Corner

 知らない町に行くのが好きだ。
 地図も持たず、帰り道の心配は頭の片隅に追いやって、とりあえず適当に、ぶらぶらと歩き回るのが好きだ。
 時間を拘束されることなく、好きなだけ歩き回って色々な景色を眺め、時にはその土地独特の食事を口にし、或いは土産物屋を冷やかしに覗き込んだり、其処に住む年寄りの無駄話に付き合ったりもして。
 今立って、そして歩いている道がどこへ続いているのかが気になって、なかなか足を止めたり引き返したり出来ない。その角を曲がればまた今とは違う光景が広がっているに違いない、そう思うだけでわくわくして胸が小躍りする。道に迷ったところで気にしない、なぜなら目的地が無いから。最終的に元居た場所に戻れさえすればよく、他はどんな経路を使おうが、無駄に時間を使おうが、一向に気にしない。
 どこへ行くかは、それこそ風任せ。気が向いた道を選び、足が向いた場所を越えて、その先に何があるのか想像を膨らませながらひたすら進む。そうやって各地を放浪し、有り余る時間を潰してきた。
 これは最早自分の生き方であり、スタイルであり、譲ることの出来ない信念でもある。
 道は決して平坦ではなく、安寧とした気持ちで進めるばかりではなかったが、それでも進み続けるのはきっと、戻る道が自分には無かったからだ。ただひたすらに進み続けて、いつか本当に自分が最初にたどり着いた場所に戻れるのではないか、そんな曖昧で儚い願いが根底にあるのも薄々気づいている。
 そんな場所があるかどうかも、分からないのに。
 ただ、やはり今でも時々思うのだ。
 あの曲がり角を曲がった先には、いつか見た暖かな我が家があるのではないだろうか、と。
 そして今日も、ささやかな祈りと絶望を隣り合わせにしながら、進み続ける。

 
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 知らない場所を歩くのは、嫌いだ。
 初めて訪れた場所なら、尚更である。必要に迫られて出歩かなければならなくなったとしても、用事が済めばさっさとホテルなり、移動用の車なりに戻ることにしている。
 世間は全て自分に無関心であり、自分が知らない場所はつまり自分を知らない空間ということだ。
 慣れない、相容れないと言い換えられるかもしれない。自分の身の置き場は其処には無く、居心地は非常に悪くて落ち着かない。たとえ門戸を開いて待ち構えられていたとしても、その裏には何か作為的なものがあるのではないかと疑ってしまい、自分の狭量さを恨みつつもこの考えを根底から覆せずにいる。
 自分は閉鎖された空間に長く居すぎたのだろう、それは十二分に理解しているのだが。
 だから自分が知らない場所が不安になる、ここに居ていいという確証が持てなくて、素足のまま逃げ出したくなる。もしくはそこは自分が居てはならない場所だという強迫観念か。必ず城に帰らねばならないという、あの城に鎖で繋がれている自分を実感するばかりで。
 身動きが取れない。
 このままではダメなことくらい理解できているし、この仕事に手を出すようになってから本当に色々な場所を巡る機会を得た。ひとりで出かけなければならない時だってあったし、初対面の人との会話のぎこちなさもこのごろは見破られなくなった。
 しかし結局のところ、用事が終われば好意の誘いも断って城に一直線に帰る日々。
 何も変わっていない、何も変えられていない。自分も、自分を取り巻く環境も、自分の帰りを待ちわびる忌々しくも愛しい同胞が眠るあの城も。
 何よりも得がたく、何よりも喪い難いけれど、一番に切り棄てたくて壊してしまいたいもの。もしかしたら現状を変えるきっかけは、この道を進み、やがて曲がった角のその先に隠れて待っているのではないか。
 そんな淡い期待を胸に、けれどとても恐れながら、今日もまたひとり、道を行く。
 
