焔火

 その溝は、底が闇の中な程に深く、向こう側が見えない程の幅の広さでもって、綱吉の前に横たわっている。
 いつだったか、テレビのドキュメンタリー番組で南極の巨大なクレバスの映像が流れているのを見たことがあるが、それに似ている。違うのは、あの映像は白銀世界の光景だったけれど、綱吉が今立っている場所は、己の手元さえ見えない暗闇だということだろう。
 出口もなく、前に進むことも出来ない。右を見ても左を見ても、その溝の切れ目は見当たらず、向こう岸に渡る橋もない。後ろには下がれるかもしれないが、どこに続いているか分からない。
 何故此処に居るのかも分からないで、綱吉は溝を吹き抜ける風が鳴る、物悲しい声に胸を詰まらせる。
 それは悲鳴のようであり、彼を責める声でもある。
 聞きたくなくて耳を塞いでも、指の隙間から、手のひらの細胞さえも通り抜け、声は切なく、哀しげに、綱吉の脳髄に突き刺さる。振り払おうと首を振っても、余計に絡み付いて離れなくなるばかり。
 助けて。声は響かない。応える者もない。
 一切の闇、一切の沈黙。
 目の前に辛うじて見える光は針で突いた穴のように小さく、今にも消えそうな蝋燭の炎の如く弱々しい。
 そこに辿り着ければ暖かいだろうか、救われるだろうか。しかし彼と光との間には、どうしても越えられない溝がある。その場所で尻込みし、足踏みをしている限り、永遠に光には手が届かない。
 痛い程分かっている。分かっている、が、動けない。
 足が竦む、失敗した時の事を考えると恐怖で総毛立つ。
 綱吉は座り込んだ。膝を折り、そこに額を押し付けて背中を丸め、身体を小さくして、震える。
 己はなんて弱いんだろう。弱く小さく惨めな存在なのだろう。最初からダメな人間なのだから、珍しくやる気になって勇気を振り絞ったところで、結局ダメな結末で終わるのは分かりきっている。
 誰かを傷つけたり、自分が深く傷ついたりする前に、自分自身への浅い傷だけで終わらせておけば良かったのだ。
 こんな風に、声を殺して泣く必要なんて無かったのだ。
 ――入ってこないで。
 そうやって、自分を守ってきたのに。
 彼らは――彼は、呆気なく綱吉自分で組み立てたバリケードを突破し、綱吉の心の殻をノックして、返事がないと知るや諦めるではなく、無理やりにドアをこじ開けて破壊した。二度と、扉が閉まらないよう、綱吉が内に引きこもれないように。
 けれど今、再び扉は閉ざされた。小さな鍵穴から漏れる光はか細く、悲しい。
 差し出されたはずの手は、いつの間にか綱吉を、溝のこちら側へと突き飛ばしていた。そしてもう、あの手は届かない。
 彼が好きで、好きで、自覚したら他に何も考えられないくらいに、好きでどうしようもなくて。
 だからこそ綱吉は、この場で踏み止まって、どこにも動けない。
 彼が傷つくのは嫌だ、無論彼以外の大勢の仲間や、友や、大切な人を傷つけてしまうのは嫌だ。それに伴って、自分自身が傷つくのも、嫌だ。
 自分が動かなければ、今のままの時間を過ごせたなら、きっときっと、大丈夫だと思うことで辛うじて、綱吉は自分を支えている。心が折れてしまうのを防いでいる。
 ボンゴレは継がない、イタリアにも行かない、十代目になんてならない。マフィアなんて知らない、喧嘩なんてしたくない、ましてや命を賭けた闘いなんて馬鹿げている。
 自分は戦わない、誰も巻き込まないし巻き込まれたくも無い。そうすればみんなきっと、傷つかない。戦わなくて済む。相手の言い分なんて聞いてやらない、ここは日本、法治国家。自分は矮小な一市民でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
 それ以外に、何も要らない。

