日差しが眩しい。なだらかな坂道を登りながら、自然上向く視線の先に燦々と輝く太陽を見つけ、口許が無意識にきつく結ばれていく。だがじきに持ちこたえられなくなって力も弛み、広げられた唇の隙間からこぼれ落ちるのは、熱を孕んだ溜息だ。
「暑い、ネ……」
独り言を呟き、額に手を翳す。日差しから隻眼を庇い、ついでとばかりに浮かんでいた大粒の汗を指先に弾かせた。
目指す場所はもうじきで、あと数歩坂を上りさえすれば狭い視界でも見つけられる筈。怠さを訴える腕を下ろし、手首から先を何度か前後に大きく揺すって、再度空を仰いだ。
鳥が、翼をいっぱいに広げて滑空する影が日差しの傍らを過ぎった。瞳を細めその様を小さくなるまで見送り、巡らせた視線を戻してまた溜息が零れた。
あつい、と口に出す。そうしたら余計に暑さを感じるのはよく言われている事だが、あながち嘘じゃないなと今度は首筋を拭って休めていた足を動かし出した。
ズボンと肌との擦れ合う熱が、生温い空気を間に発生させて気持ち悪さも甚だしい。何故こんな服装を選んでしまったのかと、出かける前の自分を思い出し恨めしく思いもするが、それも今更だ。ここで脱ぎ捨ててトップレスを気取っても、恐らく見咎める存在は無いだろうが、そこまで開放的な気分にもなれない。
数度目、溜息。重い足取りを交互に事務的に繰り返し、漸く到達した丘陵の頂。
「あー……」
疲れた、と背を屈めて膝に手を置く。噴き出た汗が幾つか、足下の土に染みこんでいくのを見送った。
「っつい」
長く吐きだした息の最後で、少しだけ勢いを取り戻して姿勢を直した。真っ直ぐに身体を伸ばし、広く枝を四方へ伸ばしている、それほど背は高くないが緑の葉をいっぱいに茂らせている古木を見据える。
深く根を下ろし、いつからこの場所に聳えていたのか、誰も知らない、恐らく古木自身さえも覚えていない年月を過ごしているだろう樹下に、けれど。
「…………」
地表に盛り上がり、また沈んでいる濃い色をした太い根の間に身体を小さくして、まるで守られるように座っている存在があった。この暑い中、身体を丸め、照りつける日差しを避けて幹に頭を寄せている。
ノースリーブの黒いワンピース、肩で切りそろえられた艶のある黒髪。今は閉ざされているが、深海の色よりも濃く黒真珠よりも鮮やかな色をした双眸と、夏の日差しを浴びて一層際立つ白さを秘めた、絹織りの肌。
「おや、まぁ」
なにもこんな天気の日に、外で昼寝をしなくて良いものを。
踏みしめた柔らかな草は、倒れる時己の身体を互いに擦れ合わせるけれども、音はさほど大きくない。ここのところ晴天続きで、多少潤いに欠けるのか、乾燥した感じは受けるが床を歩くとは格段に違う、柔らかな感触を足裏で感じ取り、古樹へと歩み寄る。
息を殺して気配を断ち、片腕を伸ばして木の幹に置いた。穏やかに眠る少女を真上から覗き込む。
高い位置から下ろした視線では、自分の影が邪魔をして少女の表情は読み取りづらい。だがとても心地よさそうに、夏場の昼、この茹だる暑さも苦にならないのか、とても平和な寝顔を浮かべているのだけは伝わってくる。
警戒感の欠片も無い寝姿に、先程までとは別の溜息が溢れ出た。身体を支えるつっかえ棒にしていた腕を戻し、膝を揃えて曲げてその場に屈んでみた。
距離が狭まり、寝息さえ聞こえてきそうだった。とても起こしてやるには申し訳ない、熟睡ぶりである。こんなにも近い場所に他人が在るというのに、少しも目覚める素振りが見られない。
日差しは四方に広がる枝が遮ってくれている。木立の影は遮蔽物がひとつもない緑の丘と比較しても、汗が退く程度には涼しい。木漏れ日を揺らす風も、随時とは行かないが適度に吹き付けていて、熱を浚い取って去っていく。
とはいえ、やはり屋外。冷房完備のコンクリートの箱とは違い、自然がもたらしてくれる涼しさにも限度はある。実際、眠っている少女の鼻筋にも小さな汗が粒を浮かべ、時々深く息を吐き出している。
だからなにも、こんな日にこんな場所で昼寝をしなくても良いだろうに。
腰を落とし、座り直してその場で胡座をかいた。膝に肘を置いて、だが頬杖をつくのは肌を触れあわせた場所から汗が噴き出てくるだろうと思い直し、結局両手は腰の後ろ、乾いた草の上に置かれた。
首から力を抜いて、だらりと背中側に落とす。天頂を向いた隻眼に、流れていく雲に時折遮られた光の粒子が容赦知らずで降り落とされる。
夏、だ。
文句なく、暦の上も間違いなく、夏、だ。
「暑いなぁ……」
だのに、目の前ではそんな暑さをものともせず、すやすやと眠る少女の横顔。時折陰りを浮かべ、けれどまだ幸せそうに、眠っている。
「暑そうなんだけどなぁ……」
結局無意識のうちに頬杖をついてしまっていて、思い出した時にはもう遅い。汗で若干湿る掌に音のない舌打ちをして、首を回し、片腕を伸ばした。
何気なく、気紛れに少女の露出する肩の上に翳して五指を広げてみる。そこから熱気が発生しているわけでは決してないのだが、急激に接近した他者の気配を敏感に察したのか、彼女は表情を歪め、ぐずった。
まだ目覚めない。だけれどある一定の範囲内には鋭敏な反応を返す様子に、瞳は自ずと細くなる。
余程深い眠りのようだ、昼の休息にしてはやや大袈裟なくらいに。
「ま、夜は確かに寝苦しいケドね」
腕を引き戻し、呟く。口に出してから、まるで自分に対して言い訳しているような気がして、ムッとなった。
迫っていた気配が去ると、少女はまたあの穏やかな表情を取り戻す。もう一度試してやろうかという、意地悪い考えが全く脳裏に浮かばなかったわけではないが、実行する気力はもう残っていなかった。
どうせ結果は違わないだろう。そしてより警戒心を呼び起こした少女は、眠りの世界から引きずり出される。
短絡的な逃避方法だが、この年代の少女には、察するに余りある数多の事があるのだろう。そっとしておいてやるのが、大人がしてやれる、せめてもの手助けだ。
自分から助けを求めて来ない限り、直接手は下さない。時と場合に因るだろうが、多くの問題は自分の力で解決しなければ根本的に、何も変わったりはしない。助言はしてやれるだろう、けれど最終的に決めるのは本人であらねばならない。
「……あついなぁ」
額の汗を拭い、呟く。地面に下ろした片手に乾ききった草が絡んだ。手繰り寄せて掴めば、簡単に千切れてしまう。
重さも感じさせない緑色を、軽く肘まで持ち上げて放つ。風に誘われるがまま、それは少しの距離を舞って、羽根よりも無骨な動きをしながら落ちていった。
「暑い、よね」
さっきからそればかりを口にしている。けれどその回数ほど、自分がいつの間にか暑さを感じていないのにも気付いている。
やはり迷信だったのだと、不覚にも笑みが零れた。
少女の横顔へ、改めて視線を落とす。袖無しで、それなりに薄い布地を使っているようだが、色からして夏に向いているとは到底言えない服装を、不躾にならない程度に見つめ直した。
波立っている裾部分から覗く、細い足首にはどこかで切ったのか、細い筋が赤く走っていた。傷の場所や具合からして、草の仕業だろ。紙と一緒で、普段はまるでそんな素振りも無いくせに、時々思いがけない攻撃を仕掛けて鋭利な傷を残してくれる輩だ。
撫でてやりたいところだが、さっきの様子を思い出して踏みとどまる。それに、傷自体も酷くないし、血だって止まっている。傷跡は残るまい。
ああ、けれど。
いつも何処か儚げに、遠くの空ばかりを何かも分からないなにかを求めて眺めている姿からは繋がり辛かったけれど。
この子だって、ちゃんと生きているわけだ。自分と違って。
ややシニカルに笑って、腰を浮かせる。
自分の特等席は先客に占領されてしまっている上、古木も彼女の方が良いらしい。角度を変える太陽の向きに関わらず、安定した影を供給させている樹木の幹を小突いて、そのまま後ろ向きに数歩進んだ。
日差しが、身体を包み込む。
決して優しくは無い夏の照りつけに、隻眼を細め、閉ざす。
呼応するようにして、彼の身体は空に溶けていく。
空の色に染まっていく。
やがて。
一陣の風が吹き、すべては泡沫の夢と消えた。
夏の日差しが照りつけている。
「ん……」
もぞ、と身体を動かすと狭い場所に身体を丸めて押し込めている為、身動きが取りづらくあちこちが堅いものにぶつかった。
それでもなんとか上半身を起こし、まだ半分眠ったままの目を交互に擦った。指の背で瞼を痛まぬ程度に撫で、小さく欠伸を噛み殺し、もう一度瞼を擦って完全に眠気を頭から追い出した。
だが不自然な体勢で長い間横になっていたからだろう、節々が痛みを訴え、また凝り固まっている部分が動くたびに不気味な音を響かせる。
だが、少なくとも五体満足のままでいるようだ。
広げた両手を見下ろし、引き寄せた時に微かな痛みを発した右足と揃えて両足首をスカートの先から見つめる。
まだ、この身体はここにあって、繋がっていて、動いている。
喜ばしいことであり、残念でもあって、曖昧な吐息をその場で落とし、先程感じた痛みの発生源を探して右足を捻ってみた。
踝の斜め下辺りに、うっすらと赤い筋が出来ていた。傷口は浅く、血も完全に固まっていて、既に塞がりかけている。
けれどどこで傷を作ったのか、まるで心当たりが無くて首を捻った。
ふぁさり、と。
その時、予期せぬ物音が耳元間近で聞こえて、微量の風を渦巻かせながらなにかが、傍らに置いた手の上に落ちていった。
驚き、そしてそのものを見て目を見張った。
多分、眠っている時に頭の上に被せられたのであろう。そして起きあがった時にも気付かぬまま、暫く被ったままでいたらしい。落として初めて、その存在に気付いた。
それほどの存在が希薄で、軽く、自然なもの。
「誰……」
自分が持ち込んだものでは無い。見た覚えさえ無い。
手に取ってみると、その軽さが分かる。丸く膨らんだクラウン部分を軽く握った拳で叩いて凹ませ、裏側から押して形を直し、淡いピンク色をしたリボンを指で弄る。
真新しい、麦わら帽子。
こんなものを自分に贈りつけてくる存在は、幾つか思いつくがどれも違うような気がする。そもそも、自分が此処にいる事を知る存在は皆無に近いのに。
けれど誰かがこれを置いていったのは確かで、間違いない。他に誰もいないこの場所で、自分以外の誰かに贈られた帽子だと考えるのにも、無理がある。
それでも、理由が無い。
「……でも」
誰か、居た。
そんな気がする。
確信を抱く程に強いものではないけれど、誰かが、傍に、居た。
誰が?
帽子を胸の前で持ち、立ち上がった。急に動いた所為で、貧血に似た立ち眩みが一瞬だけ全身を襲って、膝が弛み、力が抜ける。
そんな時に限って、一際強い風が吹き付ける。
「あっ」
悪戯妖精が引き起こした突風は、切り揃えた前髪を激しく揺さぶった。スカートの裾が捲れあがり、浚われそうになって慌てて両手を下ろして押さえ込む。
帽子、が。
一瞬の虚を突かれ、持つ手の意識を他に向けた途端、風は誰のものかも分からない麦わら帽子を奪い去った。まるでそれが、自分のものだと主張しているようで、風に巻き上げられ空に流されていく帽子の行方を目で追い、何故か哀しい気分に晒された。
あれは自分のものだと、決まったわけではないのに。
木立が枝を揺らし、葉が擦れ合って音を立てる。流れていく風に、何処へ向かうのかも分からない麦わら帽子の色だけがぽつんと異質で。
緑の中に在る、黒い自分が重なる。
視線を逸らし、俯いた。握った拳を胸に押し当てて、言い表す術の無い感情を持て余したまま唇を噛んだ。
しかし。
ふぁさっ、と。
「ちゃんと、捕まえておかないとダメでショ」
黒髪の毛先を浮かせる、頭の上へのささやかな衝動。同時に降ってくる、からかう声。
え、と顔を上げた先、逆光に目を細めた世界でシルエットだけになった姿が浮かび上がる。
逆さまに被せられてしまった所為で、ツバの先から垂れ落ちるピンク色のリボンが見える。こんな服装で、似合う筈が無いのにと、向きを直して心の中で笑った。
「うん、やっぱり似合うヨ」
だのに彼は満足そうに、顎に手をやって何度も頷いている。そんなわけないよ、と小さな声で呟いてみたけれど、囁き声は風に流されて消えていった。
「何か言った?」
片方だけの視線を向けてきた彼に、うぅん、と首を振って、ツバをやや前に倒す。そうしたら、ちょうど彼の視線から顔が隠れて、ほんの少し赤くなっているのもばれずに済むから。
遠くへ行ってしまった筈の麦わら帽子。
今はこんなにも近くにある。
空の中に浮かんだ、ひとつだけ違う色。
それさえも似合うと、当たり前のように言ってしまう人がいる。
気付かない間も、傍にいてくれた。
それが素直に、嬉しいから。
「暑いねぇ」
そんな事無いよ、と言ったら、そうかな? と首を傾げていたけれど。
どうしてか、は言わない。
口に出したら全部が嘘になる。だから胸の中で、大事に抱きしめる。
「夏、だねぇ……」
うん、と頷いて太陽を見上げた。
今夜なら、少しは眠れそうな気がした。