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 電話が鳴った。
 最初、部屋のカバンに入れたままだった携帯電話からかと思ったが、そうじゃない。一瞬首を捻ってから、慌ててその音が、あまりにも使用頻度が低くて解約を考えようとしている固定電話からの音だと気づいて駆け出した。
 洗濯物がたくさんぶら下がるベランダから、サンダルを後ろに蹴り飛ばす感じで脱ぎ捨てて部屋に戻り、もうワンコールすれば留守番メッセージが流れ出すところでなんとか受話器を掻っ攫った。前方へつんのめった為、電話が置かれている棚の角で反対の肘を打った。痛い。
「もしもし」
 敢えて自分の名前は名乗らず、電話口から聞こえてくるだろう声に集中する。最近は程度の低い詐欺が横行していることもあり、殊更固定電話にかかってくる電話には神経質になっていた。
 以前、年寄りを語った電話で、スギが迂闊にもお金に困窮しているから貸して欲しいという身の上話に涙して、危うく銀行に走りそうになった事もあった。だから余計に、騙されてなるものかという心理が働いてどうしてもギスギスした応対になってしまう。
 ただ、近しい友人は皆、連絡が必要な時は携帯に電話をするかメールを送ってくるので、この電話が鳴るのはどうしても、変な勧誘や押し売りもどきが多かった。
 或いは、他にする事が無いのかと言ってやりたくなるような、暇をしている若奥様を狙っているらしい変態の興奮する呼吸音やら、云々。
 そういう中にごく稀に、とても重要な電話(たとえば大家からの連絡だったり、町内会の連絡だったり)が混じるから、分別が難しくて神経を使わなければならないのが辛い。こういう連絡が来るのは大抵固定の番号にだから、迂闊に解約するわけにもいかず、困っている。月々の定額料金も馬鹿にならないのだ。
「もしもーし」
 今回は無言電話だろうか。忙しい時間を裂いて電話に出てやっているというのに、なんて奴。電話代の無駄だ、今すぐそっちから潔く切れ。
 思わず言いそうになった言葉を飲み込み、もう一度だけ確認して反応がなかったら受話器を置こうと決めた直後、ざざっというノイズが低く走った。
『もしも……おーい、聞こえるー?』
 耳慣れた、けれど少しだけ電子音に変換された違和感を覚える声が聞こえ、下ろしかけた腕を急ぎ支え直す。受話器を耳に押し当てると、電波状況が悪いのか、周囲のざわめきに負けた声が細々と続いて聞こえてきた。
「スギ?」
『おーい、レオ? 聞こえてる?』
 嫌というくらい顔も見飽きた同居人の姿がパッと脳裏に浮かび上がる。今朝早い時間に出かけていった彼が、こんな日の高いうちに何かしら連絡をよこすなんて、珍しい。帰宅の予定は夜半過ぎになると予め教えられていただけに、予定が変更になったのだろうか。
 色々と考えるが、頭が別の方向に向かいそうになった為元から聞き取りづらい電話口からの音声を聞きそびれそうになっているのに気づき、思考をひとまず追い出す。両手で受話器を握り直し、聞こえている、とだけ返した。
 スギはどこにいるのだろう、電話が拾っている周囲の雑音からして、人ごみの中のようだが。ナンバー表示などという洒落た機能を持っていない、留守番電話とファックス機能がついているだけの電話ではこの通話が、どこからのものか知る術が無い。それに大体、何故彼は携帯ではなく家の電話にかけてきたのだろう。
 まさか、自分の携帯電話を無くしたとか言いだしたりしないだろうか。
 思った瞬間、十分あり得そうだと眉根が片方ひくりと持ち上がった。携帯電話の番号もメモリーに記憶させて頭のメモリーには登録させていないのだろう。思い出せるのが固定電話の番号だけだったのなら、納得もいく。
「で、何? こっちだって忙しいんだけど」
 洗濯物を干し終えたら、朝食の片づけをしてごみの分別をして、部屋と風呂場の掃除を簡単にしてから食料の買出し。一度にこれだけの事が出来るのは完全オフの日くらいで、それも月に数回あるか無いか。貴重な時間を無駄にするなど、馬鹿らしい。
 目に入ったごみを摘み、ゴミ箱を足で引き寄せる。変な格好に開脚した身体を転がさないようにバランスに注意している間に、隣にいるらしい誰かとの会話を終えたスギが喋る。
『あのさ、今……だけど、そっち』
「え? ごめん、もう一回」
 雑音がひどい。電話の電波状況以外にも、周囲の雑踏が聞こえ辛さを増徴させているらしい。片耳を掌で押さえ込んで、開けっ放しの窓から流れ込んでくる新聞回収の車をやり過ごすが、それでもまだかなり、スギの声は遠い。
『だから、もうすぐそっちに、……るから』
「ええ?」
 聞こえないから、つい声が大きくなる。こっちの声はちゃんと届いているのだろうか、不安になった。
