True Chime

 空は澄み渡り、千切れた白い雲が西に僅かに見える以外はどこまでも晴天が広がっている。天頂は高く、吹き荒れる風も無く静かでとても穏やかな日差しが地上に降り注がれていた。
 おそらくは暖房の効いた暖かい室内に在って、曇りひとつ無い窓ガラスから外を見上げるだけならば今のこの季節を、初夏か初秋の一日と錯覚しても別段おかしくないと思われる。けれど吐き出す息は若干ながら白く濁り、忘れた時に西から東へと駆け抜けていく一陣の風に煽られでもすれば、たちまち全身の毛が総毛立って身も震える、そんな真冬の昼間なのだ、今は。
「う~、寒い」
 溜息と共に吐き出せば、寒気が増した気がしてスマイルは羽織った黒のジャケットごと自分の身体を抱きしめた。けれどそうしたところで厚みが増すわけでもなく、腕の外側が寒さに晒されただけで意味が無いのも分かっている。頼りない足下に半眼して、彼は若干色を無くした唇を嘗めた。
 濡れた場所からまた冷えて、凍えそうになってから今の行動は失敗だったと反省しても遅い。暖めようと吐いた息の白さに辟易して、堂々巡りの思考に自分で呆れて、彼は休めていた手を再び動かし始めた。
 動いている間は、そして色々と考え事をしているうちは、この冬の寒空の下にいる自分を忘れていられる。しかし何を隠そう、目の前に存在している巨大な樹木への飾り付け自体が、他ならぬ冬を連想させるものであるだけに、スマイルの気分は紛れるどころかますます滅入ってしまいそうだった。
「寒いよぉ……」
 愚痴ったところで誰かが聞いて相槌を返してくれるわけも無く。冷えた空気に解けて消えてしまった自分の声に重ねて溜息を零し、手の中の鮮やかで目に痛い原色のモールをこの季節でありながら緑濃い、細い針のような葉を茂らせる樅の木に絡ませていく。
 地面は遙か、数メートル下だ。脚立の最上段に腰を下ろしながらの作業は、突風が吹き荒れれば身体ごと揺さぶられ、危険極まりない行為であるものの、今日に限って風も無く至極快適。これでもっと気温が高く日差しも暖かければ文句も出ないのだけれど。冬の恒例行事のセッティングとあっては、間違いなくこの作業は夏場にするものではない。
 人一倍働く生真面目の代表格アッシュは、例の如く台所に引きこもって今晩の豪華な食事の支度に余念がない。一ヶ月以上前からレシピを考えていたとかで、ノート数冊分のびっしりと試作品から完成品までの作業工程云々が記されていた。最初の二ページをめくったところで読む気力を無くしたスマイルは、恐らくクリスマスケーキも焼かれている台所にだけは決して近づくまいと心に決めた。レシピノートの一番目には、数段重ねの派手なケーキが下手なイラスト入りで記載されていたからだ。
 朝食後顔を合わせていない健気過ぎる狼男の顔を思い出し、きっと嬉々としてホイップクリームを泡立てているに違いないと想像して、瞬間スマイルの全身を鳥肌が覆った。考えるだけでも卒倒しそうな甘さを持っているだろうケーキから、半径十メートル以内には入りたくもない。他の料理ならまだ平気だが、極悪な甘さのアッシュお手製ケーキだけは絶対に、二度と口にしないと心に誓ってから、もう随分と経つ。
 ユーリの城の、広大な敷地内に広がる庭。その一角。
 広葉樹から針葉樹まで幅広く、ほぼ無節操に秩序らしい並びも見あたらない好き勝手に植えた、或いは土地の所有者の意図せぬままに種が飛来して根付いたのかもしれない植物の中に、樅の木は大きく背高に育っていた。針葉樹であり、特別目立った外観もしておらず美しい花を咲かせるわけでもないから、他の季節には滅多に注目される事も無いのだけれど。
