ShootingStar

 何も考えずに部屋の扉を開けたら、前髪を掻き揚げて方向へ逃げていった冷気に思わず身震いがした。
「寒っ」
 思わず声に出して身体を両腕で抱きすくめる。背中から首筋へ走る肌があわ立つ感覚にまた別の悪寒を覚え、いったい何事かと目の前に広がる部屋を右から左へと睨むように見つめた。
 そして行き過ぎかけた箇所に視線を戻し、開けられたままの窓に気づく。スマイルは舌打ちし、いったい誰が12月、この寒い季節に窓を全開にさせたまま放置しているのかと毒づいた。文句のひとつも言ってやらないと気がすまない。
 ハイネックのセーターに顎部分を埋めるように首を引っ込め、ぶつぶつ言いながら彼は乱暴に開けたドアを閉めた。耳を澄ませば暖房を入れているファンの音が静かに低音で響いている。しかし一箇所だけとはいえ、開け放たれた窓から絶えず流れ込む冷気には適うわけも無く全力で部屋を暖めようとしているのは分かるが、その努力は虚しいという他無い。
 電気代の無駄遣いだ。
 窓を閉めてやろう、その思いでまっすぐに白いカーテンを揺らしている窓に近づく。照明の電源も入れられたままで、けれど人気の無いリビングは広いだけに余計寂しく感じられた。
 風が吹く、室内では厚着ではないかと思える服装でも鳥肌が立ちそうなくらいに寒い。どうせ姿の見えない誰かさんの仕業だろうと考えながら、冷え切った窓枠に手をかけた。自分の掌が包帯に覆われていて良かったと、今だけ心の底から感謝する。
「ユーリ?」
 案の定、想像していた通りの背中がその向こうにあった。
 闇の中、屋内から零れる光を浴びている部分だけが白く浮き上がっている。銀色の髪は日中に見るよりも深みが増した輝きを放っていた。
 最初の呼びかけだけでは振り返ってもらえず、何を寒い中注視しているのかと彼の視線の先を頭の角度だけで計算してみた。自然、スマイルの視線が上向く。
 そこには一面の、夜空。
「ユーリ?」
 星々が輝くのは何も今夜に限ったものではない。特別意味があるようには思えなくて、首の向きを戻したスマイルが再度彼を呼ぶ。漸く、鈍いながら反応があった。
 ゆっくりと振り返って見つめ返してくる瞳の色は、何故そこにスマイルがいるのかとても不思議そうだった。
「なんだ?」
「……寒くナイ?」
 問いかけの言葉と一緒に吐き出される息は白い。しかしユーリは「そうか?」と首を捻って自分の格好を見直し、再び首を捻る。彼の服装は、スマイルのセーターとジーンズという組み合わせ同様屋内での活動向けであり、冬場の外出時に不可欠なコートなどの防寒具は一切身に着けていない。
 正直、眺めているスマイルの方が寒い。
 もしくはずっと屋外にいた為に感覚が麻痺してしまっているのか。どれほどの時間そこに立っていたのだろう、ユーリは。
 明日の朝には霜も降りそうだ。踵を踏んでいたスニーカーを履き直し、スマイルも地面に降り立つ。後ろ手に窓だけは閉めておいた。途端窓から流れていた暖気が途切れ、余計に寒くなってしまった。
「う~、寒い」
 両手で大事に自分を抱き締めて身体を縮める。ユーリは露骨に嫌そうな顔をしたが、他に優先させる注意事があったらしい。あっさりスマイルから視線を転じ、再び空を振り仰ぐ。
 スマイルもまた、折角寒いのを堪えてユーリと同じ立ち居地に来たのだからと、彼が見上げているものを見たくて空を仰いだ。
 雪が降るのを待っているのかと思ったが、そんな様子は欠片も感じられない。天を覆い隠す無粋な雲の影は見当たらず、細くなった月を囲むように今日は随分と星が綺麗だ。
「何か見える?」
 問うても返事はない。
 吐く息は依然白く、腕組みをするようにしていないと指先が悴んで凍えてしまいそう。よく平然としていられると、空よりもユーリがどうしても気になってならない。
「……あ」
 ふと。
 奥歯を噛み締めているらしかったユーリの表情が緩み、同時に微かな溜息が零される。その一瞬だけ彼の吐く息が白さを増したように思えた。
 ただその間も彼の視線は宙に向けられたまま動かない。何かが見えたのか、慌てて空に向き直ったスマイルだが特に先ほどと変わったところは見つけられなかった。
 首を捻る。ユーリは何を待っていたのか、そして今も待っているのか。不思議に思いながら、今度は飽きずに空を見上げ続けていると、スマイルの狭い視界のギリギリ端を、何かが走り抜けていった。
 近い場所ではない。むしろ、ずっとずっと遠いところを。
「流れ星」
 自分で呟いて、そういえば夕食前に見たテレビの天気予報が今夜は運がよければ流星群が見えるかもしれないというような話をしていたのを思い出す。さして興味もなく、スマイルはすぐに夕食に意識が向いてしまったのだけれど、あの場にはユーリも確かにいた。
 流れ星程度ではしゃぐような人には思えなかったのだけれど、スマイルの思い違いだったという事か。
「また、流れた」
 ぽつりとユーリが独白する。視線は空に向いたまま動かない。だが今のことばは、もしかしたら自分への語りかけなのだろうかと、スマイルは少し自惚れながらそうだね、と相槌を打った。
