Somehow

 かたかたと、薄っぺらなキーボードを叩く指先がふとした瞬間に停止する。
「ん~……」
 眉間に皺寄せ一瞬考え込んでから、宙で制止させていた指先をまた規則正しく動かして四角形の液晶モニタに文字を打ち込んでいく。
 時々消しては、また書き連ね。殆どバックスペースキーを使わずに打ち込んでいく様は手慣れていて、どこかぼんやりとした視線を彷徨わせている先は手元でも、またモニタでも無かった。
 ただ、遠くを。
 或いは、近すぎる記憶の反芻を、か。
 止まってはまた動く一連の所作を連綿と滞ることなく続けていくうちに、いつしか斜め前方の窓は白みだし、僅かな光を床に投げ放つような時間帯になっていた。緩慢な仕草で頭上を仰ぎ、棚の上にある置き時計を眺めればもう、夜明けも過ぎた頃。
「どうりで……」
 眠いわけだ、と小さく欠伸を噛み殺して目尻を擦る。思えば一睡もしていない夜が知らない間に開けてしまっていて、何故だか時間を無駄にしてしまった気分に陥りそうになった。
 だが御陰で、なんとか間に合いそうだ。
「保存、と」
 キー操作だけでファイルの保存を選択し、画面を消して電源を落とす。ぱたんをモニタの上辺に指をかけて前に倒せば、ノートサイズのパソコンが机にこぢんまりと身体を丸めた。コンセントに差していたケーブルも引き抜いて軽く丸め、傍に置いて椅子を引く。
 立ち上がるついでに、両腕を頭上にやって大きく伸びを。
 同じ姿勢で長時間座っていたものだから、身体の節々が凝り固まって痛みを発している。そのひとつひとつを揉みほぐしてやる余裕はなくて、大雑把に身体を前後左右に揺すって骨を鳴らし、もう一度、今度は大きな欠伸をしてこの場から踵を返した。
 意識すると眠気が襲ってくるから、なるべく考えないようにしつつ部屋を出て、廊下に足を踏み出す。夜明けを迎えているとはいえ、活動している人間はまだごく僅かな時間である。もとより人の殆ど居ない城内は静まり返っていて、冷たい空気が充ち満ちていた。
「雨、止んだんだ」
 そういえば、と窓から差し込んでいた仄かな光を思い起こして呟く。梅雨に入り、連日続いていた雨空が一旦休暇を申請したようで、まだ確かめたわけではないが空は久方ぶりの晴れ間が覗いているに違いない。
 想像して、大した事でもないのに気分が明るくなる。
 だが浮かれ気分と睡眠不足のまま階段を下りようとしたところで、世界は一変した。
 ふかふかと柔らかな絨毯が敷かれている階段のセンターラインで、どことなく頼りなげだった足が滑らかな起毛の表面に浚われる。浮き上がった爪先はそのまま踏ん張り続ける事さえ出来ず、跳ね上がり、自然傾いた視線が高すぎる天井のシャンデリアを捉えた。
 直後。
 衝撃。
 見えていたシャンデリアが一瞬にして、数メートル以上遠ざかった。
 強かに打ち付けた背中と後頭部に息が詰まり、悲鳴さえ上げられない。階段の出っ張りに何度もぶつけた腰がぎしぎしと不協和音を奏で、目の前に無数の星くずが両手を取り合い輪になって踊っている。
 ひくひくと痙攣した爪先がぱたりと床に落ち、さながら階段最下段で寝そべっているかのような体勢で暫く、動けなかった。
「いたひ……」
 辛うじてそう呟くのだけが精一杯。目の前を飛び交う星々を追い払う気力さえ乏しく、いっそ、このまま此処で眠ってしまおうかという投げやりな思考さえ浮かんだが、直後に弾けて消えた。
「何やってるっスか」
 正面玄関が開く重く物々しい音が微かに響いて、僅かしか出来上がらない隙間に身体を斜めに滑り込ませたアッシュが、呆れた声を出したからだ。
 新聞を取りに行ったその帰り、城内に戻った途端目にしたものが階段で寝そべるスマイルの姿だったのだから、驚かない方が可笑しい。もし気付かずに階段を登りでもしていたら、顔面を踏み潰しかねない位置にいただけに、何をしているのかと怪訝に思ってしまう。
 だが呼びかけにまともな返事もせず、ひらりひらりと辛うじて持ち上げられた肘から先を力無く振るばかりの彼に、まさか、という想像も芽生えて来る。
 そんな筈は無かろうと思うのだが、念の為近付いて、顔を真上から覗き込んだ。
「落ちた……っスか」
「起こして」
 返事の代わりに、両手を前にならえ状態で突き出されてしまった。
 アッシュは苦笑し、取ってきたばかりの数紙分ある新聞を脇に挟んで持ち替えた。落とさぬよう注意しながら、自分に向けられたスマイルの手を取る。
 そのまま自分の側へ勢いをつけて引っ張った。
「っと」
 軽く膝を曲げて腹筋に力を入れ、スマイルのアッシュの手を支えに立ち上がる。よろめき掛かった身体は、崩れる前に目の前に立つ狼男の胸板に頭を突っ込む事で回避する。突っ込まれた側は、咄嗟に受け止めようとして挟み持っていた新聞をその場に落としてばらまいてしまったけれど。
「何やってんのサ」
 素早くアッシュから身を翻したスマイルが、床の上に散った新聞の束を見下ろして肩を竦めた。自分は棚に上げる変わり身の早さに苦虫を噛み潰したような顔を作ったアッシュは、手早くそれらをひとまとめに掬い上げた。だが薄い紙は衝撃で隙間が出来上がっていて、乱雑に束ねられると最初畳まれていた位置とは違う場所に折り目が出来上がり、嵩張る。
 この新聞を読むのはもっぱらスマイルだから、傍らで眺めるばかりの彼の表情も渋いものに変化する。誰の所為でそうなったのか、小言のひとつも言いたい気分でアッシュは溜息を盛大に吐き出した。
 揃え直した新聞を手に、階段に背を向ける。即ちスマイルにも背中を向けて、彼は作業途中で一旦足を遠ざけていた台所に向かい歩き出した。
 けれど、早足気味に進む彼の後ろを、ひょこひょこと階段落下の際に打ち付けたらしい右の臑を庇いながら、スマイルも一緒に進んでいて。追いかけてきているはずはないと知りつつ、奇妙な感覚でアッシュは台所へのドアを潜った。
 後ろで歩きづらそうにしているスマイルの為に、ドアは閉めずにノブから手を離す。持ってきた新聞は、入って直ぐの作業台を兼ねるテーブルに投げ出した。
 三社分の新聞が段々になってテーブルを滑って止まる。アッシュは着地の確認もせず、コンロの預けっぱなしだったケトルの火を止めた。カチリ、と若干固い音が静かに響く。
 遅れてキッチンに顔を出したスマイルは、いそいそとテーブルに近付いてスチール製の脚が長い椅子に腰を下ろす。至極当たり前の所作で、放り出された新聞を引き寄せて一紙を広げた。
「アッシュクン、珈琲頂戴」
「足は平気なんっスか」
「思いっきり濃い奴がイイ」
 まるでかみ合わない会話のキャッチボールに、嘆息してアッシュは壁の棚からスマイル専用のコーヒーカップを出してきた。サーバーにドリッパーを被せ、今沸かしたばかりの湯を通し、カップも一緒に温める。
 最初の頃こそは不手際が目立ったアッシュだったけれど、もっぱら珈琲派のスマイルの影響を受け、今やすっかり煎れる手際も上達してしまっていた。
「足は」
「もう平気」
 打った時はそれなりに痛かったけれど、と椅子に腰掛けたまま地に着かない爪先をぶらぶらと揺らしてスマイルが答える。但し視線は、新聞紙面を辿るばかりで、アッシュに投げつけられる事はなかったが。
「寝不足っスか」
「気がついたら朝だった」
「……それを徹夜って言うんスよ」
 暖めるだけだった湯をサーバーから捨て、新たにケトルで湯を沸騰させる間にフィルターの準備をする。呆れた口調で返したアッシュに、久方ぶりにスマイルは顔を上げ、口をへの字に曲げた。
 そのくせ、隻眼がまだ眠そうにしているから表情にギャップがあって変と言えば、変。
「それで、夜通し掛かって完成したっスか?」
「御陰様で」
 思い出すと眠気が戻ってくるらしい。欠伸を零したスマイルが嫌みを口に出したが、軽く笑い飛ばしてアッシュは笛吹きケトルの警笛に身体を反転させる。スマイルは再び、新聞に細めた目を落とした。
「後々回しにするから、こういう事になるんっス」
「君に言われると、ぼくも終わりだネ」
「…………」
 普段、楽曲の締め切りにてんてこ舞いになっているのはアッシュの方。だが今回は珍しくスマイルが一番提出が遅くて、本日の締め切りを前に貫徹を強いられた。本人にしてみれば、徹夜をする予定は毛頭無かったのだけれど、気付けば太陽が昇る時間になっていた、という言い訳なのだが。
 若干優れない顔色に、背後を伺ったアッシュがやれやれと溜息を吐いた。
 コーヒー豆の封を開け、フィルターに必要量を落とし先程暖めておいたドリッパーに少しずつ湯を注いでいく。さほど待つ必要もなく、香しい珈琲の匂いがキッチンに広がり始める。
 つられたかのように顔を上げたスマイルと視線が合って、笑いかけるとふいっと顔を逸らされてしまった。だからついつい、苦笑い。
「でも、完成したみたいで良かったっスね」
 こうして下に下りてきて、毎朝の日課である新聞と珈琲に手を出そうとしているのだから、なかなか達者。だが空きっ腹に珈琲は、健康に悪い。
 アッシュはサーバーに濾過された珈琲が溜まっていくのを待つ間、すっかり休めていた朝食の準備に戻る事にした。だがその手間の片隅で、片手鍋に注いだミルクを温め始める。
 スマイルは最初の新聞を読み終え、二紙目の第一面に意識を集中させているところだった。書かれている内容は大差ないはずなのに、新聞個々の特徴や方向性に寄って若干、論調の展開方法が違っているのだという。アッシュにはその辺の細かい面は気にした事もなく、具体的にどこがどう違っているのか、説明をされても理解できない。
 乾いた紙を捲る音が断続的に聞こえてくる。他にはコンロの上で踊る鍋の中身が煮える音や、サーバーに滴る滴が跳ねる音。アッシュが包丁で食材を刻んだりする音が、互いに混じり合ってキッチンというテーマで音楽を構築している。
 決して耳障りではなく、朝のヒトコマを切り取ったかのようなメロディーだ。
「眠……」
 ぼそりと零す。細かい文字を追うのにも、目が疲れている為掠れてしまって読みづらい。眼鏡を持ってくるべきだったと今更後悔しても遅いのだが、噛み殺した欠伸のついでに奥歯を軋ませて、新聞を捲る。
 やや変則的な配置で並ぶ記事のひとつひとつを目で追い、内容を頭に放り込めるだけ押し込んで、反芻と咀嚼はまた今度。切り抜きで保存しておこうと思うような記事はなかなか見当たらず、毎日の習慣で読み連ねているばかりの新聞に、退屈を覚えようとしていた頃。
 白い湯気が渦巻くコーヒーカップが、テーブルの縁近くにまで押し出された。
 陶器の底辺とテーブルの表面が擦れ合う音に、新聞から顔を出す。またしてもぶつかり合った視線を、今度は躱さずにスマイルはそのまま下へとずらしていった。
 お気に入りのカップに注がれた液体は、しかし期待していた濃い珈琲とは色からして異なっていた。
 薄い茶色。少しだけ細かい泡が浮かんでいて、カップの内側の縁に貼り付いている。
「……なんで」
 俄に不満を露わにしたスマイルだったが、しれっとした顔でアッシュは人差し指を天に向けて立てた。知った顔で、目を細める。
「徹夜明けに、珈琲は胃に良くないっス」
 しかも空腹の中に珈琲だけというものは、胃の具合を悪化させる事はあっても、良くなる可能性はまず無いだろう。立てた人差し指を揺らしながら説教を垂らすアッシュを恨めしげに見上げ、スマイルは暖かな湯気を放つカップの外側を新聞紙の端で小突いた。
 へにょりと曲がった新聞に、唇が歪む。
「ヤダ、煎れ直して」
「駄目っス」
 即答で、満面の笑顔で拒否された。益々スマイルの顔は渋さを増して、頭の上にはいくつもの黒い煙が燻り始める。
 だが、喉が渇いているのも事実。空腹に濃いめの珈琲は、胸焼けを起こす原因になるのも勿論知っている。自分に分がないのも分かり切っているので、強気で出られないのが辛い。
 ちぇ、と舌打ちする。
「甘くない?」
「砂糖は入れてないっス」
「…………」
 カフェオレは、滅多に飲まない。どうにも甘いイメージがあるから。
 結局抵抗しきれず、スマイルは爪先をぶらぶら頼りなげに揺らして手を伸ばした。新聞を広げたままテーブルに置き、カップを引き寄せる。両手で抱き持って、まだかなり熱いうす茶色の液体に息を吹きかけて少しだけ冷まして、唇を寄せる。
 行儀悪く、音を立てて啜って、飲む。
 ほっこりとした、安堵を覚える温かさが食道を滑って胃に落ち着き、そこから全身の隅々にまで広がっていくのが分かる。若干残っていた節々の痛みも、一瞬で癒えて消え失せた。
 吐き出した息までもが暖められていて、振り子になっていた足が自然と止まった。
「どうっス?」
 忙しなく動き回りながら、それでも後ろに気をやりつつ問いかけたアッシュ。両手の平でカップをしっかりと包み込んで、スマイルはやや自嘲気味に笑った。
「ちょっと、アマイ」
 そう言いつつも、言い終えると同時に残っているカフェオレを一気に飲み干して。
 何気ないままに、窓の外を見る。
 昨日予想した通り、空は晴れている。梅雨の中休み、随分と懐かしさを覚える空の色に、欠伸が漏れた。
「イイ天気みたいダネ」
「でも、天気予報だと明日からまた雨らしいっス」
「え~~」
 アッシュに言っても仕方ないのだけれど、不満を隠しもせず頬を膨らませ、スマイルはテーブルに突っ伏した。新聞紙に両肘を置き、顎を預けてだらしなく凭れ掛かる。肩越しに振り返ったアッシュが、笑った。
「てるてる坊主でも作って吊しておくっスか?」
 顔半分を覆う包帯に新聞の印字が転写するのも構わず、左の頬をテーブルに押しつけている彼を茶化す。ふて腐れた呻きで声とも言えない声を発し、以後スマイルはすっかり黙り込んでしまった。
 邪魔される事も無くなり、アッシュは朝食の支度に意識を集中させる。
 窓の外を見上げれば、スマイルの言った通り良い天気。新聞を取りにポストのある外に出た時も、頭上は白みだした空が朝焼けで鮮やかに輝いていた。長く続いた雨で、大気中の塵も全部地上に洗い流されたのだろう。空気も凛としてすがすがしい朝だった。
 こんな天気が今日一日で終わってしまうのかと思うと、確かにスマイルの不満も分かる。心の中で勿体ないな、と呟いてアッシュは、フライパンのスクランブルエッグを菜箸で盛大にかき混ぜた。
 ごとり、と音がした。
 やや大きめの物音に、背を一瞬震わせたアッシュはフライパンを掴んだまま背後を仰いだ。見ると、作業台のテーブルに突っ伏していたスマイルの右腕が、椅子の脇に垂れていた。
 音の発生源は、左の手を枕に依然俯せになったまま。右手だけが前後に頼りなく揺れていて、身体を起こす気配は微塵もない。
「えと……スマイル?」
 コンロの火を消し、恐る恐る近付いて腰を屈め、距離を詰める。中身が空になったコーヒーカップが曲げた指の背に当たり、居場所を少しだけずらした。
 微かな音をも聞き逃さぬよう、聴覚を常に意識しながらスマイルの影になっている横顔をそっと窺う。
 整った寝息、が。
 流石の彼も、眠気には勝てなかったか。引き金は、アッシュが用意した暖かなカフェオレだったかもしれないけれど。
 疲れている時の特効薬は、他の何よりもまず、休むこと。
 自然と、アッシュの表情が緩み穏やかになる。気持ちよさそうに寝入っているスマイルに気を遣って、なるべく静かにカップだけを回収しシンクの水桶に浸けた。再度振り返り、完全に夢の中の住人となっているスマイルを見下ろす。
 体勢がさっきよりも若干角度を増していて、呼吸が苦しくないように気道を確保しつつ、横向いていた。
「こんなところで寝て……風邪引いても知らないっスよ」
 苦笑が漏れて、悪態をつきつつ呟く声もスマイルには届かない。込みあがってくる笑みを口許にやった手で隠し、それほど開いてもいない互いの距離を大股に進んで埋めた。
 部屋で休むよう注意しようと手を伸ばすが、気持ちよさそうに眠っている顔を間近で見てしまうと、起こすのも忍びない気持ちに駆られてしまう。だがテーブルに突っ伏したままでは、体勢も決して楽じゃないだろう。
 それでもはやり、折角身体が求める休息に辿り着いた彼の安眠を邪魔するのは心苦しくて、逡巡した挙げ句アッシュの手は辛うじて、スマイルの眠りを刺激せぬ程度の力でもってその髪に下ろされた。
 優しく、撫でる。寝癖こそ無かったが、いつもの元気良さが感じられない毛先の具合に、どれだけ彼が根を詰めて仕事に取り組んでいたかが知れる。だから尚更、起こしてやるのも申し訳なくて、困惑した表情を浮かべたアッシュはそのまま何度か、彼の髪を撫で続けた。
 悶々と考え込んで、視線は計らずとも窓の外へ。
「う~~~ん……」
 夢でも見ているのか、唇を曲げたスマイルから小さな声が漏れ出る。
 アッシュは声を立てずに表情だけで笑って、膝を軽く曲げた。撫で続けた髪に顔を寄せ、掬い上げた前髪から覗く額にそっと、触れるだけのキスを落とす。
「もう暫く、オヤスミナサイっス」
 耳元で低く囁いて、離れる。
 心なしかスマイルの表情も和らいだように感じられて、アッシュはそれだけで嬉しくなった。