燻火

「なー、ツナ」
 昼下がり、屋上のフェンスにもたれかかりながら昼ごはんのサンドイッチを頬張っていた綱吉は、同じくおにぎりを口に運ぶ手前の山本武にこう聞かれた。
「獄寺と、なんかあったのか?」
「え?」
 予想していなかった不意打ちの質問に、綱吉は思わず手からサンドイッチを落としそうになる。自分の歯型が残ったタマゴサンドが目の前で跳ねるのを大慌てで抱きとめ、同様を隠せないまま山本を見た。
 涼やかな表情の彼は、けれど瞳だけが真剣で、綱吉の適当なごまかしを許そうとしない。 
「……ないよ、何も」
 やや間を置き、綱吉は残り半分になっているサンドイッチに噛み付いて声をくぐもらせた。さっきまでは普通においしいと感じていたのに、今は何の味も感じられない。柔らかい具材を噛み潰すのも億劫になり、残りも全部口に押し込んで一気にコーヒー牛乳で胃に流し込む。
 喉の奥で塊が抵抗を試み、僅かにむせたが強引に飲み下した。綱吉の一連の行動を静かに見ていた山本も、おにぎりの最後のひとかけらを食べ終え、指についた米粒を舐め取る。視線はあくまでも綱吉にあったが、その綱吉は最後まで彼と目をあわそうとしなかった。
「本当に?」
 問われても黙って頷くだけ。明らかに「何か」あったと分かる態度なのに、頑ななまでにそれを表明するのを拒んでいる綱吉に、最後は山本も折れるしかなかった。肩を竦め、諦めた顔で空を見上げる。
 数日前の雷雨からは想像もつかない快晴ぶり。雲ひとつない空に眩しく太陽は輝き、遮るもののない屋上は暑いくらいだ。空っぽになった手を庇代わりにして南の空にある太陽を眺めた彼は、その手の影に隠れて綱吉とは反対側の空間を盗み見る。
 その場所には、数日前までならば、もうひとりいた。
 しかし今はいない。
 獄寺隼人。綱吉を「十代目」と呼び彼を慕う人物だ。山本とも同じクラスで、何かとつるむ機会も多く昼休みも大抵いつも一緒に過ごしていた。その彼が、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなった。
 いや、学校には来ている。授業も、真面目にとは言い難いが出席している。呼べば無愛想ながら返事もするし、受け答えもしっかりして今までとなんら変わった様子は見られない。強いて言うなればやや不機嫌の度合いが上がっているくらいか。
 そして、一番変化のあった人物。山本の前にいる、沢田綱吉。
 地味で目立たず、特別勉強が出来るわけでも運動が得意でもなく、どちらかといえば両方とも並み以下で、それゆえに「ダメツナ」とまであだ名が付けられていた彼。しかしとある出来事をきっかけに頭角を現すようになり、相変わらず勉強も運動もトントンだが、内向的な性格は改められすっかり明るく活発な性格になっている。
 友人も増えた。山本もそのひとりだ。獄寺も、そのはずだ。
 だがその綱吉と獄寺との間が、ここ数日ギクシャクしている。獄寺は綱吉に構いたがっているのだけれど手を出せず、綱吉もまた、獄寺を意識して避けている気がする。
 気がするだけ、かもしれないのだが。ふたりは教室で顔を合わせれば挨拶もするし、別の誰かから二人揃って話題を振られた時もちゃんと話を聞いて、受け答えもする。だが綱吉は獄寺に近づかない。獄寺もまた、綱吉が取ろうとしている距離を重んじているのか、自分から前に出ようとしないで引っ込んでしまっている。
 最初の頃は喧嘩でもしたのかと思っていた山本だったが、日が経っても変化の兆候は見えず、それどころか悪化している感じさえする。
 でも綱吉は、その理由や原因に触れて欲しくないようで、獄寺の話題を極端に嫌がり、他の話に摩り替えてしまう。
 山本的には綱吉とふたりきりで居られる時間は嬉しいのだが、綱吉が本調子でないのは喜ばしいことではない。不本意だが獄寺を含めた三人組でいるのが、自分達は楽しめたし、綱吉も元気が良く明るかったと認めざるを得ない。
 なんとかしてやりたいのだが、綱吉がこの調子ではなんとかするどころか、どうにもならない。時間が経てば経つほど状況はきっと悪くなる一方で、すれ違いが続けばやがてふたりは自然と離れていくだろう。関係は二度と戻らない、どちらかが歩み寄ろうとしても、片方が逃げていては話にならないからだ。
