coincidence

 台所で洗い物をしていたら、不注意からガラスのコップを床に落として割ってしまった。
「あちゃ~」
 失敗したと舌を出し、頭に手をやって床の上で粉々に砕け散っているガラス片を前にに途方に暮れる。普段ならばやるはずの無いミスに、自分でも暫く信じられない。
 けれど洗ったばかりで表面にたっぷりと水滴がついていたコップを落としたのは自分、滑りやすかった状態なのだから致し方ないものと割り切ってしまえば簡単なのだろうが、なかなかそうは巧く気持ちを切り替えられないところが、彼の欠点のひとつだった。
 だが割れてしまったものはどうしようもない。時計を逆巻きに回せば時が戻るようならまだしも、既に過ぎ行きた時を羨むほど無駄な行為はない。深々と溜息をつき、アッシュは膝を折ってガラス片を片付けようと手を伸ばした。
「っつ……」
 気持ちが回復し切っていないのに、手を出した報いだろうか。最初に掴もうとしたガラス片の尖った先端が、ちょうど中指の第二関節の腹辺りに刺さってしまった。鋭い痛みの後に、じくじくとした疼く様な感覚が生まれる。生暖かな液体が傷口から流れ出し、半獣として生まれた身、持ち合わせた嗅覚が鉄錆びた匂いを受け止めた。
 伸ばした肘をゆっくりと曲げて、掌を表に返す。広げた五本の指、その真ん中から掌のくぼみにかけて、なだらかに赤い川が出来上がろうとしていた。
「いってぇっス」
 今更ながら呟いて、傷を負ったばかりの指を鼻先に近づける。途端強くなる血の臭いに軽い脳震盪を起こして身体が右側に軽く傾いた。血が苦手というのではなく、単に強烈過ぎる臭いを大量に嗅いでしまった為で、じきに体勢を持ち直したものの、右のこめかみ近辺でぐるぐると何かが回っているような気がしてならなかった。
 指が痛い。思った以上に深くガラスは刺さったらしい、自分の手から視線を床に流せば、ガラスの上に点々と赤い水玉模様が出来ていた。なだらかなカーブを描く表面に滑り、グラスに最初からついていた水滴と交じり合ってそれは範囲を広げ、色を自ら薄めていく。こういうのも自然のアートに分類されるのだろうか、ぼんやりとする意識の中で思った。
「片付けないと。ああ、でもその前にこれ……」
 どうしようかと、再び目の前にやった指を左右に振る。出血の具合は最初よりは勢いを弱めたが、依然ずきずきと痛む。水作業の途中だったし、このままの状態で続けるわけにもいかない。絆創膏はどこに仕舞われていただろう、割れたガラスはそのままにアッシュは立ち上がる。
 記憶を頼りに引き出しを開けていくが、なかなか見つからない。もともと頑丈な体質だし、十分すぎる程慎重な性格で、石橋を叩いて渡るどころか道の真ん中に転びそうな石があったら自分以外の誰かが躓かないようにと、ご丁寧に道から退かせて行くようなタイプだ。怪我をするのも稀で、包帯要らずだとからかわれたのは随分と昔のこと。
 その為か、いざ自分が怪我をした時に消毒薬や包帯がどこに片付けられているのかさっぱり検討がつかない。普段必要としないので、意識的に存在を確認するような真似もしてこなかったのが悪いのか。そもそも、台所に常備されているものとして探し回っている方が間違いだと気づかない。
「えっと」
 見つからないうちに指からあふれ出した血は、シャツの袖口にまで垂れて染みを作っている。反対方向に流れていったものは、支えを失って床に散る。今朝掃除したばかりなのにと恨めし気に考えつつ、漸く薬箱はリビングにあったと思い出す。
 少し前、楽譜を読みながら歩いていたユーリが戸棚の角に頭をぶつけ、摺り傷をおでこに作ったのを、スマイルがリビングで消毒していた。そのスマイルが弄っていた壁際の棚のどこかにあるに違いない。
