Humidity

 梅雨の曇り空が広がっている。ガラス一枚越しに見える景色はどんよりと重く灰色で、それだけで陰鬱な気分が増す。
 幸いにしてまだ雨は降り出していないものの、それも時間の問題だろうと雲の厚みから想像がつく。数日続いていた雨の、漸く隙間をついての曇り空はしかし、今まで降り続けていた分の湿気を吸った空気が熱を含んで身体にまとわりつくものだから、不愉快極まりない環境を生み出している。
 いっそ、除湿でもかけるかな、と垂れ流し状態のCDが流れる空間でひとり、物思いに耽る。締めきっている部屋は自分の体温だけでも徐々に室温を上げていくので、窓を開けての換気が求められるがいつ降り出すか分からない雨を思うと、二度もこの場から立ち上がって戻ってこなければならない手間が非常に面倒くさい。
 だが壁の、天井に近い場所に設置された空調を稼働させるスイッチは窓よりも更に遠い場所に設けられている。二度手間と、一度で足りるが窓を二往復するのと大差ない距離の移動を天秤に掛けると、結局どちらにも傾かない。
 つまりは、現状維持。
「……むぅ」
 低く唸る。湿気が肌に貼り付く感覚が全身を覆っていて、今立ち上がればそれだけで汗が噴き出しそうだ。
 じめじめとした空気は鬱陶しい。
「だー、もう!」
 握っていた万年筆を頭上に掲げて、振り下ろす。ペン先が潰れるのを嫌って、さすがに床に突き立てるような真似はしなかったが、黒インクが散って真っ白な原稿用紙の上に幾つかの染みが浮き上がった。
 湿度の高さを言い訳にするつもりはないが、何のネタも思い浮かんでこなくて頭の中がぐるぐる訳の分からないフレーズに埋め尽くされてしまっている。ひとつひとつを拾い上げ、抓んで並べて行っても意味のある言葉にはならず、自分には作詞の才能などひとかけらも無いのではないかと、卑屈な気持ちがいっぱいに広がっていく。
 頭を掻きむしった指先に数本、抜けた髪が絡まって床に落ちた。握りを解いて白紙に転がした万年筆が、ペーパーウェイトの角に当たって転がるのを止め、斜めに寝転がる。
 自分の部屋に引きこもると別の欲望に負けてしまいそうになるからとだだっ広いリビングに出てきて、気持ちがリラックスして集中できるように、緩やかなメロディーラインの曲を選んで流していても。
 いくら頭を悩ませ、必死に詩作に取り組もうとしても。
 なにもかもが、空回り。
 何でも良いから八つ当たりしたい気分で、座っているソファにあったクッションに拳を押しつける。ぐりぐりと手首を回して捻り込むと、方形を象った物体が、判別つかない形状に変化していく。
 だけれど、こんな事をしている余裕が自分には無いのも分かっているので、ふと我に返った途端自己嫌悪に陥りたくなるのだ。
「う~~~……」
 両手で頭を抱えて膝に落として、身体を丸め込ませると自分がとても小さくなった錯覚が起こっていっそ、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思う、締め切り前日の午後。
「逃亡しよっかナ」
 幸か不幸か、自分は透明人間でよっぽどでなければ透明化した自分を人は見つけ出せないだろう。たかだかアルバム用の楽曲ひとつになにもそこまで、と言われてしまえばそれまでだけれど、当人にしてみれば必死なのだ。
 なにせ、締め切りに厳しいリーダーが真上に居る。一曲でも遅れようものなら、もれなく雷が局地的嵐を伴って襲ってくるだろう。
「はぁ」
 口を開けば溜息ばかりで、気分は滅入るばかり。
 他に要請されていた曲は、一応仕上がっている。残るテーマはあとひとつ。
“優しい気持ち”
「漠然なんだもんナー」
 自分が優しい存在だとは、贔屓目に考えて眺めてみても到底思えない。第一に優先すべきものは自分にしかなくて、他は結果的に二の次なのだ。自分の身の安全が保証されない場合なら、容赦なく他を切り捨てるも辞さない。
 実際そうやって生きてきた。根本的な考え方は今も一切変わらないし、変えられないだろう。だって、自分は生きている。少なくとも、まだ今は。
 だから具体的に、優しい気持ちというものがいかなるものなんかがつかみ取れずに居る。
「こういうのは、アッシュクンのが得意でしょうに」
