shiny

 うららかな日差しが心地よい。長かった冬が漸く終わりを迎え、緩んだ水が大地を潤す季節がやってきた。
 暑すぎず、寒すぎず。時折吹く風はまだ若干冷たく感じられるが、それもさほど苦ではない。胸いっぱいに息を吸えば、どこかで芽生える緑の匂いが感じられるような気がした。
「ん~~」
 気持ちがいい。こんな日は仕事などせず、のんびりと過ごすのが一番楽しいに決まっている。
 花見に出かけるのも良いだろう、桜の開花宣言は先日出されたと聞くから、もうそろそろ各地にある名所は花盛り、人盛りに違いない。わざわざ人ごみの中でかけて花をめでる趣味はあまりないのだが、テレビのニュースで放送されているのを見ると、一度くらいは桜の下に茣蓙を敷き、宴会を催してみたいと思えるから不思議だ。
 やろうと思えば出来るかもしれない、ただ周囲が大騒ぎになりそうだが。
 その光景を思い浮かべ、輪の中心に立っている自分を想像し、似合わないなと口元を緩めて笑む。
 頭上から降り注ぐ光は柔らかで、このままここで過ごしていたら寝入ってしまいそうだ。
 本当、仕事などなければ良いのに。
「スマイル」
 世の中、なかなか思う通りには事が進まないのが常。目を閉じて午後の陽気にあくびを噛み殺した瞬間を待っていたわけでもなかろうが、見事なタイミングで頭上から声が降ってきた。ワンテンポ遅れて、顔に影がかかる。
 薄目を開け、確認するまでもない影の主の顔を見上げる。逆行の為に殆ど輪郭しか分からないが、不機嫌そうにしているのだけは伝わる。重力に引かれた髪が氷柱のように真下へ一直線に滑っていた。
 左手を持ち上げ、そのつややかな毛先に触れようと動かす。だが寸前で逃げられ、同時に暗がりを作っていた影も退いた。再び春の太陽が直接自分の顔に落ちてくる。
 開けていた隻眼を反射的に閉ざす。
「スマイル、起きろ」
 その仕草を、寝入ろうとしていると誤解したのだろう。ユーリがさっきよりも少しだけ苛立ちを覚えた声を出した。膝を折ったのか、かすかに衣擦れの音が響く。間もなく、自分を揺すろうとする彼の手が肩に触れた。
「もう時間?」
「まだだが、本番前にも打ち合わせもあるのだし、勝手に出歩くな」
 本日はラジオ収録の日。道路が思ったよりも混んでいなかった為、予想より早くスタジオのあるビルに到着してしまった自分達は思いがけず時間が余ってしまった。仕事の道具くらいしか持ってこなかったし、テレビ収録ではないからメイクの手間も必要ない。何をするでもなく、ただぼーっとしている時間は、けれど惜しいし勿体無い。人よりはるかに長く生きてきて、これからも長い時を生きていくだろう自分であっても、無為に流れて
いくだけの時間は遠慮願いたいと思っている。
 何かすべきこと、やりたいこと、そういったものに消費されない時間ほど、無駄なものはない。
 だからひとまず考えた。時間が余ったとはいえ、一時間少々後には仕事を始めなければならないから、遠出も出来ない。近場をうろうろ歩き回るにしたって、見回るところは限られてくるし、充実した時間を過ごすには足りない。控え室でテレビでも見て過ごしても構わないが、今朝の新聞をチェックした限りでは特にコレといって興味をひく番組に引っかからなかった。もしそんな番組があったとしても、予約タイマーで録画の準備は整えて来ている。別の仕事をする、これが一番の理想だろうが最近漸く根詰めの作業から開放されたばかりで、また真っ白の五線譜と睨めっこは当分御免被りたい。
 息抜く暇もなくここ数日は過ごしてきた。更に仕事の予定は数ヶ月先までカレンダーびっしりに埋め尽くされている。愚痴を言うつもりもないが、流石に気晴らししなければやっていけない。
 そこで自分が選んだ時間の潰し方が、屋上に出ての日向ぼっこだ。
 コンクリートジャングルの中、8階建てのビルとはいえ周囲には此処よりも遥か頭上を仰ぐビルが数棟並んでいる。屋上全体が日向というわけにはいかなかったが、方角が良かったおかげでなんとか暖かい場所は見つけられた。そこにひとり、敷物も挟まず寝転がる。
 ユーリが来たのは、それからものの十分もしない頃だった。
 せっかくの一休みを邪魔されたのだから、こちらとて少々機嫌を損ねたくなる。しかしユーリを怒らせるのも得策でない為、彼の手が本格的に肩を掴んで来る前に左手で押し返した。そのまま、支えにして背中を起こす。
 その瞬間に大きく、生理的な涙まで流れそうになるあくびが出たのはご愛嬌だ。
「眠いか」