 そして今の綱吉は獄寺から逃げていて、獄寺は追いかけようともせず綱吉の背中ばかりを見ている。
 傍から見たら滑稽で、何をやっているのかと言いたくなる。だがふたりはきっと真剣なのだろう、そして他者にばれていないと思っている。
 それが尚更、山本の目には滑稽に映った。
――喧嘩中のカップルじゃあるまいし。
 口の中に残った握り飯を、お茶を飲むことで一緒に押し流し、山本は一息つきながらコーヒー牛乳のパックを弄っている綱吉を眺める。物思いに耽っているのか、俯き加減の視線は手元ではないどこかを見ているようだ。山本が見ているのにも、さっぱり気づく気配が無い。
 考えているのだろうか、獄寺のことを。
 そう思うと胸の奥がざわざわと波立つのが分かって、山本は手の中のペットボトルを握り潰す寸前まで力を込める。ペキパキと拉げる音が小さく響き、我に返った綱吉が山本の手の甲をつついた。心配そうな顔をして、見上げてくる。
 頼りない、心細そうな目だ。不安で内面が揺れているとはっきり分かる瞳の色に、山本は心の中で吐息を零す。そんな顔をしながら、他人の心配までしなくて良いのに。
「山本?」
「ツナ、ついてる」
 握っていた手の力を緩め、山本は綱吉の頬をくすぐった。屋外だから風に乗って埃やらなにやらが飛んでくる、小さな糸くずのようなゴミが彼の頬に張り付いていた。
「え? どこ?」
 指摘された綱吉は、驚いたように目を見開いて、自分もまた腕を持ち上げ己の頬を掻いた。しかし鏡も無いためなかなか上手くいかない。山本は肩を竦めると、僅かに身を乗り出して綱吉に顔を近づける。無警戒に彼の接近を許す綱吉の甘さに、ちょっかいをかけたい気持ちを押し殺しつつ、山本は傷をつけないように注意しながら短く切った爪で、張り付いていたゴミを削ぎ落とした。
 背後で、扉が開く重い音が響く。
「あ」
 他に声が出なかったという感じの、感嘆詞ともなんとも判別がつかない呟きが短く続いた。その聞き覚えのある声色に、綱吉は山本の影から身体を横にずらし彼の背後に視線を投げる。山本もまた、片腕をコンクリートの床について前に倒した上半身を支えながら、首から上だけで振り返った。
 校則違反どころか年齢的に法律違反の煙草の箱を手に、ひとりの男子生徒が立っている。
 着崩した制服、真ん中で分けて両サイドに流している少し長めの髪。胸の前で煙草を箱から抜き取ろうとしていたのであろう手が、行き場を失ってやがて力なく脇に落ちていった。煙草の箱が、音も無く握り潰される。
 彼の目には恐らく、山本が綱吉に圧し掛かる格好に映ったはずだ。綱吉もやましいことをしていたわけではないから、逃げもせず、怯えもせず、無条件に山本を受け入れている。しかも何も悪いことをしていないのに、綱吉は獄寺の姿をその目にした瞬間、彼と目があった直後、反射的に顔を逸らしてしまった。
 山本の目の前で、獄寺が奥歯を噛み締めて苦々しく、それでいて痛々しい表情を作り出す。
「よう、獄寺。一服か?」
 既に彼の喫煙を止める気が無い山本が、この気まずいばかりの空気を和ませようと平常を装って彼に声をかけた。が、どうしたことか獄寺はキッと山本を睨み、そしてまだ顔を背けたままでいる綱吉を、今にも泣き出しそうな子供の顔で見て、それから全てを振り切るかのように踵を返した。足音を響かせ、開けたばかりの扉を抜けて階段を駆け下りていってしまう。
 その音は段々と小さくなり、山本が三度息を吐くうちに聞こえなくなった。
「なんだ……?」
 山本はそろそろ苦しくなってきていた姿勢を戻しながら、目の前で沈痛な面持ちをしている綱吉との距離の近さを今更思い出した。慌てて身体を引き、元の位置に座りなおす。膝先で、倒れたペットボトルが転がった。
「ツナ?」
「え?」
「獄寺の奴、なんか勘違いしたかも」
「勘……違い?」
 いぶかしげな表情で綱吉が首を傾げる。まだどこか、心此処にあらずの雰囲気をかもし出している。
 言わなくても良いし、山本の自意識過剰な勝手な思い込みかもしれないので、断定が出来るものではないし、本当は違うかもしれないので、はっきりと言ってのけるには山本も多少の勇気が必要だった。獄寺に確認したわけでもないのに、と。
 だから出来れば言いたくはなかったのだけれど、綱吉は首を反対に傾げて、
「なにを?」
