Reflect

 窓から差し込む光は眩しいが、薄手のカーテンに阻まれて優しい雰囲気を醸し出している。直射日光を浴びたなら目を逸らさずにいられないが、屋内で特に何も無い机にだらしなく寄りかかっている分には、まったく非難の対象にならなかった。
 それこそ文字通り、ぐたっという擬音が相応しい態度で、まだ日も高く明るい時間帯だというのに、夢うつつ状態。もっとも彼がまだ日も昇らない真夜中から仕事を開始し、ほんの三時間前まで働き詰めだった事を知っていれば、彼が眠そうにしているのも理解出来よう。
「なんじゃ、若いもんが昼間っからだらしのない」
 この事務所の主であるそこそこに年齢を積み重ねている男性が、白くなった頭から帽子を外し彼の机に歩み寄る。うとうととしていただけの彼は、けれど音も無く背後に忍び寄る存在に、それこそ背中に目があるのかと疑いたくなるほど素早い動きで反応を示した。椅子を後方に蹴り出して油断しきっている老人の意識を一瞬の間そちらに向けさせ、机の天板を弾く反動を利用し上半身を強引に立ち上がらせる。そのままの勢いで右足を斜め後方へ踏み出し、強烈な肘打ちを叩き込もうと――
 寸前で、我に返る。
 パッと見開かれた目に驚きが浮かび、急いで攻撃を繰り出そうとしている自分自身の身体にブレーキをかけようと試みる。だが脳よりもずっと速くに活性化されて鋭敏な反応を示していた肉体は、そう簡単に思う通り停止してくれなかった。
 無駄な肉が一切無い骨ばった腕が老人の顔面を直撃する――筈だった。
 二度の瞬きの間に、その齢からは考え付かない反射神経と速度で老人は、何事もない涼しい顔のまま後ろに数歩下がった。胸を僅かに仰け反らせ、眼前僅か数センチの距離で肘鉄を難なくかわす。
 一瞬後、男はちっ、と何故か悔しそうに舌打ちした。
「危なっかしいのぉ」
 ふぉっふぉっふぉ、と文字通り腹の底から息を吐いて笑いながら、老人は数歩下がり椅子に座る。見た目とは裏腹の俊敏な動きは最早見る影も無く、今自分が殴りかけたものが幻だったのかと疑いたくなった。
 夢うつつの境界線上にあっても背後に迫られた瞬間、無意識に身体が反応してしまうのは以前のままだが、自分の腕が鈍ったのかと思えば実際はそうでなく、この老人が己を上回る実力を有しているだけのこと。その歳であの動き、息ひとつ乱さずにかわされても仕方ないと納得しようとしても、やはり悔しいものは悔しい。
 そのうち一発当ててやる、と胸の内で密かな決意を抱く。そのまま、椅子を引いて座りなおした。
「その袖はどうしたー?」
語尾を伸ばし気味に、老人が聞いてきた。布地も薄いシャツの袖が、何かに擦りつけたように破れているのが目に入ったのだろう。ならば当然、破れの下に隠れている肌が包帯に覆われているのも見えているのだろう。
「べつに……いいだろ」
不機嫌な声で素っ気なく返す。
「ふぅむ。落ち込んでおるとしたら……ふられたか」
 白色の髭が無精に生える顎をなでやって目を細めた老人に、彼は机の上で転がっていたボールペンを掴み勢い良く投げつけた。だがひょいっと軽い動きで首を捻るだけで老人は簡単に避けてしまい、罪も無いボールペンは壁に背中をしたたかと打ちつけて一直線に床へ落下した。
 音だけが大きく響き、怖い怖いと茶化すような素振りで老人は肩を竦める。
「そんなんじゃねーって言ってんだろ」
 またしても当てられなかった自分に腹を立て、不貞腐れた声で反論を試みる。だが老人は何を考えているのか裏が全く読めない顔をして、次の句をにやにや笑いながら待っているものだから、そのうち話をするのも馬鹿らしく、また面倒くさく思えてきた。