 どうしてユーリは自分に、このテーマを与えたのだろう。顔を上げ、何も書かれていない、インクが飛んだ痕だけが小さく端の方に残る紙を取った。顔の前で縦にして眺め、首を捻る。
 考えたところで、他人の気持ちなど読み取れるはずがないのだけれど。
 薄っぺらな紙を前後に揺らすと、先端部分が頼りなげに柳のように震えてしなだれる。背を丸めて頭を下げて行く仕草が今の自分に似ていて、つい皮肉げに口角を歪めると自分に向かって垂れ下がる紙の角を下唇で受け止め、先端部分だけを咥え込む。目の前のテーブルに、すっかり冷め切った珈琲のカップが見えた。
 新しいのを注いで来ようか。窓の開け閉めや冷房のスイッチには億劫になって立ち上がるのも拒否していたのに、意識すると乾いてならない喉の具合にだけは、身体は正直だ。
 ソファのごつい革張りに手を置き、じっとりとした掌の感触と貼り付いて来る革の感触に目を瞑って堪え、立ち上がる。長い間じっと座っていたからその格好で固まってしまっていた膝が歪な音を立て、穿いているジーンズの分厚い生地が体内に抱える熱の放出を邪魔しているのがありありと伝わってきた。
 だがまさか此処で脱ぎ捨てるわけにもいかず、何故今日みたいな天気の日に、こんな服装を選んでしまったのかと自分の浅はかさを恨みたい気持ちを抑え込み、スマイルはもう飲む気も起こらない珈琲のマグカップを片手に踵を返した。
 ふたりで座っても充分横幅にゆとりが残るソファを迂回して、繋がっているリビングからダイニングへ移動。更に距離を伸ばして台所の扉をくぐり抜ける。
 キッチンの主であるアッシュが、雨が降り出す前に済ませて来ると買い物に出かける前、用意してくれていた珈琲がまだ残っていたはず。なんとなく頼りない記憶に縋りつつ、視線を巡らせて保温ポットを見つけると、安堵の息を零した。
 なんとか残り一杯分は確保出来て、冷え切っていた分を捨てると注ぎ直す。鼻腔を擽る香りに、少しだけだが心がほぐれた気がした。
「落ち着く……」
 立ったままで行儀が悪いが、堪えきれずひとくちだけをその場で飲んで、喉を伝い全身に染み渡っていく感覚がするコーヒーをしばし堪能。だがこのカップを持ってリビングに戻った途端、待ち受けているだろう未だ白紙の原稿を思うと、爪先が勝手口を向いてしまいそうだ。
 今逃げたところで、締め切りが引き延ばされるわけでもなし。覚悟を決めて、なんとか見られるものを絞り出すしかあるまい。ユーリのお小言は喰らうだろうが、間に合わなかった時の事を思えばまだ多少は、マシだろうから。
 気が重いが、やるしかあるまい。他に道は残されていないのだからと自分を叱咤激励して、スマイルは両手で包み込んだマグカップを大事に抱えながらダイニングスペースへと戻った。
 そうして、古めかしさだけが目立つ長方形の縦に長すぎるテーブルを脇に眺めつつ、リビングスペースへと足を踏み込んだところで。
 こちらに背を向けているソファの、さっきまで彼が座っていた場所に、銀色のボールが置かれている事に気付いた。そういえば空調がいつの間にかオンになっていて、あんなに鬱陶しいと感じていた湿度が若干下がっている。
「…………?」
 小首を傾げつつも、作業道具は全部ソファの前に置かれたテーブルに広げたままなので、行かずを得ない。段々と両者の距離が狭まるにつれて、三人は座れるはずのソファの真ん中にどんと構えて座っているのが、他でもないこの城の主でありバンドのリーダーであるユーリだと知れる。
 銀色のボールがソファの背もたれに載っているように見えたのは、単に自分が隻眼であるが故の距離感の測り辛さが原因のようだ。
「ユーリ?」
「…………」
 何の用があるのだろうかと、顔の前に抱えたカップを持ち上げ、陶器の縁に口を付けまだ暖かい珈琲を啜る。名前を呼ばれた事に単純に振り返って顔を向けたユーリが、俄に表情を険しくさせた。
「随分と好調なようだな」
 ひらり、と皮肉を口に出したユーリがスマイルに突きつけたのはあの、依然真っ白から変化無い原稿用紙。
「あ、いやその……」
 単刀直入に言われてしまい、返すことばも見当たらず視線を適当な方向に流したスマイルが、手の中のマグカップを小刻みに震わせる。波だった黒々した液体が、防波堤にぶつかっては砕けて渦を成していった。
