聞いていた?
『放っておけるわけがないだろう!』
雨の音がやんだ。
ゆっくりと開いた瞼に、飛び込んでくる光が眩しい。
片方しか持ち合わせていない視力でも耐え切れなくて、糸のように細く狭くだけ開いて、世界を見る。
見慣れた天井がまず目に付いて、次に天井に張り付いている、今はスイッチの入っていない照明器具が。
随分長い間眠っていた気がする。全身が気だるさに包まれ、長期間の運動不足からか体中が重い。
とても、特に腹部から胸の辺りが重点的に重い。まるで細長い漬物石を右の脇腹辺りから臍の向こう側にかけてどん、と載せられているような……載って……
顎を引き、辛うじて見えた己の胸の周辺。明らかに自分の身体の一部ではありえない容積を持ったものが、まさに今身動きを封じ込めている重みを感じている箇所に圧し掛かっていた。細目を無理にこじ開けて確認するが、姿勢が苦しくてなかなか思うようにいかない。
暫く悶え苦しみ、ただでさえ残り少ない体力を無駄に消耗しただけだと気づいて、ぐったり布団に逆戻り。額に浮き出た汗も、手首を拘束されているお陰で拭えずにいる。
「……あれ」
そういえば、何に自分の腕は拘束されているのだろう。今更ながら疑問に感じて、左右に軽く揺すっただけではびくともしない腕に意識を投げかけてみた。
片方、右腕だけが身体にかぶせられた布団からはみ出し、胸の上に転がっている。自由にならないのは主に肘から下であって、恐らくは手首が手錠に繋がれているような感じで動きを封じられているのだ。けれど金属や革といった素材が肌に密着している感覚は無い、むしろ腕の太さにそのままぴったりと重なった、もう一枚の肌のような。
もぞ、と腹の上のものが動く。僅かに身じろぎしただけで、すぐにまた動かなくなったが。
「……ユーリ?」
動いた拍子に少しだけ位置が変わった為、人を押しつぶしている存在がさっきよりもはっきり見えるようになった。それは銀色の鮮やかな輝きを秘め、雪のように白い肌を半分布団の皺にはめ込んで、気持ちよさそうにすやすやと、寝息を立てている。
人が重みに耐えかねてろくに動けずにいるというのに、全く持って良い度胸だ。
だが、その図々しさが彼らしい。
つい表情が緩む。だが起き上がれない状況は変わらないので、どうすべきか迷って再び枕に頭を沈める。折角眠っているのだから起こすのは可哀想だが、それでは胸元に漬物石の如き重しを載せている自分は可哀想ではないのか、という話になるし、なにより握られたままの腕が痛い。血の巡りが悪くなっているのかもしれない、指先の感覚が遠かった。
「むぅ……」
ここで誰か助け舟でも出してくれないだろうか。情け無いながらも他人頼みに首だけを動かして扉の方を向く。するとどうだろう、切実な祈りが通じたのか、廊下側から静かに扉が開かれたのだ。
足音を殺しながら入って来たのは、想像通り、浅黒い肌に緑沈の髪をした背の高い青年。髪の隙間から細長い耳がピンと伸びている。
「様子は……ユーリはまだ寝てるっスか」
彼はまず手に持っていた盆を紙類でごちゃごちゃになっている机の端に置いて、ベッドに寄りかかって眠っているユーリの様子を窺う。彼が目を覚ましていないのを確認してから、ようやくこっちを見た。
目が合う。驚いたアッシュの顔がとてつもなく滑稽だ。
「……ナニ、そのミイラでも見た顔は」
嫌味を込めた口調で言い放つと、我に返ったアッシュが大慌てで身振り手振り自分の動揺を隠そうと、誤魔化そうとしてから、その行動自体が全くの逆効果だと気づいて肩を落とす。路上でパフォーマンスをしている下手なピエロのようで、思わず口の端を持ち上げて笑ってしまった。
うなだれたままのアッシュが溜息をつき、顔を上げる。まだ眠っているユーリに安堵の表情を向けてから、手を伸ばしてくる。太い指が器用に動いて前髪を退かせ、直接肌に触れた。体温が高いのか、冷たさは無いが肌を通じて感じる感触が、珍しく心地良い。
「熱は、下がったみたいっスね」
子供をあやすみたいに頭をひと撫でして離れていったアッシュが呟く。踵を返して机の方へと向かう彼の背中を眺めてから、そういえば自分が何故ベッドに貼り付けになっていて、ユーリがその上に圧し掛かっているのか、考えた。
記憶の糸は所々細くなっていて、下手に手繰り寄せようものなら簡単に切れてしまいそうだった。