 再び舌打ちし、コマ付の椅子を回転させる。机に向き直って頬杖をついたら、俯き加減の視線右斜め前方に昨日までは無かったものが見えた。カーテン越しに差し込む西日を浴びて、きらきらと輝きながら机上に影を落としている。中心部分が影なのに光に溢れ、周囲を縁取るような形で緩い楕円の影。
 ぼんやり眺めていたら、いつの間にか完全に気配を消して老人が背後に立っていた。青色のつなぎ姿を肩越しに感知し、ぎょっとして思わず身を引いてしまう。口元が緊張で強張った。
「なんじゃ、これは」
 昨日までは無かったなと、どうしてその歳でそこまで記憶力がいいんだと愚痴りそうな事を呟く。
 それはクリスタルブルーのイルカだった。掌にすっぽり収まるサイズで、質素で簡素、飾り気が全く無いオフィスの灰色をした机には到底似合う代物ではない。ましてや、彼が自分で購入して来るようなものでもなし。
 まさか拾ってきたわけでもあるまい。老人の疑うような目線に気まずそうに顔を逸らし、なんとか誤魔化しきれるだけの台詞を頭の中から探すが、見つからなかった。
 そうやって無言で過ごしているうちに、老人は何か思い当たる節を見つけたらしく、顎を一度撫でてふむ、と勝手に納得した様子で頷いた。嫌な予感を覚えて背後を振り向くと、後ろ手に手を結んだ老人が自分専用の机に戻っていく最中だった。
「いや、結構結構。若いのぉ」
 ふぉっふぉっふぉ、とまた笑う。一体何が結構で、何が若いのか。言い返してやりたかったが墓穴を掘りそうなのでぐっと腹に力をこめて堪えた。向こうもこちらの墓穴を期待しての事だから、今は言わぬが花。
 しかし腹が立つ。
 握った拳のやり場が見つからず、結局机を叩いて気持ちを落ち着けさせる。深く吐き出した息に、肘をつき机上の影を見やった。
 ガラスのイルカが変わらずに輝いている。要らないと言ったのに、押し付けられた。節くれだった無骨な手に無理やりこれを握らせてきた、細く白い腕を思い出す。
 きっかけは、あの花屋だった。

 

 いつもの通り、夜まだ暗いうちから仕事を始め、昼になろうとする頃には掃除の仕事は完了。ロッカーに汚れた青色のつなぎを放り込み、派遣先であるビルを出る。
 太陽は天頂に近く、日差しは眩しく暑い。都心部に近いオフィス街には街路樹以外の植物は殆ど見当たらず、大通りを挟んで北側の歩道は、打ち水をすれば蜃気楼が浮かびそうな熱を地表に漂わせていた。
 暑い、と口の中で呟く。むしろ熱い、という表現の方がぴったりかもしれない。まだ本格的な夏は遠いというのに、日中の気温は三十度を軽く上回ってくれているようだ。これでは夏本番になった時にどうなるか、考えただけで喉が渇き、首筋から汗が滲み出た。
 こめかみを伝った一筋を手で拭い、恨めしげに空を見上げる。雲ひとつ無い好天は宜しいことだが、確か今の時期は梅雨ではなかったのか。だというのにちっとも雨が降る様子は見られず、そのうち目が眩しさに疲れて顔の向きを戻した。
 目の前の車道には急ぎ足の乗用車やトラックの群れ。来ては過ぎ、来ては過ぎの繰り返し。速度超過ではないかと疑いたくなる車も多く、コンテナを積んだ大型トラックも忙しそうに何台も通り過ぎていた。少し先にある信号が黄色になっていようとも、お構いなしに走り抜けて危うく事故を引き起こしそうな車も、時々いる。腕に自信があるのか知らないが、その行為によってもし本当に事故が起こった時、果たしてその責任をどこまで取れるのか。単純なスリルを求めるだけであったり、時間が逼迫していたりするからという理由だけで、その先にある透明な未来を曇らせてしまうのはあまり、好ましいものではない。