 あくびの大きさに驚いたらしいユーリが問う。彼は右の膝をコンクリートの床に立てる形で傍らにしゃがみこんでいた。
「ん? あー……まぁ、そうだねェ」
 春眠暁を覚えずと言うし、と苦笑しながら返すと、意味を理解しあぐねたユーリが不思議そうな顔で首をひねった。
「日本の、昔の人のことばだよ」
 要するに春は眠いってコト、といい加減な知識を彼に教え込み、もう一度小さなあくびをこぼす。目じりをこすると、指先の包帯が僅かに湿った。
 万年寝不足――否、眠りが浅くあまり眠りを必要としない身体なので寝不足に陥ることも殆どないのだが、やはり春だからか。こうやって日の当たる場所に座っていると、眠くなってくる。
 きっと此処に布団を敷いて眠れば熟睡できるだろう。日が暮れてしまえば一気に冷え込みそうだが。
「昨日も遅くまで起きていたのか」
 けれどユーリは随分と真剣な顔をして問いかけてくるものだから、違う違う、と笑いながら手を顔の横に振る。単純に気分の問題で、昨夜遅くまで起きていたのは本当だが、仕事の時間に入ればこの眠気もきれいさっぱり取り除かれよう。
 仕事とプライベートは分ける。一応これでも、プロのつもりだ。
「眠いのなら、休むか?」
 それでも尚しつこく聞いてくるユーリに、肩を竦める。人の話を聞かないと言うか、頑固というか。
 もっとも、それが彼の利点のひとつでもあるのだろうが。
「大丈夫ダヨ。それより、何? 用事?」
 先程、収録開始の時間はまだだとユーリ本人が口にしていた。本番前の打ち合わせの時間も先に確認してある。余裕はあると判断したから、屋上へ暇つぶしに来たのだが、その時間より前にユーリが呼びに来るのは想定外だった。
 時間が危うくなれば、アッシュなり、誰かが呼びに来るだろう、とは考えていたけれど。
 左手を床においたまま首から力を抜く。仰け反った体勢で背筋が緊張した。首の後ろで、骨が軋む音が自分にだけ聞こえる。疲れているのだろう、眠気を覚えるのは、或いはやはり身体が休息を求めているからなのかもしれない。
 こちらがくつろいでいる姿を見て、少しは安心したのだろう。立てていた膝を緩め、ユーリもまた陽光で暖められたコンクリートに直接腰を落とす。
「いや、なに。大した用件でもないのだが」
 それからややもったいぶった素振りで、コホンとわざとらしい咳払いをする。
 彼は右の膝を伸ばした。まっすぐ、黒い影が近い場所でコンクリートに映し出される。頭上高くまで腕を伸ばし、指を絡め合わせて背筋を伸ばす。この陽だまりを心地よいと感じたのは、何も自分だけではない証明だった。
 そのまま、いい天気だとなんともなしに彼は呟く。
 会話は途切れてしまったが、別段構うことなく自分もまた、ビルの隙間から僅かに見える街の景色を眺めた。蜘蛛の巣の隙間を縫うように張り巡らされた道路を、気忙しく乗用車やトラック、タクシーが行き交う。その間をすり抜けて人々も余裕のなさそうな顔で歩いたり、走ったり。表情の微細なところまでは読み取れないにしても、俯いている人が多いのだけはなんとなく分かった。
 まるでマッチ棒のような人の群れ。彼らの頭上に変わることなく満遍なく光を降り注いでいる太陽は、果たして彼らを見下ろし、何を思うのだろう。
 春の温もりに包まれながら、彼らは春という季節に気づかないまま時を過ごすのか。
 なんともったいないこと。
 永久に続くかもしれない時を生きる自分でさえ、四季折々の顔をまばゆく見せてくれるこの大地は日々新たな発見に彩られ、飽きることを知らない。移り変わり巡り変わる景観をこの先どれだけ眺められるだろうかと、想像するだけでも胸が高鳴るというのに。
 やはり、近いうちにひとりででも抜け出して、どこか桜でも見に行こうか。
 味気ないモノクロの町並みをひとしきり眺め終えた後、天頂を仰ぎ見てその眩しさに右目を閉ざし、思う。
「仕事が終わってから、時間はあるか?」
 不意に問いかけられ、即座に反応が出来なかった。「あ?」と間の抜けた声とも取れない息を漏らし、薄目を開けて傍らを向く。ぼやけた視界に、陽光を浴びても平然としている吸血鬼の姿があった。
 輪郭が朧な姿が、まるで溶けて灰になってしまう姿を想起させる。慌てて首を振った。
「時間?」
 何故そんな事を聞くのだろう。仕事が終われば、時間がある無しに関わらず自分達は一緒に、アッシュの運転する車に乗ってユーリの城に帰るのではなかったのか。
