Smart Fantasia

 久方ぶりに繰り出した街は、今日が週末という事も合ってかかなり混み合っていた。
 空を見上げれば澄み渡る冬の空、しかし浮かれ気分の街の姿は寒々とした雰囲気と熱波のような空気とが入り交じる不可思議な空間と化していた。
 道を行く男達のうち、背中を丸めてなるべくショーウィンドーや今日という日のために特設で設けられたワゴン販売に目を向けようとしない類は、今日が早く終われと心の中で想っている輩に違いない。逆に、しまりのない顔をして鼻の下を伸ばし、或いは楽しそうに語らいながら女性を連れて歩く男は、今日という日の恩恵に預かった男なのだろう。
 聖バレンタインデー。
 世の女性がそわそわと落ち尽きなく、また男達も気もそぞろになる一日。
 すっかりイベントとして定着してしまっている為に、この季節に合わせて販売される限定チョコレートも数多く、甘い物好きとしては別の意味でも楽しみなイベントなのかもしれないが。
 若い女性が群がって品定めをする一角に目をやり、ユーリは小さく溜息を吐き出す。
 彼の視界にちょうど、近年は平均身長も高くなってきているとは言え、まだまだ小さい女性の中に紛れて頭ひとつ分もふたつ分も大きい姿が映ったからだ。
「馬鹿者が……」
 仕事が午前の段階で片づき、昼以後夕方までの時間が空いてしまったので、ならばちょっと買い物に出向かないかとアッシュに誘われてのこのこついてきてしまった自分を恨みそうになる。彼はスマイルにも声をかけていたのだが、向こうは用事があるから、と断ったらしい。
 だからユーリにアッシュの矛先が向いたわけなのだが、何処へ連れて行かれるのか教えて貰えぬままついて来た先が、この甘ったるい薫りと女性の香水臭、時にはけんかになりそうな喧噪に溢れた場所。今日のために特別に設けられたチョコレート売り場だった。
 冬の寒空の下、開かれた場所で風通しも宜しいというのに熱気がむんむん立ちこめて湯気まで昇っていそうで、近づけば確実にはじき飛ばされるに違いないからとユーリはひとり、離れた柱に寄りかかってアッシュの買い物が終了するのを待つ。
 彼くらいならば、自分で買わずともどこかの雑誌に「○○のチョコレートが食べたい」と言えば、山のような商品がファンから送りつけられてくるだろうに。わざわざ自分で買いに行く必要性が何処にあるのか、ユーリには疑問だった。それでなくとも、女性ばかりのワゴンの間を、男がひとり両手にチョコの箱を抱えて進むのは異様だというのに。
 あれが自分に近付いてきたら、周囲の女性陣が奇異の目で見つめる先に自分も含まれるようになるのだろう。想像して顔が青くなりそうで、額に手をやったユーリは緩く首を振りひとり先に逃げだしてやろうかと本気で考え始める。
 スマイルのように、用事を理由にして断ってしまえば良かったと後悔したところで最早時既に遅し。有名洋菓子店の綺麗な包装紙に包まれた箱を籠にいっぱい詰め込んで、嬉々とした顔でレジに並ぶ身長180センチ越えの男を遠くに見やり、再度溜息を零してユーリは変装用にと被っていた帽子を目深にさせた。
 もう既にアッシュの正体に気づき始めている女性もいる。彼の甘い物好きは業界外でも有名なので、レジに嬉しそうに並んで待っている彼を邪魔しては悪いという空気が周囲にあるようだ。けれども彼がひとたび会計を済ませ、踵を返した瞬間、果たしてどうなるか。
