don’t leave

 Deuilは三人組のバンドであるが、活動はバンドだけ、ではない。
 歌は三人の名前で発表することもあれば、ソロで各自出したりもする。或いは自分では歌わず、楽曲のみを誰かに提供したり、アッシュに関しては料理本を出したりと活動は幅広い。
 ユーリの考え方で、固定概念に囚われないで好きな事を好きなようにやれという方針はバンド結成時から何も変わっていない。最近では特に、三人揃っての活動の方が少ないくらいだ。忙しい時期は人それぞれに異なり、朝から晩まで顔を合わせない日もある。
 もっともレコーディングも出来る施設が彼らの暮らす城の地下に設けられており、そういう日は逆に珍しかったりもするのだが。
 けれどいくら最新鋭の機材を取り揃えているとはいえ、世界中にある全ての機材が用意されているわけではない。高価すぎて個人ではとても所有できない機材も数多いし、そういうものを使いたければやはりどうしても城の外の設備を利用せざるを得ない。大体そういうものに精通しているのがスマイルで、彼はユーリの希望を聞いて次の日には、どこそこの誰々が希望する機材を所有しており、いついつならば借りられるという約束まで取り付けていたりする。
 そういう素早さならば持ち合わせているというのに、彼自身は自分が歌う曲目にあまり関心が無いようで、強く依頼されればソロ活動も断らないが、大体いつも他者へ提供する楽曲作りが主な仕事になっていた。
 だから今日も、ユーリはスマイルが手配してくれたスタジオへ録音の為に外出するというのに、肝心のスマイルはスタジオの住所や電話番号等を書いたメモを渡しただけで、城で留守番。アッシュは既に自分が見つけてきた仕事に出かけており、城内は静まり返っていた。
 ふたり分の足音が、やけに大きく響いて聞こえる。ホールの奥に陣取る古い柱時計が時を刻む間隔に合わせて足が前に進むのには随分前から気づいていたが、今更修正も出来ない。
 何故だか、落ち着かない。
 理由をあれやこれや考える。しかし明確な回答が出ないまま正面玄関の扉まで到達してしまい、悶々とした気持ちのまま、ユーリは思わずその場に立ち尽くしてしまった。と、その背後でやはり同じように足を止めたスマイルが、ゆっくりと前屈みになって手にしていたこげ茶色のトランクを床に下ろした。
 それは、ユーリがこの先数日間、レコーディングの為に城へ戻ることが叶わない故の手荷物。ひとまず三日間を予定しているのでその日数分、必要な着替えや小物、そういった諸々の物が詰め込まれている。
 他に足りないものがあれば、その時に買い足せば済む。今や周囲に物は溢れ返り、必要の無いものと必要なものとの区別も曖昧になってしまっている。外泊となるのでアッシュの手料理は望むべくないが、あちこち食べ歩いてみるのもまた楽しみのひとつとなろう。
 仕事なのだから、あまり浮かれてもいられないのは分かっている。けれど常ならば新しい場所、新しい出会い、新しい歌――そういった楽しみに心躍る出発の時間である筈なのに、今のユーリの心を占めるのは、妙に落ち着かない、形のない不安定な感情だった。
「ユーリ、時間大丈夫?」
 ちらりと背後を振り返り、遠く柱時計の文字盤を見やったスマイルが尋ねて来る。その声に我に返ったユーリは、内心の動揺を悟られまいとして平然とした表情を装いながら、非常にゆっくりと彼の顔を見上げた。
「あ、ああ……そうだな。そろそろ出ないと」
 交通の便が非常に不便な為、専用のタクシーを呼んでいる。もうそろそろ門前に到着するだろうから、城の前で待っていなければならない。いつもならばアッシュが運転手をしてくれるのでその必要は無いのだが、今回彼は別件で不在。スマイルも城に残らねばならない仕事があり、ユーリはひとりでホテルに宿泊する予定だ。
「ユーリ」
「なんだ?」
 スマイルが此処まで運んでくれたトランクに手を伸ばす。膝を軽く折り曲げたところで名前を呼ばれた。