 思い至ると即行動、身が軽いのもアッシュの特徴だろう。注意深い癖に妙に深く考えずに行動する。ひとつのことに集中し始めると他のことが何も考えられなくなる、と言い換えられるかもしれないが。
 思った通り薬箱はリビングの、見る為に飾られていておおよそ実用的とは言い難い食器の並ぶガラス戸の棚の、一番下にあった。緑と黄色の箱を開け、無事な側の手で中をかき回す。しかし出てくるのは胃薬や頭痛薬といったものばかりで、どこにでもありそうな肝心の絆創膏が見当たらない。おや? と首を傾げたのは最初だけで、どれだけ探しても見つからないでいるうちに、気ばかりが焦り始める。
 指は痛む、指どころか怪我をした右手全体が痺れてきているような感じだ。出血は止まらない、量は減ったが血は確実に流されている。貧血になりはしないと頭では理解できても、このまま止血できずにいたらどうなるのか、嫌な方向ばかりに思考が向いてしまう。
 新品の包帯はあったが、傷を押さえ込むガーゼが無い。袖の染みは次第に大きくなっている。
「どこっスか」
 誰に聞くわけでもなく呟いて、尚一層薬箱を手で荒くかき回す。勢いに押され、箱に入った薬が何個か外に飛び出していったが構わない。見つからない苛立ちが、動きを乱暴にさせる。
 そういえば、遠い遠い昔。まだ自分が幼かった子供時代、ひとり遊んでいるうちに今みたいに、枝か何かで手に怪我をしたことがあった。
 周囲には野草の類が溢れていたし、血止めや化膿止めに使える薬草にも知識があったから、直ぐに見付けられるだろうと高をくくって探し始めたけれど、今みたいになかなか見付からない。
 血は止まらないし、痛みも時間を置くに従って酷くなる。きっと自分はこのまま体中の血を流しきって死んでしまうのだとまで考えて、暗い闇に打ちのめされながら、いつの間にか深く入りすぎた森の中で道を見失い家に帰るにも帰れなくなった。
 最初から家に治療しに帰れば良かったものの、親に心配させたくない気持ちと、自分は平気だという慢心がどこかにあったのは確かだ。しかし後悔したところでもう遅い、日も暮れて余計に動き回れなくなってしまった。
 梟の鳴く声がどこからか聞こえ、獣人でありつつも幼体である以上戦う力は劣る。もしここで野獣に襲われたらひとたまりもない。
 血は止まりつつあったが、気になって瘡蓋になったところを指で弄り、また血が流れ出す繰り返し。痛みは一向に退いてくれない。夜明けまでひとりぼっち、暗闇の森で過ごさねばならない恐怖心に押しつぶされそうになりながら、けれどあの時、自分の横には誰かが居てくれた気がするのだ。
 記憶は幼すぎて、おぼろげにしか覚えていない。輪郭さえあやふやだったが、その人が傷の手当と空腹を癒す為の簡易保存食を分けてくれ、日が昇るまで眠る自分の傍にてくれたのだ。家まで送ってくれはしなかったが森の出口、村へ通じる道の脇までは連れて行ってくれて、名前も聞かぬまま別れた。
 それっきりだ。
 何故今になって急に思い出したりしたのだろう、今まで完璧に、といえるくらいに忘れていたのに。
 自分もついに最期なのだろうか。後日思い返せばばかばかしいと自分で笑い飛ばせそうな内容を真剣に考え込み、覚えた眩暈に額を手の甲で押さえた。
 乾きかけの血の感触が肌に気持ち悪い。
「なに、やってんノ」
 頭上から声が降ってきた。見れば分かるだろう、探し物をしているのだ。非常に苛立っている状況で、飄々としていて考えが読み取りづらい声は余計にこちらを苛々させる。剣呑な目で背を仰け反らせて背後に立って覗き込んできている相手の顔を睨み付けてやった。しかしまったく堪えていない相手はにっ、といつものように口元を横に引いて笑っただけだ。
