Cool Morning

 ひんやりとした空気が頬を撫でる。風こそ無かったが澄み渡った空の色に吸い込まれそうで、首が痛むのも構わず空ばかり見上げているうちに鼻の奥がむずむずとしてきた。
「くしゅっ!」
 我慢できずに露出する片目を閉じて身体を前屈みにさせる。吐き出した息が遠くに飛んでいくのも見送れず、溜息と共に目を開いて前を向いて、誤魔化し加減に鼻の下を指で擦ってみた。風邪を引いたつもりはないが、早朝の冷え切った空気は肌に優しくないようだ。
 庭に出るには大げさだと思っていた黒のロングコートの前を重ねて身体を丸め込ませ、しかし視線は飽きずに空を追いかける。
「寒いなぁ」
 もう暦は冬なので寒いのは当然の事象だから、今更改まって口に出して述べるべき感想ではないのだろうけれど、それでも言わずにはおられない程の冷え込みだ。少し前まで、昼間の日が照っている時間などは上着無しでも平気だったのに。
 明け方で、まだ日が昇ってからそれほど時間が経過していないからかもしれない。けれどそれだけで説明してしまうには少々厳しすぎる肌寒さに、コートの隙間から忍び込んでくる冷気を堪えつつスマイルは長い時間をかけて息を吐いた。
 そして喉に鋭く突き刺さりそうな空気を吸い込んで、一気に吐き出す。
 薄く白に濁った吐息が現れて、すぐに解けて消えていった。二度三度それを繰り返し、寒い、と再度呟く。
 昨日、遅い時間だったけれど寝入る前に窓からカーテン越しで見た空は星が綺麗で、月も輝いていた。風のない穏やかな夜で、予想通りに今朝も清々しく晴れた空が一面に広がっているのだけれど。
 放射冷却だろうな、と足下の枯れてしまった芝の残骸を見下ろし、心の中で呟いて、彼は、そういえば、と斜め後方を振り返る。庭木に水をやるために蛇口から引かれた水色のホースの先端が突っ込まれた、ホースよりも少し弱い色をしたバケツに張られていた水の表面が薄く凍っていた。
 確認しようと足を戻してバケツを真上からのぞき込むと、薄氷が何枚か水の中に漂っていた。もうじき解けて無くなってしまいそうだけれど、今朝方の気温が摂氏零度まで下がっていた他ならぬ証拠であり、再度見上げた空に白い吐息が幾つも浮かんで行った。
 細かく千切れた雲さえ見あたらない一面の青空は久しぶりで、凛と張りつめた空気は心地がよい。これでもう少々気温が高ければ過ごしやすくて良いのだけれど、と愚痴を言ったところでどうしようもなく、緩く首を振ったスマイルは深呼吸をして朝の澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。
 身体の隅々まで冷気が染み渡り、まだ眠気を残している部分が呼び起こされていく感じがする。どこかぼんやりしていた意識がはっきりして、数回の瞬きを繰り返せばもう気象直後の気怠さはすっかり消え失せていた。
「ん~~~」
 良い天気である事に変わりはない。昼が近づけばこの寒さも少しは和らぐだろう。天気予報で今日は一日晴天が続くと言っていた言葉は嘘では無さそうで、乾燥した大気から雨を感じさせるものは何も受け止められなかった。
 腕を頭上まで持ち上げて大きくのびをし、前後左右に軽く揺すって目を閉ざす。闇の向こう側に感じられる光に安堵して、つい上機嫌に鼻歌が漏れた。
 人気のない庭、そもそも居住者の数が極少の城。アッシュが台所で朝食の支度を開始しているだろう事は、時間帯からして想像がつくがもうひとりの住人、もとい城の主は恐らくまだベッドの中だろう。
 煮詰まっているのかどうなのかは本人に聞いたわけではないので分からないが、最近夜も遅く朝がいつにも増して遅くなっているユーリの部屋をちらりと持ち上げた視線の先で見上げ、窓がしっかり閉められているのを確認し、スマイルは若干口角を持ち上げて笑った。
 どうせだし、折角だし、構わないだろう。
 一度決めてしまえば後は実行あるのみ。ユーリの安眠を邪魔しない程度に一応気を配りつつ、スマイルはお気に入りのヒーローもののテーマソングを口ずさみ始めた。