 しどろもどろになって答えられないで居る彼に、ユーリは嘆息して微妙に他よりも湿った感じのする紙を手放し、テーブルに放った。空気抵抗を全面に受けて、ゆらゆらとそれは儚げに落ちていく。
「そんなに、難しいか」
 ユーリだって、他は順調に仕上げてきているのに、たったひとつだけスマイルの手元に残されたままになっているテーマには気付いている。自分が与えた課題だ、まだ表立たせてはいないものの、彼の構想ではアルバムのラストに収録させるつもりでいる曲、が。
 メロディーは大まかに決定している、あとは其処に乗せる歌詞が出来上がれば、直ぐにでもアレンジに取りかかるつもりでいたのだが。
 まさかこんなところでスマイルが躓くとは思っていなくて、ユーリとしても意外としか言いようがない。
「なんて言うかねぇ……曖昧スギ」
 ユーリが求めているものは、なんとなくだが理解できる。だがそれをかみ砕き、自分なりのことばに変換して並べ直す作業が捗らない。自分が考える優しさというものが、万人に共通する感覚だとは到底思えないのも、躓いた石を大きくさせている。
 下手に長く生きてきただけに、当たり前過ぎる感覚が麻痺してしまっているのだろうか。
「間に合いそうか」
「微妙」
 飾らない問いかけに苦笑って答え、スマイルはユーリの座るソファに自分も腰を下ろした。もうひとくち珈琲を啜り、鼻の下に絡みつく湯気を手で追い払う。横顔を、じっとユーリが見ていた。
「ナニ」
 視線に気付かぬはずがなく、問いかけの目を向けると彼は僅かに瞳を揺らし、口許に曲げた人差し指を押し当てた。
 スマイルが半分ほど飲んでしまった珈琲をテーブルに置く。陶器の底辺が硝子板の天板と擦れ合い、やや不愉快な音を空間に零した。
 いつの間にか、流していたはずのCDも全曲奏でられたのか音が消えていた。
 静まり返った広い室内に、互いの呼吸する音だけが辛うじてか細く響き合う。そうやってどれくらい、ふたりして黙りこくっていただろうか。
 ふと流した視線が窓の外を捉える。
「雨だ……」
 水分を多量に吸った雨雲が、ついにその重みに耐えられなくなったのだろう。最初こそは雨足も弱かったけれど、ものの数分としないうちに外はバケツをひっくり返したような豪雨に変わる。
 ムッとした空気が厚みを増した。窓ガラスを大粒の雨が激しく叩き、一気に喧しくなる。
「また降り出したか」
 ユーリもまた視線を窓辺に流し、溜息と共に呟きを漏らした。呆れているようで、諦めてもいるような口ぶりに、スマイルが薄く笑う。即座に、何が可笑しいのかという声が飛んできて睨まれる。
 お手上げポーズで両手を肩の高さまで上げたスマイルは、けれどまだ少しだけ笑みを残した表情で、雨が降り出す前に帰還を果たせなかったアッシュを不憫だと言った。あいつは車だから多少の雨でも平気だろう、とユーリが返す。
 そこで会話が途切れて、また沈黙が場を制する。雨の音ばかりが、耳朶を打って痛い。
「ユーリは」
 ぽつり、と。
 意識せぬまに唇が動いていた。
「なんだ?」
「どうして、このテーマを選んだの」
 ソファに身体を沈めて、天井を仰ぐ。
 何も思い浮かばない思考、まとまらない思い。巡り変わり行き変わることば、全部がしっくり来なくて書いては破き、丸めて投げ捨てる日々。その間も、今みたいに雨が降っていた。
 身体にまとわりつく湿度、苛々するだけの心。求められる“優しさ”からどんどんかけ離れていく感情に、余計に苛立ちばかりが募って袋小路に迷い込む。
 知らず掴んでいた自分の腕に爪を立て、それでも感じられない痛みに奥歯を噛んだ。複雑そうな目で横顔を見つめるユーリに気を配る余裕さえ、残っていない。
「それほどに、難しいか」
 何を思い悩み、嘆く必要があるのだろう。
「遠くばかりを見ようとするのは、お前の悪癖のひとつだな」
 骨が軋みそうなまでに強い力で握っていた腕に手を伸ばし、ユーリは強張った指の一本一本を丁寧に解いていってやりながら呟く。柔らかい、不快でない温もりを抱いた声で。
 珈琲が立てる湯気が霞む。雨は一向に止む気配が無い。低く微かに、空調が動く音が鈍く響いている。
「たまには、自分の足下でも見てみたらどうだ?」
 遠くばかりを見ていたら、転ぶぞ? 
