a Day

 夜半過ぎまで降っていたらしい雨は、明け方には止んだらしい。まだ少し濡れている地面を蹴り飛ばし、早朝の冷えた空気の中、スマイルは薄く靄が立ちこめている空を見上げて息を吐いた。
 雨に洗われた空気が思いの外気持ちよくて、気がつけばただの散歩が随分と遠くまで足を伸ばしてしまっていたらしい。いつもの朝食の時間には間に合わないだろうな、とまだシャッターが閉じられている店舗の前を早足で通り過ぎながら、時々聞こえてくる住人の生活音を耳にして思う。
 それも次第に人気が薄れ、住宅地を抜けて静かな空間を突き抜けたあとは、もう見渡す限りの森が両脇に広がるようになって、その間を突き抜ける一本道は太陽の光も遠く朝の時間帯であってもかなり薄暗い。昼間でもなお暗い道を、ひとり寂しく歩くのは多少気が滅入るという物であり、スマイルの足取りも徐々に、本人も意識していないままに駆け足に近いものに変わっていく。
 両側の森が不意に途切れ、長い年月を経て踏み固められた道が僅かながらのうねりを持ち、唐突に現れた原野とも呼べる何もない空間に突如として現れるところで、スマイルの足取りがやや緩まる。右手には一度途切れた森がまた別の空間となって地平線まで埋め尽くしている。黒々とした様相はどの時間帯でも姿が変わる事はない。あれは、死者が集う森なのだ。
 道の続いていない方角にしばし見入った後、スマイルは数度の深呼吸を繰り返してから今彼が立っている道が続く先に目を向けた。隻眼を細め、辛うじて陽光が東側から差し込んでいる一帯を見やる。
 段々の雲の隙間から差し込む無数の光の筋に照らされ、何もない空間――荒れ果てた荒野に突きだした崖の上にそびえ立つ古城がシルエットを浮かび上がらせている。ある種幻想的であり、そして言いしれぬ恐怖を抱かせる姿に改めて息を呑み、スマイルは隻眼の不自由な視界の中にその様を刻み込ませる。
 習慣的に時計を持ち歩かない為、現在時刻が分からない。だが現在の季節と太陽の高さと方角から類推するに、午前八時をやや通り越したばかりだろうか。もしかしたら、もっと遅いかもしれない。
 どちらにせよ、規則正しい生活を心がけているアッシュからしてみれば、朝食の時間には大遅刻だ。心優しい彼だから、きっとスマイルの分はより分けて残してくれているだろうが、果たしてどうだろう。ユーリの好物が揃えられているメニューだったなら、結果は分からない。
「遠出し過ぎたネ」
 自分に向かって舌を出して呟き、安めていた足に元気を送り込んでまだ当分辿り着けそうに無い城までのなだらかな坂道を上り始める。坂の中腹には背の低い外壁が崖の端まで続いていて、合計すると門は三つ通過せねばならない。そのいちいちはいずれも固く閉ざされている為、開けるのも一苦労だしそれぞれが独自に意志めいたものを所有しているものだから、余計に始末が悪い。
 部外者や好まざる存在を駆逐するにはもってこいだが、スマイルまで追い出そうとする時があって、それはそれで困りもの。いったいどういう基準で通行を許可する人を選んでいるのか、一度聞けるものなら聞いてみたいものである。
 今日は、幸いにも門はご機嫌なようで二つ目までは無事に何事もなくクリア出来た。
 雨が降っていたからか、今日の空は雲が多い。千切れた綿雲が、羊の群れのように連なって西から東の空を埋め尽くしているのが見上げられる。顎を仰け反らせて顔をやや上向きにさせながらぼんやりと歩いているうちに、最後の門が見えてきて、しかも直ぐに気付かず危うく正面衝突してしまうところだった。
 慌てて出した爪先を引っ込め、背が低いとは言ってもスマイルの身長よりは遙かに背高の城門を見上げる。切り出した立方体の石を積み上げて頑強に組まれたそれは、ちょっとやそっとの衝撃では壊せそうにない。門も、長年の風雨に絶えて老朽化など程遠い姿で構えている。
「開けて~」
 小首を傾げながら語りかけるが、門はぴくりとも動かない。