 綱吉は膝を抱いてその場に横たわる。
 見上げた空は薄雲が漂い、鳴り響くチャイムの音はどこか他人事のようだった。
「授業、終わっちゃった……」
 呟いた声は乾いている。目が痛くなるまで泣いたのは、果たしていつ以来だろうか。ぼんやりと流れていく雲の行方を追いかけながら、思い返せない記憶に意識を飛ばして、短い時間を過ごした。眩しかった日の光も少し緩んでいるのは、もう夕方ともいえる時間帯が近いからだろう。綱吉の足元遠くでは、今日の授業が終わって漸く帰れると、はしゃいでいる生徒たちの声がする。
 結局昼休みが終わっても教室には戻らず、五時間目が終了しても教室に戻らず、ホームルームもサボってしまった。
 涙も枯れたのか、いつの間にか流れなくなって、ぐしゃぐしゃになっていた顔も少しは落ち着いた。まだ時折鼻をすすり上げなければならないところはあるが、山本がいなくなった直後よりは随分と、心も平静さを取り戻しつつある。
「怒られるかな」
 授業をサボるのは初めてではないが、最近は色々とトラブルも多くて休みがちであり、先生の視線も厳しくなっている。成績が下がる一方なのもどうにかしなければならない、それは重々理解しているのだけれど、獄寺や山本がいる教室に入っていく勇気は、今の綱吉にはなかった。
 想像しただけでも足が震えてしまう。ふたりのどちらかの姿を見ただけでも、瞬間回れ右をして逃げ出す自信ならある。そんなものを誇っても仕方が無いのに、と皮肉げに笑おうとしたけれど、硬直した頬の筋肉が僅かに震えるだけに終わった。
 息を吐く、重い頭を振って身体を起こした。細かい砂埃を払い落とし、両足を投げ出して空を見る。後頭部がフェンスの金網に当たって軽い音を立てた。
 余裕の無い生徒が既に着替えを終えたのか、グラウンドからは部活動を開始する掛け声も響いている。すべてが遠く、ブラウン管一枚を通した向こう側の世界のように綱吉には思えた。
 どこかから飛んできた枯葉が一枚、足の間に落ちている左手の指先で踊っている。くるくると回って軽いステップを刻み、注視しようと首の角度を小さくしたところで風に攫われ、消えてなくなった。
 ため息が重なる。帰らなくてはならない、時間の経過は容赦ない。既に日は傾きつつある、動いていなくても腹は減るもので、夕食の時間まではまだ遠いが、おやつという環境に慣れている身体は鈍い空腹を訴えかけている。ご主人様の精神的状態など、お構いなしだ。
「……」
 頭を掻く、薄茶色い剛毛が指の間を跳ねる。反発されているように感じて、両手を使ってぐしゃぐしゃに掻き回した。爪が皮膚を刺激して軽く痛む、すべてが自業自得で始末が悪い。
 誰かに助けて欲しいけれど、誰にも助けを求められない。獄寺が好きだという感情自体、綱吉でさえ、間違っていると思うのだ。
 けれど彼と知り合ってから自分は変わって、彼のお陰で随分と世界も広がった。過干渉なまでの接触も多かったけれど、おおむね彼は自分に好意的だったし、「守る」と言われた時に心臓が跳ねたのも嘘ではない。
 きっと自分はこの先、彼がいなければ生きていけないだろう。だって今の自分は、彼に出会えたことで大きく変わってしまった後の自分。もう彼と出会う前のダメツナには戻れない。
 だからこそ、ダメなのだ。
 このままでは自分は弱くなる一方で、彼無しの今後を考えるのは嫌で、けれどやはりボンゴレ十代目の椅子は綱吉にとって大きすぎて手に余る。遠慮願いたいナンバーワンの将来。ただそこに、獄寺は常について回る。
 彼はボンゴレ側の人間で、綱吉が正式に十代目の地位を蹴った後どうなるかは、分からない。しかし彼はマフィアとして生きる将来を既に決定済みであり、恐らくは確実に、本当の十代目の側近として働くことになるだろう。それはつまり、綱吉との別れに直結する。