 含みのある物言いで笑ったユーリが、スマイルの手を両膝に綺麗に揃えて置いた。行儀良く座っている風になった彼にまた笑って、頬杖をつく。
「後はお前次第だ。貴様のそれが終わらぬ限り、私達は何も出来ぬのだから」
 心してかかれ、とプレッシャーを与えるばかりの台詞を吐き捨ててユーリは一定でないリズムを刻む雨音に耳を傾け、目を閉じた。呆然とスマイルが見つめているのが気配だけで伝わってくる。
「……ユーリ」
「寝る」
「はい?」
 何が言いたいのか、よく分からなかったスマイルが具体的な答えを欲しがって呼びかけるのを遮り、ユーリはさらりとひとこと、告げた。
 聞き間違いかと目を丸くするスマイルの肩に、ソファのなめらかな革を滑り台にして上半身を傾がせて、ユーリは彼に凭れ掛かる。唐突に増えた上半身にのし掛かる重みに、隻眼を丸くしたスマイルがぎょっとなって後退ろうとした。
 だがそうすると、もれなく支えを失ったユーリがソファに横倒しになるのは明白で。
 動くに動けなくなったスマイルは、全身の筋肉を硬直させた。あまりのコチコチ具合に、ユーリが苦笑する。
 目を閉じたまま唇だけで笑い、腰を若干浮かせて居心地の良い格好に体勢を直して更にスマイルに体重を預けた。どこか及び腰になっている彼の、落ち着かない心情が触れあう箇所から伝わってくる。
 例えば、こんな風に安心しきって身体を預けられる相手が、優しくないと言えるのか。嫌ならば避けても構わない、あまりに一方的過ぎる押しつけを甘んじて受け止め、受け入れている彼の態度が優しくないとどうして言えるのか。
 足下を見れば、些細な優しさが河原の石みたいに敷き詰められている。大きな石はないけれど、その代わりにせせらぎに撫でられ続けた角の無い小石が隙間無く、足下を支えてくれている。
 灯台もと暗し、ということばを彼に教えてやりたい気分のまま、ユーリは雨音に耳を傾ける。
「スマイル」
「……ナニ」
 些か不機嫌な声が返されて、薄く瞼を持ち上げたユーリは何もない天井をぼんやりと見上げ、首の角度を変えた。視界が変化し、頬骨がスマイルの鎖骨の出っ張りにぶつかる。
「唄」
 CDはもう流れていない、雨の音ばかりでは寂しすぎる。
 このままでは眠れない。
 だから、唄を。
「ギャンブラーZで良いのなら」
「殴るぞ?」
 淡々とした返答に、即座にユーリがにこやかな表面上の笑顔を作って拳を握った。冗談だよ、と頭を自由の効く側の手で掻いて、スマイルは視線を遠くにやった。
 窓ガラスと屋根と庭の地面を打ち付ける雨の音、変化が見られない空調の低音、一秒ずつを確実に間違えず刻み続ける時計の針。
 アッシュはまだ帰らない。あれほど不快極まりなかった湿気が遠退き、適度な環境が周辺に生み出されつつある。
 優しさ、というものが何であるのかは実のところ、まだ良く分からない。
 けれど少しずつ、ユーリに唄って貰いたいものが靄のようになって頭の中、集まり始めていた。
「じゃあ……」
 雨の日の、例を挙げるとしたら今日のような日に。
 ただ一緒に居られるだけの、お互い傍に居るのを許し合える距離感を。
 或いはそれさえも、一種の優しさなのだと言うのなら。
「聴いていてくれる?」
「貴様次第だな」
 重さを感じる肩を揺らし、今にも寝入りそうなユーリに注意を促し問いかける。素っ気ない返事は、けれどユーリなりの照れ隠しも含んでいると知っているから、特に気にする様子もなくスマイルは深く、息を吸った。
 視点を切り替えれば、なんて簡単な事。