 溜息をひとつこぼし、歩き出す。もう少しすれば自動販売機があった筈で、そこで冷えている缶コーヒーでも購入するつもりだった。左のポケットを布地の上から探ると、裸のまま放り込まれている小銭の感触が指先にいくつも。小銭入れくらい持ち歩けといわれるのだが、硬貨を使う機会も殆どなく、紙幣の釣銭もチップとして持って行かれるパターンが多い海外暮らしが長かった為、なかなか習慣として馴染めないままだ。
 一直線の道路、等間隔で並ぶ街路樹の影だけが灰色の舗装の上に伸びている。時間帯の為かこの暑さに外出を控える人が多いのか、人通りは極端に少ない。折角南向きで日当たりのよい立地条件なのに、道路沿いに並ぶ店舗はどれも、客の入りは芳しく無い様子。喫茶店もサラリーマン風の男性が数名、暑さからの避難なのか上着を脱いでぐったりしている程度。食事時になればそこそこの賑わいを取り戻しそうだが、あと一時間程はこのままだろう。客を待つ店員もどこか疲れ顔だ。
 再度恨めしげに澄み渡る空を睨みつけ、小銭を取り出すべくポケットに指先を突っ込んだ。変に熱のこもった狭い空間に、かつてはトリガーを引いた指が絡む。だが最早戦場は遠く、銃声は耳を劈く事もない。穏やかな日常、僅かな違和感を抱かずにいられない安穏とした空気が生ぬるく、肌に付きまとう。
 これは全て、夢なのだと。
 幻の荒廃した都市を振り払い、握り締めた小銭を引き抜く。掌を広げると、汗がにじんだ肌の上に数枚、銀と茶色の貨幣が重なり合っていた。必要額だけを残し、余りは再びポケットの中へ。緩く首を振り、ビルの壁に張り付くように設置されている自動販売機へと足を向けた。
 毎日のようにそこでコーヒーを買う、ここ最近の日課と化していた。取り立てて特徴の無い、その辺にある自販機となんら変わらない。品揃えが変わっているとか、値段が飛びぬけて安いとかそういうものも無い。
 ただ、自販機の横には白い折りたたみ式の庇が伸びていて、日差しが差し込む軒下には色とりどりの花、花、花。奥へ目をやれば透明なガラスケースに、やはり植物が所狭しと並べられていた。鉢植えを置く棚の向こう側で、小さなジョウロを手に水遣りをしている女性の後姿がある。
 綺麗な艶のある金髪を肩の上で切り揃え、紺色のジャンパースカートの上に店の名前を胸元に載せたエプロンをしている。コーヒーを取り出す為にしゃがみこむついでに様子を窺うと、彼女は店の奥から店員に呼ばれたようで、日本語ではない言語で返事をし、ジョウロを置いて店内に引っ込んでしまった。
 ガコンと音を立てて落ちた缶コーヒーを抜き取り、立ち上がる。それだけの作業しかしていないのに随分と疲れてしまった気分になって、思わず溜息などついてしまった。
 プルタブを起こし、缶を開ける。鼻先に持って行くと飲み口から独特のコーヒーの匂いが僅かに鼻腔を刺激した。缶はよく冷えていて、見る間に水滴が表面を覆いつくす。指先が滑りそうだった。
 ここで缶を空にしておかないと、ゴミ箱があるコンビニエンスストアまで信号をふたつも越えなければならない。だからこの場所に留まって飲むのだと自分に見苦しい言い訳をして、缶を傾ける。
 振り返った道路には相変わらず高速で走り抜ける車の群れ。早い昼休みに突入しているのか、人の姿もちらほらと増え始めていた。食事を、そして僅かな涼を求めて人の足並みは揃って速い。そんな中のんびりとひとり、ビルの壁に凭れ掛かるようにして(実際は熱を含んでとても凭れられるものではない)早足に行き過ぎる人の群れを眺める。