「ホテルの名前覚えてる?」
「私を馬鹿にしているのか」
「違うケド。この前間違えて覚えてて迷ってたデショ?」
「……」
 さらりと、古傷を抉るようなことを言われた。僅かながらダメージを受け、黙り込んでしまう。睨んでやりたかったのだが出来なかったのは、スマイルがふっと視線を外して何も無い空間に顔を背けてしまったからだ。
 視線が絡まない、だからか。不安になる。
「今回はちゃんと覚えている」
「住所も? 似たような名前のホテルがあるから、キヲツケテネ」
 揶揄を含んだ口調にムッとなるが、以前に何度か、本当にホテル名を間違えて覚えて壮大に迷った経験があるだけに、強く反論出来ない。けれど口元をキッと強く結んで力を込めた目で見上げると、肩を竦めたスマイルがごめん、と一言だけ謝って来た。
「これ。一応、メモしておいたから」
 そうやって差し出されたものは、二つ折りにされたB6サイズの紙。訝しげにしながらも受け取って、指の先を間に挟み広げる。左上から順番に書かれている右肩上がりの少々癖がある文字は特徴が強く、一目で誰が書き記したものかわかった。
 顔を上げる。幾らか自嘲気味なスマイルが苦笑いを浮かべていた。
「必要なければ、捨ててイイよ」
 そういわれると捨てづらくなる。ざっと目を通した限り、紙には宿泊先のホテルの住所、連絡先の代表番号、それから録音スタジオの住所や連絡先、ホテルからの経路を示した簡単な略図までびっしりと隙間を埋め尽くしていた。
 まるで母親から買い物を頼まれた小学生の子供のようだ。複雑な気持ちのまま、メモを折り畳む。
「ユーリ?」
「不要だとは思うが……念の為貰っておく」
 目を逸らして呟きながら、紙を懐に入れた。心持ち顔が火照っているのは気のせいではないだろう、頬が朱に染まりすぎていなければ良いのだが。
 すぐ間近でスマイルが微かに笑ったようだ。なんとなく照れくさく、視線を合わせ辛くてそのままトランクを持ち上げ、扉へと向き直ろうとする。その背中に再び、スマイルの声がかけられた。
「お金、余分に持ってる?」
「心配ない」
「財布ひとつにまとめないで、幾つかに分けて持ち運ぶんだよ」
「言われなくても分かっている」
「着替えはちゃんと必要分持った?」
「予定分は持った。足りなければリネンを利用するか、向こうで買う」
「忘れ物、無い? ハンカチ持った?」
「小学生が遠足に行くわけではないんだぞ」
 逐一確認してきて、延々続きそうな予感を抱き、肩越しに振り返って軽く睨む。スマイルの露出する右目がスッと細められ、実に楽しそうに笑っているのが表情で見て取れるものだから、癪に障った。
 遊ばれている、時間が無いというのに。
 分厚い扉越しに、遠く、車が停車するブレーキの音が聞こえた。呼んでおいたタクシーが到着したのだろう。
「忘れ物、本当に無い?」
「無い。あったらあったで、着いてから考える」
 今は出かけるのに気が向いていて、昨夜のうちに準備を終えた荷物の中身を反駁している余裕もない。しつこく尋ねられてもすぐに思い出せるわけはなく、次第に苛立ちが募ってくる。そんなに心配ならば、自分も同伴すれば良いのに。
 けれど仕事を理由に彼は共に出かけるのを拒み、見送る側に立っている。
 ひとりで行かなければならない不安と、一緒に来てくれるのではないかという期待と、余計なお節介だと鬱陶しく思う気持ちとが絡み合って、なかなか「行って来ます」の言葉が出ない。
 口ごもり、背中の方がむず痒くなるような感覚に陥りながらスマイルを見上げると、彼は飄々としたいつも通りの態度で、穏やかに、笑っている。
 そうしてふと、気づいた。今の自分の置かれている状況に、自分が何故こうも慣れないでいるのか。その理由に。
 自分たちは活動が基本的に三人組であり、ソロでの活動が最近活発になって来ているとはいえ、お互い仕事のどこかしら誰かが絡んでいる。現に今回もスマイルはスタッフとして参加しているから、ソロ活動とはいえグループ単位で動き回る場合が比較的多かったのだ。