 いつもの綱吉なら、きっと気持ち悪がるなり笑い飛ばすなりで冗談と受け取ってくれるだろう。しかし今はそうじゃない、やや臆した山本は視線を浮かせて頬を掻き、どうやって誤魔化そうかと思案する。
 けれど綱吉の真っ直ぐな目は彼の誤魔化しをすぐ見抜いてしまうだろう。そんなところだけが、彼は妙に鋭いから。
「だから、なんてーか、ほら……俺と、ツナが」
「俺と山本が?」
「つまりその……アレしているみたいに見えたのじゃないか、って思ってさ」
「アレって?」
「アレだよ、あれ。だから……キス?」
 わざと語尾を上げる。あくまでも想像の領域だと強調するつもりで。
 だけれど綱吉はそう受け取らなかった。目を丸くして、薄く開いた唇から息を吸うのを忘れ、硬直し、青ざめたかと思うと急に赤くなる。
「え……?」
「だ~か~ら、獄寺がそう見間違えたんじゃないか、て話」
「俺、山本とキスした?」
「いやそうじゃなくて、してないだろ?」
 あの時山本は身を乗り出して綱吉の側に顔を寄せていて、綱吉も全く逃げておらず、後ろに立った獄寺の位置からではふたりが重なり合っていたように見えたはずだ。その状態を見て獄寺が逃げ出したから、山本としては彼が、妙な誤解を抱いてしまったのではと想像しただけに過ぎない。
 だが、今彼の前にいる綱吉の反応は、どうにもおかしい。首を捻りながら山本は眉間に皺を寄せた。冗談と取るか、真剣と取るかで判断もまた違ってくるのだが、綱吉のこの態度のどちらでもない雰囲気がある。確認しようとしている、とでも言おうか。
 山本は己の口元に指を置き、ふと思いついた自分の意見に、僅かに驚く。
 確認? いったい、何を?
「なぁ、ツナ」
 人差し指の先が、下唇に触れる。そこから漏れ出る空気は、出来ればこのまま飲み込んでしまいたかった。
 だのに止まらない。山本自身、声が僅かに震えていた。
「お前、獄寺とキスした?」
「――――!」
 咄嗟に。
 綱吉が山本から距離を取る。後ずさる。背中をフェンスに押し付けてなお離れようと、靴の裏が何度も床を蹴り飛ばした。
 一目で分かる動揺ぶりに、山本は更に驚く。綱吉は嫌々と子供のように頭を振り、両手で耳を押さえ込んでやがてそれ以上後ろにいけないと理解するとその場で膝を折り、間に頭を挟むようにして背中を丸め、身体を小さくする。
「違う、違う……してない」
 かすれる声は風に乗って、即座に遠くへと流れて行く。消え入りそうな綱吉の震える肩を掴もうとした山本の手は、少しの間中空をさ迷った後結局引き戻されて綱吉の体温に触れる事はなかった。
「そんなの、してない……」
 懸命に否定している綱吉に、もう山本はかける言葉が見つからなかった。ふたりの間に何が起こったのか、大体の予測はついたけれど、それはそれで、知らなければ良かったと山本は唇を噛む。なにより、綱吉をこんな風に怯えさせた自分に、そして獄寺に、怒りがこみあげてくる。
 ふたりがギクシャクし始めた前日、あの雨の日。部活をサボって綱吉と一緒にいてやれば、彼はこんな風にならずに済んだのだろうか。最早取り戻せない時間なのに、ああしておけばよかった、こうすれば良かったという考えが堂々巡りを始めて、山本を苦しめる。噛んだ唇の鈍い痛みと鉄の味に、山本は胸の中にある全てのものを吐き出したい気持ちを懸命に抑え込む。
 言えばきっと、綱吉をもっと苦しめるのが分かっているから。
 足元から昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。スピーカーを通して放射状に広がっていく音を、他人事のように耳で受け流した山本は、行き場の無い怒りをぶちまけるかのように、握った拳で硬いコンクリートを殴った。
 骨が軋み、皮膚が裂けて血が流れる。驚きに目を見開いた綱吉が慌てて両手を伸ばし、身体ごと彼の腕を抱きこんで止めて漸く山本は殴るのをやめる。破れた皮膚の間から溢れた鮮血が、綱吉のシャツを少しだけ汚した。
「山本!」
 咎めるような、責めるような瞳で綱吉が縋る。荒く息を吐いた山本は、今度は自分が泣きそうになって、綱吉に首を振った。無事な手を使い、綱吉を引き剥がし、昼食のゴミを拾って立ち上がる。
「悪い、ツナ」
 拳は痛んだが、平気なふりをして綱吉に笑いかけ、山本は一度だけ空を仰ぎ見た。