 時節柄、冬のこの一時期だけ、多数聳える数多の樹木を押しやって見目寂しい限りの樅が表舞台に押し上げられる。
 いわゆる、クリスマス・ツリーとして。
 樹齢果たして何百年かも分からない樅の木は、頭の先が地上三階部分にまで達しようかという高さだ。当然ながら飾り付けも、脚立か梯子を利用しなければ不可能。ユーリに命じられるままに、ひとりで朝食後すぐに始めた作業だったが、電飾を巻き付けるだけで楽に三時間を消費させられた。
 上から下へ流れるようにして電飾を巻く為に、数十メートルという長さを持った小さな電球を繋ぐ電線を持って、脚立を登って枝に引っかけ、また降りて場所をずらして電飾を持ち上げて枝に引っかけ、また降りて……の連続。上り下りだけでも相当の体力が必要で、漸く電飾が終わり次の飾り付けに入ったばかりだというのに、スマイルのやる気は当初の五分の一以下にまで低下していた。
 本当はジャケットの下に厚手のセーターも着込んでいたのだが、作業道中で暑くなり脱いでしまっていた。前ファスナーを首の位置まで上げて風を防いでいるが、その下は薄手のシャツ一枚。動きを緩やかにし出した途端、噴き出た分の汗も冷えて寒さが余計に厳しく感じられるようになってしまっている。
 心持ち、吐く息の白さが濁りを強めている感じがしてならない。
「はぁぁ……」
 どうしてこんな事をしているのだろう、と、一日ぽっきりしか出番が無いツリーを組み立てつつ、スマイルは思ってしまう。怠さを訴える左腕に鞭打って、膝に乗せた段ボール箱から球体の飾りを取り出して枝に外れぬよう引っかけた。
 明日は全身筋肉痛かもしれない。いや、今夜から既に歩くのも億劫なまでになってしまっているかもしれない。何もかも投げ出して、部屋に引きこもってギャンブラーZのビデオでも見に走ってしまおうか、とさえ思う。
 だがそんなことをしてしまえば、もれなくユーリから超弩級の雷が放たれるのは目に見えて明らか。吸血鬼のくせに十字架のお祭りが好きだなんて、というのは禁句だ。前にそんな趣旨の事を言って、直後に鉄拳が降り注がれた記憶は生々しすぎて思い出すだけで後頭部の痛みが甦りそうになる。
 緑と赤のモールを絡ませたリースを右手に飾り付け、ひとまず彼の前に広がっている一区画は完了。腕を伸ばして届く限りという広くあるようで実際はかなり狭いスペースを埋め尽くす緑と、それに負けない彩りを放つ装飾品の並びに、我ながら巧く出来たものだと少し背を仰け反らせて距離を稼ぎ、自画自賛して頷く。こうでもしなければやっていられないと、空っぽになった段ボール箱を遠慮無く三メートル近く下の地面に放り投げ、座っていた脚立の最上段から腰を浮かせたスマイルは右足を踏み板に直角に置き直し、左足を持ち上げて脚立上部から外した。
 底辺の短い二等辺三角形、もとい縦長の台形をした脚立の片側に立ち位置を移動させ、慣れきった足取りで十段以上ある脚立を軽業師さながらの動きで降りていく。久方ぶりに降り立った地面は冷え、靴底を通してでも冬の大地を感じ取る事が出来そうだった。
「ふいー」
 疲れた、と呟いて流れてもいない額の汗を拭う素振りをする。横倒しになって角が若干へこんでしまっていた先ほどの段ボール箱を拾い上げ、既にいくつか積み上げられていた、同じような扱いを受けた段ボールに重ねる。そして疲れを訴えかけて久しい肩をぐるぐると何度も回し、骨の鳴る音にうんざりしつつ振り返った先で、空になった箱以上に残されている、数えるのも嫌気がさす程の段ボール箱を見てがっくりと肩を落とした。
 もう嫌だ、と毎年思うのだけれど毎年、何故か最後まできっちりと言い渡された仕事を果たしてしまう自分が恨めしくあった。
