a trifle

 のんきに鼻歌を歌いながら、リビングの扉を開けたのは丁度陽も翳り始めた夕方の五時ごろだったかと思う。今日の夕食の献立のチェックと、誰も使っていないようであればテレビを占領してやろうという程度の魂胆で足を踏み込んだ場所は、しかし誰かが使っていた形跡が目の前に見られ、スマイルを少しばかりがっかりさせた。
 テレビこそ電源が入っていなかったが、壁際のオーディオ機器からは静かめのゆったりとしたメロディが流れ出ている。隻眼を細めて窺えば、ソファ向こうのテーブルには何か作業中らしき、万年筆と五線譜にメモ書き用だろうか、ノートが広げられておかれていた。外からの明かりだけでは明るさが足りないのか、天井のライトには既に光が灯っている。
 けれど広いリビングを見回しても、この場所にいたであろう存在の姿は見つけられない。だが明らかに少しだけ席を外していると分かる作業途中で放り出されたテーブル上に、じき戻って来るだろと予測だけして、スマイルはテレビを見ようとソファの前に回り込んだ。
 書きなぐりが目立つ五線譜の下に埋もれていたリモコンを発掘し、スイッチを入れる。だがテレビ本体の電源がきられてしまっているようで暫く反応せず、面倒くさいと感じつつスマイルは立ち上がる。リモコンよりも本体側の電源を落とした方が待機電力が減るからという理由で、こんな事をしてくれるのはアッシュだろう。姿の見えない相手を若干恨めしく思いつつ、テレビの前まで歩み寄る。
 ガコン。
 硬いもの同士がぶつかり合う、痛そうな音が聞こえた。
 思わず足を止めて周囲を見回して確認するが、自分が音の発生源でないのだけは確実。なんだろう、と首をひねっているうちに、またひとつ、さっきよりは控えめな音が響いた。
 今度は注意しながら聞いたので、なんとなくであるものの、どこからの音かが分かった。軽くまげていた腰を伸ばし、怪訝な面持ちでそちらを向く。すなわち、リビングから間続きのダイニングより更に向こうにある、一枚扉を隔てた先――台所を。 
 アッシュが暴れたのだろうか。身体の大きい彼だけに、転べばそれなりに大きい音も響くだろう。大した考えも持たずにスマイルは再び、テレビをつけようと構える。
 けれどその手がスイッチを押す手前で止まった。なんとなくであるが、引っ掛かりを覚えるところがあった。己の直感を信じるであれば、どうにも変な感じがするのだ。
 スマイルは伸ばしていた指を曲げ、腕を持ち上げ頭を軽くかきむしった。お人よしというか、妙に神経質というか。自分の性格を呪いつつ、彼はつま先を大きく方向転換させた。長テーブルがどんと構えているダイニングを通り抜け、閉まりの悪い扉のドアノブをつかみ、僅かに力をこめて引いた。ぎし、と古めかしい音を立てて扉は思うよりもすんなり開かれる。
 中は、薄暗かった。
 もともと北向きに作られているから、窓からの明かりはそう期待できない。だから常に誰かが使用する場合、台所の電気は必須だった。しかしそのライトが今は消えている。夕暮れも遠い台所は、もう既に夜の闇に近い状況にあった。
「もしも~し?」
 自分でも我ながら間抜けだと思うのだが、明るい場所から入った所為で未だ目が慣れぬ中、うかつに足を踏み込むのも憚られる思いから若干語尾が間延びした声で内部に呼びかけを試みる。返事は直ぐになく、あまりにも静かなものだから、てっきりバランスが悪くおかれていたものが床に落ちた音だったのだろうと思い直しかけていた頃。
 台所の作業台としておかれている、シンクと背中合わせの形でおかれているテーブルの辺りで、もぞもぞと何かが動く気配があった。ついびくっと片足を引き加減で構えてしまったスマイルだが、テーブルに置かれた白い、どちらかといえば血色の悪い手に心当たりを覚え、安堵の息をそっと吐き出す。
「ユーリ」
 その名を呼ぶと同時に、テーブルの向こう側からにょっきりと、でも表そうか。銀色の髪を持つ青年が生えてくる。否、姿を見せた。心持ち不機嫌そうな、嫌な場面を見られたと表情が告げている。
「なんだ」
「ナンダロウネ……。凄い音がしたから来ただけなんだケド」
 凄みを利かせたつもりらしい返事に、若干釈然としないままスマイルはことばを紡ぐ。その調子でユーリの立つ側へ回り込むと、案の定彼の足元には倒れた、脚の長いスツールが転がっていた。
 足を伸ばし、つま先でスツールを構成している細い金属部分に持ち上げ、椅子を正しい姿勢に戻した上で、
「落ちたノ?」
「うるさい」