 
■□■

 新曲のプロモーション撮影で訪れたのは、携帯電話の電波も一本立つか立たないか、という今時分には珍しいくらいの、田舎町だった。
 夜の九時を回れば家々の明かりは薄れ、まばらな街灯がぽつり、ぽつりと寂しげに足元を照らしている。古き良き時代、とでも表現されるのだろうか、最早都会には残っていない光景が漫然と広がる場所だった。
 宿泊した旅館には電気も通っていたが、極力そういった近代的なものを使わずに客人をもてなす方針で、電話は黒光りするダイヤル式だったり、各部屋には行灯が用意されたりして、夜十一時を過ぎると客室の電源は一斉に落とされてしまうような宿だった。流石にそれでは仕事に差し支えるからと、無理を言って夜間も特別に電気を送ってもらえるようになっていたが、テレビさえ無い部屋では夜も眠る以外する事がなく、映像の確認や加工といった作業をするメンバーを除き、ユーリたちも普段ならばまだ十分活動時間帯に入る時間には布団に包まって眠る日が何日も続いていた。
 しかし何事にも終わりは来るもの。
 若干長引いてしまった撮影も佳境を迎え、無事に終わったある日の午後。撮影スタッフはまだこれから仕事が残されているものの、出演者はそれぞれ出番を終えてやることがなくなり、夕食までの僅かな時間ではあるものの短い休暇が与えられた。
 あまり遠出しないこと、森には足を向けないことを条件に村の散策が許された一同は、思い思いに暇を過ごすことになった。とはいえ、コンビニエンスストアさえない場所である。テレビに映るチャンネルも限定されてしまい、中には午睡に耽るメンバーもいる中、スマイルは飄々としたいつもの足取りで宿を離れた。
 撮影中に村の中を歩く事は何度もあったが、周りにはスタッフが大勢いたし、スケジュールも押し気味だったので勝手に出歩くのは厳禁だった。しかし漸く巡ってきたチャンス、あちこちを見て回らないなんてなんと勿体無いのだろう。
 観光地などではなく、特別見るべきものは何も無い村であるけれど、それこそが本当に優れたものを内包する原石に他ならない。飾らず、ありのままを提示してくれる環境こそがスマイルのお気に入りだった。
 えてして観光地化された場所は、華美に飾られたり色気を持たせたりし過ぎて本来の色を感じ取るのが難しく、また人工的に作られた印象が強まってしまって、面白くないのだ。
 田舎とはいえ、人は住んでいる。それほど多くも無いが、点々と田んぼの間に広い敷地を持つ家屋が聳え立っている隙間を抜けると、ある程度集落が密集した場所に出る。そこは若干建物も新しいものが目立ち、地面も舗装されて歩きやすくなっている。元々はもっと住宅も少なく、道路の幅も広かったのだろうが、長い時間をかけて住居が増えるなりしたらしい、道路は入り組み非常に分かりづらいものになっていた。
 だが、そういう道ほど面白い。まるで遊園地に迷い込んだ顔をして、スマイルは口元を緩めながらゆっくりとした歩調で道を行く。
 古い生垣や、道路端の排水溝、鬼瓦が睨んでくる年季の入った平屋や、丁寧に扱われているらしく年輪を重ねながらも少しも朽ちていない小さな稲荷の祠に、赤い涎掛けを首に巻いた地蔵尊。この村に暮らす子供だろう、車も来ない道でチョークを使い、大胆に落書きを施している。目が合うと奇異な顔をされた後、顔を顰めて泣き出してどこかへ去っていってしまった。少し傷つく。
「アッシュが子供に泣かれた時もこんな気持ちだったんだろうか」
 随分昔に聞かされた、仲間の思い出話がふと頭をよぎっていった。ぽつりと呟くと余計に悲しくなったので、首を振って気を取り直し、子供が書いた落書きを避けて更に進んだ。
 入り組んだ路地は日当たりが悪く、どこかじめじめしている。打ち水をした後なのだろう、濡れた路上を越えて暫く行くと、小さな雑貨屋があった。中を覗くと、生活用品の他に食料品も扱っているらしい。試しに入ってみた。
「いらっしゃい」
 ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、聞きつけた店の主が若干腰を前かがみにさせながら奥から出てきた。恰幅の良い、やや背の低い女性で年の頃は五十を過ぎた辺りだろうか。やや前髪に白髪が目立つ。
 彼女は最初、スマイルの風体を物珍しそうに眺めた後、何かを思い出したらしく得心した表情で二度三度頷いた。白い割烹着の裾を折り込むようにして膝を曲げ、コンクリートに固められた床面より高い位置にある木の床に腰を下ろす。背筋がぴん、と伸びた。
「なにがお探し物でも?」
 若干訛りがあるものの、気を配ってくれているのだろう、共通語に修正させた口調で問いかけてくる。
「そうだネ……何か、スタッフへのお土産に出来るものってある?」
 今回の撮影は村人からも了解を得てのものだから、スタイルたちが訪れることは村中に知れ渡っている筈。彼の言葉に彼女は即座に「そうですね」と相槌を打って、やおら立ち上がった。段差下においてあるサンダルを足に引っ掛け、店の奥へと彼を誘導する。
 話題は尽きず、思いがけない収穫と共に彼が店と彼女から解放されるまでゆうに三十分はかかってしまった。

