Thumb

 コーヒーでも飲もうと思い、リビングに降りていくと先客が居た。
 先客といっても、元々はこの城の主であり自分が所属するバントのリーダーなのだが。
 扉を開けたちょうど真向かいに置かれているリビングソファーに、こちらに背を向ける形で座っている。更にその奥正面壁にあるテレビは、画面は真っ暗で電源が入っていないのは目に見えて明らか。薄く、邪魔にならない程度にクラシック音楽が室内に流されていた。
 眠くなる環境が既に整えられているくつろぎの場に、早々に部屋へ戻るべきか一瞬迷って、当初の目的であるコーヒーだけでも入手しようと、ドアを後ろ手に閉めてリビングに入った。
 ドアの閉まる音を聞いたのか、ユーリが振り返る気配がする。だが声をかけてくることはなく、黙って見送られてしまった。ちらりと後方を窺うと、彼は既に意識を自分の手元に向けてしまっていて、やや俯き加減になりながら頬を撫でる銀の髪を頻りに掻き揚げていた。
 ソファの肘掛が邪魔で、彼の全身は見えない。それを少し残念に思いながら、視線を進行方向へ戻した。
 リビングとダイニングは二間続きになっていて、明確な仕切りは無い。区切るとすればリビングに敷かれている豪奢なカーペットが終わる場所、といったところか。足の裏の感触が柔らかい布地から硬質な木材に代わり、歩く度に小さく木を叩く足音が響き渡る。
 いったい何人が着席できるのか分からない、細長いテーブルの脇を突っ切ろうとしたら、最もキッチンに近い席にアッシュが座っているのが見えた。何かに熱中しているのか、ユーリと違ってこちらに気づきもしない。
 スマイルはやれやれと軽く肩を竦め、構わずに開けっ放しの扉を潜り抜けた。ダイニングから一枚扉を経ただけで、そこはある意味アッシュの城になる。
 右手の壁一面に食器棚、真正面に流し台やコンロが並ぶ調理台があって、入り口から入ってすぐの左手には広めのテーブルと、椅子。細く長い足のスツールで、時間のかかる盛り付けなどはこのテーブルを使い、椅子に座って作業するアッシュを幾度と無く見かけてきた。だが肝心のアッシュは今この場所にはおらず、がらんとしている。
 北向きにあるため日差しも殆ど入らない、明かりをつけないと薄暗くて物寂しい限りのキッチンにそう長居は無用。食器棚の横にある大型の冷蔵庫を開け、作り置きのコーヒーを取り出す。
 ペットボトルの蓋を開けて、水切りの為逆さまに並んでいたグラスをひとつ拝借し、注ぎいれる。後から氷を入れておけばよかったと後悔したが、グラスの縁ぎりぎりまで注いでしまってからではもう遅い。仕方なく、温む前に飲みきってしまおうと、冷蔵庫へはボトルを戻すだけにする。
 グラスは見る間に周囲に薄い水の膜を作り、水滴が上から下へ行くに従って容積を大きくしていく。握り持つ指先だけが冷える感覚は、唇を通して身体全体に広がっていくようだった。
「ふぅ」
 思わず漏れた吐息に、口元を拭って唇を舐めた。まだ大分残っているグラスを軽く揺らし、もう少し明るい場所へと、光に導かれる昆虫のようにキッチンを出る。ダイニングに戻ると、相変わらずアッシュがこちらに背中を向け、巨大なテーブルを前になにやら考え込んでいる模様。時折、濃緑色の髪をガシガシと掻き毟っている。
 何をしているのだろう、ふと気になった。考え事をしているように思えるが、アッシュが机においた肘の向こうに広げられている本は、割に分厚く大判。まさか百科事典でも広げているわけではあるまいと思いながら、彼の方へと歩み寄った。
 距離が狭まるにつれ、スマイルのその姿は少しずつ薄くなっていく。笑っていると何故か口だけが見えてしまう為、意識してあらかじめしっかり唇を閉ざしておく。そうして全く気づかないでいるアッシュの背後に立った時にはもう、彼の姿はすっかり掻き消えて透明になってしまっていた。
 彼の姿だけ、は。
 首を伸ばし、アッシュの身体に触れぬように注意だけして背後から覗き込む。大判の、カラー写真がふんだんに使われているそれは、なんて事は無い。ただの料理本だ。ページの上に大きめの完成写真、下に材料、手順と注意ポイントを示す小さめの写真。しかしアッシュは何が気に入らないのか、頻りにページを捲っては、頭を抱え前のページに戻ったり、目次を開いたりしては唸っている。