 最初こそは控えめに、庭を一周する散歩もどきの相方にという程度だったけれど、誰にも邪魔されずに広大な空の下でライブが出来るとあって、次第に握り拳片手に歌声もヒートアップして行くのに本人はまるで気づかない。調子よく、腕を振ってリズムを刻み、必殺技のかけ声には力一杯叫んで。
 台所でフライパン片手に目玉焼きに挑戦中だったアッシュが顔を上げ、目の前の窓から外を伺いスマイルが楽しそうに姿を見つけ、苦笑いともとれる表情で肩を竦めていたのにも当然、気づかない。
 無論、場内のベッドで気持ちよく眠っていたユーリの耳にもその大声が聞こえているという事実にさえ、彼は気づいていなかった。

「ん……」
 どうにも次の楽曲の歌詞が巧くまとまってくれず、悩んでいるうちに時間が過ぎて必然的にベッドに倒れ込む時間も遅くなってしまっていた最近、ユーリは疲れも手伝って眠りが浅くなっていた。
 どちらかといえば昔からそうだったのだけれど、このところは眠っても夢と現の境界線を行ったり来たりしているようなもので、寝返りを打つたびに意識が覚醒に近い場所まで登ってまた沈む繰り返しに近い。
 今も小一時間ほど前に一度目が覚めて、けれど目を開けないまま横になっているうちにまた眠ってしまっていたらしい。薄目をあけ、遠くの壁に微かに見えた時計で現在時刻を朧気に認識したユーリは、自分が眠っていたであろう時間を大まかに計算しようとして出来なかった。
 まだ意識の大部分が眠ったままだ。けれどもう一度眠りに落ちようと身体に働きかけようとしたところで、耳に入ってきた自然界から発生されるものとは大きく異なる騒音に眉根が寄る。
「……なに」
 この不機嫌極まりない調子外れの歌は。
 辛うじて聞き覚えのある歌詞とメロディーに、実に機嫌良く楽しそうに歌っている声。もぞもぞと被っている布団を押しのけて上半身を起こしたユーリは、直後に襲ってきた冷気にぶるりと身体を震わせた。
 剥いだばかりの毛布類を引き寄せて肩から被り、薄手の寝間着という自分の服装に今更気がつく。眠っていたのだから当たり前なのだが、それにしてもこの寒さはどうした事だろう。
 薄日が差し込んでいる窓から外を見て、白いカーテン越しにすっきりと晴れた空に目を細める。再び時計に目をやって、本来ならもう活動時間であってもおかしくない現在時刻に片手で額を覆う。最近寝坊が増えてきていた自分だったから驚きはしないが、こうも連日続くと自分で自分に呆れてしまう。
 誰も怒らないからついつい甘えてしまうのだけれど、今日はもうこれ以上布団に逆戻りする気にはなれなかったので、起きる算段をとろうとユーリは肩にのしかかるずっしりと重い布団の端を掴んでおろそうとした。
 だが、やはり寒い。
 一晩ですっかり冷え込んでしまった室内の空気はユーリをベッドから降りるのを拒否させるに十分過ぎて、彼は決意したもののなかなか達成出来ずに手持ち無沙汰のままもう数分、その場に留まってしまう。外から聞こえてくる歌声はまだ止まず、全シリーズのオープニングを歌い尽くすつもりなのか、一曲終わってもすぐに次の歌が始まるといった具合だった。
「……安眠妨害」
 彼の歌声で目が覚めたのだから文句のひとつでも言ってやって然るべきだろうか。けれど窓を開ければ今よりずっと冷たい空気にさらされる事になるのは間違いなく、暖かな布団にくるまれている今から脱出さえ出来ないでいるユーリが果たして、ベッドを降りてやはり冷たい床を素足のまま進めるのかさえ、かなり疑問。
 素早く視線を床に走らせたユーリは、ベッドサイドに昨夜眠る前に脱ぎ捨てた自分の靴を見つけ、そろりと膝を曲げていた右足をゆっくりと伸ばした。
 白い血の気の乏しい爪先が布団からはみ出し、冷えた床板に触れる直前に手探りならぬ足探りで見つけた革靴に突っ込まれる。ひんやりした感覚が皮膚に突き刺さったが、これしきで悲鳴を上げるのはプライドが許さず、奥歯を噛んで堪えたユーリはもう片方にも同じようにして足を通した。
 足首から入ってくる冷気に骨の芯が痛む感覚がしたが、思い切って立ち上がった。肩から担いだ毛布を一枚だけ引きずってマントのように羽織り、端を前で掴んで落ちないように支えてやると、思ったよりも暖かい。そのままベッドから離れれば毛布の端が床を擦るがまったく気にせず、ユーリは窓を遮っているカーテンを引いてどこまでも澄み渡る青空を改めて視界に納めた。