 聞けば、一蹴されてしまった。苦々しい表情で顔をそらしている彼は、右手に何かをつかんだまま、ぶつけた箇所なのかその肘近辺を左手で押さえ込んでいる。だが座っていた椅子から落ちる理由は何なのか。居眠りでもしていたというならば話は分かるが。
「何やってたのサ……」
 理由を言いたがらない彼に渋って、スマイルはユーリに手を伸ばす。右手に後生大事に握り締めているものの正体が、原因であろうとは直感的に感じ取っていた。
 反射的に身を引こうとするユーリより一瞬早く手首を取る。痛がらない程度の力加減に気を配って彼の手の中のものをあらわにさせた。
 それは、
「電球?」
 訝しげに、ユーリの顔を覗きこむ。決まりが悪そうにしながら、彼は傍にあったスツールの足を軽く蹴り飛ばした。それは僅かに揺れたものの、倒れるには至らず恨みがましい音を立ててふたりの耳を不快にさせた。
「コーヒーを飲もうと来てみたら、チカチカしていたから……新しい電球もあるようだったし、交換しておこうと思って、だな」
 このまま黙秘も貫けないと悟ったのだろう。渋々ユーリは握っていた電球を、転がり落ちないように注意しながらテーブルに置く。根元が黒くなって煤けており、それはずいぶん長い間働いて、働き終えたものの姿だった。
「椅子に上って外していたんだが、立ち位置が悪かったらしくなかなか届かなくて……外し終えた瞬間バランスが崩れてしまってな」
 それで、咄嗟に掴んでいた使用済みの電球が割れないように庇い、背中と腕から落ちたというわけだ。
 台所の明かりが点いていなかった理由がようやく判明し、スマイルも納得する。けれど同時に疑問も浮かんで来た。ユーリならば、その背中に生える翼を使えば何も椅子という道具を踏み台にしなくても高い場所に手が届くではないか。
 率直な疑問を口にしたスマイルに、ユーリは周りを良く見ろ、と台所空間をぐるっと指で指し示した。
「……ナルホド」
 今度こそスマイルは納得し、深く頷かざるを得なかった。
 ユーリの翼は大きい。普段は小さく収納されているが、実際に空を駆ろうとするならば今のサイズの十倍かそれに近いサイズまで広げなければならない。両翼までの長さは軽く彼の身長を凌駕しており、そんなものがこの狭い――とはいえ、一般家庭の台所に比べればはるかに広いだろうが――広げられた場合、どうなるか。
 想像に難くない。
 ユーリの身長では、背が高めのスツールの上に立ち上がってめいいっぱい腕を伸ばしても、ぎりぎり天井に指先が届くかどうか、だろう。よくぞ外すだけ外せたものだ。光が届かない分床面よりも薄暗さが濃い上を見上げ、ぼんやりとスマイルは考える。
 その状態のまま、彼はユーリに向かって広げた手を差し出した。
「?」
 真意が読み取れず、ユーリはスマイルの顔と包帯に覆われている手とを交互に見比べる。その間も、彼の手は何かを掴もうとしているのかしきりに曲げ伸ばしが繰り返されていて、海底のイソギンチャクを思わせた。
 ものの十秒は経過しただろうか。反応のないユーリに痺れを切らし、スマイルが彼を見下ろす。
「電球」
「……さっさと口で、そういえば良いだろう」
 自分が交換に行くから新しい電球を渡せ、というポーズだったらしい。言われてようやく気づいたユーリは悪態をつきつつ、テーブルの端においておいた新品の、まだ封も切られていない電球に手を伸ばした。包装を剥ぎ、割れやすい電球部分を慎重に持ってスマイルに手渡す。根元を掴んだスマイルは、スツールが倒れないようにゆっくりとバランスを計りながら、左膝を座席部分に載せ、爪先で中空を蹴る動作を繰り返し靴を床に落とす。右足分は靴底を床に押し当てこすりつける摩擦で脱ぎ捨てた。
 一気に高い位置にある椅子に上る。立ち上がって下を見下ろせば、ユーリの心配げな表情が暗がりの中読み取れた。
「机に立ってやれれば楽なんだけどねぇ」
 ぼやきと取れる呟きをこぼす。食べるものを並べるためのテーブルに土足、否靴を脱いでいたとしても足を載せるというのは常識的に憚られて、ユーリはプライドもあってか許せなかったようだ。そんな彼の前で自分が机に載ってみせようものなら、足蹴にされるどころでは済まないかもしれない。
 臍の辺りに力を入れて体勢が崩れないように気を配りつつ、天井に右手を押し当ててそれを支えにし、左手で持った新しい電球を、天井に作られた窪みの中に向きを注意させながら押し込む。金属同士がこすれあう感覚が指先から伝わって、それを頼りに見えない場所での作業に意識を集中させる。いっそ右目も見えないようにして感覚だけを頼りにやった方がよさそうだ。そう思って目を閉じようとしたら、下からユーリの不安げな声が聞こえたので、やめた。