 どこまでも澄んだ色をした空は彼には眩しく、吹き抜ける風はとても冷たい。
「山本……?」
「獄寺と、ちゃんと話ししろよ。お前だって、このままは嫌だろ?」
 傷を負った拳を庇い、山本は綱吉に無理矢理作った笑顔を向けた。
 今ここで彼を抱きしめたり、慰めたりするのは可能だろう。けれどそれでは、永遠に綱吉の、心の底からの笑顔は戻ってこないように思う。正直悔しくてならないが。
 綱吉の視線が宙を泳ぐ。行き場を失ってさ迷う瞳は不安に揺れたままだ。
「何があったかは、聞かないから、さ」
 代返はしておいてやる、と軽い調子で言い、山本は踵を返した。獄寺が出て行った時のまま、ぼんやりしている扉を抜けて階段を下りていく。建物の内部に入ってしまった彼の背中は、居残った綱吉の視界から完全に消えてしまった。
 綱吉は視線を落とす。無機質なコンクリートに、山本が残した血痕が薄く残っている。痛々しく、胸を締め付けられる
 どうすれば良いのだろう。
 どうすればよかったのだろう。
 あの日、雨の夕方。

『俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……』

 囁かれたのは、甘いことば。優しい誘惑、そして束縛。
 綱吉を掻き抱く腕は、綱吉のそれよりもずっと太く力強く、彼の身体ごと心を抱きしめる。痛いくらいに引き寄せられ、その胸に顔をうずめながら、彼の体温を感じながら、けれど綱吉は必死に、彼の背中に回されそうになる腕を抑え込むのに必死だった。
 理由は、分からない。だけれどここで彼を完全に受け入れて、許してしまうと、とてつもない事になってしまう気がした。
 自分は今ギリギリの境界線に立っている。それもとてもとても細い橋の上を渡っているようなものだ。少しでもバランスが崩れると真っ逆さまに落ちていく。落ちたらきっと、もう戻れない。
 それが怖い。怖くてならなかった。
『十代目……』
 耳元で囁かれる声は綱吉の背筋を震わせ、熱を呼び起こす。ぞわぞわする感覚は、自分が自分であるのを忘れ去らせようとしているようだ。
 獄寺の腕が動く。きつく拘束されていたのが僅かに緩み、綱吉はほうっと息を吐きながら少しだけ開いた獄寺との距離を眺めた。獄寺が首に巻いたペンダントのごてごてした飾りが遠ざかり、上から幾つかボタンが外されているシャツの、隙間から覗く彼の肌を見て綱吉の頬に朱が走る。
 自分は今、何を想像した?
『十代目』
 鼓膜に反響する獄寺の声に、頭がくらくらする。平常心を取り戻せ、と懸命に心の奥底で呼びかけるなにかに、綱吉は上手く応えられない。
 雨の音が遠い。冷えた頬を冷えた指が這う、撫でられたのだと気づいて顔を上げると、鼻先を他人の吐息が掠めた。
 すぐそこに、獄寺がいる。
 綱吉は漸く理解した。窓の向こうで、稲光が強く輝く。浮かび上がった目の前の獣に、一瞬で体温が急降下した。
 あと本当に数ミリ、だったように思う。一度大きく目を見開き、息を吸った綱吉は、次の瞬間目を閉じて思い切り、獄寺を突き飛ばしていた。
 本の崩れる音が地鳴りのように響き、綱吉は転げるようにしてその場から離れる。床に散っていた紙を踏み、危うく本当に倒れそうになったのを堪え、近くにあった自分の鞄を無意識に引っつかむと後ろを振り返ることなく駆け出した。
 逃げたのだ。
 背後で獄寺の呼び声が一度だけ聞こえたけれど、振り返らなかったし足も止めなかった。むしろ振り払うように綱吉は歯を食いしばって走った。
 気がつけば、自分の家の前に、傘も無かったので全身びしょ濡れで立っていた。心配する母に適当な言い訳をして、リボーンには怪しまれたけれど誤魔化し、その日は何も考えたくなくて夕食と風呂を終えるとすぐに寝た。
 寝て、何もかも忘れてしまいたかった。
 朝目が覚めた時には、全てが無かったことになっていると願った。
 だけれど現実はずっと容赦なく、世知辛くて、厳しい。眠れなくて、眠っても直ぐに目が覚めて、ゆっくり休むどころか悶々としたまま殆ど一睡も出来てない状態で朝が来た。雨はすっかり止んでいた。
 学校を休もうとしたけれどリボーンは許さず、あくびを堪えながら登校していたら待ち構えていたらしい獄寺に会って。
 綱吉は、また逃げた。
