Rustle

 気まぐれにテレビをつけると、嵐が接近中というテロップが丁度上の方に流れているところだった。
「へぇ……」
 そういわれて見れば、窓の外の雲行きはどうも怪しい方向へ向かっている。灰色の重たそうな雲が空一面を覆い尽くそうとしているし、庭木が風に揺すられる度合いもいつもより若干強い気がする。感覚的に、あと小一時間もすれば雨が振り出しそうだ。
 窓辺に寄って半分閉まっているカーテンを引く。午前中は割といい天気で晴れ間も広がっていた筈なのに、こうも素早く天候が変わると少し気味が悪い。
「嵐、かぁ」
 ぽつり呟いて、室内を振り返った。無人のリビングを見回し、それから再び外を眺める。
 この季節、雨が降ってくれないと夏場に水不足の危険性が発生する。緑は立ち枯れて食糧も育たなく不作が続けば、致命的な打撃が経済に及ぼされるだろう。だから雨、嵐はむしろ歓迎されなければならないのだが。
 やはり気持ちとしては、曇り空や雨空よりも、綺麗に晴れた青空を見上げていたい。
 しかし裏腹に雲行きはどんどん怪しくなり、今にも大粒の雨が天頂から舞い降りて来そうだ。部屋の窓は閉めていただろうか、雨が吹き込んで来るのは避けなければならない。
「アッシュ君、洗濯物干しっ放し」
 そしてもうひとつ。
 買い物に出かけた筈のアッシュは、朝の天気予報を見ずに出かけてしまったらしい。そこそこの天気だったからか、曇天の下で不安そうに洗濯物が揺れていた。さっき振り返った時に確認した壁時計は夕刻前を指し示しており、がらんどうのリビングはアッシュがまだ戻ってきていない証拠のようなもの。
 台所の扉は開け放たれ、中は見えないが人の存在は感じない。交通渋滞にでも巻き込まれているのか、普段ならばもう戻ってきていても可笑しくない時間帯なのだが彼の姿はどこにも見当たらなかった。
 まさかユーリに頼むわけにもいくまい。アッシュが帰ってくる前に雨が降りだして、知っていながら洗濯物を放置して濡らしてしまうのも後味が悪い。仕方ないと肩を竦めスマイルは窓を開けた。庭へ降りるのにステップ代わりの石を一段跨ぎ、空気が重たい為か若干背中を丸め気味の芝を踏みしめる。
 物干し台までゆっくり歩き、綺麗に並べられている洗濯物をひとつずつ回収していく。籠も持たずに来たので一度ではとても集めきれず、何度か庭を往復させられた。
 布とはいえ、枚数が増えればそれなりに重くもなる。終わりが見え出した頃には洗濯物を抱える右腕は痺れ、感覚が鈍くなっていた。次もし同じ事をする機会があったなら、迷わず洗面所から洗濯籠を持って来てからやろう、心に刻み込む。
「やっと終わったー」
 窓際に山積みにされた洗濯物に倒れこむ格好で、部屋に身体を押し込む。靴を履いたまま手拍子ならぬ足拍子で、靴裏に付着している土と草を叩き落し、それから窓からはみ出ていた下半身も屋内に招き入れた。
 乾いた洗濯物の肌触りが心地よいが、曇り空の下に長い間あったせいだろう、少し冷たいのが何より残念でならない。そうしているうちに、背後では風が唸るように響き、庭を囲む木々がざわめきだした。
 ぽつり、と色の濃い芝の上に雨粒が落ちてくる。
「っと、危ない」
 慌てて窓を閉め、洗濯物も両手で抱きかかえて部屋の中心近い場所へ移動させた。
 もう少し遅くに作業を始めていたら、降り始めに間に合わなかったかもしれない。流石に畳んで各人の部屋まで運んでやるのはアッシュに任せるとして、それよりも彼はまだ帰ってきていないのか。
 ずっとリビング近辺にいたが、誰かが通った覚えは無い。外を向けば雨はいよいよ本降りの様相を呈しており、そういえば部屋の窓は閉めただろうかと今更思い出す。
「閉まってる……筈。今日あけた覚えは無い、うん」
 本日一日の行動を振り返り、顎に手をやって曖昧な記憶を搾り出し辛うじて自分に頷く。それでも自信がなくて、調べに戻ろうかとしたところで遠く車が止まる音がした。ちょうどリビングを出ようとしたところで、玄関に飛び込んで来る大きな影と出くわした。
 びしょ濡れとまではいかないが、駐車スペースから玄関まで傘を差さずに走ってきたのだろう、灰色のTシャツの肩から胸の辺りが黒く変色して肌に張り付いてしまっている。両手に大事に抱えた買い物袋を庇いながらの踏破だったようで、普段は重力に反して空を向いて立っている髪の毛も、今ばかりは斜めに倒れていた。
「オカエリ」
