on the road

「なんていうか、さ」
「ぅん?」
 突然、彼は足を止めて爪先を茶色いブロックで覆われたの地面に押し付けた。ぐりぐりと足首をねじり回し、俯いて先に呟いた言葉から先を続けない。まるでいじけているみたいだ。
 彼が立ち止まったのに気づくのに一秒半ほど遅れたから、自分との距離は二メートル離れてしまっている。彼が声を発しなければ、きっとこのまま歩き続けていただろう。現に右足が半端にでかかった状態で止まっている。流石にそのポーズで、しかも首から上を後ろに振り向けた状態で立ち続けるのは骨だから、さっさと足を戻して身体ごと彼に
向き直ったが。
「どうしたのさ」
 首を傾げつつ、問いかける。先程まで後方にいて、今は自分の目の前にいる青年は、言いたいことを表現することばがうまく見つからないのか、困ったように視線を地面にさ迷わせていた。
 傾げていた首を戻す。
「何もないなら、先行くよ」
「そう!」
 暫く待ってみたが、彼からまともに意味がつかめる声は返ってこない。こうしている間も貴重な時間は刻々と流れていく、予定を思い出し、言った。
 途端、凄い勢いで顔を上げた彼が大声を張り上げた。
 頭突きされるわけでもないのに、勢いに負けて身体が反射的に仰け反って足が半歩下がる。しかし彼はこちらの動揺などまったく意に介する様子なく、両拳を握りしめて肩を怒らせ上下に何度も動かす。
「そう、まさしくそれに他ならない!」
「はぁ?」
 意味が分からない。
 彼のことばが意味不明なのは今に始まったことではないので特に気にしないが、状況と、
恐らく彼が「それ」として指し示しているだろう自分が発した言葉とが噛み合わない。
 眉間に皺を寄せて怪訝にしていたら、彼もまた言葉足らずなのに気づいたらしい。姿勢を戻してコホン、と咳払いをする。気まずいらしい。次の声は幾分音が小さかった。
「いや、だからさ……なんていうか。なんで俺達、歩いてんの?」
「なんでって」
 そういわれても困るのだが。
 ここに地面があり、道がある。道の先に目的地がある。目的地に到達するためには進まなければならない。進むためには歩くしかない。故に自分達は歩いている。
 他に理由などあっただろうか?
 順番に反論のしようがない意見を述べてやると、彼は拗ねた顔で頬を膨らませる。そうやって「かわいい」と言われる年代など、とっくの昔にあっさりと通り過ぎただろうに。
 無意識に溜息が漏れた。
「じゃあ、何」
 明らかにこちらの意見は筋違いだという顔をして睨んでくるので、話が続かないし、先を進むことも出来ない。仕方なしにこちらから折れた態度を示して聞き返す。
「いや、だからなんで俺達、歩いて進んでんの?」
「君が」
 道はなだらかな斜面。左側を向けば雄大な海がどんと構えており、その少し手前に灰色に汚れたガードレール。片側一車線、合計二車線の道路の中央には上り下りを区別する白いラインが見える。黒っぽいアスファルトから十五センチほどの段差を経て、今自分達が立っているのは歩行者専用道路。
 街道沿いに設けられた遊歩道は、最近整備し直されたばかりのようで、まだ綺麗な茶色のブロックが隙間なく、丁寧に並べられていた。等間隔で植えられている樹木はまだ細く若いが、新緑が目立ち目にまぶしく、美しい。
 交通量はそう多くなく、すれ違う人の姿は殆ど見られない。郊外へ向かう道路を時々速度超過
の車が走り抜けていったりするが、これといって目立つものもない、隣町へ続く平凡な道路。
 目的地はこの坂を上りきった先。都市部からあふれ出した人々の為に山の斜面を切り崩して作られた新興住宅地がこの道の向こう側にあり、今日はその中にる公園で花見をやる予定。
 主催者は、彼――スギだ。
 必要な荷物は車持ちの参加者が積み込んで持ってきてくれる手筈だし、手弁当はもちろん歓迎。場所取りは、公園近くに住んでいる参加者が朝からビニールシート持参で構えてくれていて、出かける前に「場所確保OK」のメールも届いていた。
 開始は集まり次第だけれど、一応参加の目安として十一時と決めていた。
 時計を見る。もうあと十分もない。
「スギ、君が、公園前のバスを待つ時間が勿体無いって言ったんじゃなかったっけ?」
 日曜日の昼前である為にか、バスの運行本数は思っていた以上に少なかった。走ってみたのだけれど、丁度信号を待っている間に乗りたかったバスは行ってしまい、次の便は二十分後だった。
 ならば、次のバス停まで歩いた方が早いんじゃなかろうか。