 それが怖い。
 彼が離れていくのが怖い。
 故に、これ以上彼と近づくのも、怖くてたまらない。
「もうみんな、帰ったよな」
 山本は部活だったはずだ。他のクラスメイトもこれだけ時間が経てば帰っているだろう。ホームルームも終わった教室に居残り続ける生徒は、補習を命じられる綱吉くらいなもの。獄寺は……正直、分からない。
 一番会いたくない人物だ。本音では会いたくて仕方が無いけれど、今会えばどんな悪態をついてしまうか分からない。山本が言っていた「誤解」を追求されるのも怖い。きっと言い訳をしてしまう。もしくは逃げるだろう、何かを言われる前に。
 大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせ、綱吉は時間をかけて立ち上がった。ずっと座っていたからだろう、立ち眩みがして前後左右に身体が揺れたが、フェンスに手を置いてどうにかみっともない姿を晒す前に堪える。肩を上下させて荒く息を吐き、転びそうになった時に高まった心拍数を落ち着かせてからフェンスから離れる。
 久しぶりに両足で立つという感覚は、自分が生きている人間だと嫌でも思い出させられる。歩いてゆかねばならないのだ、どんな道であっても、この二本の足で。
 思わずその場で足踏みをし、きちんと動くのを確かめてから綱吉は歩き出した。日の当たっていた屋上から、屋根のある薄暗い空間にもぐりこむ瞬間はガラにも無く緊張して、生唾を飲み込む音がやけに大きく耳に張り付く。
 掃除もろくにされていない階段をゆっくりと降り、ひんやりとした手すりのお陰で噴出しそうな汗はどうにか耐えた。踊り場で折り返して更に下ると、漸く天井の蛍光灯に光が灯っている廊下に出る。人の気配は無く、シンと静まり返っていて薄気味が悪い。
 雨の日の夕方を思い出す。あの日も、時間帯はちょうど今頃だった。
 閉められた窓から夕日が差し込んで、灰色の廊下に四角形の影が並ぶ。二年の教室が並ぶ階まで降りて角から様子を伺うが、ここも上の階と同じように人の気配は感じられず、廊下の電源は切られていた。
 外からの明るさだけでも歩き回るには十分で、特に問題を感じなかったけれど、薄ぼんやりとオレンジ色をした廊下の空気はいつもと違う気がして、別空間に迷い込んだ気分になる。逢魔が時とはよく言ったもので、綱吉はいつ誰と遭遇するか冷や冷やものだ。
 だが不安は杞憂に終わり、閉まっていた教室の扉を開けると、中には誰もいなかった。
 机の上には、置きっぱなしにしていたらしいペンケースを重石に、午後の授業とホームルームで配られたらしいプリントが四枚重ねて置かれていた。三枚は授業で使ったらしいプリントで、最後の一枚は生徒会からのお知らせと太文字で書かれたプリントだった。いずれもざっと目を通しただけでまとめて二つ折りにし、広がらないようにまたペンケースを上に載せる。それから机脇に吊るしておいたカバンをフックから外し、プリントの横に並べた。口を開け、椅子を引いて机の引き出しから取り出した教科書やノート類を取り出して放り込む。最後にペンケースと、プリントを隙間に押し込んで終了。
 照明の消えた教室は戸締りもしっかりとされていて、カーテンの引かれていない窓から見える校庭もまた夕日を受けてオレンジ色に輝いている。窓は閉まっているから外の声はうっすらとしか聞こえないが、サッカー部が所狭しとボールを蹴って走っている横で、陸上部が短距離のタイムを計っているのが見えた。野球部の姿は、無い。
「…………」
 窓に額を寄せ、グラウンドを走り回っている小さな影を目で追いかける。その中に山本の姿が無いかと探してみたものの、今日は体育館を使っているのか、それとも外へランニングに出ているのか、野球部のユニフォームは見当たらなかった。
