Window

 風が吹いていた。
「……?」
 自室へ戻ろうと、暖かな湯気を放つマグカップを手に歩いていたユーリはふと、前髪を揺らす空気の動きに気づいて目を細めた。
 思わず足を止めて上目遣いに細い銀の髪が揺れる様を眺めてしまう。どこから流れ込んできているのか、春先を表す涼しいけれど心地よい風に、軽く首を傾げる。マグカップから漂う白い湯気もまた、煽られて左右にゆらゆらと揺れ幅を広くさせていた。
 上から、ではない。近くもないが、そう遠い場所でもなさそうだ。両側を壁に遮られ、右側に等間隔で並ぶ古めかしい木の扉は、見る限りでは全て綺麗に閉まっているように見受けられる。ただ奥へ行くほど、今ユーリが立っているホールの螺旋階段に近い位置からでは薄暗く、果てが無いような印章を抱かせる。
 自分が長年、それこそ人が聞けば気が遠くなるであろう時を過ごして来た自分の城でありながら、昼間でもなお暗く闇の翼を広げている空間は、ふと何かの拍子に意識の端に思い浮かべてしまうと背筋がぞっと凍りつきそうになる。
 彼は首を振った。この先は奈落の底ではない、二度とは戻れぬ罪人の堕ちる地獄の坩堝とは違う。
 少しだけ風が止む。ユーリは手にしていたマグカップを持ち上げて、中のカフェ・オレに唇を浸した。飲み込む必要があるほどは口に含まず、乾いてしまった咥内に水分を呼び込む程度にカップを緩い角度で傾ける。
 ほっと息が漏れた。
 落ち着いてから廊下を見ると、目が慣れたお陰もあるだろう。廊下は先程感じたような禍々しさを失い、毎日自分が見て、通過する場所に戻っている。目を凝らせば、薄明かりの中でひとつだけ他と違い、半分ほど開け放たれた扉があった。
 恐らく風は、そこから流れてきているのだろう。
 また風が吹く。
 あんな部屋の窓を開けた覚えはない。扉を開け放ったままにしておいた記憶もない。犯人は自分でないことだけ確認し直して、ユーリは胸元のマグカップを見下ろした。今度こそちゃんと、喉を上下させてしっかりと中身を胃に流し込む。カップの上辺ぎりぎりまで満たされていたカフェ・オレを半分程度に減らして、漸くとめた足を再稼動させた。
 居住空間の廊下を埋める赤い絨毯は道の途中で切れてしまった。つまりはそこから先は普段使用頻度が少なく、あまり出向かない場所ということになる。城主でさえ滅多に足を向けない場所、そんな部屋の扉が勝手に開くわけがない。
「誰かいるのか?」
 古びた真鍮のノブを引き、中に向かって声を放つ。けれど返答は無く、代わりに開け放たれたドア真正面にある窓から入ってきた風が盛大にユーリを歓迎してくれた。長く洗濯されていないらしいやや黄ばんだ感じのある草臥れたカーテンが、踊り子のように右へ左へ裾をはためかせている。
 それは書庫へ続く書斎。窓辺に置かれた机には、古い革表紙の本が数冊平積み。一冊自体がかなりの分厚さをしているので、ユーリの肘くらいの高さになっているものの、実際にそこにあるのはたったの三冊でしかない。
 その隣に、広げられた古書。風が吹くたびにページが煽られ、こんな状況になる以前に広げられていたであろうページはとっくに忘れ去られた後だ。黒い万年筆も、机の縁ぎりぎりの箇所で辛うじて引っかかり停止している。あと数回風を浴びれば、間違いなく床に落ちるだろう。
 窓は東側に向いているので直接日光は入ってきていない。だが明るい日差しは室内を無灯火でも十分な空間を生み出しており、ユーリの目にはしっかりと中の状況が理解できた。
 広い背凭れを持つ、色合いも古めかしい年代物の椅子に腰掛けている部屋の利用者は、座り心地もさほど宜しくないだろうに、硬い木の座に身体を預け居眠りに勤しんでいた。まだ意識があった頃には万年筆を握っていたであろう左手が、肘置きの外側にはみ出ている。やや右に傾いでいる身体は、きっと肘置きがついていない椅子であったならとっくに床の上に転がり落ちていたに違いない。
 思っているうちに、机にあった万年筆が床に沈んだ。跳ねもせず、僅かに落下地点より壁側に転がってとまったらしい。机の影に入ってしまってユーリの現在地からは見えなくなった。
 部屋は適度に暖かく、吹き込む風も心地よい。遠くからどこかの教会の鐘の音が聞こえる。こんな日はホワイトランドからの音も響いて来ていそうだ。
「やれやれ」
 全く起きる気配のない椅子の主を後ろから眺め、腰に手をやったユーリは呆れ顔で肩をすくめた。
「風邪を引いても知らんぞ」
 ひとりごちるが、無論相槌や合いの手を返してくれる存在は無い。
 そういえば朝見かけたとき少し眠そうにしていたな。また夜遅くまでテレビでも見ていたのだろう、仕方の無い奴だ。そんな風に頭の中で考えつつ、ユーリは三歩前に進み出た。手を伸ばせば椅子に届く距離で、一度止まる。
 マグカップを壁に並ぶ背の低い棚の、開いている隙間に押し込む形で置いた。埃が薄く積もっている、今度大掃除でもさせよう。
「スマイル」
 空色の髪の青年は、呼び声にも反応しない。ちょっとでもバランスが崩れたら床に激突という危うい体勢のまま、しっかりと眠りこけている。起きた時どこかの関節が痛んでいやしないだろうか。