 そう彼が言い出し、今に至る。
 ちなみに次のバス停に着く前に、脇の道路でバスが走っていくのを確認している。バス停とバス停の距離を甘く見てた。この道路は、丘の上の住宅地まで本当に、何もないのだ。
 何もないところで人は降りない。駅前から公園までたったバスで二駅なのに、間にあったのは海岸へ降りる為の細い階段がある場所で、そこにはかろうじて海水浴客相手が中心の民宿が何件かあったものの、バス待ちの人の姿はなかった。
「それは、どうだけど……」
 上り坂なだけに、歩くのもつらい。斜面が急でないからそれほどでもないだろう、自分達は若いのだ。歩き始める前に抱いていた根拠のない自信は既に崩れ去り、額と首筋には汗も浮かんでいる。
 そして、こうやっている間も時間は止まってくれない。
「主催者が遅刻って、格好悪いね」
 自分だけでもバスを待てば良かったか。己の付き合いの良さを今更に恨みつつ、言っても仕方のない事とあっさり諦める。
「そんなこと言うなよ~」
 情けない声を出して彼は肩を落とした。本人もバスを待てば良かったと思っているのだろう。これ以上責めるのもかわいそうか。
 再び溜息が漏れた。腰に手を当て、頭を掻く。今更どうこう言ったところで無駄なのは分かりきっているし、立ち止まり続けていたら遅刻が大遅刻になりかねない。後悔は後にして、今は一歩でも前に進むのを優先すべきだ。
「スギ、いくよ」
「レオ~」
「情けない声ださない」
 これが長年コンビを組む相方でなければ、さっさと見捨てて自分だけでも先に行っているだろうに。やはり自分は、付き合い良すぎるのだろうか。
 心の中でひっそり嘆いていると、坂道を登る車線の、下から大きな動くものが迫ってきていた。
 確認するまでもない。それはバスだ。特徴のない道を走るに相応しく、目立たない色で装飾されて壁面に少しだけ広告のペイントが施されている。高い位置にある窓から、数人の乗客の頭が見えた。
 ちらりと一瞬、見慣れた茶色い頭がふたつ、並んでいたような錯覚。
「あー」
 気のせいだろうと思おうとしていたのに、脇でスギが大声を出す。既に過ぎ去り、ゆるいカーブを曲がってじき見えなくなったバスのお尻を指差して、「リエサナコンビ!」
 その略し方はどうかと……
 こっちは情けなさに涙が出そうになっているのも知らず、スギは数歩前に飛び出して、悔しげに地団太を踏みバスに向かって罵声を上げる。正確にはバスに乗っていたかもしれない、ふたりの女性に向けて。本人を前にしたら到底言えそうにない言葉を投げつけ、握った拳を天に突きつけたあと、大きなスローイングで振り下ろした。
 ぜいぜいと肩で息をしている。疲れるだけなのだから、やらなければいいのに。
「さっきのバス停で待てば良かったのか」
 既に背後に見えない、海岸へ通じるバス停を思う。待ち時間で疲れた足を休ませるのも良策だったのに、途中まで歩いてきたのだから最後まで歩き通してみせるという変な意地が先にたったのが悪かった。
 じりじりと地上を焦がす太陽の光は、夏本番のものとは比べるまでもないが、暖かな日差しは確実に汗を促し、疲労を増幅させてくれる。
 プップー、と車のクラクションがしたのに直ぐに気づけなかったのも、太陽を恨めしげに見上げていた瞬間だったからだ。虚を突かれ、大仰に振り返ってしまう。後方から、速度を落としたオープンカーが近づいて来ていた。
 真っ赤な車体に、左ハンドル。歩道から遠い側の運転席に座って片手でハンドルを操っている姿に見覚えがあった。毛先だけ色が異なる金髪に、鋭角のサングラス。カーステレオからはテクノが流れ、キザに決めているけれどもそれを感じさせない雰囲気があった。
「よっ」
 停車こそしないがかなりの徐行運転で歩道に幅寄せたオープンカーの主が、薄い笑みを浮かべて左手をあげる。
「ショルキーさん」
 そういえばこの人にも声をかけたのだったか。茣蓙敷きの花見には似合わない派手な色使いのジャケットを難なく着こなしている彼をまじまじと見上げる。放っておいたら置いていかれるので、仕方なくのろのろ運転の車に合わせ、自分達も歩き出した。
 そして五歩も行かないところで、
「なぁ、どうせ行く先同じなんだから乗せてってくれよ!」
 スギが言った。言うと思った。
 後ろでこっそり溜息をついて呆れているこちらの気も知らず、スギはガードレール越しにショルキーさんに近づく。けれど返された言葉は実にそっけないものだった。
「悪いな。俺の助手席はレディー限定なのさ」