 電球の溝を天井の穴にしっかりと奥まで噛み合わせ、外れないかだけの確認を電球の頭部分を軽く掴み、左右に促して確かめる。ようやく空になった左手も天井に押し当てると、低い位置にいるユーリがさっきとは違う、複雑な顔をしているのが遠くに見えた。どんな顔をしているのかと、強いて言葉で表現してみせるとしたら、自分が苦労させられた高さに平然と手を届かせてしまうスマイルへの、羨望というよりは妬みに近い感情に、自分自身で戸惑っていると言ったところだろうか。
「よっ」
 短い掛け声をあげ、スマイルは椅子から飛び降りた。その瞬間、あ、と声を出したユーリが咄嗟に身を引いたのだが、逃げる場所が宜しくなかった。スマイルも後から考えれば、降りる方向を先に教えておけばよかったと思うのだが、飛んだ方向が丁度、ユーリが逃げようとした先と体半分ほど重なってしまっていたのだ。
 空中で身体をひねり避けようとがんばってみたものの、所詮は椅子から下へ降りるだけの距離しかない。右肩がユーリに当たる感触に顔を顰めつつ、スマイルは避けようがないまま床に転がった。すんでのところで、ユーリを下敷きにしないよう彼の頭部に腕が回せたのだけが、幸いとしか言いようがない。
「いてて……」
 ユーリを抱き込むような格好で落ちた為に、肘を思い切り強打してしまった。指先が麻痺したようにジンジンと鈍い痛みを発し動かせない。
 しかしかばわれた側には関係なかったようで、最初の数秒間だけはびっくりした顔で直ぐに反応できなかったユーリだが、数回の瞬きの後、我に返って、
「重い」
と、ひとことだけ。苦悶で顔を顰めているスマイルの胸を押し返し、自分の上から追い払ってしまった。
 さっさと立ち上がり、服の埃を払う。再び倒れてしまったスツールを本来の位置に戻し、壁のスイッチを押して交換したばかりの電球がちゃんと点くかの確認を。その頃にはもうスマイルも、どうにか起き上がれるようになっていて、打ってしまった肘を庇いつつ机に凭れ掛かる。使い古しの電球を、用済みになった新品電球が入っていたケースに押し込んだ。
 カチカチと数回明滅した後、天井からまばゆい光が一斉に降ってきた。いきなりの眩しさに隻眼を閉じた上、瞼を通り越して感じられる光をも遮ろうと無事な左腕を持ち上げて目を庇ったスマイルに、ユーリは小さく笑ったようだ。
「直ったようだな」
 光の下で元気な吸血鬼もあったものではないが、彼は嬉しそうに言って、壁の時計を見やった。思った以上に手間取ってしまったと、時間を気にして舌打ちする。
 そういえば、とスマイルはここで、普段この時間ならば台所の主と化しているアッシュの姿がないことに今頃になって思い至る。どこへ行ったのかと問えば、呆れた声が返ってきた。
「アッシュならば、今日からソロコンサートでホテル住まいだろう」
 言われてから、そういえばそうだったと思い出す。部屋のカレンダーにだって、しっかりと自分で、アッシュは今日から居ないという旨を書き込んでいるくせに、忘れるとは。
 迂闊だった。
「え、じゃあ今日の晩御飯は?」
 昼は外で済ませて来たので、朝食を準備し終えたアッシュがそのまま出かけてしまった事など、まったく気づかなかった。午前中ずっと城にいたならば、もっと早く彼の行動スケジュールを思い出していたであろうに。
「さぁな。好きなものでも作ればいい」
 カレーなど得意であろう、と他人事のように言ってのけたユーリは胸を張ってふんぞり返っている。自分は作る気など全くありません、と態度が示している。スマイルは頭を掻き、溜息を吐く。
 まいったなぁ、どうしよう。
 思考は回って一巡して、壁の時計を見上げて腹の空き具合を確かめる。ちらりとユーリを盗み見て様子を伺うと、さっさと結論を出せとスマイルを軽く睨んでいた。
 だから彼は明るくなった天井を仰ぎ、今度は頬を掻く。
「ユーリぃ」
 語尾が間延びした声で呼んでみた。
「ぼくの好きなものでイイ?」
 アッシュも居ない。夕食の時間が近いとはいえ、一日はまだ長い。
「カレーで構わないぞ」
「いや、それじゃなくて」
 淡々と返される言葉に首を振って、真剣な表情で彼を見据える。ちょっと予想外だったらしく、ユーリの顔が僅かな驚きに彩られる様を見下ろして、問う。
「ユーリ、食べてもイイ?」
 ガンッ。
 ユーリのつま先が直後スマイルの腹部にめりこみ、彼は本日二度目の、床への落下を余儀なくされた。