 自分に助けを求めてくれたりするなよ、と山のような女性に取り囲まれて逃げ場を失う自分たちを思い浮かべ、ユーリはこっそりとアッシュに気づかれぬように柱から離れた。
 後ろで、海外ブランドメーカーのチョコレートが売り切れとなったという声が聞こえ、同時にブーイングの嵐が発生していた。そこはさっきアッシュが三箱ほど買い込んでいた店でもあって、あの男が来なければ少なくとも三人の女性にはチョコレートが回っていたのかと考えると、罪作りな男だなぁ、と笑ってやりたくなる。
 けれどいい加減甘ったるい薫りが立ちこめる場所に居続けるのも苦痛で、頬に冷たい風を感じ取れる場所にまで進み、深呼吸を二回ほど繰り返した。
 肺の中にまで入り込んでいた感覚のあるチョコレートの匂いを追い払い、伸び気味だった髪の毛を上向けて放り込んだキャスケット帽のツバをもとの高さに戻す。帽子に収まりきらなかった短い後ろ髪が襟足を擽り、寒風が吹きつけるたびに心許なげに揺れて皮膚の薄い肌を掠める。
 この季節だと言うのに窓を全開にした車が、大音響で音楽を鳴らしながら走り去っていった。巻き上げられた排気ガスに咳き込みそうになって、どこか殺伐とした街の光景を少しの間立ち止まって眺める。
 肩をぶつからせて進む人も居るけれど、その過半数はぶつかった相手に対して謝罪の言葉も無い。バレンタインという日である事も手伝ってか、寂しげな背中も心持ち普段より多いような気がした。
 色つきのファッショングラスを揺らし、ユーリは視線を反対側へと逸らした。
 道の両脇を埋める華やかな商店の間に、明るい色遣いの店がある。今や何処へ行っても見かける、全国チェーンのコンビニエンスストアだ。その店の軒下や窓にも、バレンタインの文字が躍っている。
 今やお祭り騒ぎになっている感のある、本来は厳粛で神聖だったはずの日も形無しだ。そんな風に考えながらユーリは後ろに目を向け、大事なドラマーがどうなっただろうかと一瞬だけ危惧した。けれど人混みは絶えず、もう視界に小さく遠く見えるだけの特設会場入り口に特別変化は起こっていない。騒々しいくらいに鳴り響いていたラブソングのメドレーも聞こえなかった。
 なんとかうまくやり過ごしたのだろう。それとも、ユーリとは反対方向に逃げたのか。どちらにせよ自分に被害が来なければ構わないかと思い直し、ユーリは胸からひとつ重荷が下りた気がして肩から力を抜いた。
 そして何気なく、ただそこにあったからという理由で、普段ならば足を向ける事のないコンビニエンスストアの自動ドアを潜った。
 入って直ぐのレジで、客足が途絶えた直後だったのか安堵の息を漏らしていた店員が即座に営業用の笑顔を作ってユーリを迎える。
「いらっしゃいませー」
 やや語尾を伸ばし気味の発生で、女性特有の高い声が店内に響き渡った。ユーリはちらりと彼女に目をやって、すぐに逆側の商品が並べられている棚に意識を移す。入って一番目がつきやすい場所に、隙間が多くなっているものの、色とりどりにラッピングされたチョコレートが並んでいた。
 ピンクのリボンが棚を飾り、バレンタインの文字がそこかしこに散りばめられている。今は何処へ行ってもこんな調子だな、と軽く笑ってユーリはその場を離れた。
「…………」
 だが、意識は何故かその場に留まって、ちらちらと気づけば視線を送っている始末の自分に気づいて顔を顰める。
 理路整然と並べられたものに必要性を感じないまま手に取っては戻す、を繰り返して、店の中を順番見て回る。気がつけば大量のスナック菓子が飾られた棚の前に居た。