 そう言って、軽く手を振り彼はギアを替えてアクセルを踏み込んだ。エンジン音が鳴り響き、一瞬の暴風をその場に残して車は行ってしまった。
 あの人らしいといえば、らしいのだけれど。少しばかり淡い期待を、自分も抱いていたようで、これには少々落胆させられた。スギに至っては、地団駄踏み鳴らし悔しがっている。根に持ちそうだ。
「仕方ない、歩こう」
 とても人に聞かせられない罵詈雑言を吐き出しかねない勢いのスギの背中を撫でるように叩いて、止まっていた足を動かす作業に戻る。遅刻なのは明らかなので、これが大遅刻
にならないのを願うのみだ。幹事が到着しないから始められなかったというのを八方から言われるのも辛い。
 渋々といった感じでスギは頷き、重い足取りで坂道を登る。 街道沿いの坂道は、街路樹の影もまだ薄く、横から照りつける日差しに汗は止まらない。春先だというのに、日焼けしそうだ。長袖を着てきたが、首筋や背中に浮いた汗で張り付くシャツの感触が、たまらなく気持ち悪い。
 これ、乾いても汗臭いだろうな。それで周りに誰も寄ってこなかったら嫌だな。そんな事を考えていると、斜め後方から明るい、妙に元気な声が聞こえた。
「あっれー? お前ら何やってんだ?」
 見ての通り歩いているんです。そう言い返したくなったのをぐっとこらえ、足元ばかり見ていた目線を持ち上げる。ぜいぜい言ってハンドルにしがみつくような格好で、ペダルを必死に踏み込んでいる人の後ろに立つ空色の髪の若者が、楽しそうな顔をして風を浴びていた。
 背中に背負う大き目のリュックに、全体が収まりきらなかったらしい、巨大ぬいぐるみのようなものがやや苦悶の表情を浮かべつつ、頭だけをのぞかせている。ステップに立っ
ている彼は、そんな辛そうな前後の人と、宇宙人に全く構うことなく、追い越しざまに手を振ってくれた。
「おっさきー」
 とても横を見る余裕のないテンガロンハットの青年が、辛そうに息を吐いて太ももに力をこめるのが見て取れる。
 呆然と見送ってしまった自分達をのろのろ運転で追い抜いた自転車は、時折左右にふらつきながら坂道を這い蹲るようにして上っていった。
「あれは……乗せてくれとはいえないな」
「だね」
 マコトさん、哀れ。
 次第に小さくなっていく背中に、同情を覚えずにいられなかった。
 一気に疲れてしまった気がして、肩からも力が抜ける。だらんと両側にだらしなく腕をたらし、まるで乞食にでもなった気分で道を進む。目的地までもうちょっとだろうか、漸く終点が見え隠れし始めた。
 その頃には少し元気を取り戻していて、遠くを眺め、きらきら輝いている海に目をやる余裕も出始めた。
 住むにはいい環境だと思う、市街地にはちょっと遠いから、買い物は大変だろうけれど。
「レオー、俺らも車買おうぜー」
「君の運転じゃ乗りたくない」
 買う買わない以前の問題である。運転できないわけではないが、落ち着きがなくそそっかしいスギの運転は時々、とても心臓に悪い。
 それに、市街地の中にある公園に花見をするのに、車で大量に押しかけたら近所迷惑ではないか。駐車場もないのに。それを考えると、車で来るのは控えるように言っておいたのに、車で来たショルキーさんには罰として、帰りの助手席にはレディーでなくゴミ袋を乗せていってもらおう。意趣返しの思惑に、スギも賛成だと声高に叫んで頷く。なんだ、元気じゃないか。
 そうこうしている間に、公園の柵が見えるようになった。葉をいっぱいに茂らせている常緑樹の隙間から、薄紅色の桜がちらちらと目に入る。遠く、もう既に始めてしまっているのか、人の騒ぎ声も聞こえてきた。
「幹事形無しだな、俺ら」
「だね」
 桜の木々の下で各自持ち寄った料理や飲み物を振る舞い、おしゃべりに花を咲かせる。男女半々だろうか、二十人くらいの人の群れを公園入り口から眺め、腰に手を置いたスギがやや自嘲気味の口調で呟いた。汗を袖口で拭きつつ、相槌をうつ。
 中のひとりが、こちらに気づいて立ち上がり手を振る。呼応するように他の皆もこちらを振り返り、口々に、「なにやってんだ」「遅刻だぞ」「罰ゲームよろしく~」などと好き勝手言い放題。苦笑いのまま、スギと顔を見合わせてしまった。
「行くか」
「だね」
 お互い向き合ったまま、頷く。
「主役は遅れて現れるもんなんだよ!」
「誰が主役だ、誰がー」
 スギの大声にサイバーがジュース片手に大声で言い返し、どっと周囲から笑い声が溢れた。
 桜の花びらが舞う、光を受けてきらきらと輝いているように見える。
 幸せだな、と思いながらぼくもまた、人の輪に加わった。