 細められた隻眼がそのまま床に散る薬と、乱雑にされた薬箱の中身と、アッシュの袖を汚している赤色の順番に向けられていった。やがて前傾姿勢を戻し、顎を撫でてなにやら考え込んだ彼は、ぽんと拍子を打った。
「あー」
 自分で勝手に納得している。スマイルは深く頷いて、床に直接座り込んでいるアッシュの脇に移動した。薬箱が入っていた引き戸の上、引き出しをあけて中に左手を突っ込む。
 直ぐに出てきた彼の手には、二枚つづりの絆創膏が摘ままれていた。
「あっ」
 思わず声に出してアッシュが驚く。構わずに必要のない一枚を千切って引き出しに戻したスマイルは、ごめんごめんと笑いつつ謝罪を口にする。あまり説得力がない。
「なんでそんなところにあるっスか」
 憤然とした顔で思わず抗議してしまう。スマイルは変わらず笑いながら、一枚の封を開け、ぴんと張った絆創膏の粘着面を覆う紙をはがしていた。アッシュに、怪我をしている場所を見せるように言う。
 答えがないのは不満だったが、傷口をいつまでも放置しておくのも嫌で、仕方なく渋々と指を差し出す。痛みばかりが残っているが、血はもう止まりかけていた。塞がりかけてるとスマイルが呟くのを聞いて、そういう台詞もいつだったに聞いた気がすると頭の片隅で思う。
 あの時も、こんな風にしてどうしても見つけられなかった血止めを易々と見出した旅の人に文句を言いつつ、狼人としての生命力の強さを指摘され、照れくさいような恥ずかしいような気持ちになったのだ。
「はい、終わり」
 絆創膏はよく使う為、薬箱の中ではなく取り出しやすい引き出しに別個で置いてあるのだと、後からスマイルは教えてくれた。
 ゴミを丸め、床に散った薬を箱に仕舞い直し、スマイルは薬箱を棚に返す。その間終始無言でアッシュは彼の動きを見守っていた。時折、巻かれたばかりの絆創膏にも目を落とす。四角形の薬剤を含ませたガーゼ部分の中心が、少しだけ赤くなっている。
「前にも……」
 無意識に呟いていた。
 足元でしゃがみこんでいるスマイルが顔を上げて、上から見下ろしていたアッシュと目があった。
「前にも、スマイルにこんな風にしてもらった気がするッス」
「そう?」
 あの時の旅人は、顔も名前も分からないけれど、特徴的な赤い隻眼だけが色鮮やかな憶として残っている。それが右目だったか、左目だったかは定かではないし、隻眼の存在が他にどれだけ世の中に存在するのか、数えようもないのだけれど。
 スマイルは小首を傾げ、思い出そうとしているのだろう、そのままで立ち上がったがやがてゆるゆると首を振った。横に。
「さぁ、覚えてないけど」
「昔、俺がまだ小さな買った頃に、森の中で」
 スマイルに似た人に手当てをしてもらったのだと早口で告げるが、スマイルの答えは同じだった。覚えていない、と。
「偶然デショ」
「そう……っスか」
「うん、偶然だヨ」
 カラカラ笑って、スマイルはゴミを捨てにその場を離れる。アッシュは暫くその場で彼の背中を見つめていたが、やがて諦めたように首を振って台所へと戻った。割れたグラスを片付けなければならない、今度こそ指を切るような真似をせぬよう注意深く、慎重に。
「偶然……っスか」
「偶然デスヨ」
 リビングを出る時の独り言に、どれだけ耳が良いのか、去ろうとしているスマイルが振り向きもせずに相槌を打って来た。
 思わず足が止まり、大きな動作でアッシュは振り返った。
 去り行く背中に、幼い日に見送った旅人の影が重なる。

 偶然?

 ホントウニ?