 つまりは、どこかへレコーディングに出かけるにしても、一緒に行く場合が殆ど。だから今回のような、ユーリがひとりだけで出かける、そんなシチュエーションが限られていた。
 常に隣にいた相手に、見送られるという状況。単独行動を好むスマイルを見送るパターンは今まで多々あったけれど、彼に見送られるという逆パターンは久しく無かった。
 言い慣れない、「行って来ます」のひとこと。
「ユーリ」
 これ以上タクシーを待たせるのも相手に悪い。先方との約束の時間だってあるわけで、早く出かけなければならないのはよく分かっているのだが、足が思うように動かない。じっとスマイルを見上げたままでいると、流石に不審がった彼が小首を傾げた。
 囁くように名前を呟かれ、ユーリは我に返る。
「イイノ?」
 彼が顎をしゃくって示したのは、ホール奥の柱時計。現在時刻までは遠すぎて見えなかったが、足の疲れ具合からして、かなり長い間此処に立ち止まっている自分を思い出す。
 これ以上待たせるのは得策で無い。それは分かっている。
 けれどこうやってスマイルが時間を気にして早く行けと急かして来る行為が、ユーリにとってはさっさといなくなれと言われているような気分になるのだ。無論スマイルにそんなつもりがないのは承知しているが、ならばいっそ、彼が先に部屋に戻ってくれる方がずっと楽なのに。
 臍を噛み、ユーリはトランクの持ち手を強く握り締めた。
「では、な」
 たかだか数日間離れるだけだ、それに会おうと思えばいつだって連絡が取れるし、多少スケジュールがきつくなるものの、抜け出せなくも無い。まるで今生の別れのようだと皮肉げに自分を笑って、ユーリは扉に再度向き直った。右手を添えて軽く押すと、扉は促されるままに重い音を響かせて外側へと開かれていく。
 全開にすればトラック程度なら悠々と入ってこられそうな大きさの扉が、ユーリひとりが通れるだけの幅に開いて止まった。日の光が足元を照らし、薄暗かった場所からの明度の変化に彼の瞳は自然細められた。
「ああ、そうだ」
 歩き出そうとするユーリへ、再び茶々を入れるスマイルの声。今度は邪魔されるまいと振り返らずにやり過ごそうとした彼だったけれど、
「ユーリ、忘れ物」
 そう呼び止められては、振り返らずを得ない。
 扉から身体半分を抜け出した状態で足を止め、スマイルを仰ぎ見る。けれど彼の手は空っぽで、忘れ物と言われそうな代物がどこにも見当たらなくて首を捻る。
 目の前が、唐突に薄暗さを増した。
 ちゅっ、と短く小さな可愛らしい音。
 一瞬反応が出来ず、また状況が理解できなくてきょとんとしている顔を前に、スマイルがニッと三日月の唇を更に細めて笑った。直後、ユーリの顔が真っ赤に染まる。鏡で自分の顔を見る必要性が無いくらい、全身が一瞬にして火照った。
 さながら茹で上がった直後のタコのように。
「すっ、スマイル!」
 ワンテンポどころかスリーテンポ以上遅れて怒鳴り声をあげた時にはもう、危険を予測したスマイルは五歩以上後ろに下がっていた。これでは振り上げた拳も彼に届かない。虚しく空を切った拳の行き場に困り、結局汚れてもいないのに、服の胸元に表面を擦り付けた。
 からからとスマイルが笑う。企みが成功した子供の顔だ。
 扉が半端ながら開いたのに気づいたのだろう、車のクラクションが数回鳴った。トランクの端がはみ出ているし、運転手もそろそろ痺れを切らしそうだ。
 出かける時間だ。
「ユーリ」
 踊るように広いホールを飛び跳ねて、スマイルが言った。
「イッテラッシャイ」
 持ち上げた手を軽く左右に振って、見送りの仕草を。
 我に返ったユーリは、照れ隠しにコホンとひとつ咳払いを。
 そして、しつこく鳴り響くクラクションに負けないよう、胸いっぱいに息を吸い込んで吐き出す。
 顔は自然と、笑みを零していた。

「行って来ます」