 大体そうだ、他のふたつの門は楽に通り過ぎられるのだけれどこの門だけが、最後の砦宜しくスマイルの行く手を封じてくれる。アッシュも偶に通行禁止を言い渡されてしまって、冷凍食品が溶けてしまうまでの時間と競争しながら城まで駆け足を強いられていた。
「……開けてクダサイ」
 姿勢を正して語りかけても、門は微動だにせず。スマイルはどうしたものか、と頭を掻いた。
 出ていく時は語りかける前から人ひとり分の隙間が空いていて、素通りだった。しかし誰かが閉めたわけでもないのに戻る時には、門は固く閉ざされている。試しに手で押してみたが、思った通り接着剤で固定されている以上に堅固に閉じられていて動かなかった。
 これでは城に帰れない。朝食にもありつけないし、昼から予定されているミーティングと音合わせのセッションにも参加できない。そうなったら、困るのはスマイルだけではなく同じバンドを組む他の面々、特にリーダーであるユーリの責任は甚大なものになるだろうに。
 わざとらしく声に出して呟いて、開かない門の前で右往左往してみせる。城主であるユーリには極端なまでに甘い門の妖精は、暫く沈黙した後控えめにスマイルひとりが身を捻らせて漸く通り抜けられるかどうか、という隙間を作り出した。古い木が軋む音を響かせ、スマイルが城門を越えると同時に、門は再び固く閉ざされる。
 もっとも、スマイルは透明人間で壁抜けも出来てしまうから、わざわざ正面から行かなくても帰れる事は帰れるのだ。けれど毎回、律儀に道を通って門を抜けるのは、毎度繰り返される門との一方的なことばのやりとりを楽しんでいるからかもしれない。
 物言わぬ、その場から動けぬ門をからかって楽しむのは傍から見れば滑稽で、意地が悪いものに思われるかもしれない。
「でも、ま、それだけあのコタチもユーリが大事って事でショ」
 三番目の門を抜ければ、城までは一直線だ。道は緑の草で周囲を覆われ、季節の花が秘やかに咲き乱れている。残っている道のりを一気に駆け上って、スマイルはしかし、正面玄関であるやはり巨大な観音開きの扉の前を素通りした。
 食堂へはそちらから入るより、リビングに面している庭の窓から入った方が近いからだ。広い城の正面を回り込み、芝が一面を覆う庭に足を踏み込ませる。
 背の高い並木が庭と森との境界線に立ち並んでいる手前、夏場には隆盛を誇った芝も綺麗に刈り揃えられ、すっかり小さくなってしまっていた。部分的に色がくすみ、枯れ始めているものも混じっている。冬が近付くに連れて、その範囲は広がっていく事だろう。
 だが案ずることはない。冬を越えて春が巡れば、再び根は元気付き濃い緑を空目指して伸ばしていく筈だ。
「あ、みっけ」
 城の角から庭を覗き込んだスマイルは、狭い視界に小さく、慌ただしく動き回る姿を見つけ出した。目を凝らさなくてもそれが誰だかは分かる。ユーリがあんな風にちょこまかと働いているわけがない。消去法から行っても、アッシュしか居ない。
 彼はスマイルの存在にまるで気付く様子なく、頻りに空の様子を気にして何度と無く上を見上げていた。ちょうど彼の前には裸の物干し竿が三連になって居並んでいるから、一度は止んだ雨が戻って来やしないかと危惧しているものと思われる。
 スマイルも気勢の失われつつある芝を踏みしめて歩き出し、腰の後ろで両手を結んで上空を仰ぐ。細切れの雲はゆっくりと風に押し流されて東へ向かっており、西側を見れば水色よりも薄い色をした空が雲間から覗いていた。
「オハヨ」
 湿った洗濯物を詰め込んだ籠を両手に抱きかかえ、まだ思案顔をしているアッシュの後ろに素早く回り込んで呼びかける。案の定彼は驚いてくれて、抱えていた洗濯籠を放り出す寸前まで飛び上がって仰け反ってくれた。
 ケラケラと声を立てて笑い、スマイルは心臓をばくばく言わせているアッシュを指さして腹を抱える。気配を殺すのが得意なスマイルに後ろを取られるのはいつものアッシュも、心臓に悪いから止めて欲しいと恨み言を呟いてその場でしゃがみ込んだ。飛ばしてしまった籠の一番上に載せていた服を広い、土に汚れたそれを広げる。アッシュのTシャツだった。
「スマイル~~?」
「ゴメンゴメン」