 少し視線を逸らせば、季節に関係なく売られているチョコレートも目に入る。
「……………………」
 浮かんで消えた顔に、ユーリははっとなって慌てて首を振った。それこそ、店員が怪訝に思う程の勢いで。
 だが、早く立ち去ろうと意識を急かしても何故か足の裏が接着剤で固定されたかのように床から離れない。
 ちらり、と退屈そうにあくびをかみ殺している店員を盗み見て、ユーリは僅かに力を込めて奥歯を噛みしめた。商品の陳列棚に向け、右手をまっすぐに伸ばす。
 そうしてまず手に取ったのは、最近発売されたばかりの新味のポテトチップス。続けて手にしたのは、三角形の形をしたスナック菓子。イチゴ味の棒状菓子、そして漸くチョコレート。それもホワイトチョコとビターチョコで、同じものをひとつずつ、左腕を胸の前で輪にした上に積み重ねた。
 さぞかし、チョコレートは菓子を買うついでだぞ、と主張するかのように他にも幾つかの、到底自分は食べなさそうなものを適当に見繕って行く。やがて山はユーリの顎に届きそうなところにまで達し、チョコレートはその中腹に収まったところで持ちきれなくなってユーリは颯爽とレジへ向かった。
 店員が半端でない量を抱えたユーリにぎょっとするが、一瞬で表情を整え義務的な動きで商品の金額をレジスターに打ち込んでいく。その間にユーリは後ろポケットから財布を取り出し、札入れに収まっている紙幣の数を数えながら次第に額が増していくデジタルの数字をぼんやりと眺めた。
 店員がチョコレートに手を伸ばした時にだけやや緊張を表すが、素早く計算済みの一角に紛れさせられたそれらに、割れ知らずホッと安堵の息を漏らしていた。
「お会計、三千八百六十二円になります」
 淡々とした口調の店員に告げられ、素早く札を四枚出し、釣り銭を受け取って袋に大量の菓子が詰め込まれていくのを見守る。サングラス越しの真剣な表情に気づいたわけではないだろうが、最後の方にやや怪訝な顔をした店員にじっと見つめられ、ユーリは無意識に被っていた帽子のつばをおろした。
「ありがとうございましたー」
 語尾が間延びした声の店員に見送られ、ユーリは足早にコンビニエンスストアを出た。暖房が効いていた店内から一歩外に出た瞬間、冬の風に見舞われてコートの前を片手で押さえ込む。
 そういえば置いてきてしまったアッシュは、どうなったのだろう。
 十数分前まで居た場所を振り返るが、喧噪は未だ見て取られない。恐らく無事であろう、と右手に重たい袋を持ち直し、時計を確認しようと携帯電話をポケットから引っ張り出した。
 気づかなかったが、着信の歴がある。少し遅れてメールも。
 道の端に寄って確認すると、どちらもアッシュからで、騒ぎになってしまったから先に帰る、という旨だった。今日はアッシュの出した車で来ていたから、実際はユーリが見事に置いて行かれた結果だったが、下手にアッシュについて回っていた女性ファンにユーリまでもが捕まるのは宜しくないし、仕方ない判断だろう。
 さて、ではどうしようか。
 タクシーを拾って帰るか、途中まで電車を使うか。兎も角この場から少し歩かねばなるまい。大袋ひとつになんとか詰め込まれた菓子の山の重さをずっしりと右手に覚え、ユーリは歩き出そうと携帯をしまった。
 そうして、何気なく流れた対向車線その先。歩道沿いの、小さな店。
 例に漏れずバレンタインカラーで彩られた狭い入り口の両側を埋め尽くす薔薇の色から、花屋であろうと容易に知れる、その店の前で。