 彼らの顔は一様に疲れ気味で、覇気が感じられない。ただ寝て起きて働いて食べて、日々同じサイクルの上に動くだけならばロボットでも出来るだろうに。
 だが今は自分も、毎日同じ時間に働いて、昨日と同じように今日もこの場所に佇んでいる。彼らと自分と、一体何が違うというのだろう。
 またしても溜息。コーヒーの残りも少しとなり、そろそろこの場を離れなければならない。名残惜しげに缶を振って水音を聞いていると、向こうから自転車に乗った男が、やたらと警鐘のつもりか鈴を鳴らしながら走ってくるのが見えた。
 歩道だというのに、随分と速度が出ている。最初かすかにしか聞こえなかった鈴の音があっという間に近づいて来て、すれ違いざまにぶつかりそうになった女性が迷惑そうに顔を顰める。だがお構いなしに腹の出た男は一直線に道をこちらに向かって進んでおり、危ないなと思いながら残りを飲み干してしまおうとした。
 だが。
「じゃあ、ベルちゃん。御願いね」
「ハイ、行って来マーす」
 右側から、元気の良い若い女性の声が響く。反射的にそちらを向くと、日の光を浴びて輝く稲穂が風に揺れていた。否、金色の髪が軽やかにステップを刻んでいる。彼女は道を驀進する自転車の存在など気づく様子もなく、両手に配達物だろう、ラッピングされた大きな花束を抱えて店を飛び出す。
 男を乗せた自転車も進む、彼女が勤める花屋の前を今にも駆け抜けようと。
「くそっ」
 誰に対する悪態か。握っていた缶を後方へ投げ捨て、気づけば飛び出していた。
 自転車を横倒すか、それとも。一瞬悩み、自転車の進行方向にサラリーマン風の若い男が驚いた顔をして立ち止まっているのを見て、決めた。コンクリートのタイルを強く蹴り、獣の俊敏さで右側へ飛ぶ。
 驚き、そしてすぐに反応できずにその場で停止してしまっている彼女を、飛び出した勢いのまま抱え込んで歩道の端へと倒れこんだ。目の前にサラリーマンの爪先が見える。直後足元で自転車のブレーキ音がけたたましく響き、バランスを崩しかけてふらふらしているそれに乗った男が、一瞬の間を置いて「バカヤロー」といった罵倒を吐き捨てて去っていく。一時その場は騒然としたが、騒ぎの元凶が謝りもせず行ってしまい、後を追う者も当然無くやがて足を止めた人々も本来の自分の目的を果たそうと歩き出す。
 店の奥から飛び出してきた若い女性だけが、悲鳴を上げて駆け寄ってきた。
「ちょっ……大丈夫? 怪我は? 怪我してない?」
 若干パニックに陥っているようで、語尾を跳ね上げる発音で彼女は交互に、上半身を起こし呆然としている金髪の彼女と、左肩を下にして転がっているこちらとを狼狽した表情で見比べていた。
 身体を起こし、頭を振る。僅かに眩暈がした。袖が摩擦で擦り切れてしまっていて、薄手のシャツの下にある肌が露見していた。赤くなっているが、大きな怪我でもない。それから、膝元を見た。
 彼女を抱きこんで脇に飛ぶ際、潰れてしまった花たちが花弁を散らしている。
 放心状態で暫くぼんやり、彼女は目の前を見ていた。それからゆっくりと顔を上げる。
 目が合った、濃い緑の瞳が僅かに震えている。大丈夫かと、声をかけようか悩んだ直後にハッと、その双眸が大きく見開かれた。左右、それから上下に素早く目線を動かし、やがて膝元に散らばっている花束だったもので止まる。アスファルトの上にまで散ってしまった花びらを一枚掬い上げ、声にならない声で溜息をついた。