 僅かに不安に顔を歪め、綱吉はそそくさとカバンの口を閉じると椅子の位置を戻した。最後に、ぐいっと涙で薄汚れているだろう顔を袖で擦る。
 この顔を見られて事情を問い詰められるのも非常に厄介だから、誰にも会わなかったのはむしろ幸いだった。後は忘れ物を取りに来た生徒や、見回りの教師を警戒するだけで済む。足早に教室を出て後ろ手に扉を閉めると、綱吉はいつも使っている正面玄関ではなく、裏門へと向かった。
 正面玄関を使うと、正門へ出るのにはグラウンドを横切らなければならない。部活動真っ最中なので中央横断も難しく、迂回を余儀なくされる。そうすれば人目に触れる時間も増えるし、知り合いに会う可能性も大きくなる。だから人気もなく、普段は閉まっていて使われることのない裏門から学校を出ようというのだ。
 無論裏門は施錠されているので開かないが、鉄門であり柵に足を引っ掛ければ乗り越えられる。学校を途中で抜け出したりする時の常套手段であり、綱吉も過去何度か利用経験がある。授業中の時間帯では教職員に警戒されているが、放課後であれば発見されることもあるまい。
 校舎を出て、ゴミ捨て場の脇を抜けて裏門に向かう。案の定誰もおらず、念の為左右の確認をしてから先にカバンを柵の隙間から道路側へ押し出し、身軽になってから大きく足を開いてつま先を横向きの柵に引っ掛けた。両手でしっかりと縦向きの柵を握り、力を加えて登る。後は楽だ。
 裏門のすぐ外は細い路地で、住宅が何軒か並んでいるが人目は無い。ほっと胸を撫で下ろしてカバンを掴むと、家に続く道へと合流すべく地形を思い出しながら先を行くだけ。
 だが。
 綱吉の足は、大通りに向かう少し手前で失速し、やがて停止した。
 息が詰まり、しばらくの間呼吸をするのも忘れてしまいそうになる。車のクラクションが遠くで鳴り響くのを聞いて、我に返った。そして咄嗟に、踵を返し駆け出そうとして。
「十代目!」
 獄寺の悲痛な呼び声に、全身が凍りつく。
 ああ、何故。何故。
 そればかりが頭の中でこだましている。繰り返される自問と、逃げなければという思いと、逃げてはいけないと叱責する声が三方から綱吉に襲い掛かる。いっそ両手で顔を覆ってしまいたかったけれど、片腕はカバンを持つのに埋もれており適わない。せめて片手ででも、と唇を噛み締めていたらそれより早く、他者の手が彼の二の腕を掴んだ。
 振り返る。近くに、息を切らしている獄寺の顔。
 それだけで、涙がこみあげてくるようだった。
「はな……っ」
「十代目、すみません俺」
 放してという声は獄寺の切迫した声に掻き消された。よく見れば彼の左頬が少し赤く腫れている。遠目では分からない色合いの変化だが、息が鼻先を掠めるこの至近距離では痛いくらいにはっきりと見えてしまった。
 誰にやられたのか。そんな場所、殴られた以外に腫れるはずが無い。
 綱吉の視線がそこにばかり集中しているのに気付いたのだろう、獄寺は綱吉が逃げないのを確認して、手を放した。そのまま肘を曲げ、頬に指を沿わせる。痛いのか、赤色が濃い場所は避けていた。
「誰に?」
「いえ、これは自分が悪いので」
 問いかけると、視線を逸らされてしまった。顔を背けられるのがこんなに辛いものなのかと、屋上で起こした自分の行動を思い返しながら綱吉はまた泣きたくなる。
 彼が俯いてしまったのを、誤解したのだろうか。少し慌てた風に、獄寺はことばを捜しながら綱吉に触れるか触れないかの距離で手を動かす。結局その手は、虚しいばかりに空気を掴んで降りていった。
「山本に……」
「なんで!」