「これで七つ目だ」
 すると思いもかけず返事があり、それだけのことなのにスマイルは嬉しくなる。
「いつから見てるの」
「さぁな」
 時計を見る暇も惜しいように空を凝視し、流れ落つ星に目を奪われている彼に今現在の時刻を教えてあげたら、どんな反応をするだろう。
 視線が絡まないまま、淡々とした会話は続く。
「窓開けっ放し、良くないよ」
「そうだったか」
「ウン。部屋の中が寒かった。外に出るなら、コート着れば良かったのに」
「窓から見上げていたら、流れるのが見えたんだ」
 要するに、コートを取りに行く暇も惜しんで、もっと近くで見えないものかと窓を開けて庭に出てみたということか。納得しかかったものの、その格好で外に長時間い続けるのはいただけないと、自分を棚にあげてスマイルは唇を尖らせる。
 ユーリは気配で察したのか、肩を震わせて笑った。
「ひとつくらい、落ちては来ないかと思ってな」
 そうして囁かれた、聞き漏らしてしまいそうな程に小さな声。ユーリは暫くぶりに視線を足元へ落とし、上ばかり見ていた所為で疲れたのか軽く首を回した。
 流星は地上から見る分には小さな光の、一瞬の流れであるけれど、実際は塵が高速で地上へ落下する際に、大気との摩擦熱で燃える時の儚い輝きでしかない。もし燃え尽きぬまま地上へ落下すればそれは隕石となるが、空気との摩擦で自然発火するような速度を持ったまま落ちてこられたら、それは相当のエネルギーを持ったままともいえる。
 現実だけを見ればとてもではないが、ロマンティックに語れる代物ではない。
 だが冷徹に考えたスマイルも、数秒後には自分で首を振ってこの考えを消し去る。良いではないか、想像するだけならば誰もが自由だ。
 落ちてくれば良い、ユーリがそう願うなら。
「でも、本当に落ちてきたら、空に返してあげるのも大変だネ」
 星は空にあってこそ初めて輝く。だから落ちてきた星は空に返してやらなければ。そうことばを返すと、やや間を置いてから少し驚いた風にユーリが振り返ってきた。
 目が合う、そして慌てたように逸らされてしまった。
 きょとんとしたスマイルの前で、背を向けたユーリはまた空へ視線を飛ばした。彼の背中が、風に煽られてではないだろう、パサパサと小刻みに揺れる。
 今にも翼を広げて、飛んでいってしまいそうな。
 或いは彼が、空に帰ってしまいそうな。
 咄嗟にスマイルは彼を抱き締めたくなって、だがそうする事で三秒後に自分がどうなっているのかも同時に想像できて、出しかけた手は結局引っ込められた。もう痛みは引いている筈なのに、数日前にふざけて抱きついた結果、強烈なボディーブローを食らった挙句追い討ちでアッパーカットまで食らった時の苦しみが復活したような錯覚を抱いてしまった。
 だがどうしても、心の奥がむずむずする。
「もし本当に、星が落ちてきたらどうする?」
 冗談めかせたつもりだったのに、意外と真面目に話の流れに付き合ってくれるユーリに笑みがこぼれる。
「空に返すヨ。そこが星の居場所なら、返してあげないと」
 でも、とスマイルは言葉を切った。
 ユーリが少しだけ首の角度を変えてスマイルの様子を窺っている。彼は白い息を両手に吹きかけて暖め、ふふっと楽しそうに笑った。
「もし落ちてきたのがユーリなら、絶対捕まえて放さない」
「なっ!」
 一瞬スマイルに身体ごと向き直ったユーリだったが、そのまま止まらず一回転する格好で最終的にまた最初の向き方に戻って落ち着く。スマイルの位置からでは相変わらず顔が見えない。
「何を……馬鹿な事を言うな。私は空の飛び方を忘れて落ちるような、馬鹿な真似はしない」
 やや上ずった、動揺を隠そうとして隠しきれていない声。スマイルはクスクスと小声で笑いながら踵を返した。
「そういう事にしておくヨ」
 膝位置にある窓に登る為に置かれた石に爪先を載せ、体重移動させながらスマイルは自分で閉めた窓を開けた。暖かな風が頬の硬直を溶かしていくのが分かる。感覚がなくなりそうだった指先から、熱が全身に広がっていくようだ。
 短い掛け声を合図に、窓の中へ身体を滑り込ませる。そして足早にリビングのソファに引っ掛けてあったアッシュのものだろう、こげ茶色の膝掛けを掴み窓辺に戻った。
 まだその場に立ち尽くし、しかし空は見上げていないユーリの後頭部めがけスマイルはその膝掛けを放り投げた。避けもせず、頭で受け止めたユーリはもそもそと手を動かしてそれを肩に移動させる。
「早く中に戻りナよ」
 最後に忠告だけ残し、窓は開けたままスマイルはその場を去った。
 彼の足音が聞こえなくなると同時に、ユーリは膝を折りその場に座り込む。投げられた膝掛けで全身を覆いつくしてしまえたら良いのに、と思いながら。
 すっかり冷え切っている筈なのに、恥ずかしいほど赤く熱い顔を持て余す。
「誰が……落ちるものかっ」
 呻くように呟き、ユーリは曲げた膝に顔を突っ伏した。
 窓の脇で、腕組みをしたスマイルが笑いながら聞いているとも知らずに。