 問うた当人であるユーリは、いたって真剣な顔をしてこちらの返答を待っている。今か今かと、身体を前後に軽く揺すっている姿は、彼の実年齢から考えるととても子供っぽい動きだ。年相応にしてみせろと言いたくなるが、どうせ怒られるだけだろうし、彼がそうそう簡単に変わる筈もないので黙っておく。
「別に……何かあるの?」
 今日は仕事の予定が入ると知っていたから、他に予定は組み込んでいない。時間が余ればそのときはその時でどうするか考えるつもりだった。そして現在、その通りにしている。夜も同じだ、収録が終われば城に戻って食事をし、眠りに就くまでテレビを見るか、本を読むか、作曲でもするかのどれかだ。
 何かしなければならないことは、収録の仕事以外持ち合わせていない。
 そう答えてやると、ユーリは「そうか」と安堵した顔で頷いた。そして伸ばしていた足を戻し、膝を折って立ててそこに抱きつくような姿勢にかえる。
「いや、なに。大したことではないのだがな」
 先程も聞いたような台詞をもう一度口に出し、ユーリは一旦視線を外して宙にさ迷わせた。言いにくいことなのであればこの場で言わなくても構わないのに。そう提案しかかった自分を遮るようにして、
「スタッフに聞いたのだが、ここからそう遠くない公園に、桜が咲いている場所があるそうだ」
 それで? と視線でユーリに先を促す。妙に得意満面な顔になって笑っているユーリが、一瞬だけ時計を見た。
「収録が片付いたら、皆で行ってみようかと思ってな。地元の者しか来ないような場所らしい。スタッフと、さっき控え室前の廊下でスギとレオにも会ったから、一緒にどうかと誘ってある」
「へぇ」
 騒ぐのはあまり得意でないユーリにしては、珍しい提案である。意外だと思っていたら、顔に出ていたらしく睨まれた。
「で、どうする?」
「ユーリは行くんでショ?」
「無論。主催が行かずしてどうする」
 確かにその通りだから、反論はしない。へぇ、と再度相槌を打って頷き、自分もまたユーリのように折った膝を胸に抱き込む。少しだけ日が翳り、屋上にかかる隣のビルの影が長くなっていた。
 この場所だけは穏やか過ぎるくらいだが、耳を澄ませば遠くパトカーか救急車のサイレンが聞こえる。車のクラクションやブレーキ音、エンジン音に排気音。世界は音に満ち、その半分は雑音や騒音の類なのだろう。その中で彼の声だけが、心地よく耳に響き入る。
 願わくば、彼の声、彼の歌だけを聴いて時を過ごせたら良いのに。
「お前は、どうする?」
 囁くような誘う声。
 ふっと、口元が緩んで自然笑みがこぼれた。
「ユーリが行くのに、ぼくが行かないでどうするの?」
 顔を向けて返すと、即座に安心したような、うれしそうなユーリの顔が目に飛び込んでくる。
 ああ、これもまた、この世界に生きる自分が覚えた変わり行く時の流れの中で眺めていたいものの、ひとつなのだ。心の底から思いが溢れてくる。
「ユーリ」
 その名前を、音に紡ぐ。
 世界中の何よりも、純粋で綺麗な音だと、思う。
 なんだ? と小首を傾げる彼に少しだけ身を預け、柔らかな箇所に唇を落とす。彼は少し驚いたようで、大きく眼を見開いた。その一瞬一瞬の表情の変化さえも見逃さず、瞳の奥に焼き付ける。
「目は閉じておけ、馬鹿者」
 離れた途端、冷たい声で言われ、両腕で突っぱねられた。立ち上がり、服についた汚れ軽く叩き落し、ユーリは今度はしっかりと腕に巻いた時計の文字盤に目をやった。表面のガラスを指で小突き、頷いてこちらを見る。
「行くぞ、時間だ」
「は~い」
 余韻の欠片も感じさせてくれないユーリの態度に少しばかり傷つきながらも、いつものことだと笑って、自分もまた立ち上がった。背筋を逸らして首を回せば、やはり疲れているのか骨があちこちで軋む感触がする。腕をぐるぐる回している間に、先に歩き出したユーリが出入り口の扉前で早くしろ、と急かしてきた。
「今いくー」
 慌てて踵を返し、駆け出す。既にユーリの姿は暗がりの屋内へと消え去り、静かな空間に軽い足音だけが響きそれもやがて聞こえなくなる。半分開いたままのドアを開け、立ち止まって背後を振り返った。
 太陽はまだ高い。だが次に屋外に戻る時、その姿はもう地平の彼方で眠りに就いた後だろう。暖かな光という腕が、背中を押してくるようだ。
「また、ね」
 明日、会おう。太陽にそう告げて、ビルの中に足を踏み込む。
 夜の桜もきっと、綺麗だろう。ならば今度、空き時間にユーリをつれて昼の桜も楽しみに行こうか。
 きっと、今日とは違う顔を見られるだろう。それを、楽しみにしながら。