 ぽつりと呟かれた人名に、綱吉は弾かれたように高い声と顔をあげた。車が行過ぎる騒音に僅かに音はかき消されたが、表通りと路地とが交錯しているT字路は案外人通りも多い。自転車ですれ違った買い物帰りらしき主婦が、突然声を荒立てた綱吉を怪訝な顔で見ていく。
 もっとも、当の本人は他人の事など一切視界に入っていなかった。軽く拳を握り、何故、ともう一度こぼす。
 山本が獄寺を殴った。獄寺の性格を考えると、ただ黙って殴られただけで終わるとは思えない。それに、山本も。誰かを殴るなんて、どう考えても彼らしくない。
「……」
 激昂する綱吉を前に、獄寺は吐息を零して眉間に皺を寄せた。理由はあまり語りたくないようだが、このまま沈黙を押し通すのも綱吉の心情を思うと難しい。逡巡しているのが表情によく現れていて、獄寺もまた、いつだって真っ直ぐに突き進む彼らしくない。
 綱吉が首を振る。
「なんで……」
 くしゃりと、左手で己の髪を掻き毟りそのまま左目の上にずりおろす。押し殺した呻きに、目頭が熱くなって既に乾いていたはずの涙がまた、溢れ出しそうだ。
 どうしてだろう。こんなのは、嫌なのに。自分が巻き込まれるのも、誰かを巻き込むのも、自分が傷つくのも、誰かが傷つくのも、見たくないのに。どうして自分の思い至らぬ場所で、大切な人たちが互いに傷つけあわねばならないのだろう。
 間があって、獄寺が観念したように首を振り、肩を落とした。
「俺が、十代目を泣かせたから、です」
 ようやく聞き取れるような音量で、彼はそう言って己の赤い頬を撫でた。冷やさずに放っておけば、もっと赤黒く腫れあがるだろう傷に、山本がどれだけの力を入れて殴ったのかが窺い知れる。声が小さいのも、そんなだから喋り辛いという理由も含まれているだろう。
 一呼吸置かれる。理解出来ないと眉根を寄せている綱吉に、彼は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「それで、俺も山本を殴りました。あいつも、……十代目を泣かせたからって」
 綱吉が窺い知る術は無かったが、ホームルーム後に山本は獄寺を呼び出し、校舎裏の誰もいない場所で、まずは一発獄寺を思い切り殴り飛ばした。事情も分からず、それこそ綱吉を残してひとり教室に戻ってきて何食わぬ顔をし、授業を受けていた彼の真意も読み取れず、ただいきなり殴られた獄寺は当然彼に食って掛かった。
 そうして初めて、昼に見た光景が誤解であったことを教えられる。彼は昼休憩が終わってからこの瞬間まで、綱吉があの雨の日に己の腕から逃げ出したのも、その後よそよそしくなってしまったことも、すべて、山本と綱吉がそういう関係にあるからだと思っていた。
 そう思うことで、自分を慰めていた。
 けれど山本は、それは違うと断言した。むしろ彼の方が辛そうな顔で、震える声で、己もまた綱吉を泣かせたと白状する。最初から望みの無い想いだったと今頃気付いたと皮肉げに笑い、どちらもが綱吉を泣かせた、おあいこだから自分を殴れ、と。
「そんなの」
 関係ない、と言いたかったのに言葉が続かない。綱吉は吐いたばかりの息と涙を同時に吸い込み、分かってくれないふたりへの腹立たしさを懸命に堪える。
「十代目?」
「俺は、そんなの……嬉しくない」
 傷つきたくない、傷つけたくない。だのに自分の与り知らぬところで誰かが、自分のせいで傷ついている。目の前の事だけでも手一杯なのに、これ以上余計な考えを抱かせないで欲しい。
 綱吉の知らないところで、綱吉を巡って事象が動き回っている。
 母親がリボーンを家庭教師に招いたことだって、降って沸いたマフィア十代目の地位だって、突然現れたランボやイーピンや、急襲を仕掛けてきた敵であった者たちも。
