insanity

 春が来る。
 淡い薄紅色に染まった空から、はらはらと降り注がれる小さな花びら一枚一枚が、まるで天から舞い落ちる季節外れの雪のようで見つめるうちに自分がいる場所が果たして現実か、夢の中の幻想なのかが区別もつかなくなりそうな。
 そんな春が、また今年も巡ってくる。
 吐息は霞み、穏やかな日差しと、それでいて吹き付ける風の思いの外の冷たさというアンバランスさも手伝って、ふわふわと足下に綿を一枚挟み込んだような、危うさが全身の気怠さを拡大させているようでもある。
 冬を乗り越えた芝が灰色に近い枯れた姿から新たな目を息吹かせ、頼りない芽を懸命に伸ばそうと空を目指している。到底届かないと分かっているのかいないのか、それでも必死になって両手を広げている姿は滑稽さを通り越し、むしろ哀れにも思われる。だが彼らにとってはその行為は至極自然の行動であり、哀れに感じるのは上から見下ろすしかない自分たちの身勝手な思考に過ぎない。
 再び、空を見上げる。
 見事に咲き誇る桜は、この一時期を過ぎればその存在を忘れられるに等しいただの巨木でしかない。だからこそ、例え一年の大半を無視されようとも、春にだけは人々の関心を招きその樹下に招こうとして、狂おしいばかりの花を咲かせるのか。
 よく言う話には、桜の木の下には死体が埋まっているのだという。桜はその死体の血を吸って、淡い色を花びらに浮かせるのだと。
 そんな現実離れした話が生まれたのも、ひとえに桜という花が、咲く姿に狂気を呼び起こしそうな雰囲気を含んでいたからか。
 スマイル、と。 
 不意に呼ばれた声に振り返る。
「やぁ、ユーリ」
 どうしたの、と重ねて声を紡ぎ、半身を捻るだけの姿勢から足を一歩踏み出して完全に身体ごと向き直る。
 城の窓辺で、物憂げな瞳を数回瞬かせた彼は、春だけに見事な花を咲かせる巨木をぼんやりと見ていた。そして、絶えず降り注ぐ花びらの中に佇むスマイルをも、また。
 けれど彼の瞳がかつてのような輝きを宿しておらず、彼の目に映る世界が果たしてスマイルの前に存在し、スマイルが見ているものと同じものであるかは、最早分からない。
 ふと、彼が薄い唇を震わせて何かを呟いた。
「ユーリ?」
 聞こえなかったスマイルが名前を呼ぶが、ユーリは反応しない。何処を見ているのか、外された視線は彼方を向いていてスマイルは一歩彼へと踏み出した。しゃく、と足裏に枯れ葉と散った桜と、芽吹いたばかりの芝が入り交じる感触が触れる。
 直後吹いた風に、桜が煽られて渦を巻いた。
「うっ」
 細かい砂やなにやらも一緒に巻き上げられ、瞬間的にスマイルの視界を奪った。左腕を反射的に持ち上げて隻眼を庇い、裂けるような音を耳に響かせる風が過ぎるのを待つ。
 その間僅か数秒の出来事だったに違いない。けれど次に瞼を開けた時には、彼の前からユーリの姿は掻き消えて無くなっていた。
「ユーリ……?」
 年甲斐もなく自分が焦りを感じていると声の調子が露骨に教えてくれる。きょろきょろと左右に視線を振り回してか細く頼りない、抱きしめればぽきりと折れてしまい兼ねない身体を探す。
「ユーリ!」
 二度目に呼んだ声は荒っぽく乱暴な口調になっていた。奥歯を噛みしめて、誰にも表せない感情を喉の奥へ押し戻してもう一度呼ぼうと、冷たい空気で熱波を孕む胸を冷やす。
 丹朱の瞳を細め、挑みかける風に城の、開け放たれたままの窓を睨みつけて下唇を噛んだ。彼のいた場所は空白のままで、色が抜けてしまった写真のように物足りなさと切なさが同居して見える。
「…………ユーリ」
 けれどそれに気づいてしまった途端、声からは気力と迫力が失せ、ただの呟きとして足下に転がっていった。
 あはは、という笑い声がそれに重なる。
「っ!」
 速攻で振り返り、スマイルは片方だけが生き残っている眼をこれでもか、という程に大きく見開いた。
 咲き誇る桜の下、ユーリが何を思ったのか空色の傘を広げて立っていた。
 声を立てて笑う姿は、まるで無邪気な子供のようでもある。くるくると両手で握った傘を片方の肩で支え、くるくると回しながら降ってくる桜の花びらを受けてははじき飛ばし、遊んでいた。
「ユーリ?」
 何をしているのだろうか、とじっと彼の動きを見守ってみるが、どうにも理解しがたい。大体この晴れ渡った空の下、傘を広げる理由がつかみ取れない。
「ユーリ、今は雨なんか降ってないよ」
 思わず口をついて出た言葉に、二秒後しまったとスマイルは口に手を当てて悔やむが、時既に遅く。傘を持ったユーリがゆっくりとした動作で振り返って、そこで初めてスマイルが近くにいるのに気づいたような顔をして、笑った。
 なにを言うのか、と。
 雨が降っているではないか、と。
 そう言い返し、ユーリは傘を軽く前後に揺らして降り積もっていた花びらを落とす。その間にも大樹からはぐれた花弁が無数に地表に降り注ぎ、確かに光景としては雨が降りしきる様に似ていない事もない。
 だが……。
 スマイルは再度、浅く唇を噛んで俯いた。爪先が埋もれてしまいそうな桜の散り方は、哀れに儚い命のあがきとさえ思えて、涙が出そうだった。
 スマイル? 