 つい数時間前まで隣にいた相手が、こういう瞬間、たまらなく遠い場所にいるのだと感じて怖くなる。繋がっている筈なのに、その繋がりを示す糸がとてつもなく細いものになり、少しでも力の加え加減を間違えればぷっつりと、呆気ないほど簡単に千切れてしまう。
 雨の中、呆然と立ち尽くしていた誰かを思い出す。
 切れてしまった糸を結ぶのはとても難しい。切れた片側だけを延ばしても決して届かないから、千切れた先にも手を伸ばしてもらわなければならないけれど、切れたのではなく、或いは手放されただとしたら――そんな風に考えてしまうと、それ以上離れた糸が遠ざかってしまうのが怖くて足を踏み出せない。
 どん詰まりの状況から抜け出せずに、ひとり瓶の底に溜まった泥水の足をすくわれ、動けない。
 黙りこんでしまいそうになった寸前、受話器から反応が鈍いと思ったのだろう、スギの呼ぶ大声が聞こえた。きっと周囲を歩く人は、迷惑そうに顔を顰めて通り過ぎるに違いない、けれどお構いなしに何度も、彼は人の名前を連呼している。
「聞こえてるよ」
 少しだけ電波状況も良くなったらしい。
 受話器から耳を遠ざけても聞こえるくらいになっていて、心から安堵する。こちらの声も向こうへすんなり聞こえたようで、スギの声は若干トーンが落ちた。
「で、何? もう一回」
 聞こえなかったのだと説明すると、ちぇっという舌打ちが聞こえてきた。ここで無言のままに電話を切ってやろうか、考えていたら先に『切るなよ』と言われてしまった。心を見透かされたような気がして、胸がドキッとした。
『てゆーか、お前携帯、電源切ってるだろ』
 鳴らしたんだぞと唇を尖らせているらしく、不貞腐れた声を出すスギに、え? と目を見開く。そんな覚えは無いのだが、そういえば昨日の夜バッテリーが減っているから充電しなければと思っていたような。そういえば、そのあとどうした? 充電したか?
 たかだか昨日の出来事なのに思い出すのに時間がかかって、家に帰る前から順番に自分の行動を辿ってみると、そのどこにも、携帯電話を充電器に差し込む行為が見当たらなかった。途端サーっと顔から血の気が引く。
 よもや自分の失態で固定電話にかかってきたとは考えもしなかった。人間、つくづく自分勝手な生き物だと変なところで身に染みる。
「う……ごめん」
『別にいいけど』
 どこか呆れたような、けれど笑っているスギの声。そういう大事なところがぽろっと抜け落ちるのがいかにもお前らしい、と褒めているのかけなしているのか分からない事を言われた。そういう君は、大事な事どころかどうでも良い事だって簡単に忘れてしまうではないか。たとえば、鍵をどのポケットにしまったか、さっき使っていたライターをどこにおいたか、なんて日常茶飯事。
 君にだけは言われたくない、言い返そうとしたが、先を読んだように会話が再開して結局言えずに喉の奥へ飲み込んだ。
『で、用件なんだけど』
 腰が折れてしまった話を戻す。そういえば肝心の用件をまだ聞いていなかった。
「ん、なに?」
 右の肩と顎を掴んで受話器を挟み持ち、台近くにあるメモ帳とボールペンを引き寄せた。何か大事な用事があるから、わざわざ携帯に繋がらなくってこっちに電話をかけなおしてきたのだと思ったからだ。
 だが、スギから発せられたことばは、想像していたどの類の内容とも異なっていた。
『あのさ、もうすぐそっち、雨降るから』
「はぁ?」
 思わず間の抜けた声がそのまま口から出ていた。
『いや、だから、雨』
 そんなもの、二度言い直されなくても理解できる。空から降ってくる雨粒の大群だ、今更認識を改めるまでもない。
 だがいたって真剣な声で(恐らく顔も真剣だろう)スギは同じ単語を繰り返す。どうやら彼は今駅前の地下道に居て、周囲の賑わいは平常の買い物客以外に地上を歩いていて突然の雨から逃れてきた人々で、余計にごった返してのものらしかった。
 かくいうスギもそのうちのひとりらしく、心配して電話をかけてきたという事。最初電波状況が悪かったのは、地下の為アンテナが遠かった所為もあるのだろう。しゃべりながら移動して、漸く通信状態が宜しい場所を発見し、そこに陣取ったのだと。
『急に降りだしたし、雨降るだなんて聞いてなかったしさ。多分そっちに雲流れてると思うから、もうすぐそっちも』
 時々声が遠くなったりするのは、地下通路と地上を繋ぐ階段から外の様子を窺っているからなのか。
 まさかこんな事を冗談で言うためだけに電話をしてくる筈もなく、だがなかなかすぐには信じがたくて、電話線が延びる限り身体を伸ばして、開けっ放しの窓の外を見やった。
 頬を撫でる風が、心持ち生ぬるく湿気を帯びてきている気がした。空の色は、見え辛いが、洗濯物の隙間から覗くのはやや薄めの鉛色。時折差し込んでいた日差しが今は全く見つけられない。