 ぜいぜいと入ってくるなり肩で息をして苦しそうなアッシュに声をかける。話しかけられて漸くこちらの存在に気づいた彼は、数回瞬きを繰り返した後、あ、と短く声をあげた。
「洗濯物!」
「取り込んでおいた」
「窓!」
「今から見回ってくる」
「庭の水やり!」
「それ、今更必要あるノ……?」
 人の顔を見て真っ先に思い出すのはそれなのか、と苦笑しながら丁寧にひとつずつ答えてやる。
 どうも突然の雨と風に気が動転しているらしい。次第に呼吸も落ち着いて肩の上下具合も穏やかになり出してから、彼はまた数回瞬きし、こちらを見つめる。
「……ただいま、っス」
「オカエリ」
 非常に小声で呟いた彼へ、満面の笑みで返してやった。

 

 城の中を一回りしてからリビングへ戻ると、アッシュが丁度洗濯物を畳んでいる最中だった。
「異常無かったヨー」
 ドアを開ける音で気づいたらいし彼が振り返って目があったので、軽く右手を上げて左右に振りながら言う。了解の意味か頷いたアッシュは再び手元へ視線を落とし、休めた手を再び動かし出す。会話が妙な感じで半端に終了してしまい、行き場をなくした手をひらひら顔の前で揺らして、仕方なく窓辺へと爪先を向けた。
 しっかりと中央であわせられていたカーテンの端を摘み上げ、自分の視界を確保する。アッシュが気にするような雰囲気でこちらを窺ったが、背中で無視を決め込む。
「あ、雷」
 雨はますます勢いを増していて、横殴りの風が木々を激しく揺さぶっている。広葉樹のざわめきがまるで悲鳴のように耳に響いた。直後、どこかで落ちたらしい雷の轟音が大地を揺るがす。
「ひっ」
 それに合わせたような、短い息を呑む悲鳴。
 眉間に皺を寄せ、今のは一体何か想像がつくものの予想したくない気持ちのまま、好奇心だけが勝って後ろを向く。洗濯物の山を前に、アッシュが肩を強張らせて硬直していた。しかし見守っているうちに数秒後また動き出す。そして背後で再び、雷が落ちた。
「ぃっ」
 今度は声を押し殺した感じがするが、肩をピクリと跳ね上がらせて暫く固まっている。眺めていたスマイルは、ふぅんと顎を撫でた。
「アッシュ君」
 呼びかけてみるが反応が悪い。三秒たっぷり経ってから、やっとのことで彼は窓際のスマイルを振り返った。表情が心持ち硬い。そういえば彼は、カーテンを閉めているのにずっと部屋の壁を向いていて、時折雷鳴で明るく照らされる窓をなかなか見ようとしない。
 まさか、とは思うのだが。
「んー、君って、ひょっとして雷怖い?」
「ま、まさかっ!」
 立てた人差し指を向けられたアッシュは大慌てで否定しようとしたが、直後に雷のまばゆい光がスマイルの背後を襲った。一瞬だけシルエットのように浮かび上がったスマイルの姿を最後まで直視せず、アッシュの頭は獣の形となって洗濯物の山に突っ込まれていた。
 ふさふさの尻尾が股の間に逃げ込んでいるが、これはまさしく、頭隠して尻隠さず。
「アッシュ君……」
 さっきまで否定しようとしていた勢いはどこへ行ったのか。
「はっ」
 器用に犬の姿でも人語を話しながら、我に返ったアッシュは恐る恐るといった具合でスマイルの様子を窺ってくる。にっこり笑って手を振り返すと、びくっと過剰な反応を示してからがっくりと項垂れた。如実に落ち込んでいるのが分かる。
「怖いノ?」
 ニヤニヤと口元を綻ばせたまま言うと、さっきよりも更に小さくなったアッシュが控えめに、渋々、気乗りしない感じで、嫌々ながら頷いて返した。
「怖いというか、もう条件反射っス」
 獣としての本性を持ち合わせる彼にとって、野生で暮らしていた時代の名残が身体に染み付いてしまっているのだという。曰く今のように屋根があり、壁があり、嵐の夜でも安全に過ごせる囲いとなる家を持たなかった頃には、落雷の危険性も高く感電死する可能性があった。雨は身体から体温と体力を奪い取り、長期間の雨は狩りに出るのを阻み食料が乏しくなり飢え死にする場合もある。
 単純に雷が怖いのではなく、それは生命本能に準ずる怯え、なのだと。
「いやでも、結局は怖いんでショ?」
「……悪いっスか」
 今までも何回かこんな嵐の日はあったが、そういえばこんな風に間近で接するのは初めてかもしれない。
 不貞腐れた顔で(但し犬の姿のままなのでそう感じ取れるだけで、実際は違うのかもしれない)ぼそりと言い返した彼にぷっと吹き出すと、益々不機嫌に表情を変えたが、続けざまに鳴り響いた雷で飛び上がった。折角綺麗に折り畳んでいた洗濯物の山に頭から突進してしまい、ぐちゃぐちゃにしたは自業自得に嘆いている。