 飾り付けは一日がかり、ツリーがきらびやかに皆の注目を集めるのは夜間のほんの数時間、片付けは更に短く大雑把。冷静に見れば虚しい限り。
 けれどそれなのに、毎年毎年、がらくただらけの倉庫から重い段ボールを十数箱も引っ張り出してきて、寒空の下脚立の上で総合計にして十数時間という長丁場を愚痴と文句を吐き出しつつも完璧なまでにこなしてしまうのは、ひとえに全て。
 彼の為。
「ぼくってイイ人~」
 こんな慈善事業、お金を出して頼んでもやってくれる人は一握りにも達しまい。それを無償でやってあげている自分は、なんて偉いのだろう。半ばやけくそになりながら声に出して呟き、新たな段ボールを見繕ってスマイルは巨大かつ重い脚立を一旦畳み、次の区画へと移動させた。
「あっつ」
 先ほどまでとは正反対の言葉がつい口をついて出たが、自分で言及せずにスマイルは片手で段ボールを落とさぬようにしっかりと握りしめ、もう片手と両足を交互に動かして器用に脚立を登っていく。
 暫くの間、耳に自分がスチールを踏みしめる音だけが微かに聞こえ、そこに重なって自分が吐き出す呼吸音が身体の内側から響いてくる。よいしょ、と短いかけ声を呟いて脚立の最上段に到達すると、片足を浮かせて天板を跨ぎ、日差しのお陰で若干暖かくなりつつもスマイルの身体を癒してくれるまでには至らない踏み板に腰を落とす。
 空を飛べるユーリが手伝ってくれたならば、もっと作業も捗って楽になっただろうに。しかし寒空の下で彼を働かせるには忍びなく、それでなくとも人手不足で屋内の飾り付けもせねばならないとあっては、彼をそちらに向かわせる以外無い。
 アッシュの料理が一段落してくれれば、という淡い期待は露となって消え去る運命にある。彼だって十数人という大人数の来客をもてなし、その肥え太った胃袋を満足させるだけの料理を用意するという重要任務が与えられているのだ。
 そもそも、この恒例パーティーの準備をたった三人でやろうという方が間違いだ。それでなくとも今年は忙しく、なんとか直前に時間を用意できたものの到底間に合うとは言い難い余裕の無さ。朝から気忙しく働いても、夕刻の招待券に記した時間に片づけまで完了しているか、時間との競争である。
「あー……まったくもう」
 ちらりと肩越しに、危ういバランスの上に成立している脚立から眼下の城内を伺う。大きな窓が庭に面していると言っても、この高さからでは内部に視線を達せられる筈が無い。先程脚立を降りた時には、白い泡状のスプレーで色々な絵柄を浮き上がらせた窓の向こう、微かにユーリの姿を見た気がしたが、結局声をかけなかったのもあって視線が重なる事もなかった。
 一人きりの作業は退屈で、飽きる。放り出してしまいたいという気持ちはまだ山盛りで、油断すれば膝に載せて片手で押さえている段ボール箱が落下という憂き目に遭いそうだ。まだかなりの量が残っている箱の中身は、金銀のボールから、笛を吹いたりハープを奏でたりする天使の姿を模した人形、原色眩しいモールに、円形のリースなど様々。
 そんな中、飾り付けを開始しようと箱を漁っていた手が、他のものよりも幾分小さな金属を見つけ出した。指先に引っかかった紐を引っ張ってがらくたに近いツリーの装飾品から救出したそれは、銀色の小ぶりな鈴だった。赤の組紐が結ばれていて、その組紐の先端でまったく同じデザインのもうひとつの鈴と結ばれている。
「鈴……?」
 鈴ならば、神社の賽銭箱上に吊り下げられているそれと遜色ない大きさをしている、別のものがあった。しかしスマイルが見つけたこれは、その辺のショップで売られていても別段不思議でない、親指より多少大きめの掌サイズだった。ともかく、この巨大ツリーに飾り付けるものとしてはあまりにも不釣り合いで、なおかつ頼りなく、弱々しい印象を与えてくれる。
 だからか、鈴がこの場に存在している事自体があまりに奇異に思えて、試しに顔の前まで持ち上げて左右に軽く揺すってみた。
 ちりん。
 夏場の気怠い暑さの中で密やかに奏でられる風鈴の音色を思わせるような、軽やかな音が薄く大気を震わせて響いた。しかし双子のように赤い組紐で結ばれた鈴から聞こえてきた音色は、何故かひとつ分だけだった。
「……れ?」
 はて、聞き間違いか。首を捻ったスマイルはもう一度、風にそよぐ常緑樹の枝振りを思わせる動きで鈴を振った。けれどやはり、聞こえてくる音はひとつ分。
 これは一体どうしたものか。鈴は確かにふたつ同時に揺れているのだが。両者が擦れ合って響く音とも違い、銀の鈴は不可思議な現象をスマイルの前に提示してくれている。謎解きをしている時間は彼に許されていないのだが、かといって見過ごせる程彼も融通が利く性格をしていなかった。
「むぅ」
 低く唸り、顎に片手をやって考え込んだスマイルは、ものは試しと固く結ばれていた組紐を解くことにした。しかし寒さの為に悴んだ指先は思うように動かず、しかもこれが結ばれたのは年単位で遡る必要性がありそうで、頑強な結び目に思わぬ苦戦を強いられる。
 身体が自然と左右に振れ、脚立の左右におろした足が天板を踏むのにも力が籠もる。膝に載せた箱が心許なく所在なげにしていた。
 数分後漸く、スマイルは爪の先で結び目を解すのに成功した。固く絡まり合っていた紐の一角が崩れ、こうなればもうお手の物とばかりにスマイルは紐を外して双子の鈴を個々に別たせた。
 しかし、勢いが余ったのだろう。それぞれの手で握っていた鈴を左右に大きく広げて持った瞬間、バランスを崩した段ボール箱がまず先に三メートル強の高度から落下した。
「あぁ!」
 慌てて掴もうと伸ばした左手から、するりと、赤い、結び目の名残が蛇のように捩れている組紐までもが落ちていく。そうして危うく、前に身を乗り出したお陰で自分までもが落下しそうになり、寸前で持ちこたえて僅かに前後に傾いだ脚立に肝を冷やしたスマイルは、どうにか無事の自分に安堵の息を吐いた。右手に残った鈴を胸元に戻し、おや? とまたしても首を捻った。
 音がしなかったのだ。
 耳の横に持って行って揺すってみる。曲がりくねっている組紐を指に絡めて何度も、しつこいまでに振ってみたが、ぴくりとも言わない。先程まで奏でられていた軽やかな音色は、過去のものとなってしまったようだ。
 スマイルは脚立越しに、落とした卵が割れる時に近い音を立てて拉げてしまった段ボール箱を小さく見つめた。灰色と茶色の中間、若干灰色に近い、枯れてしまった芝の隙間に埋もれ、双子の片割れはここからでは見つけられない。
 どちらにせよツリーの飾り付けをするには、箱を持ってあげなければならないのだ。手元が鈴ひとつを残して空になってしまった現状に肩を竦め、スマイルは脚立を降りた。地面にひっくり返っている段ボール箱の中身の惨状に溜息を二倍にして、落ちた反動で跳ね返って転がったのであろう、樅の木の根本近くに落ちていた赤紐の鈴を拾い上げる。
 ちりん、と。
「あれ?」
 さっきは鳴らなかった鈴が、ふたつ揃った途端にまた鳴った。耳に心地よい音にけれど眉根を寄せて顔を顰め、スマイルはひとつ息を吐いた。
 結ばれていた組紐の先端を重ね、ふたつ並べて揺らした鈴はまるで再会を喜ぶかのように嬉しそうに鳴り響く。しかし片方を樅の木の、随分下に伸びている枝の一本に引っかけて自分は後退して脚立よりも遠くに立ち、鈴を揺らしてみてももう音はしなかった。また戻って、枝の側で揺らせば鈴は密やかな音色を大気に刻む。
 口をへの字に曲げ、スマイルは頬を掻いた。
 つまりこれは、ふたつ揃って始めて音を鳴らす鈴なのだ。片方だけでは鳴らず、ふたつ近づけさせねば音は出ない。だからまるでさくらんぼのように紐の先端を結んでひとくくりにされていたのだろう。
 こんなものが何故ツリー飾りの中に紛れていたのかは分からない。がらくた入れと思われて放り込まれたのかもしれないが、そもそもこんな、何の役に立つのかも分からないものを買ってくる酔狂に心当たりはない。
 あるとすれば……自分くらいだろう。考え至って悲しくなり、スマイルは双子鈴をポケットに押し込むと気を取り直し、ぶちまけられている段ボールの中身を片付けにかかった。無事なものとそうでないものとを分け、脚立上での作業に戻る。
 太陽が西に傾き、赤い色が微かに地平線を彩り始めた頃、漸く彼の仕事は終わった。

 肩を回すと、ボキッという不吉な音が連続してあちこちから聞こえた。足は棒で、空箱で出来上がった山を振り返るのも嫌になる。けれどパーティー開始の時間はもうじきで、片付けが終了して漸く準備完了の為まだここで倒れるわけにはいかない。
 畳んだ脚立を横倒しにし、肩に担いで元あった倉庫の裏へ戻す。空箱は重ねて、やはり倉庫へ逆送致。割れてしまった飾りはゴミ袋に入れて裏口に集めておき、処分はアッシュに任せる事にする。
 そこまでやってやっと人心地つき、もう頭上まで持ち上がらない肩をもみほぐして労ってやりつつ、庭に戻ったスマイルは完成したばかりのツリーの前で佇む人影を見つけた。
 寒くないのか、腕まくりしたシャツ姿の背中には深緋色の一対の蝙蝠羽根がぱさぱさと緩い風を起こして絶えず動いている。どこかぼんやりと、見惚れているのか今朝方までとは一転したきらびやかさを放っている樅の木の変わりように言葉も無いようだ。
「ドウ? 凄いでショ」
 腰に手を当て、疲れもそこそこに声をかける。夕暮れが押し迫り薄暗くなり出している空の下、少し早いが電飾のスイッチも入れられて淡い光があちらこちらで控えめに明滅している。赤や青、それ以外の色が交互にランダムに光り輝き、夜闇が空を覆えばさぞかし、幻想的な空間を演出してくれる事だろう。
「ああ、確かに凄いな」
 大変だっただろう、とねぎらいの言葉と共に振り返ったユーリの顔にも若干ながら疲れの色が読み取れる。彼も彼で大変だったのだろう、後から覗いた城内は、ツリーにも負けず劣らず綺麗に装飾がなされていた。華美過ぎず、また控えめすぎない見事な仕上がり具合に、ユーリも自慢げに胸を反り返してくれた。
「アッシュクンは?」
「あっちも、もうじき終わるそうだ。あとは盛りつけだけだと言っていた」
「そっか。なにはともあれ、お疲れサマ」
 まだ本番はこれからなのだけれどね、と膝を折ってその場でしゃがみ込んだスマイルは、頬杖をついてユーリを見上げ笑った。彼も折り曲げていた袖を伸ばし、再び立派なツリーに視線を流す。スマイルも倣って、樅の木へ目を向けた。
 そしてふと、ズボンのポケットに異物を感じて腰を少しだけ浮かせる。忍ばせた指先が固く冷たいものに振れ、取り出せばあの双子の鈴。
 軽く鳴った音に気づき、上を見ていたユーリが足下のスマイルに目を向け直す。
「なんだ?」
「うーん、よく分かんないんだケド」
 目線の高さにやった鈴を揺らし、スマイルが呟く。興味惹かれたユーリも、片足を退いて姿勢を低くする。
 赤い組紐を掴み、ユーリの前で鈴を鳴らしてやってからスマイルは彼に片方を渡した。理由も分からぬまま受け取ったユーリの前で彼はまた鈴を揺らす。
 ちりん、と春の草原を駈ける緑風に似た音色がふたりの間で流れた。
 やおらスマイルは立ち上がり、ユーリにそこに居るよう言って彼から離れていく。十歩ほど行ったところで足を止めて振り返り、顔の前で彼は鈴を揺らした。
 音はしなかった。
「?」
 ユーリもまた手の中の鈴を振ってみた。けれどスマイルが持つ鈴と結果は同じで、しきりに首を捻った彼は何度も、最終的には振り回す勢いで鈴を扱ったが、音はついぞ鳴り響かなかった。
 顔を上げ、紅玉の双眸が遠くに佇むスマイルのしたり顔を思わず睨んだユーリは何故か悔しくて、もう一度二度、鈴を繋ぐ組紐を上下に激しく揺すった。しかし銀の――ユーリの髪色よりも金属の質感が当然ながら強く冷たい感じの鈴は彼の手に跳ね上がるものの、鈴特有の音色は聞こえてこない。
 そうしているうちにスマイルが間近まで戻ってきていて、彼がふっと息を吐くと同時に胸の前で小さな鈴を優しく揺らした。
 ちりん。
「……え」
 ユーリが聞こえた音に驚いた表情を作り、目の前に迫ったスマイルの顔を見つめ返す。スマイルは隻眼を細めて微笑み、再び、鈴を揺らした。ユーリの手に握られる鈴に向かい合うようにして。
 ちりん、ちりん……
 軽やかな音がふたつの鈴の間に響く。ふたつの鈴から、ひとつ分だけの音。漸く気づき、ユーリは空いた手を顎にやって思案気味に、珍しそうに鈴を眺めた。揺れる鈴は短時間離れていただけなのにその離別を悲しみ、また巡り会えた奇跡に感謝しているかのように、嬉しそうな音を奏でている。
「な、ものを見つけたんだ」
 ツリーの飾り付けの途中に、と付け足して説明し、スマイルはユーリから鈴を回収する。もう二度と離れないように、解いていた赤の組紐を結び合わせてやっていると、まだ思索に耽っている表情をしていたユーリがふと、顔を上げてスマイルに言った。
 そういえば、と。
「今年は忙しくて、お前達へのプレゼントは用意できなかったのだが」
「あー、イイよ。期待してなかったし」
 忙しかったのはスマイルも同じだ。なにせ同じバンドで活動しているのだから。しかしリーダー職にあるユーリへの負担はただのしがないベース担当とは違っており、スマイルは彼から何かしらの記念品を貰えるとは最初から思っていなかった。
 さして残念がる様子もなくあっさりと言ってのけたスマイルに、やや不満げに頬を軽く膨らませたユーリだったけれど、スマイルが双子の鈴をポケットにしまおうとするより先に、スッと掌を上にして彼へ右手を差し出した。怪訝そうに細められたスマイルの丹朱色の隻眼へ、幾ばくかの意趣返しも含ませて、
「どうせ貴様も、何も用意できていないのだろう? ならば、その鈴を私に寄越せ」
 今時分、買い物に行く時間が無くても、カタログを広げる程度の余裕があれば十分な通販、という手段もあるというのを考えていないのだろう。ユーリの予想に反して、それなりのものをきちんと、こっそり準備していたスマイルは彼の言葉に一瞬息を詰め、手の中の双子鈴とユーリの顔を見比べてしまった。
「スマイル?」
「あ、聞こえてる。でも、なんで、コレ?」
 彼の口ぶりから想定するに、ユーリは勝手な想像でプレゼントを用意立てていないスマイルからの代理のクリスマスプレゼントとして、ふたつ揃わないと鳴らない鈴を欲している。けれどこんなものを求めて、一体どんな意味があるのだろう。
 分からないと首を捻っていると、理由は良いからとユーリにせっつかれた。
「本当に、こんなのでイイの?」
「ああ、それで良い。……いや、違うな」
 広げられた掌に載る小さな、多くのがらくたに紛れてしまえば永遠に見つけ出せなくなりそうな、心細ささえ感じられる双の鈴を、ユーリは両の手で大事そうにそっと取り上げた。一瞬だけ触れた肌から、温もりが伝わってそして逃げていく。
「これが、いい」
 愛おしむような顔をして鈴を一度胸元に引き寄せて抱き、彼はスマイルによって結ばれたばかりの赤い組紐を解いていった。白い指先は城内の飾り付けをしていた所為か僅かに汚れ、この場所が寒い事も手伝ってか若干赤く染まっていた。
 痛々しさを感じさせる指先の動きを目で追いかけ、彼が何をしたいのかを知ろうとスマイルはあれやこれや、頭の中で考える。けれどこういう時に限ってユーリが何を思っているのかさっぱり分からなくて、その間に彼は紐の端で結び合わされていた鈴を再び引き離した。 
 離ればなれになるのを嫌がってか、鈴がひときわ寂しそうな音をひとつ零す。けれどユーリは構うことなく、組紐の曲がった端をそれぞれの手に持って、右腕を伸ばした。
「これは、お前にやる」
 ちりぃん……
 ユーリの声に、鈴の音が重なる。
 差し出された鈴に、隻眼を見開いたスマイルは反射的に出した手で鈴を受け取って、困った風に小首を傾げさせた。
「ユーリ?」
「お前が持っていろ。こちらは、私が貰っておく」
 ずっと、ずっと、肌身離さず持っていろ。
 命令するのか、願っているのか、切望しているのか。どれでもなく、どれでも当てはまりそうな、感情の混ざり合った声でユーリは僅かに瞳を揺らし、言う。
「何故?」
「さあ、な」
 問いかけても彼は答えをはぐらかし、足の裏で枯れた芝を踏み締め、俯いてから唐突に顔を上げ、空を見上げる。
 澄み渡る空の色は変わらず、ただ陽光は西へ大きく傾ぎ庭に伸びる影は長く細い。冷え込みはこれから日が暮れるに従って厳しさを増すだろう、シャツ一枚という格好を今更に思い出し、ぶるっと身震いしたユーリと困惑を未だ解けないで居るスマイルとの間で、もの悲しい鈴音がした。
 心が引き裂かれるような、そんな痛み、が。
 チクリと胸の奥で疼く感情を、拳を握ることでやり過ごし、ユーリは暖かな屋内に戻ろうと踵を返す。
 大丈夫、大丈夫。
 鈴の音はまた必ず響く。自分が此処にいて、彼が其処に居る限りは。
 そして。
 去りゆくユーリの背中を釈然としない思いで見送っていたスマイルは、自分が吐き出した息の白さに驚きながら疎らな雲と鮮やかな朱色に染まる西の空を振り返った。その頃ユーリもまた彼を振り返り、巨大なクリスマス・ツリーを不釣り合いな夕焼けを背景にしているスマイルの、今にも薄れて消えてしまいそうな姿を見つめてふと、泣きそうに顔を歪めさせていた。
「スマイル」
 夕焼けよりも鮮やかで、濃い色をした瞳を見たくて、ユーリは彼の名前を呼ぶ。応じて彼に向き直ろうとするスマイルに向けて、半分以上無理をした笑顔を作って、
「Merry Christmas , Smile」
 右手に冷たい鈴を握りしめ、叫ぶ。
 一瞬虚を突かれた顔になったスマイルも、数秒後に破顔する。
「Merry Christmas , Yuli !」
 彼らしい笑顔にやっとユーリも頬の緊張を緩めて心から笑顔になり、早く戻って暖まろうと腕を大きく振りかぶらせてスマイルを誘う。ちょうどアッシュが作業に一区切りつけたようで、湯気立つ紅茶のポットとカップを載せた盆を持ちパーティー会場であるリビングに姿を見せていた。
「お疲れ様ッス」
「う~、寒かった」
 綺麗に飾られた室内をぐるりと見回して、凄い、凄いと連発させたアッシュに、ツリーの出来も褒めてくれとスマイルがせっついている。夕焼け空の下で霞んでいた彼の姿は、もう其処に見つけられない。
 ユーリは黙って、掌の鈴を握りしめた。
 ふたつ揃わねば鳴らぬ鈴。
 ならば、いつか君を見失っても。
 鈴の音はきっと、君を、探し出すから。
 見つけ出すから…………