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 誰も居なくなった。
 最後の収録を終え、衣装を着替えに宿に戻っていたら、見事に自由時間を言い渡された面々は出かけてしまい、誰も部屋に残らなかった。
 いや、正しくは昼寝を決め込んだエキストラやスタッフの一部が居残っているのだけれど、数日に及ぶ過密スケジュールに疲れ切っていた彼らは、まだ日が高いに関わらず自分たちで敷いた布団の上に大の字になって夢の世界へ旅立ってしまった。
 スマイルの姿もいつの間にか見当たらない。アッシュは、軽く探してみると台所に居て、宿の女将と談笑しながら夕食の支度を手伝っていた。
 折角地方の郷土料理を教わろうとしている彼の、料理人としての姿勢を邪魔するわけにもいかないので、気を利かせて相手をしようかと告げた彼の提案はやんわりと断った。
 そして途方に暮れる。
 知らない場所は嫌いだが、じっとしているのは尚更落ち着かない。自分の居場所が定まらない感じだ。畳敷きの宿は最初の夜こそ新鮮だったが、滞在期間も十日を越すといい加減飽きる。もうじきお別れなのだから十分に堪能しておけば良いと思うには思うのだが、やはり身の置き場が無いというか、ひとりでボーっと過ごすのも非常に不毛だし、不本意すぎて嫌になる。
 結局身軽な服装に着替えた後はやる事も見当たらず、またやるべき仕事も持って来ていなかった為、目的も無いまま周囲を散策するばかり。最初は宿の庭を歩いていたのだが、端から端まで二往復したところで飽きてしまった。
 庭木は手入れが行き届いているし、小さな池には鮮やかな鯉が優雅に泳いでいる。けれどそれらどれもが自分には全く関係ない顔をしてこちらを見るので、ユーリはいたたまれない気持ちに陥ってその場を離れた。
 かといって今更宿に戻る気も起こらず、まだ作業が残っているスタッフの様子を見に行くにしても気が乗らなくて、結局適当に、近辺をふらふらと。
 背の低い建物が多いので随分遠くまで景色が見渡せる。とはいえ、周囲は山に囲まれて緑深く、息を吸えば都会では考えられないほど密度の濃い空気が胸を満たす。何度か深呼吸をしてから、日差しを気にして帽子を持ってくるべきだったと少しだけ後悔した。 
 しかし気づけば宿泊施設として借り切っている民宿は背後に遠くなり、その代わりに新旧混在する住宅地が目の前に迫ろうとしていた。土が剥き出しの、どちらかと言えば畦道に近い田んぼを横断する道路は少し細くなり、アスファルトで舗装された路地に切り替わる。柔らかかった足の裏の感触が一気に硬くなった。
 それを残念に感じながら、ユーリは物珍しそうに周囲を見回した。
 白と灰色の混じったような土壁の、妙に屋根が高い建物は確か、蔵と言うのだったか。表面に少し皹が入って年季を感じさせる。だが古めかしいという印象は抱かない。しげしげと、蔵がある敷地の外から見上げていたら、住人らしき女性が気づいたようでこちらを見た。
 視線が合った瞬間に先に彼女から目を逸らされ、ユーリは少なからず傷つく。まだ歳若い彼女の頬が僅かに朱に染まっていたなど、昼間は視界が狭まる彼が気づく筈もない。
 社交的な、少なくとも表面上はそう装っているスマイルならば、気の利いた台詞のひとつでも舌の上で転がして会話の糸口を掴むのだろうが、そんな器用な術もまたユーリは持ち合わせておらず、ここはそういう閉鎖的な場所なのだと勝手に決めつけ、思い込んでその場から離れる。
 こうやって、益々自分の心の方が閉鎖的な空間に追い込まれていくことにも気づかないで。
 溜息ばかりが漏れる。早く帰りたい。
 けれど帰ってどうなる、どこに帰るというのだ。
 背中の翼を広げれば、住み慣れた城に戻るのもまた可能だろう。けれど今自分は自由行動を許されているとはいえ、仕事中だ。帰るべきは城ではなく、スタッフも大勢詰めている民宿の方だ。だがあそこもまた自分にとっては相容れぬ地、くつろぐなど不可能な場所。
 ストレスが溜まる、段々と苛々してきた。
 早く残っている仕事も全部片付けて帰りたい。いっそ、この道が城に続く道であったならよかったのに。
 いや、違う。
 少し考えて、ユーリは足を止めた。ゆっくりと西に傾きつつある日差しの中、目を細めて彼は遠くを眺めた。深い緑の山間を暫く見つめた後、緩やかに首を振る。
 帰る場所、ではない。
 帰りたい場所、だ。
 既に亡骸となって久しいのに、亡霊となって城の地下に巣食い夜な夜な世を怨み嫉む呪言を吐き続けている同胞の待つ、鎖で自分を縛り付ける場所ではなく、もっと他の……巧く言えないが、本当に帰りたいと思える心からの安らぎを得られる場所。
 そんな地に続いていれば良い。自分の足では到底探し出せず、たどり着くのも不可能だと諦めてしまっているけれど。
 でも、それでも。
 祈らずにはいられない。
 この道の先が、あの曲がり角の向こうに。
 帰る場所があるのだと――