熱があったといアッシュの言葉から、体調を崩して寝込んでいたと思われるが、どの時点で自分が倒れたのかも覚えていない。曖昧な記憶は深い靄に覆われて、まるで見つけられるのを拒んでいるようだった。
ただ、雨の音をずっと聞いていた気がする。
「アッシュ君」
喉の辺りが乾燥しているのか、いがいがしていたがどうにか声は出た。いつもと若干違う発音になってしまったのが気持ち悪くて、呼んでから振り返った後の彼に思わず首を振ってしまう。首を捻った彼に違うのだとまた首を振ってから、ずっと繋がれたままでいる手首を軽く揺すった。
気づいたアッシュが、ああ、と頷く。
彼のユーリを見る目はどこまでも優しい。ついムッと顔を歪めていたら、気づいたアッシュに笑われた。
「外して欲しいっスか?」
でも外したらユーリが起きてしまいますし、ともったいぶった口調で彼は呟く。ベッドの上を、視線を左右に揺らしながら顎に手をやり、考えている素振りだけを見せている。段々待っているこちらが苛々してきた。
病み上がりだというのも忘れ、怒鳴りつけてやろうと腹に力をこめる。だが寸前で見抜かれたのか、アッシュが絶妙なタイミングで声を出した。
「だけどこれは……そうっスね。お仕置き、って事で」
「はぃ?」
間の抜けた声が変わって口から飛び出し、アッシュを見上げる。楽しげに笑っている顔の彼は正直憎らしいのだが、理由を聞かねばこの腹の虫が収まらない。起き上がれないので仕方なく黙って睨みつけていると、肩を竦めたアッシュが「分からない?」とでも言いたげに見つめ返してきた。
彼の指が再び前髪を梳く。そういえばいつだったか、彼は今のように額に手を当てて熱を測り、そっと頬を撫でて行った気がする。あれは、夢ではなかったのか。
「お仕置き、っスよ。俺と、ユーリに心配かけた」
彼はここで一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「あと、スマイルが自分を苛めて、自分だけ無理してた事への、っスかね」
見下ろしてくるアッシュの瞳が、少しだけ剣呑な色を含み、鈍く輝く。獰猛な肉食獣の気配が一瞬だけ全身を覆いつくし、知らず背中から生温い汗が噴出す。喉の奥が圧迫されて呼吸が苦しくなり、喘いでしまう。
なるほど、確かに手痛いお仕置きだ。僅かな時間であっても、彼に、食い殺されるかと思ったのだから。
ぜいぜいと短く息を吐き出しながら呼吸を落ち着けさせているうちに、浮いた脂汗もゆっくりと引いていった。どうにか胸の上下運動が静かになったところを見計らって、アッシュが盆に載せて持ってきたグラスを近づける。
頬に軽く押し当てられる。冷たさが心地良かった。
同時に、喉の渇きを思い出す。食欲こそ戻らないが、水くらいは飲みたかった。
しかしユーリは依然腹の上に。身体を起こすのも困難な状態で、水の匂いだけが鼻を刺激するのはいくら「お仕置き」だといわれても酷すぎる。恨めしげに見上げてやると、意図を察したらしいアッシュがくすっ、と笑った。
グラスが離れてアッシュの口元へ運ばれる。入れ替わるように、グラスの水をひとくち飲んだらしい彼の顔が近づいてきた。
無意識に目を閉じる。触れ合った唇の隙間から流れこんでくる水が喉に冷たく、痛みさえ伴って浸み込んで来る。咳き込みそうになって腹に力が入り、眉目を顰めているとその傍からアッシュが離れていく。
軽く、のつもりで咳をしたら、想像以上に激しく咽てしまった。膝が跳ね、流石のユーリもこれには反応を示した。
うつ伏せになり、顔だけをこちらに横向けていた彼の口元が若干歪む。それまで穏やかな表情を浮かべていたのが、不機嫌な形に作り変えられた。更に眉が幾度か上下に揺れ、ゆっくりと閉ざされていた瞼が上に開かれる。
数回の瞬き、まだ定まらない焦点は夢うつつの境界を行き来している証拠だ。思わず息を呑んで見守ってしまう。アッシュまでもが、持っているコップを握り潰しそうな手つきでユーリの動向を窺っていた。
まぁ、結局のところ。
意識を完全に覚醒させたユーリに、思い切り力をこめた張り手を頬に食らったわけ、なのだが。
『放っておけるわけがないだろう』
という言葉と、一緒に。
血流が悪くなりすぎてまだ痛い手首と、叩かれて真っ赤に染まった左頬と。
脳に響いたユーリの声と。
肩を竦めたアッシュの姿。
「ゴメンナサイ」
それと、響き渡る三人分の笑い声と。
雨は、上がったらしい。