 施錠を外して観音開きに外側へ開くと、風はなく予想した程冷たい空気は駆け込んでこなかった。だがやはり寒い事に変わりなく、吐く息が一気に白く染まって彼を驚かせた。
 地表から流れてくる歌声もさっきよりもはっきり、大きく聞こえるようになる。身を乗り出して下を覗けば、踊りこそしていないけれど手振りを交えて高らかに歌っている存在の頭が小さく見えた。
「朝っぱらから、迷惑な奴め」
 お陰ですっかり目が覚めてしまったではないか。苦々しく笑ったユーリは傍目から見ればみっともない布団をマントにした今の自分に構わず、窓枠に手を置いて更に前のめりになり、身を乗り出した。
「スマイル!」
 そして、寝起きの頭に少々響きそうな大声で呼びかける。直後、ぱたりと歌声が止んだ。
 ユーリの声に、頭上を振り仰いだスマイルが唖然とした面持ちで口を半開きにさせている。きっと本人は、ユーリが聞いていた事など夢にも思っていなかったのだろう。或いは自分が地上からかなり高度のあるユーリの部屋まで届いていないとでも甘く見ていたのか。
 滅多に見られないスマイルの間抜けな表情に、ユーリは安眠を邪魔された悔しさが少し晴れた気がして表情を緩める。自身の重みで後ろにずれて行きたがる毛布の端を掴み直し、肩まで持ち上げてやろうと膝を折り、窓から身を乗り出した状態で身体を上下に揺すった。
 が。
「あ」
 まだ完全に、目覚めている意識ほど身体は覚醒しきっていなかったようだ。
 毛布がずるりと右側に大きく傾いてずれ落ちて行き、慌てて掴もうと窓から乗り出している身体を支えていた右手を浮かせたのが悪かった。
「ユーリ?」
 下から見上げていたスマイルも、窓辺のユーリがおかしな動きを取ったのに気づく。目を細め小さな姿を必死にとらえつつ、不穏なものを感じて足は自ずと城の壁に向かう。
「うあっ、と……」
 上半身の殆どが窓の外に出た状態で、窓から落ちようとしていた毛布の端を無事捕まえるのに成功し、ユーリ自身も安堵で油断していたところがあったのだろう。例え掴めたとしても、それを屋内に引き戻さない限り重力に引かれ、毛布の大部分は窓から落ちていくという現実にまで頭が回らなかった。
 ずるずるとユーリの肩を乗り越えて落ちていく毛布を掴んだままの右手が、毛布自体の重みに今度は引っ張られる形に変わる。咄嗟に左手が窓枠を掴んだが、完全に手遅れだった。
「ユーリ!?」
 スマイルの悲鳴が矢のように飛んでくるのを、ユーリは我ながら情けない格好だと自嘲気味に笑って聞いた。右手の指先から掴んでいた毛布が一足先にとすり抜けていったけれど、浮き上がってしまった両足が踏ん張りきれる筈もなく、左手一本で身体を支えられるわけもない。
 まだ夢の中に居る感覚が全身を包み込んでいて、ユーリには緊張感や緊迫感といったものが薄皮一枚隔てたところにある気がしてならなかった。地上数十メートルはある高さからの落下で、無事で済むはずがないと分かっているのに理解がそれに追いつかない。
 悲痛な声が聞こえてくるが、馬耳東風が如く身体の両側を流れていくばかりだ。
「――…………」
 ただ、なんとなく、だったけれど。
 たとえ窓から本当に落ちていたとしても、自分はきっと大丈夫だろう、と。
 見上げた空は、どこまでも青くて、澄んでいた。
 衝撃はその直後に、全身――特に背中に襲ってきた。
「っ……!」
 けれど声にならない悲鳴をあげたのは落ちた当のユーリではなかった。
 ひらひらと上から、先に落ちたはずの毛布が風の抵抗を受けて舞い降りて来て、空ばかりを見上げていたユーリの視界を塞いでしまった。顔に直撃したそれを鬱陶しげに追い払い、腰の横に持ち上げた手を戻したら触れたのは地面にしては随分と柔らかな感触。
 目を細めてじっくりと見つめれば、それは他ならぬスマイル本人だった。腹を上にして、ユーリの下敷きになり苦悶の表情を浮かべている。ユーリの固い背骨と肩胛骨の下に存在する蝙蝠羽が肋骨を強かに打ち付けたようで、呼吸困難に陥る寸前になっていた彼の顔色は普段以上に青白く染まっていた。