■□■

 スマイルは少し時間を気にしていた。
 思いの外店の女主人と話が弾んでしまい、みやげ物を選ぶといってもそう大したものをたくさん買うつもりは毛頭なかった。だが巧くはめられたとでも言うべきか、帰り道の彼の両手には薄茶色の紙袋いっぱいに様々なものが詰め込まれていた。右手の肘には白いビニール袋も釣り下がっている。
 クレジットカードが使えるような店ではなかったので、無論現金払いだ。軽くなっただけの財布を思うとトホホと溜息が出てしまう。
 短い休憩時間の後は映像のチェックを終えている筈の撮影班と打ち合わせをして、今日までの内容で撮影漏れや撮り直しが必要な箇所がないかを確認しあう。それが無いようであれば、現地での仕事はひとまず終了。残りはスタジオに戻ってから、だ。
 短いようで、長かったし長かったようで、短かった。
 ずっと大人数で行動していたので、ひとりになる時間が欲しかったのは嘘ではない。こうやって羽を伸ばす時間は実に貴重で大事だと、改めて思い知る。元よりひとりで自分が思うままに行動するのが好きなだけに、長時間の拘束の連続は正直ストレスだ。
 両手で抱きこんだ袋を軽く揺らす。中身はお菓子や懐かしい玩具、この地方名産の食べ物や酒のつまみ等など。ここまで来ておいて買う必要があるのかと指摘を受けたら、曖昧に笑って返すしかなさそうなラインナップであるが、女店主との会話が楽しかったのでよしとする。
 日が暮れる前には宿に戻らないとさすがにまずかろうが、さてどの道を通れば良いのやら。
 単純に来た道を戻れば良いのだろうが、肝心の往路を覚えていない。適当に気が向いた方角へ進んだだけなので、誰かに道を尋ねないと。それほど広い町ではないのだが、道路標識はあっても地図が見当たらなくて困ってしまう。
 しかしこういう時に限って通りに人の姿は無く、子供が自分の影を追いかけながら走っていったが、今のご時勢声を掛けると不審者扱いされてしまいかねない。それでなくとも、顔の半分を包帯で覆っているスマイルは見た目十分不審なので、道を尋ねている最中の光景を親が見つけようものなら、一発で警察に通報されてしまうだろう。
 それは御免被りたい。
 帰らなくてはならないのに、帰る道が見つからない。
 義務感に苛まれつつ、もしかしたら出歩いているスタッフとどこかですれ違うかもしれないと根拠の無い期待を胸に抱く。自分では帰れないから、誰か連れていってくれないだろうか。
 見つからないのだ、道が。どこへ行っても、どこまで行っても。
 帰りたい場所はあるのに、そこへ通じる道が分からない。だから誰か、教えて欲しい。
 いや、出来るなら。
 連れて行って。
 連れて帰って。
 道を知っている人、そんな人は居ないと分かっているけれど。
 願わずにいられない。
 この道の先に、この曲がり角の向こうに。
 帰る道を知っている、誰かが――

「わっ」
「うぁっ」

 曲がり角の向こう。
 その先で待つものは――――