Lamppost

「あれ……」
 闇の中、点々と明かりを燈す電信柱の前を自転車で走り抜け、更に左に曲がろうと軽く腰を浮かせてブレーキに力をこめようとしていた時だった。
 曲がろうと狙いを定めていた空間の僅かに手前、街灯に足元を照らされた電柱の前に何か、黒い影が見えた。しかもそれは、どうやら先にこちらに気づいていたらしい。ゴミ袋かと思われた物体はむっくりと立ち上がってこっちを向く。
 何だ? 怪訝に思いながら若干身体を前傾させて目を凝らす。空に月も星も無い曇り空の夜の住宅街、思う以上に暗い場所でなかなか相手の顔を判別するのは難しかったが、見知ったシルエットだと思い至った瞬間、指先を添えていただけのブレーキを思い切り握り締めていた。
 近所迷惑だと怒られそうな甲高い音を響かせ、それでも慣性の為に目算よりも数メートル先で停止した自転車の上で、ぎょっとなったまま背後を振り返った。黒い影はそのまま電柱の前に控えていて、アパートの門柱を思わず通過してしまった自分を眺めながら笑っている。
「やーい、行き過ぎてやんの」
 指まで指されて、こちらとしては気分が悪い。そもそも何故、こんな暗がりの下で立っているのか。自分達が共同で暮らしているアパートは目と鼻の先にある。いくら初夏とはいえ日も沈みきった夜半に外で過ごすには半袖だとかなり冷えるだろうに。
 自転車から降りて手で押しながら、行過ぎた距離を戻ってふと、自分達の部屋を見上げる。昼間出掛ける直前に干した洗濯物がそのまま軒下に連なり、部屋の電気は消えたままだ。夜遅い隣人の部屋の明かりが灯っているのが珍しかったが、それ以上に自分の部屋の明かりが点いていない方が一層奇異だった。
 振り返る。何を見ていたのか気づいたのだろう、目の前に迫ったスギの顔が困ったような、照れたような表情に変わっていた。それでもまだ笑っていて、帽子を被ったままの頭をしきりに引っかいている。
「スギ……」
 まさか、また鍵を失くしたというのだろうか、彼は。
 だがこちらの表情で考えている中身をいち早く読み取ったらしい彼は、へへっと苦笑いを浮かべた後、勢い良く両の掌を顔の前で叩き合わせた。ぱしっと小気味の良い音が周囲に一瞬だけ響き、また静かになる。
 大仏様を拝むような状態でほぼ直角に腰を曲げて謝ってくる姿を目にするのは、果たしてこれで何度目だろう。指を折って声に出して数えてやろうかとも思ったが、自分が空しくなりそうだったのでやめた。代わりに、これみよがしに盛大な溜息をついてやった。
「レオ、ごめん!」
 此処に来てやっとスギが口を開く。また溜息が漏れたのは、その内容がこちらの想像を違えぬものだったからに他ならない。声には出さなかったが心の中で数えた、彼の鍵の紛失回数はそろそろ片手で足りなくなりそうだった。
 一度目は大目に見て、二度目は失くしたと言った翌日に運よく落ちているのを友人が拾ってくれて事なきを得たが、回数が増すと流石に笑って見過ごせなくなってくる。鍵を失くすという事は、それを拾った誰かがこちらの留守の間に勝手をしないように警戒せねばならないわけで、強盗や空き巣に狙われないように鍵ごと取り替えなければならない。その出費はかなりの痛手で、スギもその事は十分分かっているだろう筈なのに。
 何故また失くすのか。
 前回、全額をスギに負担させ、もう失くさないと誓わせた矢先にこれか。
 ふたりで部屋を借りれば、ワンルームをふたつ借りるよりも安上がりになるだろうという事で始めた共同生活だったが、そろそろ見限ってやるべきか。大家にも連絡せねばならないし、鍵の取替え工事の時は家に居なければならないので、既に決めていた予定を大幅に狂わされたりする。
 結論を言えば、金と手間がかかるだけでこちらの得になるような事はひとつもない。
 街灯の下でへらへら笑っている相手は、その事実を十分に認識しているのだろうか。前回の取替え工事費用で自分の懐が苦しいのも分かっているかどうか。
 車を運転していて、駐車違反の切符を切られて金を取られるような感じだ。自業自得なのだが、なにせ額が大きいだけに周囲を恨みたくなる。そんな状況に近い。
 もう溜息しか出ない。
「どこで落としたのさ」
「う~ん、それがさ、よく……」
「ちゃんと探した?」
「いや、その……失くしたって気づいたのが今さっきだったから」
 既に夜も遅い。電車の残り本数は確実に減っていて、今から今日の活動範囲を全部回って探すのは物理的に不可能だった。それでなくとも行動範囲の広いスギの事だ、今日も西へ東へ大移動を繰り広げていたに違いない。
 今日出歩いた場所を思い出させて、明日探しに行かせても見つかる可能性は低いだろう。免許証や財布と違い、所在を明らかにする手段が限りなく乏しいしのだし。
「目印つけてある?」
「でかめの……キーホルダー。赤い奴、これくらいの」
 言いながらスギは指を丸めて五百円硬貨大の輪を作って示す。確かにそんなキーホルダーつきの鍵が机の上に放り出されていたのをつい最近見たから、間違いないだろう。今日一緒だった友人達に見なかったかと確認はしたかと聞くと、一通り連絡を入れているが反応は芳しくないという回答だった。