 もともと獣は火を怖がるという程だから、彼の行動も分からないわけではないが。
 普段の巨漢で派手にドラムを叩いている姿から比較すると、あまりにもかわいらしく、面白い。悪いと思いながら、笑わずにいられない。
 すっかり拗ねてしまったアッシュに肩を竦め、窓を横目で見る。カーテンの隙間から覗く空は、若干厚みが薄れた感じがするものの、まだまだ雨は続きそうだ。ただ雷は遠くへ去ったらしく、先程までの落雷ショーはもう見えなくなっていた。
 風はまだ強い、横殴りの雨が窓を打ち、庭木を薙ぎ倒しそうなくらいに靡かせている。木々はざわめき、悲鳴を上げ、一枚のガラスを隔てただけの世界がとても遠いものに思えてならなかった。
 まだこの先数時間、このざわめきは止みそうにない。
「今夜はずっとこの調子かな」
 何気なく呟き、カーテンを閉めた。アッシュはというと、犬の姿のまま洗濯物の山に登りひたすらに落ち込んでいる。きっと毛が抜けて洗濯物に絡んでいるだろうから、また洗い直しだろう。なんと無駄な労力。
「夕食、どうする? ボクが作る?」
 試しに聞いてみると、耳をぺたんと折りたたんで伏せたアッシュがやや恨めしげな顔でこちらを見返した。弱々しく一度頷き、またシクシクと布団ならぬ洗濯物に顔を突っ込む。そんなに心配せずとも、雷様は臍を取りに来やしない。
 無論、彼がそんなものを怖がっているわけでもないのだが。
 やれやれと肩を竦めて首を振り、落ち込みモードから一向に回復しないアッシュへと歩み寄る。膝を折って傍にしゃがみ、彼の柔らかな毛並みをそっと撫でた。
 人型の時とはかなり違う、肌触りが心地よい。ずっとこの姿だったら可愛げがあったのにな、と本来の姿を脳裏に思い浮かべ、目の前の子犬並みに小さくなった彼とを比べる。もしかしたら獣人である彼の本来の姿は、或いはこちらなのかもしれないが。
「なんだったら」
 今日の夕食のメニューは何にしよう。アッシュが買って来た食材を無駄にするわけにいかないから、多少の制限は設けられるだろうが、カレーに使える具財はどれくらいあるだろう。米は無かったはずだから炊くところから始めなけれなばらない。サフランは残っていたか……云々。
 頭の中で色々な事を考えながら、アッシュの背中を撫でる手は休めず、ただの気まぐれで思うところとは違う内容を口に出す。
「今夜一緒に寝ル?」
 ぴくり。
 アッシュの身体が分かるくらい大仰に反応を示した。だが手は休めない。指の間を撫でる毛並みがとても気持ちよく、滅多に犬(本人は狼と主張しているが)の姿で触らせてくれないだけに、今触らなくてどうするのだという勢いだ。
「きゅぅぅ……?」
 まるで縋る様な、それでいて何かを期待するような目でアッシュ犬が顔を上げてスマイルを見上げる。柔らかい肉球の手が彼の膝を叩いた。這い上がる格好で上ろうとするが、後ろ足が洗濯物に滑ってうまくいかない。
 そんなある意味必死なアッシュへ向け、今夜のメニューの計画を大体組み立て終わったスマイルが、にっこりと、それこそ満面の――悪戯を仕組んでいる時の――笑みを浮かべた。
「モチロン」
 洗濯物とスマイルの足の間でじたばたしているアッシュの頭をそっと撫でる。
「その姿でなら、ネ」
 告げるタイミングで彼は右目を閉じた。ウィンクのつもりかもしれないが、隻眼の彼だから単に目を閉じただけにしか見えない。
 口元の意地悪な笑みに初めからアッシュは気づくべきであった。言われた瞬間、頭の上に巨岩が落ちてきたようなショックを受け、顎が大きく、床に着きそうなくらいその場で外してしまった。
 堪えきれず、スマイルが肩を小刻みに震わせてぷぷぷ、と噴出す。
「それでもイイなら、今晩オイデ?」
 笑みを絶やさない口元を片手で覆って、スマイルは漸く立ち上がった。名残惜しげに、最後に一度わしゃわしゃと、抵抗すら忘れているアッシュの頭を撫で回して。
「ああ、ちなみに」
 人型で来たら遠慮なく蹴り飛ばすからね、と爽やかに言い残し、彼は台所方面へと去っていった。
 直後。
 すっかり遠くなったと思われていた雷が、突如として間近に鳴り響いた。地面が揺れるほどの衝撃を感じ、アッシュはその場でジャンプすると尻尾を巻いて駆け出した。スマイルがいるはずの台所めがけて。
 どうやら今夜の嵐が終わるまで、庭の木々のざわめきも、アッシュの心のざわめきも、休まることはなさそうだ。