 名前が呼ばれる。その声は過去の記憶となにひとつ違わない、ユーリの姿そのままなのに。
 何が悪かったのだろう、何がいけなかったと言うのだろう。
 どこかで、なにかが狂った。たったひとつの歯車がずれただけで、それまでの全てが崩れ落ちた。
 ただ今となっては、その歯車がどこにあったのかも分からない。小さな、僅かなゆがみが少しずつ少しずつ、全てをずらして壊して行った。
 最初のきっかけは、露と消えた過去の過ちは、最早手元に戻らない。
 雨ならば、降っているだろう。
 不思議そうにユーリが言う。スマイルは鷹揚に、やや間をおいてから頷いた。
「そう……そうだネ。うん、降ってる」
 青と、薄紅色の混ざる空を見上げてスマイルは本当に言いたかった言葉を無理矢理飲み込ませた。
 雨とは縁の無さそうな空がどこまでも高く広がっている。
 桜は足下に佇むふたりなど何処吹く風で、花弁を雨のように降らせ続けている。
 ユーリの笑い声がこだまする。それはどこか遠く、彼方の声の如くスマイルの耳に響いて消える。
 全身を包み込む桜の、感じない筈の薫りに噎せそうになって前髪に引っかかっている花弁を指で追い払う。
「春は、……嫌いかもね……」
 ぽつりと呟き、右目を片手で隠す。
 スマイル?
 間近で囁かれた声に指の隙間から覗けば、ユーリがスマイルの頭上にも傘が届くように手を伸ばして立っていた。銀色の細い柱を挟んで、眩しい笑顔を浮かべるユーリが其処に、確かに立っている。
 いつもと変わらない、違わない笑顔で。
 雨が降っているのに、どうしてお前は私のように傘を使わないんだ?
 莫迦だなと、屈託のない笑顔で言われて、何とも言い表しがたい表情をかみ殺しスマイルは泣きそうな笑顔で彼に応えた。
「そう……うん、そうだネ」
 ぼくは、莫迦だからこんな簡単な事も分からないんだよ。返して、自嘲気味な笑みを形作ればユーリは仕方のない奴だな、と更に微笑む。
 まったくお前は、私が居ないとダメなんだから。
 そうやって語るユーリに、スマイルはいよいよ顔を伏せ、残っている右目を硬く閉ざした。
 スマイル?
 耳の中にいつまでも木霊する、柔らかく呼びかける声。
 風が吹き、巨木の枝が激しく揺すぶられる。流れてきた雲の群れが太陽を隠し、日差しが陰った午後の庭が暗がりに導かれる。
 絶えきれず枝々から離れた花弁が儚く空を舞う。スマイルの頭に、肩に、それらはぶつかりながら地面に積もり、彼の爪先ならず踵までをも埋め尽くして彼をその場に固定する楔に変わる。
 もう数年、或いはそれ以上なのか。使われなくなって、とうに朽ちて原型とを留め無い、傘だったものの成れの果てと思われる鉄さび色の濃い細い骨組みが地面の緑と桜色とに染められ、彼の前に横たわっていた。
 探し求める人の姿は、霞に消えて見つけられない。
 スマイルは声を押し殺し、引き千切れるのさえ厭わない強さで唇を噛んだ。
 風が桜を不可思議に煽り、踊らせる。
 視界は全て血の色に染まり、彼の目にはもう、なにも映らない。
 映さない。
 ただ、風が哭く。

春は狂気