 逃げて、学校に逃げ込んで、教室に寄らずにトイレの個室に駆け込み、鍵を閉めてひとり篭もって、ワケが分からないまま綱吉は泣いた。
 どうすれば良かったのだろう。
 どうするのが良かったのだろう。
 混乱する頭で考えて、考えても分からなくて、分からないから余計に泣けてきて、そもそも何故自分が泣いているのかも分からなくて。
 授業開始のチャイムが鳴っても、綱吉はその場所から動けなかった。
 獄寺の声は未だに耳の奥で、壊れたレコードのように同じ場所を繰り返している。
 守る、命を賭けてでも。彼はそういう、事も無げに。十代目を守ると、いとも簡単に、当たり前のように。
 でも違う、違う。欲しいのはその言葉ではない。
 十代目などと呼ばないで欲しい。守って欲しいとは思わない、そもそも頼んでもいないではないか。なのに彼は親切を押し付けてくる、綱吉にマフィア十代目の椅子諸共に。
 彼に十代目と呼ばれるたびに、綱吉は意識させられる。そして考えさせられる。
 欲しいのは十代目などという呼び名でも、その椅子でもない。マフィアのボスになんかなるつもりはないのだから、彼にそんな呼び方で呼ばれたくない。
 彼はあちら側の人間であり、自分とは元々住む世界が違う。今はただ、ふたりの暮らしていた世界がたまたま交差しただけで、いつかは分かたれてしまうだろう。その分岐点は、正式に、綱吉が十代目の地位を拒んだ時だ。
 流されるままにここまで来てしまったが、いずれ答えを出さなければならない時期は来る。その時首を振る向きによって獄寺との関わりも大きく違ってこよう。
 獄寺はいずれ、国に帰る。綱吉が十代目にならなかった時、彼は新たな、真のボンゴレ十代目についていくのだろうか。
 頭では分かっている、理解している。それが彼の為に一番良い方法だというのも納得できる。だのに、心が追いついていかない。
 一度だけ彼は帰ろうとした。あの時も悲しかった。だけれど今、もしあの時と同じことが起きた時、自分は、きっと、あの頃よりもずっとずっと、心が締め付けられて痛むだろう。行って欲しくないと、言えないまま、あの背中を捜してしまうに違いない。
 マフィアの十代目なんて真っ平御免、その気持ちに変わりない。
 しかし、そのマフィアである獄寺に、マフィアを辞めて傍に居てとはいえない。この世界は、一度足を踏み入れたら二度と抜けることは適わない。
 

『俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……だから、大丈夫です』

 きっと、彼のその言葉に嘘偽りはない。彼ならば本気で、命を捨ててでも自分を守ろうとするだろう。
 だから綱吉は、その時が来るのが怖い。
 怖くて仕方が無い。

『お前、獄寺とキスした?』

 山本の問いかけに、答えられなかった。
 言われなくても、気づいている。分かっている。だけれど認めてしまいたくない。
 山本は言った、獄寺が誤解してしまったのではないかと。恐らくはそうだ、でなければきっと彼は逃げたりせず、山本に突っかかってきたに違いない。以前ならば。
 以前の自分達の関係なら。
 あの日から綱吉の心の中で燻っている炎は、チリチリと彼の心を焦がして少しずつ痛みを強くし、余裕を奪い去っている。時間が経てば経つほど痛みは増して、綱吉は呼吸をするのさえ苦しくてならない。
「……だよ……」
 もう授業は始まっただろうか。校庭で笛を吹く音が遠く風に乗って運ばれてくる、屋上に近い音楽室からはピアノにあわせた合唱が。その軽やかな音色に、綱吉の嗚咽が混じってやがて掻き消える。
「……き、だよ……」
 綱吉は両手で顔を抑え、空を仰いだ。涙で滲む世界は指の隙間から溢れる光でキラキラと、目が潰れてしまいそうなくらいに輝いている。
 喉から搾り出した声は綱吉からあらゆる力を奪い取り、誰かに届くこともなく霧散した。
「すき…………だ……よ」
 こんな気持ち、気づかなければ良かった。
 畜生、と悪態をつく。蹴り上げた爪先は虚空を掻いて床に叩き落された。噛み締めた奥歯に、ツンと鼻の奥が痛い。
 自分達はどこで間違って、すれ違って、行き過ぎてしまったのだろう。
「ごく、でら……くん……っ」
 喘ぐように呼んだ名前に、応える声は――無かった。