「あー……降るかも」
 独り言のように呟く。遠い声で、「かも」じゃなくて降るんだと訴えてくるスギが、だからと念押しした。
『今日洗濯して布団干すとか言ってたの、あれやめとけよ』
 濡れた布団でなんか寝たくないからと、あくまでも自分本位の主張をしてスギは電話の向こうで大きく頷いたようだ。横で笑う声がする、遠すぎてよく分からないが、自分も全く知らない相手ではないようだ。時々あちら側で交わされる会話の端に、自分の名前が見え隠れしている。
 その場に自分がいないのに、自分の話題で盛り上がられるのは、気恥ずかしいしとても気になる。悪い風には言われていないと思うのだが、相手にどう思われているのか、永遠の謎だ。
「空大分曇ってきたな」
 やはりひとりごち、顎を撫でた。早く電話を切らなければ本当に降り出しに洗濯物の回収が間に合わないかもしれない。しかしどうにも言い出しづらく、もう少しこのまま、電話を繋げていたい気分も嘘じゃない。
 困った。
『あー、そうだ』
 天の声程優雅ではないが、元気のよい明るさを感じる声が脳裏に響く。
『もうすぐ、さ。帰る』
「はい?」
『なんかさー、予定してたレコーディング、スタジオ予約ミスってくれちゃってたらしくって出来なくなったから急遽オフ。休み差し替えられちゃうけど、こればっかりはなー』
 自分の責任ではないし、スタジオ側の不手際だった為、細かいやり取りはこの際省略するが、振替分の予約を優先的に良心価格で設定して貰えたらしい。結果的には万々歳だが、その帰りに雨に降られたのだという。
 横で、仕事仲間が笑っている。スギは自慢げに勝ち取った使用料金の割引を誇ってみせたが、交渉したのは彼でなく口達者な仲間だったかららしい。スギがそんな高尚な話術を持ち合わせていないのはよく知っているので、笑って頷く。
 不満そうな顔をしているスギがからかわれ、茶化した仲間を怒鳴りつける声が響く。
『だからさ、雨やんだらだけど、もうじき帰る』
 そっちが降り止む頃には、こちらが大雨かもしれないという可能性は、考えていないらしい。それとも道中でビニール傘でも買って帰ってくるのか。
「分かった」
 短く、簡潔に返すと、携帯電話のバッテリーが怪しくなってきたとスギが舌打ちするのが聞こえた。頃合だろうか、向こうからそれじゃ、と告げられる。
「うん、ああ……降りそう」
 最後の呟きに、電話が切れるぷつっと言う音が重なった。
 空は曇天、鈍色が広がっている。もうどこにも青空は残っておらず、低い位置の雲は今にも泣き出しそうだ。西から吹く風に押されているのだろう、その動きはかなり速い。
「片付けるか」
 受話器を置く。肩から力を抜いて息を吐いた。ひとりでいると、どうしても独り言が多くなる。聞く相手もいないのに喋ってしまうのは、心寂しいからなのだろうか。
 緩く首を振った。そんなことはない、と。
 だって、ここはふたりの家で。
 曇り空の下、ベランダに出る。降り出しそうな上空を睨むように見上げ、それから彼方へと視線を投げた。遥か向こう、鉛色の海がなだらかに広がっている。霞がかかったように視界は悪く、どこかで雨が降っていると知れる生ぬるい風が頬を撫でた。
 腕を伸ばし、干したばかりの洗濯物を集める。室内で干すしかなさそうだ、乾燥機などという上等なものは持ち合わせておらず、風呂にもそんな気の利いたもの、備え付けられているはずがない。臭いがつくから嫌だなと眉根を顰めつつも、自然の気まぐれに反抗したところで無駄な話。諦めに似た気持ちで溜息をつき、湿って重い衣服の山を室内に押し込んだところで、ぽとりと軒下のコンクリートに小さな黒いシミが出来た。
 シミは気づけば続々と増え、そのうち元の色がまったく見当たらなくなるまで染め上げられてしまう。勢いづくまでそれ程時間もかからず、あっという間の窓の外は雨のカーテンで視界が完全に塞がれてしまった。どこかで雷が鳴り響く音がする。
「危機一髪」
 ほっと息を吐く、あと数分行動が遅ければ今頃は洗ったばかりの洗濯物が水浸しだっただろう。電話をくれたスギに感謝せねばなるまい。
 もうすぐ、雨が降る、と。
 風に煽られて雨粒が部屋に入ってきそうで、急ぎ窓を閉める。他の部屋も見回ってこよう、この洗濯物の部屋干しは暫くおいておくとして。
 立ち上がる。爪先にTシャツの袖が引っかかったのを外し、隣室へ向かった。
 雨音が響き、うるさい。屋根を激しく打つ雨の勢いは、社会に抵抗する何かを想起させた。ひとり部屋に居残る孤独が骨にまで響く雨音に刺激され、背筋が泡立つ。無意識に腕で身体を抱き、僅かに硬く、唇を噛んだ。
 大丈夫だと、自分で自分に言い聞かせる。
 雨は止む、じきに。
 もうじきだ、もうすぐに。
 それに、それに。

 もうすぐ。
 もうすぐ――