 後ろで店主から声をかけられ、振り向く。腰を屈めて彼女を覗き込んできた女店主とも目が合い、どうしていいものか悩んだ末、結局何も言えないまま会釈だけを送ってみた。その彼女の目が、戸惑いの中肩の傷に移動した。血が滲み、擦り切れてしまった布地のほぐれた糸に絡み付いているのを見て、自分が痛そうに顔を顰めている。
「大丈夫?」
 少しハスキーな声で問われてから、ああ、と頷いて自分の身体を眺める。痛むが、大騒ぎする程のものではない。それこそ、銃弾が右腕を貫通した時に比べれば、雲泥の差。だが目の前にいる女性2名にはそう映らなかったらしい。
「大変、すぐ消毒しないと」
 片方はおたおたし、片方は声を上げて店へ飛んで帰る。大した怪我ではないから心配要らないし、それよりも配達にいかなくて良いのかと言ってやりたかったのだが、彼女達はまるで聞く耳を持たない。腕を取って引っ張られ店の奥まで連れて行かれると、救急箱を手に戻ってきた店長の女性によって、消毒薬をたっぷり傷口に塗りこめられた。
「いっ……!」
 大概の痛みには耐性がついているとはいえ、素人治療の加減を知らなさ過ぎるやり方には、悲鳴こそあげなかったが大きく息を吸い込んでしまった。喉に空気が引っかかり、眉間に皺が寄る。これならば自分でやった方がまだ良かったと後悔したが、あまり巧過ぎて経歴をとやかく問われるのも、面倒くさい。
「痛かった? ごめんねー、あんまり慣れてなくって」
 言いながら店主が新しいガーゼを傷口に重ね、包帯で巻いていく。肩口で角度があり、やりにくそうな手つきは言われなくても不慣れなのが分かる。ちぐはぐな巻き方で、動かせばすぐに緩んでしまいそうだ。後で、自分でやり直しておこう。心の中で溜息をついた。
 金髪の彼女――ベルと呼ばれていた――はと目だけを動かして探すと、店の前から箒とちりとりを持って戻ってくるところだった。銀色の大きいちりとりを店の中にあるゴミ箱に傾けている、恐らくはつぶれてしまった花束の片付けをしていたのだろう、その表情はどこか悲しげだ。
「あの……花、すみませんでした」
 思えばあの花束は売り物だ。彼女を庇うことに気が向いていたので、間でそれが潰れて売り物にならなくなるという考えは、あの時咄嗟に思い浮かばなかった。弁償をした方がいいだろうか、ぼんやり考えながら頭を下げると、女店主は包帯を巻く手を休め、とんでもないと首を振った。
「気にしないで、仕方ないよ。ベルちゃんが怪我しなかったの、貴方のお陰だもん。むしろ感謝よ」
 それから、ちゃんと見えてなかったけれど、悪いのはあの自転車に乗った親父なんだから、そう呟いて彼女は包帯の半端に余っている端を切った。恐らくは花を裁断するのが本来の用途であるだろう、黒い鋏で。
 箒を片付けた彼女が近づいてきて、心配そうな目で傷口付近を見つめる。既に包帯で覆われて見えるわけではないのだが、傷口がじんわりと暖かくなる感じがした。
「シャツも破れちゃったわね」
「いや、これは……安物だから、気にしないで」
 これは本当だ。服装にはあまり頓着していないから、見かけたどこかの安売りセールでまとめて購入したうちの一枚に過ぎない。愛着も無いし、洗濯のし過ぎでかなり草臥れてしまっていたから、近いうちに捨てるつもりでいたし。
 しかしふたりの女性は納得してくれなかったらしい。折角大事な従業員を助けてくれたのに、お礼もしないのは悪いと言って、店長は聞かない。そのうちにレジから現金でも引っこ抜いて来そうな勢いだったので、傷の手当をしてくれただけで十分ですと言い、慌てて立ち上がった。