「……」
 黙ったまま眺めていたが、あまり面白くない。どうせ今晩のメニューで悩んでいるのだろうが、悩んだ分だけ美味しい料理が出来るわけでもないし。メンバーの嫌いなメニューを除外して適当に選べば済む話だと思うのだが。
 アッシュの、ごつごつした大きな手が引っ切り無しにページを捲っている。よくこんな太く細かい作業がいかにも不得手に見える指先で、あんなに繊細な料理が作れるものだ。バンド活動で絶えずスティックを握り締めている為か、指に何個かのタコが出来てしまっている。中にはすっかり硬くなってしまったものや、潰れてしまった痕も。
 この手があの料理を作り出す……なんだか不思議な気がして、スマイルはつい、ページを捲る彼の手を凝視してしまう。だから、持ったままのグラスの底から水滴が滴り落ちたのが分からなかった。
 アッシュにしてみれば、何故何も無い場所に水滴が降って来たのか、とても疑問だったろう。料理本の上に添えられた手の甲に急に冷たいものが落ちてきたのだから。ぎょっとして、最初雨漏りを疑ったが外はこれでもかと言わんばかりの快晴で、それはありえない。ならば一体どこからと、首を動かさずに視線だけを持ち上げる。
 そうして見つけた、宙に浮かぶガラスのコップ。中身はまだ半分以上残っているアイスコーヒー。水滴に覆われたグラスからは新たな雫が、落ちそうで、落ちなさそうな状態でぶら下がっていた。
「……」
 ふぅ、とアッシュが息を吐く。
「スマイル」
 おもむろに、名前を呼んだ。見えない、けれど確かにそこにいる筈の人物の名前を。それからゆっくりと後ろを振り向いた彼は、少し不満げに歪められた三日月を横倒しにしたような口元を見つけ出す。不自然に中空に浮かぶそれは、他ならぬ”透明になる”という特技を持つ唯一の存在がそこにいるに他ならない。
 表情は口元以外見えない為深くまで読み取れないが、彼が今胸の中に抱えている疑問は、「何故気づかれたのか」という一点に集約されるはず。アッシュは無言のまま、空中に浮かんでいるコーヒー入りのグラスを指で小突いた。
 僅かな振動と抵抗。底部に垂れ下がっていた雫が堪えきれず、机に落ちた。
「むぅぅ」
 スマイルが低く唸る。不覚だったという感じだ。そこまで頭が回らなかった自分が情けなく思えてならないのか。姿が見えないけれど、今にも地団太を踏みそうなスマイルを想像し、アッシュはつい表情を緩めて笑ってしまった。
 途端、見えない指先が笑うアッシュのおでこを直撃する。親指をバネにした反動ではじき出された中指の威力は近距離だったこともあり、強烈で、不意打ち過ぎた。仰け反り気味に椅子に倒れ掛かったアッシュを、今度はスマイルが笑い飛ばす。
「スマイル……っ」
 酷いことをする。怒鳴りかけたアッシュの前で、ぱらぱらと、風もないのに料理本が数ページ先まで捲れていった。
 それがスマイルの仕業であると気づくのに数秒かかり、目を瞬かせたアッシュを前にして数回、前へ行ったり後ろへ進んだり、明らかに自然ではありえない動きをした本はやがてとあるページで止まった。
 宙にあったグラスも、いつの間にかテーブルに添えられている。中身は、空だ。
「今夜はこれでヨロシクー」
 高らかに笑ったスマイルの声がどこからか響き、足音が小さくなっていってやがて聞こえなくなった。
 言いたいだけ言い残し、スマイルは結局姿を見せてくれることなくいなくなってしまった。目を閉じて気配を注意深く探ってみたが、本当に近くには居ないらしい。少しして、リビングにいるユーリが驚きと怒りを半端に混ぜ合わせた声で叫んでいたから、今度は彼にちょっかいを出しに行ったらしい。
 アッシュはやれやれと肩を竦め、空っぽのグラスの縁を指で叩く。透明な音色が微かに鳴り響き、疲れていた気持ちが少し和らいだ気がした。
 テーブルに視線を落とす。開かれていたページの写真を見て、再び彼の口元は笑みに形作られた。

 今夜のメニューは、ハッシュドビーフに決定。