 また洗い直しではないかと、目尻をつり上げて、しかしさほど怖くない怒り顔を浮かべたアッシュに詰め寄られても、スマイルはまだ当分笑い止みそうになくて、先にアッシュが疲れて折れる。シュンと肩を落として、Tシャツを他の洗濯物とは別の籠に放り投げた。
「あ~……だから、ゴメンって。お詫びに、良いこと教えたげるからサ」
 だが見るからに大柄の男が両肩を落として項垂れている姿は想像以上に不釣り合いで、失礼ながら気持ち悪いと思えてしまう。苦笑して肩を竦めたスマイルは、力づけるつもりで彼の落ちた肩を叩いた。
 それでも今まで散々酷い目に遭わされ、また騙されてきているだけに、アッシュがスマイルに向ける目は疑心に満ちている。
「……傷つくなァ」
 今回は嘘じゃないのに、と唇を尖らせて反論を試みた彼に、アッシュはどうだか、と鼻を鳴らした。
 庭に陽光を浴びた物干し竿の影が伸びる。足下のそれを爪先でなぞり、スマイルは羊雲が埋め尽くす空を指さした。立てた人差し指で、少しずつ広がっている雲間の色をアッシュに示す。
 空色の絵の具を更に白色で薄めたような色が、西から広がりつつあった。雲の色は漂白されたシーツのように白く、厚みがそれほど無いのか陰影の灰色に乏しい。風の流れに従って東を目指す雲は高く、雨を呼ぶ雷雲とは程遠い姿をしているのを、ひとつずつ説明していく。
 秋の空は高い。雨上がりで汚れが落ちた風は冷たく、澄んでいて気持ちがよい。
「ぼくの朝ご飯、残してくれてル?」
「それは、はい」
 雨音が聞こえなくなったと同時に目が覚めた。まだ薄暗い世界で、靄が立ちこめる幻想的な光景に目を奪われた。水たまりが消えて無くなるまでの僅かな時間を楽しみたくて、外に出た。
 雨上がりの町並みを眺めるのが存外に面白くて、ついついあちこちに目を奪われている間に考えていた以上の時間が過ぎ去っていた。予定しなかったコースにはみ出てしまった自分に気付いたけれど、最初から決められたコースなど何処にも在りはしないと思い直して、ゆっくりと帰ってきた。
 閉じられた城門をあれやこれや、試行錯誤を繰り返して通して貰う楽しみも忘れなかった。直線ではない道のりをのらりくらり、登るのは好きだ。
「今日は晴れるヨ」
 自信を持って、スマイルが断言する。聞いていたアッシュは、唐突に切り替えられた会話から再びもとの話題に強引に戻された現実に面食らい、数回瞬きを繰り返す。きょとんとした顔で彼を見返し、またスマイルの失笑を買った。
「西の空、明るいでショ。地上はそうでもなくても、上空は結構強い風が吹いているみたいだし。雨雲は、完全に東へ逃げたと思うよ」
「それは……分かってるっス」
 一体スマイルは何を言っているのだろうか。そう言いたげな顔をしたアッシュに、え、と今度はスマイルの側が拍子抜けした表情を作ってしまった。空に向けていた腕を肘で曲げて引き寄せ、僅かに自分よりも上の位置にあるアッシュの顔を見つめ返す。
 彼もまた困惑気味に、頬を掻いて、それからふーっと長い息を吐いた。
「えっと、スマイルは……何の話をしてるっスか?」
 どうやら根本的なところでお互いの間にずれが存在していたようだ。まずそこから訂正していかないと、どんどん話が変な方向へ流れていって余計に分からなくなってしまいかねない。
 アッシュの台詞に、スマイルは腕を完全に降ろして首を傾げた。
 頻りに空を見上げていた彼を遠くから見たスマイルは、てっきり彼が洗濯物を干すのに空模様を気にしているものだと思い込んだ。だがひょっとして、この時点で誤解が生じていたのであれば、どうだ。スマイルの思いこみは間違いで、アッシュが空を見上げていた真意が別にあるのだとしたら。
 会話が絡まないのも、無理無い。
「えー……っと。アッシュクン、さっき、空……」
「ああ、彼処の木に巣が出来たみたいで、鳥が何度も飛んでくるのが見えたから、洗濯物を汚されないかなって思ってたんスけど」
 言って、アッシュは物干し竿が並ぶ一角からほど近い木を指さした。言われてみれば確かに、中型の鳥が巣を作っていた。時々こちらの様子を窺って、鋭い眼光を向けてくる。
「巣を移動させてやった方が良いかな、って考えてたんス、けど……あれ? スマイル?」
 うっかり勘違い爆発。スマイルは自分の浅薄さを恨みたくなって、その場で膝を折って頭を抱え込んだ。訳の分からないアッシュだけが、スマイルの変化について行けず狼狽えている。
 今度からは相手が何を考えているかを確かめてから話題を振るようにしよう、そう数秒後には破り捨てられそうな誓いを立て、スマイルは知れず赤くなった頬を両手で叩いた。
 薄めた水色だった空が、少しずつ色を濃くしている。雲が途切れ、西は一面の青空に切り替えられつつあった。
 ユーリの城の庭に巣を張った鳥が、一際高い声をあげて翼を広げた。風が吹き、力強く羽ばたいた鳥が数秒後には首が痛くなりそうな程に高い空まで登ってしまった。
 止まっていた時間が、動き始める。
「スマイル、洗濯物干すの、手伝ってくれないっスか?」
 昨日の雨で乾かなかった分も、今日は庭に出して太陽熱で乾かしきってしまうのだとアッシュは小さく笑って教えてくれた。依然膝を抱えて蹲っていたスマイルも、顔だけを上げて面倒くさそうに彼を見返す。
「えー?」
「雨、もう降らないんスよね?」
 声の調子で嫌だと伝わっても、アッシュは簡単に諦めてくれなかった。スマイルが忘れたがっている話題を掘り返してきて、彼の表情に苦虫をかみつぶした色を浮かべさせる。
「一仕事した後のご飯は、倍美味しいっスよ?」
 立って、と促しアッシュは置いていた籠を両手で抱えるとスマイルに押しつけて来た。渋々立ち上がった彼は、拒みきれなかった籠を胸の前で受け止める。水の匂いが鼻腔を掠めた。
 雨で濡れていた物干し竿の表面を雑巾で軽く拭き取って、アッシュはスマイルに持たせた籠から山の一角を崩して皺だらけのシャツを引き抜く。それを丁寧に両手で広げ、軽く皺を伸ばし、竿に並べていく。
 こなれた手付きはスマイルも目を見張って、彼の動きに押される格好で少しずつ竿の前を移動する。ものの五分としないうちに、何もなかった物干し竿が濡れた洗濯物でいっぱいになった。
 並び順をちゃんと計算に入れているのか、アッシュの手を離れた洗濯物はひとつの大きなオブジェのパーツを形成して、均等に太陽光を浴びるように整えられる。籠が軽くなるに従って綺麗に干されていく洗濯物を眺め、スマイルは感嘆の息を漏らした。
 普段何気なくやっているように思われたものでも、実は熟練の技術が必要なものは世の中沢山存在している。自分ではこうは出来ないな、と素直に感心してスマイルは心の中で、アッシュの評価を若干持ち上げてやろう、と決めた。
「これが終わったら、コーヒー煎れるっス。そしたら、今日何処まで行ってきたかとか、教えて下さいっスね」
 あとシャツ数枚を残すだけになった洗濯籠の底を見下ろしたスマイルの後頭部に、アッシュの声がぶつかる。
「ん~、どうしよっかナ~」
 取り立てて面白いものを見たわけでもないし、特別素敵な場所を訪れてきたわけではない。気が向くまま、足が赴くままに歩き回ってきただけで、だからここで勿体ぶってやる必要性は何処にも無いのだけれど。
 なんとなく素直に教えてやるのも惜しい気がして、首を揺らしながらスマイルはケタケタと笑った。
「なんでっスか、教えてくれても良いじゃないっスか」
「でもネ~、アッシュクンだしネ~」
「どういう意味っスか、それ!」
「どういう意味だろうネ~?」
 カラカラと喉を鳴らして笑う。最後の洗濯物を干し終えたアッシュが、スマイルから空っぽの籠を奪い返してその縁で彼の頭をやや荒っぽく小突いた。思わず仰け反ってしまった彼が、恨みがましい目でアッシュを睨むがそれより早く、彼の狼男はすたすたと歩き出しており、慌てたスマイルが背中を追いかけて走る。
「置いて行かないでよね!」 
 両手を振り上げ、叫びながらスマイルはアッシュの背中にタックル。
 赤い籠が、澄み渡る青空に舞った。

 今日もまた、特別何も無い今日がやってくる。
 けれどそれは、いつの日か特別になるかもしれない、そんな、一日。