「失礼します」
 金が欲しくて助けたわけではない。だが状況に流されていきそうな空気をなんとか抜け出したくて、短く告げて頭を下げた。そのまま踵を返し、店を出るべく歩き出す。
 背後で呆気に取られた感のある店長が、慌てて呼び止めようとする声がしたが、振り返らない。ぱたぱたという足音が近づいてきても、構わずに歩き続けた。
 視界に、眩しすぎる日差しが飛び込んでくる。
「待っテ!」
 矢のような声と、右手に触れた柔らかなぬくもりと。前のめりに倒れ掛かり、膨らんでゆっくり沈んでいく金色の髪。スローモーションのような一瞬後に、見開かれた大きな緑色の瞳が自分を見上げる。
 吸い込まれそうな彩に、思わず息を呑んだ。
「お礼……アリガトウ。これ」
 あの時を思い出したのか、彼女の瞳が一瞬だけ潤む。けれど軽く頭を振って、次に彼女が握っていたものを、指が綻びかけていた掌に押し付けてきた。触れ合った指先とは異なる、硬質の冷たいもの。完全に受け渡されてから軽く手を広げ見ると、それはクリスタルガラスのイルカだった。日差しを浴び、眩しいくらいに輝いている。
「えと……」
 これは、何。
 聞こうとしたが、果たして言葉はどこまで通じるのだろう。かなり達者なようではあるが。
「この前、アリガトウ。私、ベル。アナタハ?」
 けれど彼女がこれを渡した意図は掴めぬまま、微妙に耳慣れぬアクセントで喋りだす。仕方なく助けを求めるように店奥の店長を見るが、彼女は何か含みのある顔で笑って佇んでいる。下方を向きなおせば、金色の中に緑色の宝石がふたつ、輝いていた。
 これは、受け取っておくべきなのだろうか。
「あぁ……ありがとう」
 ひとまず礼を言い、彼女の細くしなやかな指先が肩口の、包帯を巻いている箇所に近づこうとして離れていったので、大丈夫だと告げるように軽く肩を回す。一瞬だけ驚いた風に眼を見開いた彼女だったけれど、ぎこちないこちらの笑みに気づいて優しく微笑んだ。
 心臓が一度、大きく跳ね上がる。自分でも人知れず動揺してしまっているのが分かる程の痛みに、僅かに呼吸が苦しくなった。
「アナタは?」
 返事がなかったのを、言葉が巧く発せられずに聞き取れなかったと誤解したらしい。同じ問いを繰り返した彼女に、生唾を飲んだ上ずり気味の声で返すのが精一杯。
「俺、は……」

 恥ずかしい話、どんな風に名前を名乗ったのか、あまり覚えていなかったりする。

 

 老人が去った後もひとり椅子に腰掛け、ぼんやりとブラインドに遮られた窓を見つめる。日暮れまではまだ少し時間があって、次の仕事も控えているのだから早めに休むべきだと分かっているのだが、何故か動き回るだけの気力が湧き上がってこない。
 ひとつどころに留まっていては己の存在を感知され、命の危機に晒される可能性があった時代とは、随分と変わってしまった。もうあの場所には戻れないし、戻ったところで二日と経たず自分の身体は無残に泥に沈むだろう。
 机の上に、視線を移す。文房具類も簡素で綺麗に片付き、むしろ仕事などしていませんと分かる素っ気無さの机上にひとつだけ、異色を放つもの。
 虹色の影を落とし、きらきら輝くそれは。
 力なく崩れ、机に突っ伏す。手を伸ばし、顔の近くまで引き寄せたそれは日の光を浴びていたに関わらずひんやりとした感触を指先に残す。
 眼を閉じた。
 瞼の裏にチカチカと残る光の明滅に、浮かび上がる仄かな輝き。
 それは、他でも無い――――