 脳裏にメロディーを思い浮かべる。一本線でしか描かれていなかったオタマジャクシが、輪を作って踊り出し、そこに軽やかな風の足音や水のせせらぎ、森のざわめきが重なり合って、ひとつの音を導き出す。
 ああ、思い出した。唄を作るとは、こういう作業だったのだと。
 何かを生み出そうと藻掻くのではない。心の底から自然とわき上がってくる透明な水を、揃えた両の手で掬い上げる。溢れ出る水は、空高く舞い散らして光に透かそう。
 とても単純で、簡単で、けれどとても難しい。
 優しい気持ちは漠然としたままだけれど、今の気持ちをことばにするのは出来る。真っ先に聴いて欲しい人も、手を伸ばせば触れられる場所に居てくれる。
 隻眼を閉じた。とても近いところに居るユーリが、もっと近くに居る感じがする。
 吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
 拳を固くしていたユーリが、肩から力を抜きソファに落とす。赴くままに垂らした手首が予期せず、スマイルの手の甲に重なった。
 お互いことばにすることもなく、指先を絡め合う。
 眠る、と言っていたユーリが紅玉の瞳を露わにしたまま、雨の降りしきる外を濡れた窓越しに見つめていた。頭の中でひとつずつことばを選び、繋げているのだろう、スマイルが時々眉間の皺を深くして低く唸っていた。
 リズムを取っているのか、彼の爪先が時々床を叩いて上下する。
「聴いて、ユーリ」
 これが正解かどうかは分からないけれど、と前置きしたスマイルがわざとらしい咳払いをして、真面目な声で言うからつい笑ってしまって、頭を預けたままだった肩を突っぱねられた。激しく前後した枕代わりに、声を立てて笑って身体を浮かせる。
 座り直し、彼と向き合った。
「寝ないの?」
「お前の唄が退屈だったら、眠るさ」
 聞きようによってはあんまりな台詞をさらりと吐き捨て、先を促しユーリは裏返した掌をスマイルの側へと突き出す。やや渋い顔をして、けれど自分から話を振った手前撤回するわけにも行かず、スマイルは頬を軽く引っ掻いて嘆息した。
 深呼吸を二度ほど。
 雨はまだ降り止まない。微かに、車のブレーキを踏む音が聞こえた気がした。
 意を決し、身体の奥から溢れてくる感情を音に乗せて空に浮かぶ、見えないの弦を爪弾いた。なるべく丁寧に、独自にアレンジした柔らかなメロディーを。
 それは子守歌。
 ユーリが目を閉じ、聞き入った。両手一杯の荷物を抱え、雨の中車からダッシュで城内に駆け込んできたばかりのアッシュも、密やかに奏でられる歌声に気付いて足を止める。
 まだ完成とは言えないけれど、今出来る精一杯を唄にして。
 拍手は無かったけれど、歌い終えた時のスマイルの心はついさっきまでのモヤモヤとした苛立ちが一気に消え失せて、妙にすっきりした気分に満ちていた。
 隣を見れば、失礼な事にユーリがそのままの姿勢ですやすやと寝入っていて、船をこぐ最中に自然と傾いだ身体がまた、スマイルの側へと倒れてきた。
 今度はそれを、真正面から受け止めて、前髪を濡らしたアッシュがリビングに入ってくるのを振り返って出迎える。
「オカエリ」
「タダイマっス」
 眠ってしまったユーリを起こさぬよう、なるべく声を潜めて笑い合って、窓の外を何気なく見た。
 雨足が少しだけ弱まった気がする。
「オヤスミ、ユーリ」
 規則正しい寝息を零す彼をそっと抱きしめて、有り難う、と耳元で囁く。
 きっと、明日は晴れ。