 いずれもが、綱吉が望んでいた未来とは大きくかけ離れた場所で、綱吉の意志に関係なく彼を巻き込む。
「嬉しくないよ」
 ぐい、と目じりを擦る。皮膚は乾いていて、まだ涙を流していないのに安堵を覚えながら、同時に自分がこうも、女々しいくらいに泣き虫になっているのに気付いて悔しく思う。複雑な顔をしている獄寺は、再び何かを言いかけて手を伸ばし、だけれど触れる寸前にぴくりと指先を痙攣させてまた腕を引く。
 お互いの間にある溝を、大きく意識させられる。
 近そうで、遠くて、浅そうで、深い。決して越えられない、永遠に埋まることの無い溝。
「十代目、怒っています……よね」
 引き戻した手を胸の前で絡ませ、落ち着き無く動かしながら獄寺は視線を浮かせる。どこを見ているのか分からない目線にイラつきつつ、綱吉は少し冷静に自分の感情を顧みた。
 もはや自分でも、怒っているのか悲しんでいるのかの判断がつかない。
 窺うような獄寺の視線にも苛々が募る。直球勝負が得意なくせに、こういう時だけスローカーブでやり過ごそうとしている小ずるいところが嫌だった。
 似合わないくせに。険のある表情で睨み付けると、彼は肩を窄めて半歩下がった。
「怒ってるように見えるなら、そうかもね」
 表情そのままに、棘のある口調で返してこちらも視線を外し、そっぽを向く。横目で盗み見た獄寺は言われた瞬間、叱られた五歳児のようにしょぼん、という表現がぴったりの顔をして俯いた。胸の前の手が、頻りに動き回っている。
「十代目……」
「俺は」
 咄嗟にでかかったことばを、口から飛び出ていく寸前に押しとどめる。だが心細げに瞳を揺らす、気弱な印象を与える獄寺を見ていると我慢が出来なかった。
 ずっと言いたかったことが、堰を切ったかのように溢れ出す。
「俺は、そんな名前じゃない!」
 偶然前から近づいてきていた通行人の男性が、綱吉の突然の大声にビクッと過剰に反応を示した。獄寺もまた、綱吉の変化に驚きを隠せない。
 なにやら不穏な空気を感じ取ったのか、男性はそそくさと足を動かし去っていく。途中で綱吉たちを振り返りはしたが、中学生の喧嘩に関わりたくないのか、すぐに角を曲がって姿を消した。
「じゅうだ……」
「だから!」
 拳を握って上下に振るい、右足を一歩前に突き出して怒鳴る。気圧された獄寺がまた半歩下がって、驚きに目を見開いたまま、やがて真っ直ぐに睨まれるのを苦痛に思ったのか、視線を外して横を向いてしまう。
 何故。どうして。
 ちゃんと見てくれないのか。
 分かってくれないのか。
 受け止めてくれないのか。
 君が好きで。好きで、好きで、たまらなくて。
 だけど君は気づかない。こんなに苦しいのに、こんなにも辛いのに。
 君が居なくなってしまう未来を考えると、胸が張り裂けそうになって、ずっと考えないように、見ないようにしてきたのに。
 綱吉の頬をツ……と涙がひとしずく、零れていく。
「俺は……ならないよ」
 ならない。なりたくない。ボンゴレの後継者にも、マフィアにも、ならない。イタリアなんかにも、行かない。
 生きていくのだ、この町で、この国で、母親や、沢山の友人や、仲間と一緒に。中学を卒業して、高校を卒業して、大学に行くか専門学校に行くかはまだ決めてもないけれど、成人したら社会人になって会社に勤めて、いつか可愛いお嫁さんを貰って、子供も出来て、幸せに、平凡に。
 漠然と思い描いていた未来図には、獄寺の姿が入り込む余地などなかった。
 声が震えている。言いながら、綱吉は懸命に、自分が今のまま、この国で生きていく将来図に獄寺の姿を探した。
 けれど、ダメなのだ。どう探しても、どこを求めても、獄寺の後ろ姿ひとつ見つけられない。自分たちの行く末の乖離に、絶望感が漂う。
「俺は、十代目じゃない……そんなものに、ならない」