 見知った背中を見た。
 この場所からはとても、話し声は聞こえてこない。忙しなく走り抜けていく車列に紛れ、時として姿が隠れて見えなくなる背中をサングラス越しに凝視して、目が逸らせない。
 花屋の店員、もしかしたら店主なのかもしれない。まだ年若い女性と談笑するその姿。何を話しているのかは分からないけれど、時折ユーリからは見える女性が口元に手を当てて笑っているから、話も弾んで盛り上がっているのだろう。
 ふたりはユーリの存在にまったく気づいていない。そしてユーリが見つめる前で、後ろで長い黒髪をひとくくりにした女性は、一旦奥へ引っ込んでから直ぐに戻ってきて、ユーリのよく知る背中の人物に向けてなにやら差し出した。
 小さいものだったが、この日に女性が男性に贈るものなど限定されている。
「…………」
 けれどあの男は、甘いものが極端に苦手だ。
 きっと受け取らないに違いない。ユーリは胸の奥にもやもやしたものを抱えながら、少し先の信号が赤になった為に停止する車に紛れて見えなくなりそうな光景を見つめ続ける。
 だが、男はユーリの期待に反して、女性が差し出したものを丁重な態度で受け取り、なにやら一言二言、恐らくは礼の言葉だろう、告げて笑ったらしかった。
 女性も少しはにかんだ笑顔で応じる。
 その瞬間、ユーリの背後で雷鳴が轟き極寒の嵐が吹き荒んだ。
 握りしめた袋がかさかさと音を立てる。今すぐにこの場でこの中身をぶちまけて踏み潰して破棄して行ってやりたかった。罵詈雑言を吐きつけて詰り、二度と顔を見せるなと絶縁状を突きつけてやりたかった。
 けれど、足が動かない。
 全身が麻痺したかのように、指先一本として動こうとしない。
 涙をこぼさなかっただけが、辛うじて救いか。
 信号が赤から青に切り替わる。停止していた車が一斉に走り出す。景色が歪み、遠くが見えなくなって霞むようだった。
 人の波がそれに拍車をかける。奥歯を噛んだユーリは俯いて踵を擦ったまま後退し、ぶつかった花壇に引っかかって、そのまま力の抜けた膝が崩れるに従いすとんと腰を落とす。
 目深に被った帽子をそのままにして下を向けば、打ち捨てられた空のペットボトルが転がっているのが見えた。
「……だって」
 彼は、男で。
 自分も、男で。
 それに、世間的に言う恋人同士というような関係でも無くて。
 ただ同じバンドに居るメンバーで。
 それ以外ではなにもなくて。
 それだけの関係で。
 だから。
 彼が、誰から、何を貰おうと、自分には関係ない。
 筈、なのに。
 だったら、何故こんなにも。
 自分はショックを受けているのだろう。
 ぐちゃぐちゃにかき乱された気持ちが一向に落ち着く様子を見せなくて、浅く唇を噛んだユーリは上げた踵でペットボトルを踏み潰そうとした。しかし円柱形に近い形をしているそれは彼の足裏を滑り、あらぬ方向に転がっていってしまう。
 往来の真ん中に紛れていこうとするそれを見送り、拾いに行くべきか逡巡した矢先、黒のロングコートが視界に飛び込んできた。腰を屈め、焦げ茶色の手袋のまま町中のゴミを拾って脇のゴミ箱に放り投げる。緩い放物線を短い距離で描いたそれは、綺麗に籠の中に収まって居を定めた。
 ユーリの視線がゆるゆると持ち上げられる。どこかでも見たコートと手袋の色に、染色された髪の毛と濃い色のサングラスが加わる。
「ユーリ、見つけタ」
 こんなところで何をしてるの、とユーリが両手で持って僅かに広げた膝の間に下げているコンビニエンスストアのビニル袋を不可思議そうに見つめて、彼は言った。
「……別に」
「アッシュクンから連絡来たよ。ナニやったの、彼」
 ポケットからメタリックブラックの外装の携帯電話の頭だけを見せ、スマイルはユーリが座る場所の隣に立った。
 一見すればやや柄の悪いサラリーマンのような格好をしている。ネクタイこそ締めていないが、オフホワイトのカッターシャツに鼠色のベスト、同色のジャケット。パンツも揃いで、爪先が僅かに覗く黒の靴は綺麗に磨かれて傷ひとつ無い。
「チョコレートを買い占めて、世の女性陣に恨まれたのだろう」
 頬杖をついてスマイルからそっぽを向き、ユーリは素っ気なく答える。半分正解のようで不正解な回答に、スマイルは真に受けたわけではないだろうが、アッシュらしいと声を潜め、肩を震わせて笑った。
「寒くないノ?」
 そうしてふと、思い出したように聞いてくる。
 更に彼の視線は、ユーリが持っている袋の中に注がれていた。
「随分と買い込んであるケド……これ全部、ひとりで食べるノ?」
 身を低くして袋の端に人差し指を引っかけ、口を広げて中を覗き込んだ彼の言葉に、まさか、と返したくなるのをぐっとユーリは堪えた。関係ないだろう、と突っぱねてみるものの、スマイルの手は袋から離れてゆかず、逆に上に重ねられたものを押しのけて下に詰められているものまで確認しようと動いていく。
 横から加えられる力に袋の重みが増して、ユーリは咄嗟に左手だけを放してしまった。その為余計に広がった袋の中身が溢れて、慌てて受け止めようとしたスマイルの左手の上に、幾つかの小さな菓子が転がっていった。
「もう、ナニやって……」
 自分が不躾に手を伸ばした所為だというのは無視して、小声で呟いたスマイルが、袋の持ち手をユーリに返すついでに外に出てしまった菓子を戻そうと、真上から覗き込んだ刹那。
 ユーリもまた、スマイルの視界に入ったものに気づいて慌てて袋を持ち上げ、スマイルの反対側に持って行って胸に抱え込んだ、が。
 もう遅い。
「…………」
 袋に菓子を戻そうとした姿勢で停止していたスマイルが、やや間をおいてユーリの顔を見つめる。視線を逸らしていても感じる目線に、ユーリは果たしてどう言い訳しようかで頭がパニック状態に陥りそうだった。
 これは、今後作業に入った時用の夜食だ、とか。
 アッシュに頼まれた奴用のおやつだ、とか。
 スタッフに配る差し入れだ、とか。
「こここれは、だからつまりその、スタッフの皆にくく配ろうと」
「わざわざコンビニで買って?」
 それもユーリ自らが足を運んで?
 混ぜっ返すスマイルの弁に言い訳が続かなくて、ユーリは下唇を噛んで彼をねめつけた。サングラス越しでも瞳が笑っているのがよく見えるのが余計に悔しい。
「ぼくに?」
「ちがう」
「じゃあ、誰に」
「スタッフに!」
「……あ、そう」
「…………」
「スタッフにねー、ふーん」
「なんだ」
 意味ありげな視線を向けられ、ユーリの表情が不機嫌を露わにした。
 よいしょ、と立ち上がったスマイルが、左右の指先を絡め持って背中を反らし、その場で大きくのびをする。雲間から覗いた太陽が逆光になってユーリの視界を白に染め、スマイルの見慣れた背中を隠そうとしているようだった。
「ひとつ忘れているみたいだし、教えてあげようか」
 振り返ったスマイルの表情が見えない。
「あのさ、ユーリ」
 ぼくも、一応、スタッフのひとりなんですが?
 自分自身を指さして笑った彼に、さぁっと音を立ててユーリの顔から血の気が引いた。
 そこまでして、たかだかコンビニエンスストアで買った菓子のひとつが欲しいのか。
 世の男どもが必死になる姿が重なって見えた気がして、ユーリはつい、ぷっと吹き出した。凝り固まっていた頬の筋肉が弛み、自然と笑いがこみ上げてくる。
「……ダメ?」
「いいや、その通りだったな。確かに貴様の言う通りだ」
 変に意識したり、不要な思いを込めたりしなければ良いだけの話だ。ただ今日だからと特別な感情が優先させられてしまって、ぎくしゃくしてしまう。
「だったら、これは貴様が持て」
「はいはい、持たせていただきますとも、女王陛下」
「一言多い!」
 袋をスマイルに尽きだしてユーリが立ち上がった途端、軽口を叩いたスマイルの横っ面にぼかっ、と容赦ない鉄拳を叩き込む。丁度この光景を目撃した通行人の何人かがくすくす笑うのが聞こえ、恥ずかしくなったユーリは慌てて大股で歩き出した。
「待ってよ~」
 置いて行かれた格好のスマイルが大急ぎで追いかけてきて、それが余計にユーリの恥ずかしさを増長させる結果となり、早足が次第に駆け足に変わる。そして大通りの角にさしかかったところで追いついたスマイルが、手際よく客待ちのタクシーを拾ってふたりして乗り込んだ。
 きっと仕事先には、アッシュがしこたま買い込んだチョコレートが山を成しているだろう。甘い香りに毒されてしまっている筈のスタッフにしてみれば、ユーリの差し入れも菓子ばかりとは言え、有り難いものになるに違いない。
 後部座席に並んで収まった直後から、スマイルは早速袋の中身を再度確かめ始める。そうして、行き当たった二種類のチョコレートを片手ずつに持って交互に見やって、真剣に悩み出した。
「どちらも同じだろう」
「いや、結構違うような……」
 結局彼はスタジオに到着するまで延々悩み、到着してタクシーを降りてからも延々悩み続け、最終的に至った結論は。
 両方ポケットの中にこっそり頂戴、だった。
 果たして彼が本当にそれらを食べたかどうかまで、ユーリは確認しなかった。どうせ無理だろうと分かっていたし、どうするのかと待ちかまえていたら彼はユーリが止めても彼の前で包みを破いて本当に食べただろう。
 そうなれば彼が気分を悪くさせるのは必然で、そうなると仕事にも差し支える。だからユーリはもう何も言わず、彼の好きにさせてやった。
「そういえば」
 あの時、花屋の前で店員とおぼしき女性から渡されていたものはいったいなんだったのか。思い出した疑問をユーリがスマイルに投げかけると、細い通路を渡った先にある控え室の扉を開けたスマイルが、意味ありげに笑った。
「ただいまー」
 しかし直ぐに視線を前方に戻して、先に戻っている筈のアッシュやその他のスタッフに向けての挨拶に入ってしまって、ユーリの問いかけへの回答は寄越さない。不審に感じたユーリが首を傾げつつも、仕方なくスマイルに続いて室内に足を踏み込んだ途端。
 男臭い中に異質としか表現のしようがない薫りが、中に充満しているのが分かった。
「あ、ユーリ。届け物っス」
 さっき、黒髪をひとくくりにした女性が受付窓口まで届けてくれたのだと、簡単に説明を加えてアッシュが両手に持って近付いてくる。
 それは、色鮮やかに見事な大輪の花を咲かせている、真っ赤な薔薇の花束で。
 反射的にスマイルを探したユーリだったが、彼はコンビニエンスストアの袋を広げて他のスタッフに差し入れだと引き渡している最中で、そちらの話に忙しいのかユーリの視線にまるで気づこうとしない。
 だが、アッシュの告げた女性の特徴は、まさしく。
 だとしたら、スマイルが店員から受け取っているように見えたのは、バレンタイン特有のものとは全くの別物だというのか。
 ユーリの、完全な早とちり。
 勘違い。
「ユーリ?」
 差出人の名前が無いのだけれど、とアッシュが少し気にしたように言ったが、ユーリは心配ないと苦笑をかみ殺して花束を受け取る。
 鼻腔を擽る甘く濃い芳香に、笑った。
 もしかしたら最初から、彼はなにもかも計算の上であそこに居たのだろうか。それとも、考えすぎだろうか?
 答えは分からないけれど、やっと振り返ったスマイルに向けて彼にだけ分かるように花束を揺らして見せると、スマイルはホッとしたような照れくさそうな顔をして、微笑んだ。