 熟睡しているのを表すかのように、時々首が外れそうなくらい身体が前方に傾き、けれど寸前で勢いよく戻るを繰り返す。眺めていて特に面白いわけでもないが、退屈もしない動き方だった。ジェンガを思い出させるスリルさがある。
 マグカップからはもう湯気は立っていない。すっかり冷めてしまったものを今更飲もうともさして思わず、白い陶器の縁に残る自分の唇の跡をなんとはなしに見下ろした。
 風が吹き、前髪がさらわれる。
 ああ、この場所は昼寝をするには確かにもってこいの場所かもしれない。誰も来ないし、静かで、暖かく、心地よい。もうひとつ椅子を持ってこさせよう、そのうちに。
 どこに片付けたかどこかの部屋に、年代物のロッキングチェアがあった筈だ。長く使っていないので痛んでいるかもしれないが、手入れをさせて日干しをして、この部屋に運ぼう。うん、我ながら良いアイデアだ。
 浮き上がって踊る髪を右手で抑え、ユーリは寝入る背中へ視線を戻す。丁度スマイルの身体がカクン、と右に小さく崩れたところで、肘置きにだんだん頭が接近している。だのに右腕は肘置き内側にあるままだから、かなり窮屈そうだ。
 それでも目を覚まさないところが、彼らしいというか、馬鹿と言おうか。
 寝不足ならばこんな場所で読書に勤しまず、部屋に戻ってベッドに倒れこんでおけばいいのに。そうすれば目覚めた直後の筋肉痛と関節痛に悩まされる必要もないし、風邪を引く確率も格段に下がるだろうに。
「スマイル、起きろ」
 起きないと襲うぞ。
 普段口にする事の無い台詞を考え無しに言ってみる。
 反応なし。
 少しムカッと来た。
「本当に襲うぞ」
 いつも散々好き勝手してくれているお返しをしてやろうか。底意地の悪い笑みを浮かべ、ユーリが重ねて言う。
 反応無し。
 かなりムッと来た。
「後で泣き言を言っても聞かないからな」
 距離を詰めて胸を反らし、少々声高に威圧的を装って言った。
 反応ナッシング。
 ぷちん、と理性の箍と言おうか、何かが切れる音がした。
 そこまで自分を無視するとはいい度胸。寝ている相手に向かってそこまで怒る必要性がどこにあるのかと言われたら反論も出来ないが、今のユーリにはそんな冷静な判断をするだけの余裕もなかった。
 もともと我が強く自己主張激しいユーリである、他人に無視され続けるのは我慢ならない。たとえ、眠っている相手であろうと、なかろうと。とにかく自分がせっかく声をかけてやっているのに起きない奴が悪い、そんな考え。
 横暴だといわれそうだが、本人は気にしない。兎にも角にも、スマイルが目を覚まさないのがひたすら腹立たしい。
「……警告はしたからな」
 密やかに囁き、ユーリの口角が片方だけ緩やかに持ち上がった。忍び寄って距離を詰め、スースーと寝息を立てているスマイルの右斜め横に移動する。
 吹き込む風が背中を、そしてうなじの周辺を撫でた。やや長くなってきている後ろ髪の先が首筋をくすぐり、どことなくくすぐったい。
 ユーリは息を潜め、スマイルの無防備に晒されている首筋に顔を寄せる。目の前に彼の、濃い空色の髪の毛が広がった。
 薄く唇を開き、鋭利に尖った牙を露に。けれどその先端が皮膚を突き破り熱く滴る血液に到達する事は無かった。代わりに、髪の隙間から覗く白い耳たぶに淡く牙を立てる。
「いっ……」
「狸寝入りも程ほどにしろ」
 呻くようにもらされた声は、寝起きのそれとは異なって明らかに意思が通っている、意識もはっきりしていると分かる声色だった。噛んだ箇所を舌で軽く撫で、ユーリはじろりと横目でスマイルを睨む。開かれた隻眼は、しっかりとユーリを捕らえ、見つめ返していた。
「ばれてたか」
「気づかぬわけがなかろう」
 あんなにもわざとらしく、眠っていると装って椅子から落ちかける演技をしていて。普通そこで意識が無ければ、とっくに床の上で転がっていたはずだ。僅かに腕にこめられた力による筋肉の動きを服の上からでも察して、とっくにスマイルが目を覚ましていることなど知っていたと言う。
 少しだけ、本当に寝ているのかと思ったのは内緒だが。
「ちぇ、もう少しだったと思ったのに」
 いったい何を期待していたのか、頭をかいたスマイルは肘置きにやった腕に力を預け、斜めになっていた身体を垂直に戻した。頭がぶつかりそうになった為、ユーリもまた身体を退いて避ける。生ぬるい風が、開いた窓から流れこんで二人を包んだ。
 春の匂いが、した。
 一瞬の間ユーリは言葉も無くその場で立ち尽くし、スマイルもまたどこか呆然としたまま椅子の上でユーリを見上げる。
 果たして先に腕を伸ばしたのはどちらだったのか。
 濃い影が床に落ちる。ユーリのつま先が蹴ったらしい万年筆が転がり、更に机の下奥へと姿を隠した。
「目は覚めたのか」
「そりゃ……誰かさんの目覚めのキスがあれば完璧だったんだケド」
 茶化すように笑う男の上に、銀の雨が降る。
 驚きに見開かれた右の瞳はやがてゆっくりと微笑みに変わり、そして静かに閉ざされた。
 二人分の体重を受け、古びた椅子が軋みをあげる。穏やかに風が吹いた。
「完璧か?」
 ふっと合間に息を漏らし、ユーリが尋ねる。
「デスネ」
 口を真横に引いて、スマイルは楽しげに笑った。