 自分で望む未来を手に入れられないのなら、いっそ死んでしまいたい。
 君の居ない未来に、生きる意味なんて何もない。
「俺は、みんなが傷つく姿なんか見たくない!」
 大切だから。愛おしいから。
 血まみれになって倒れていった仲間達、傷つき壊れていく人々。そして何より、悲しみと憎しみに心を震わせて他に何も考えられなくなっていった奴ら。
 一歩間違えれば、自分もそんな存在になってしまうのだと実感し、恐怖した。そんな自分に堕ちたくなかった、そして仲間達をそんな姿にさせてしまう可能性が自分にあるのだと気づいて、余計に恐くなった。
 そして。
『俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……だから、大丈夫です』
 こんなことばは、欲しくなかった。
「しかし、十代目」
「しつこいな! 何度も言わせるなよ、俺はボンゴレを継がないって、十代目にもならない。大体、獄寺君だってなんだよ、そんなに俺をマフィアにしたい? 危険な目に遭わせたい? いい加減にしてよ、もううんざりなんだ!」
 両手を脇へ振り払い、怒鳴る。面食らった獄寺は、けれど初めて食い下がる様子を見せ、胸元に手を押し当てると綱吉の方へ身体を伸ばす。
「ですが、十代目。危険な目になら俺がお守りしますから。それにボンゴレの後継者はもう既に十代目と決まっています、この決定は覆せないのはもうお解りでしょう?」
 そうだ、獄寺の言う通りだ。既にボンゴレの後継者として綱吉は広く深く、本人の意志に関わりないところで知れ渡っている。マフィアにある沈黙の掟は、きっと綱吉を永遠に縛るだろう。それこそ、命の火が燃え尽きる一瞬まで。
 それでも認めたくない。諦めてしまいたくない。
 君の中から、ボンゴレ十代目のレッテルを貼られている自分を取り除きたい。
 獄寺の必死な表情に、心が痛む。狭まらないふたりの間の溝が、どんどんと広がっていくのが解るから、尚更に苦しい。奥歯を噛みしめて綱吉は、ますますあふれ出しそうな涙を必死に飲み込む。鼻の奥が痺れ、握った拳はわなわなと震える。
「うるさいな、守ってくれだなんて俺は頼んでない!」
 命を賭けてでも、なんて。
 命を捨てて守られたって。
 ひとりだけ生き残っていちゃ、意味がない。
「俺は……」
 ぐっ、と息を呑む。獄寺が言いかけたことばを止めて、呆然と綱吉を見た。
「俺は、獄寺君が傷ついて倒れるところはもう見たくない!」
 そうだ。
 マフィアにならないなんて言うのも、自分たちの間にある環境と思考の違いを全面に押し出すのも、十代目と呼んで欲しくないのも、全部、言い訳だ。
 詭弁だ。
 ただ、本当は。
 君が、獄寺君が。
 傷ついて、血まみれになって、倒れて、そのまま。
 そのまま。
 綱吉もまた、唖然とした姿で獄寺を見上げる。彼の、頬が少し赤くなっている顔に、あの日の姿が重なり合う。
 酷い怪我をして、動けないのに無理矢理に操られて動かされ、余計に傷を深め、血を流し、再び倒れ、そして。
 二度と動かなくなったらどうしようと、名前を呼んでくれなくなったらどうしようと。
 君が死んでしまったらどうしようと――それが、恐くて。
「……じゅうだいめ……?」
 叫んだ直後、スイッチが切れたかのように突然動かなくなった綱吉を案じてか、獄寺が呼びかける。その声にハッと我に返って、綱吉は忘れていた瞬きを繰り返し、息を吸い込んだ。
 がくがくと膝が震える。あの時の恐怖が甦り、綱吉を鬩ぎ立てる。
 そう、骸との戦いで感じた、明確な死の恐怖。自分が死ぬ事よりなにより、仲間が、そして獄寺が死ぬ事に抱いた、恐怖。
 何故そうなった? 何故あんな目に遭った?