 前髪をくしゃっと掻き揚げる。これは明日早速大家に連絡の上、鍵交換の手配を電話で依頼だろうか。前回頼んだ業者の名刺はどこに片付けただろう、電話帳に挟んだ記憶があるが、まだそのままになっているか自信がない。
「予定外だ」
 天を仰ぎたくなる気分だったが、顔を上げてもそこには深い闇と、自分達を照らす街灯の明かりが見えるだけ。どこか草臥れた感じのする鈍い明るさに、羽虫が何匹も群がっている。時々身体を体当たりさせているらしい音が聞こえてくるが、こちらに攻撃の矛先を向ける様子はない。
 支えている自転車のハンドルを握りなおし、肩を落とす。
「で、なんで部屋の前じゃなくてこんな場所で待ってたの」
「いや~、だってさ。あそこ、前の通路暗いだろ? 変な奴が待ち構えてるとか思われて逃げられたら嫌じゃん」
 部屋のアパート入り口は、今自分達がいる方角を表側にするとしたら、裏側にある。各玄関の前には小さな明かりが取り付けられているが、向かい側に工場の壁がある為かなり暗い。確かにスギの言う通り、玄関先に蹲る黒い影を確認したら、危険人物が待ち構えているのかと思って警戒してしまっただろう。
 だが、だからと言って街灯の下で待たれるのもどうかと思う。自分が見つけたからいものの、夜道を帰る人が見て不審者と通報されたらどうなっていた事か。空き巣に入る先を探している泥棒、とも誤解されかねない。
 もっとも本当にそういうものを狙っている輩ならば、こんな場所に立ったりはしないだろうが。
 とはいえ、夜半に人待ちで立つ場所ではない。玄関前でなく、階段下で待っていてくれれば良かったのに。
「だってあそこ、明かりなくて暗いじゃん」
 唇を尖らせて口答えして来たスギは、どうやら暗い場所でひとり待つのが嫌だったらしい。子供じゃあるまいし。
「んな事言うなって。ほら、さっさと帰ろうぜ」
 自宅は目と鼻の先であるが、立ち止まってしまってから随分と時間が経つ。自転車を支え続けるのも少し疲れてきた。この意見には同意して、頷いてからスギの方を向いている自転車を方向転換しようと、足元の暗い道路へ視線を何気なく流した。
 視界に、黒々としたアスファルトの上で、街灯を浴びて鈍く輝くものが見えた。
「……?」
 なんだろう、と目を凝らす。深く気にしないものの、自転車で轢きそうな位置にあったため避けようとハンドルを僅かに捻るが、それでも端を踏みつけてしまったらしい。反動で踏まれたとは反対側が浮き上がったのだろう、タイヤが外れると同時に、本当に微かに、金属の音がした。
 金属片にしては、妙な感じがして、少し腰を屈めて自転車のサドル部分真下を見つめる。
「ねぇ、スギ」
 それから、静かに問う。
「君が鍵をなくしたって気づいたのは、いつ?」
「さっきもそれ聞いた」
「うん、念の為確認。いつ?」
「だから、さっき。もうじき着くからってポケットから鍵出そうとしたら、なかった」
 こちらの質問の意図が掴めないのだろう、スギは不貞腐れた顔のまま肩を竦めた。その前で自転車のスタンドを立て、手で持って支えなくても自立出来るようにする。前かごにカバンが入っているので重みから、前輪だけが急角度で左に曲がった。倒れそうに思え、慌てて左手で支えるがその役目を果たすことなく、バランスを勝手に保ち紺色の自転車は安定した。
「レオ?」
 怪訝にスギが名前を呼んでいたが応じず、代わりに膝を折ってさっきタイヤで踏んでしまったものを探す。上方に影が出来るものが現れたため見え難さが倍増していたが、手探りをするまでもなくそれは簡単に見つかった。
 拾い上げる。赤い、キーホルダー。それから。
「げっ」
 下を覗き込んだスギにも見えたのだろう、仕舞ったという顔をした。
「スギ?」
「いや、あの、これはその……」
 赤いキーホルダーの下で、金具に繋がれて揺れるのは紛れもなく、銀色の鍵。見覚えがある形状は、間違いなく自分達が借りている部屋の玄関を開ける為のもの。
 失くしたのではなく、取り出そうとして手をポケットに入れたときに何かの拍子で間違って落として、しかもそれに気づかなかったのだろう。これまでに紛失を重ねてきている彼だから、落としたのではなく失くしたという意識が真っ先に働いたというところか。
 いくら夜で暗いからとはいえ、街灯の下に立っているのだから足元くらい確かめればいいのに。
「面目ない」
 トホホと頭を垂れて肩を落とすスギの手に、強引に鍵を押し込んで自転車を起こす。
「先行って開けて来て。怒ってないから」
 自転車置いてくる、とすっかり冷えてしまっている身体を一度大きく震わせて言うと、スギは急にパッと顔を明るくさせて頷いた。そうして小走りに駆け出す背中に、子供じゃないんだからと溜息を吐く。
「あ、今日の風呂当番お前な」
「えー! 今日はレオの番だろ」
「何か文句ある?」
「……謹んで磨かせて頂きます」
 街灯から離れ、暗がりの元にっこり微笑みかけてやると、ただでさえ陰影が濃く現れるのだ、余程恐ろしい表情に見えたのだろう。顔を引き攣らせてスギは走っていった。
 思わず表情が緩む。
「子供じゃないんだから」
 もう一度呟き、自転車を駐輪所に放り込んだ。