 慌てて飛び退くと、漸く楽になった呼吸に脂汗を浮かべていたスマイルが低く呻く。
「ったぁ……」
 落下するユーリを受け止めようとして受け止め損ねた彼は、何度も胸を大きく上下させてユーリを少しばかり不安にさせた。けれど数分経たないうちに目覚ましい回復ぶりを発揮してくれ、まだ微かに痛みを残すものの彼は身を起こし、寝間着に素足で革靴という出で立ちのユーリに盛大な溜息をついた。
「なんだ」
「いや……どうせなら、羽根使って自力で降りてきて欲しかったかな、て」
 ユーリの背中には立派な一対の翼がある。自力飛行が可能な、大きな羽根が。
 距離が短くて間に合わなかったとしても、羽根を広げさえすれば空気抵抗でダメージは軽減出来た筈だ。そうなればスマイルだってもっと楽に受け止められただろうし、ここまで痛い思いをせずに済んだ。スマイルは、ユーリが自力で抵抗を試みるくらいはしてくれると思っていたから、何の動きも見せてくれなかった彼を受け止め損ねて下敷きになってしまったのだ。
 全部今更なのだけれど言わずにおられなかったらしいスマイルの苦情に、しかし曲げた膝に肘を置いて頬杖をついていたユーリはあっけらかんと笑って、
「お前が下に居たからな。必要ないだろう?」
 現にこうしてちゃんと受け止めてくれたではないか、と怪我ひとつしていない自分の身体を揺らして言ってのける。スマイルは絶句し、次に言おうとしていた台詞も吹き飛んでしまった。
 片手で頭を押さえ、首を振る。
「それに、お前があんなに大声で歌ってさえいなければ、こんな事にはならなかったのだぞ?」
 そもそもの発端を口に出し、自分は悪くないと胸を反らせるユーリにスマイルは閉口してしまってもう何も喋る気になれなかった。確かにそれはそうかもしれないが、と、今頃になって自分が羽目を外して大声で歌っていた現実に思い至り反省しきり。
「……しゅっ!」
 俯いてのの字でも書こうかとしていたら、目の前でくしゃみが聞こえた。視線を持ち上げるとユーリが鼻の下を指で擦っていて、小首を傾げていたら目が合った。
 冬の朝、寝間着一枚で屋外、空の下。
「寒いぞ」
 当たり前だろう、とスマイルが言ってやろうとしていたところで、ユーリの両手が問答無用でスマイルの胸倉を掴んだ。
 いや、正しくは彼の来ていたロングコートを。
「スマイル、万歳」
「え? あ、はい」
 命令口調で早口に告げられ、理由も意味も分からず、けれど反射的に従ってしまったスマイルが両手を頭上にまっすぐ伸ばす。黒色が彼の視界を走り抜け、そして消えた。
 冷たい空気が一瞬後、スマイルの全身を包み込んで針のむしろに飛び込んだ錯覚が彼を襲った。対するユーリは、今し方スマイルから抜き取った黒のロングコートを肩から被り袖を通して膝の下までを完全に包み込む。
「うむ、暖かい」
「いやそうじゃなくってー!」
 満足げに呟かれた一言にスマイルは絶叫するが、ハイネックのセーターを着ている分まだ寝間着姿のユーリよりは暖かい筈の自分に彼は視線を泳がせた。両手で身体を抱きしめ、なんとか寒さを和らげようと掌を擦り合わせたりして努力するが、あまり効果は現れてくれなかった。
「ユーリ」
「…………」
「ユーリ?」
 気がつけば、ユーリは下を向いて動かない。不審に思って顔を近づけると、実に整った寝息が微かに聞こえてきた。
 さすがのスマイルも絶句し、この状況で眠ってしまえるユーリに呆れを隠せない。
 だがそれだけ、彼も疲れているのだろう。頑張れば頑張るほど根を詰めすぎるリーダーの姿に肩を竦め、もう少し自分たちを頼ってくれても良いのに、と自分にもたれかかってきたユーリを抱き上げスマイルは立ち上がった。
 驚くほどに軽い身体に、むず痒い感情が呼び起こされる。この細い身体をもっとちゃんと、倒れないように支えられるようになれたら良いのに、と一瞬だけ泣きたい気持ちが浮かんできてスマイルはごまかすように空を仰いだ。
 冬の空は、相変わらず澄み渡って静かだった。