 全てはボンゴレの名がもたらしたもの、ボンゴレの名に踊らされた者達の哀れな夢。
 目の前の獄寺が差し出す健康な腕は、綱吉の瞳にはあの日大量の血を流して傷だらけになった姿に重なったまま、映し出されている。いやいやと子供のように首を振り、両耳を塞いで逃げ出したくなる。
 そして実際に、綱吉は逃げだした。
「十代目!」
 背後で獄寺の、悲痛なまでの叫びが聞こえたのを振り払う。意識の外に追いやって、少しでも彼との距離を広げたくて、綱吉は走った。
 三叉路を右に曲がり、大通りに面した歩道を少し行った先には二車線の車道を縦に横切る横断歩道。信号は丁度青で、ガードレールの向こう側で停車する車の姿は見あたらない。夕暮れが差し迫る町並みはどことなく物憂げで、辛そうに息を吐いた綱吉は飛んでいきそうな鞄を握り直し、白線の引かれた横断歩道へと飛び出した。
「十代目!」
 獄寺の声が静かな町に響き渡る。しかし振り返らない綱吉の視界には、ゆっくりと点滅を始めた青信号しか入っていない。渡りきるまであと半分、獄寺が横断歩道前に到達する頃にはきっと、信号は赤に変わっている。
 そう信じて、振り切れる筈だと思いこんで、綱吉は足を緩めなかった。
 だから彼は、自分の後ろでどういう光景が繰り広げられていたのかを、知らない。
 知らなかった。
 獄寺が追いかけて、そして名前を呼んだ瞬間、横断歩道までの距離も惜しがってガードレールを乗り越え、車道に飛び出していた事に。
 点滅する信号に舌打ちし、けれど構わず、綱吉を追いかけて走り出していた事に。
 緩やかな坂道になっていた車道の北側から接近していた小型トラックの運転手が、目の前の赤信号に気づく前に運転席横に置いていた携帯電話への着信に気を取られ、つい注意をそちらに向けていた事に。
 誰ひとり、気づいていなかった。
 危ない、という声を誰が発したのかは、解らない。
 綱吉の左足爪先が、車道と歩道とを遮る僅かな段差に接地した。直後だった。
 何かが破裂する爆発音と、何かと何かがぶつかり合う鈍い音が連続して、地響きを伴って綱吉の腹の底にズン、と響いて。
 耳を劈くトラックのブレーキ音と、女性の甲高い悲鳴と、それまで静かだったのに急激に騒がしくなった大通り両側と。
 振り返った綱吉の目に飛び込む、車道を塞ぐ格好で斜めに停止している車、ブレーキを掛けたと思われるアスファルトに刻まれた黒々としたタイヤ痕。
 誰かが跳ねられたぞ、と叫ぶ男の声。
 どこから集まってきたのか、人だかりがトラックを取り囲む。何かが起こったと察した白い乗用車が、青信号の手前で停止して運転手が飛び出して来るのが見えた。
 綱吉は、その場に立ちつくす。
「獄寺……くん……?」
 返事は、ない。
 よろよろと身体の向きを変え、けれど歩き出せず呆然とする綱吉の、視線の先で、トラックの脇からはみ出して見える白い腕が。
 傷ひとつ負っていないように見える腕の下から、目を見張るような鮮やかな赤色が、広がっていく。
「――――!」
 瞬間。
 呼吸が止まる。意識が止まる、沈む。目の前が、真っ暗になる。
 綱吉は反射的に鞄を落とし、両手で口元を押さえ込んだ。迫り上がってくる嘔吐感を堪えていると、今度は両目から止め処なく涙があふれ出す。
 苦しい。息が出来ない。
「おい、大丈夫か」
 大人の男性の声が間近で聞こえた。けれどその姿を見るのさえ叶わない。
 何も見えない、何も解らない。遠くから救急車のサイレンが鼓膜を突き破るくらいにやかましく響き渡るのに、それすらも遙か彼方の世界の出来事で。
 
 綱吉の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちた。