Suddnry

 その日は、とても良い天気だった。仕事などせず、どこか適当な場所で午睡を貪りたくなる、暖かな日差しに適度な温さの風が吹く、良い日だった。
 だが悲しいかな社会人である身はそんな自由人の生活を許さず、ただ黙々と手を動かし続ける時間を優先させる。思わず溜息をつきながら、汚れたモップを水の張ったバケツに勢いよく突っ込んでしまった。
 お陰で綺麗にしたばかりの床に水が飛び散り、バケツの周囲どころか着ている薄水色のツナギの裾にまでぬらしてくれた。反射的に脚を引いて避けたつもりだったが、水飛沫の方が若干早かったらしい。びしょ濡れとまではいかずとも、格好悪い染みが足首周りに出来上がってしまった。
「あっちゃー」
 自業自得なのだが、折角苦労して終わらせた作業の一部を、文字通り水の泡にしてしまっただけに、ショックが隠せない。絞れば水が滴るほどの染み込み具合ではないし、床もひと拭きすれば問題ない濡れ方であるが、やはり清掃員としての情けなさは残る。
 と、ここまで考えて首を振った。
 違う違う、自分は決して一介の清掃員などではない。もっと重要で、世の中の影に潜む、格好良い仕事の裏の顔が清掃員なだけであって……やめよう、とてつもなくむなしくなってきた。
 仕方なく、掴んだままでいたモップを持ち上げ、先端から伝い落ちていく雫をバケツの縁に押し当てて絞り、周囲に散った水滴を拭き取る。乾きかけだった床面に、濡れた筋が天井からの光を受けての鈍い輝きが生まれた。
 割と新しいビルだ。バブルがはじけた後の下落した土地に建てられた小洒落たオフィスビルは、表は細く、奥行きは深いため見た目以上に広い。八階建てで、トイレや給水場は共用だが、家賃もさほど高額に設定されていないのか、どの階も部屋は埋まっていた。エレベータには、ひっきりなしに人間が出入りしている。スーツでかっちりと固めている者もいれば、ノーネクタイでラフな格好をしている輩も居る。女性の方が若干多いように感じられた。
 その中で、ひとり草臥れたツナギを着てモップを握り締め、床を磨いている自分。このあまりの落差に肩を落とす日々にもいい加減慣れた。人間とは恐ろしいもので、最初は情けないと思っていた仕事でも、時間が経つにつれて感覚が麻痺するのか、感じなくなってしまうらしい。
「おっと、汚れが」
 バケツの水を交換しに行こうと、取っ手を掴んで踵を返しかけたところで、残っていた磨き残しに気づき反射的にモップを差し向けている自分がココに居る。良いんだ、これでも給料はちゃんと出ているんだし。
 脇の扉が開いて、中からパールピンクのスーツを着込んだ女性が、すらりとした脚を見せびらかすように歩いて出てきた。慣性で扉が閉まるのを待たず、ハイヒールで磨かれたばかりの床を踏み鳴らし、エレベータに向かって進んでいく。取引先にでも出向くのだろう、長いまつげをの彼女はこちらをちらりと見て、真っ赤に塗られた唇を意味ありげに微笑みで形作った。
「お仕事ご苦労様。頑張ってね」
 夜の街にでも居そうな顔立ちと口調で告げ、こちらに軽く手を振って去っていく。こんなオフィスビルで働くよりずっと、パブやバーに居そうな格好をしているくせに、あれで敏腕女社長なのだから世の中色々信じがたい。
 ついでにあの出で立ちにあの顔でもう三十後半というのだから、目に見える範囲だけが真実じゃないというところが、また……
 気がつけばまた溜息が漏れていた。
 今度こそ水を交換に向かう。専用の洗面台で汚れた水を流し、蛇口をひねって綺麗な水を溜め込む間、肩を掴んで回してみると、ボキボキと良い音がした。
「疲れてんのかねー」
 そういえば此処最近は床だったり窓だったりを磨いてばかりで、肝心の自分の腕をさっぱり磨いていない。このままでは鈍ってしまいそうだ、早く次の、本来の仕事が舞い込んで来やしないだろうか。
 表の顔は清掃員だが、その裏には別の顔。金額次第ではどんな仕事だってこなしてやるし、今更偽善者ぶったところで、意味が無いのも知っている。
 バケツの中の水が溢れそうになっているのを思い出し、慌てて蛇口を閉めて余計な分の水は流して捨てた。持ち回れるだけの重さに調整して、縁についた水滴は洗面台に引っ掛けてある雑巾に押し付けた。
 良い天気だった。外に出て昼寝すればさぞかし気持ちも良かろう。サボってやりたいと窓の外から差し込む明るい光を恨めしく思いつつ、さして汚れてもいない床にモップを這わせる。何故こんな場所で床磨きなどしているのだろう、ぼんやりと意識の端で考える。
 血なまぐさい場所が好きかと聞かれたら首を横に振るだろう、生きた心地のしないあんな場所に長く居座っていたらそれこそ気が狂う。だが一度足を踏み入れたらなかなか抜け出せない空気が漂っている為か、次第に現実と幻想の境界線を見失って廃人になっていった同胞を何人も見た。
 自分ではああなるまいと心に誓い、お前はまだ若いのだからという先達の意見を多少の反感を抱きつつ甘んじて受け止め、日の当たる世界の日常に戻ってきてはみたものの。
 時折、焦燥感に似た感覚に襲われるのは、生ぬるい安穏とした空気に毒されつつある自分への警戒心か。
『女でも作って楽しんでみろ。お前はどうも、ぴりぴりしすぎていかん』
 裏を返せばそろそろ足を洗えということなのだろう、まだ戻れる場所にいるのだから、と。
 人の良い顔の、今の仕事を斡旋してくれている老人を思い出す。飄々としているがどうにも考えが読み取れないあの男は、深く立ち入りはしていないが恐らく自分よりもずっと長く硝煙の臭いが立ち込める場所に居て、自分も想像がつかないような経験を重ねているのだろう。そういう経歴を知らない人間が見れば、ただの落ちぶれ気味の年寄りにしか見えないのだから、やはりこの辺も、人は見かけによらないといったところか。
 既に伸び始めている顎の髭を軽く撫で、床に突き立てたモップをつっかえ棒に使い、暫し思案に浸る。床磨きもこのフロアで最後だし、設定されている就労時間の終了までまだ少し猶予がある。
「煙草すいてー」
 地面に水平になるように伸ばした肘に顎を置き、自堕落な体勢のままぼやく。先程出て行った女社長以外ほぼ出入りも皆無の廊下だったから、他に誰もいないと思い油断していたところはあった。
 それにしたって、生ぬるい環境に浸りすぎていたからなのか。槍よりも鋭い感覚で周囲を警戒していた時代は遠い昔に過ぎ去ってしまった後らしい。
「あノ」
「うわっ」
 思いもかげず間近から聞こえてきた声に、上ずった声をあげて飛び上がりそうになってしまった。
 油断しすぎもいいところだ、もし今の光景を爺さんに見られでもしたら、笑い飛ばされるどころじゃなかっただろう。
「あ……」
 だが幸いにして、声があがっただけで身体までは反応しきっていなかったらしい。踏み出しかかっていた足をどうにかおし留め、肩越しに振り返る。表情は警戒心に満ちていたが、そこに居たのは銃を構え無表情に敵を嬲るような下種野郎ではなかった。
 金髪で、目鼻立ちも整い、身長は低くは無いが高くも無く、見上げてくる両目はパッチリと開かれて困惑気味に揺れている。両手で綺麗にラッピングされた大きい花束を抱きかかえ、腕と花の間にはクリーム色のエプロンが僅かに覗いていた。
「えっと、すみまセん。ちょっとお尋ねしタいのですが」
 目が合う。流暢な日本語を話しているが、時々アクセントで引っかかる部分があるので、海外からの留学生か何かだろう。年のころは二十歳そこそこか、年下だ。無精髭の作業着姿をした男に、若干警戒しつつも、他に頼る相手が無いといった素振りで、腕の中の花束を抱えなおす。
 彼女はポケットから、二つ折りの紙を取り出した。中に書かれている文字をこちらに見えるように、片手で広げて示してきた。
「こちらの住所を探しテいるのでスが、このビルに間違いないデすか?」
 書かれていたのは、恐らくは彼女が抱えている花束を注文した客が送り先に指定したであろう住所。番地は確かに間違いないが、ビル名が違う。似ているものの、それは三つ先のビルだ。メモを書いた人物の字が汚い所為で、番地の1と7の見分けがつきにくかった上に、ビル名も前半分が同じの為混同したようだい。
 日本人ならば気づけそうな間違いだが、彼女には難しかったようだ。
「あー、これは此処じゃなくって、あっちの」
 頭を掻いた後、姿勢を正しつつビルの壁――南側を指差してやる。彼女もつられるままそちらを向き、やがて首を傾げた。
「違うんデすか?」
 ああ、アクセントがまた少し違う。
 まっすぐにこちらの目を見て問いかけてくる彼女に、曖昧なまま頷き、もう一度壁の向こうを指差してやった。
「ここじゃなくて、外に出てあっちの方向に……って、そうか。一回曲がらないと無理か」
 直線距離だとそう遠くないのだが、面している通りが違う為に道路を少し進まなければならない。説明しようとして、分かりやすく言い表せないでいる自分がどうにも歯がゆくて仕方が無い。
 とはいえ、この辺りに居を構えているわけでもなく、仕事の往復で通るだけの道の為に詳しく知っているわけでもない。曲がる角にある建物の特徴を教えてやりたくても、ぱっと直ぐに景色は思い浮かんでこなかった。
「えーっと、だから、つまりなんていうか、だ」
 がりがりとさっきよりも強く頭を引っ掻き回し、苛立ちに任せて床にモップを押し付けた。そのまま、床に目立っていた汚れの箇所だけを拭き、綺麗にする。
「ちょっと待ってろ」
 乱暴な口調で金髪の女性がきょとんとする中、バケツを手に給水場へ戻る。開けっ放しにしておいた蛇腹の扉の中にある洗面台にバケツの水をひっくり返し、モップも突っ込んで流水に浸らせる。濁った水が排水溝に流れ、ゴンゴンと白い陶器の洗面台に何度も押し付けて汚れを乱暴に落とし、水気を絞ってバケツと一緒に傍らに立てかけた。
 扉を閉める。鍵は最初から無い。
「行くぞ」
 どうせ終業時間はもうじきだ。着替えなければならないが、帰るわけではないから構わないだろう。どうせ誰も、こちらの見た目など気にしやしないのだし。
 振り向いた先には先程の女性が、待っていろという言葉通りに花を抱えたまま待っていた。自分がどういう状況なのかあまり理解できていないらしい、首を傾げながらこちらと、腕に巻いた細い時計の文字盤を気にしている。配達を済ませれば直ぐに店に戻らねばならないだろうか。道に迷って配達できなかったとなれば、アルバイトも下手すればクビという可能性もある。
 放っては置けなかった。
 先にたって歩き出すが、彼女はその場に突っ立ったままで動こうとしない。こちらの真意を測りかねているらしく、不用意について行ってよいものか迷っている感じだ。
 髭くらいもうちょっとちゃんと剃ってくれば良かったか。思わず舌打ちした。
「連れてってやるから、その住所。道、分かるのか?」
 問いかければ、間をおいて彼女は首を振る。綺麗に肩の上で切りそろえられた金髪が動きにあわせて左右に揺れた。
「分からないんだったら、配達終わらないんだろう? 俺はどうせこれで仕事が終わりだし、ビルの入り口までだが、案内してやる」
 もしかしたら俺の日本語は通じていないんではなかろうか。そんな心配がふと胸をよぎるが、彼女はちゃんと、さっきも質問に首を振って答えたし、最初も日本語で話しかけてきた。やはり間をおいて、逡巡の色を瞳に映し、それからゆっくりと首を縦に振った。控えめな足取りで、磨いたばかりの床を歩き出す。
 ピカピカの鏡みたく反射するくらい磨いておけばよかったか、と膝丈のスカートから覗く細くすらりとした脚を見て、一瞬だけそんな邪な思いが脳裏に浮かび、慌てて首を振って否定する。
「?」
 不思議そうな目で見られてしまい、照れ隠しで勢い良く非常階段のドアを開ける。追いかけて来ようとした彼女には、顎でエレベータを示す。
「そっち使え。俺は階段で良いから」
 警戒されているのは分かるから、密閉空間であるエレベータに二人きりも嫌かろう。返事を待たず、ドアを手放して閉まるに任せ、二段飛ばしで階段を降り始めた。エレベータの位置を示すランプは、上に向かって進んでいたし、なにより八階建ての八階に居たのだ、さっさと降りなければ連れて行ってやると言った癖に置いていかれかねない。
 地上階に出て額に吹き出た汗を拭いつつドアを開けると、前面ガラス張りの表通りに面したロビーはかなり明るかった。
 エレベータホールに置かれた背の高い灰皿の前で、どこと無く不安げに彼女は立っていた。声をかける前にこちらに気づいた彼女は、その瞬間パッと表情を明るくさせる。目が合った、綺麗なガラス細工のような輝きが見えた。
「えと……」
 変だ、妙に気恥ずかしい。なんでこんな、薄汚れた汚いツナギなんて着ているのだろう、自分は。
「いくぞ、こっちだ」
 出入り口を指差し、先にたって進む。頷いた彼女は一歩半後ろをついてきた。
 外はいい天気、昼寝にもってこいの時間帯だけれども何故か落ち着かない。頻繁に振り返っては彼女の存在を確認し、危うく曲がるべき道を行き過ぎる手前で気づいて慌てて戻らねばならなかった。
 まっすぐ行こうとしていたのを急に慌てて引き返した仕草が面白かったのだろうか、一瞬きょとんとした彼女はやや間を置いて、口元に丸めた指の背を持って行ってクスクス笑った。
「え、いや……もうちょっとだから、急ごう」
 年甲斐も無く照れて、自分らしくないと分かっているのだけれどどうしようもないまま、動揺を必死に隠して角の向こうを指差す。彼女は目を細めたまましっかりと頷いた。
 それから十メートルも行かないうちに目的のビルに到着して、入り口横に掲げられている中に入っているオフィスの案内板を眺めながら、階数を教えてやると彼女はたどたどしい口調で、ありがとうとお礼を言って頭を下げた。
「いや、別にそこまで大したことしてねーから」
「はい。ありがトうございマス」
 こちらの謙遜に気づいているのかいないのか、最後ににっこりと笑って彼女は膝丈のフリルスカートを翻し、エレベータホールへ小走りに駆けていった。丁度上から人が降りてきたところで、中が空になった空間に素早く小さな身体を滑り込ませる。目的の階数を押したのだろう、直ぐに両開きの扉は閉められてその姿は壁の中に消えた。
 建物を出て行こうとする人が、やや呆然とした感じでその場に立っていたこちらを怪訝な目で見て通り過ぎる。居心地が悪くて、頭の後ろを引っかくと若干前傾姿勢で背を丸め、ビルを後にする。
 彼女をここで待つ理由は無い、なにせ道を間違えて迷い込んだ子猫を目的地に届けてやった程度の存在だ。向こうもすぐに忘れるだろう、だから自分も、忘れる筈だ。
 だけれど、と名残惜しむように何度もビルを振り返ってしまう。自動ドアは自分が出て行った後、角を曲がって見えなくなるまで誰も通過せず、閉じられたままだった。立ち止まりそうな足を半ば強引に引きずって自分が仕事をしていたビルまで帰る。管理人室を横切るところで、仕事をサボってどこへ行っていたのかと嫌味を言われたが、殆ど聞こえなかった。
 最上階まで掃除すべき場所は全部勤務時間内に片付けている、外に出ていた分の残業代を請求するつもりもない。けれどそういう態度が気に食わなかったのか、相手は別れる時とてもお冠状態だったから、後で爺さんのところに苦情の電話が行くだろう。
「参ったなぁ」
 どうしてしまったのだろう、自分は。
 声に出して呟いて、作業着から着替えて街へ出る。仕事の内容柄、昼の太陽が高い時間帯に身体が空いてしまう。朝早いのがネックだったが、数時間も横になって眠れない日も多かった時期が長かった分、効率的に休息が取れるような体質になった為に特に苦にもならない。むしろこの昼間の、する事も無く時間をひとりで潰さねばならない方が苦痛だった。
 年寄りがよく嘆いている「いまどきの若いもの」とは、大分育った環境も経歴も違うが為に、遊んで過ごすという感覚が身体に馴染まない。
 どうやって寝るまでの時間を過ごそうか。思い悩みつつ、オフィス街から駅へ続く表通りをひとり歩く。周囲にはまだ背の高いビルが沢山乱立しているが、その一階部分には雑貨店や美容室、飲食店が入ったものが多くなってきていた。
 その中に、ふと、思いもがけず鮮やかな色彩で飾られた空間を見つけ出す。今まで毎日のように前を通ってきていた筈なのに、そこにそんな店があるなと視界に収まる範囲内で引っかかっていた部分は確かにあったのだが、意識的に眺めたことは一度も無かった。だのに今日という良く晴れた日の午後に限って、急にその空間がクリアに目に飛び込んできたのだ。
 そんな自分自身に驚きつつ、なお驚いたのは、立ち止まってしまった自分の前に、日の光を浴びて輝く金髪が飛び出してきたからだ。
「うお」
 丁度歩道を挟んだ店の前に、この店の車だろう、白いワゴンが停車していた。そこに向かって、エプロンにフリルスカートの若い女性が小走りに駆け寄り、何かを受け取ってすぐに店に戻っていく――と思われて、急に足を止めた。
 薄水色の花を咲かせた茶色の鉢植えを両手で抱きかかえたまま、彼女はゆっくりと、こちらを振り返る。
「コンニチハ」
 にっこりと微笑み、目を細め、彼女は店の人に呼ばれてまた直ぐにその店に消えていった。
 幻を見たかのような、一瞬の出来事。
 

 公園のベンチに座り、足元を無意味に戯れる鳩の群れをぼんやりと眺めながら、すっかりぬるくなってしまった缶コーヒーを手の中で遊ばせる。
 自分でも何をやっているのだろうと思うのだけれど、他にする事もないし考えることもないし、行く場所もないしあとは帰るだけだし。何かをしたいわけでも、なく。
 ぼんやりと、何も無い場所を見ている。
「あー……」
 気の無い声を吐き出して公園を行き交う人を見ていれば、昼間から自堕落にしているこちらを蔑むような、哀れむような目を向けられていることに気づいた。きっと人には、自分は社会からはみ出して落ちぶれた無職の男に見えるのだろう。
 無精髭を指で撫で、やっぱりもっとしっかり剃ってこればよかったと後悔しても遅い。
 そのうちにポケットに入れていた携帯電話が振動しているのに気づき、引っ張り出して通話ボタンを押し右耳に押し付ける。液晶に表示されている文字は仕事を斡旋してくれている上司――ボスと言わないと怒られるのだが――の老人だった。
『なんじゃ、昼間っから若いもんが。仕事が入ったぞ、お前さんのご希望通りの』
 そういえばあんな床磨きばかりでなく、本業である闇の裏側の仕事をもっと寄越してくれと頼んでおいたのだった。そちらの方が実入りはいいし、何より自分が生きているという実感を見出せるような気がしていたから。
 だが、今は乗り気になれなかった。恐らく数時間前の自分であれば、諸手を挙げて即座に承諾の返事をしていただろうに。
 返事が無いのをいぶかしんだらしい。電話口の向こうの老人も黙り込んで、考え込んでいるのだろう、静かな息遣いが時々流れてきた。
「あのさぁ、爺さん」
『なんじゃ』
 普段「ボス」と呼ばなければどんな状況でも遠慮なく怒鳴りつけてくるのに、今回は神妙な空気を敏感に読み取ったのだろう、茶化す様子も無くこちらの次の句を辛抱強く待ってくれた。
「その仕事なんだけどー……」
 公園の向こう側に視線を流す。見えやしないのに、灰色のオフィス街の中で咲く花々に彩られた空間を探してしまう自分がいる。
「悪いんだけど、昼の仕事もう一本、何でも良い、増やしてくれねーかな」
 今の仕事にバッティングしない程度の時間帯で、自分のスキルが生かせる、それでいて、世間の闇には触れないような仕事が。
『……ふむ。難しいが、探しておこう。すぐが良いのか?』
「なんなら、明日からでも」
 そうか、と深く立ち入って聞いてこないまま、電話は切れた。ツーツーという音を響かせている電話を閉じ、ポケットにしまいこまずに両手の間で挟み持つ。空を見上げて瞼を閉ざし、少しの間考え込んで、立ち上がった。
「なーんてのかなー」
 自分で自分を馬鹿だと思う。こんなのは性に合わないというのも十分分かっているつもりなのだ。
 けれど。

 あの一瞬、目が合った瞬間。
 
 何かが変わるような予感を、確かに自分は、感じたから。