Tedium

 軒を打つ雨音だけが断続的に窓を超え、響いてくる。
 閉めきったはずの室内は、しかしその僅かな隙間からさえ外気が流れ込み、微かにだけれど感じられる、水の気配。
 恐らく一歩外に出たならば、バケツをひっくり返したような豪雨が全身を襲うに違いない。傘を頭上へ広げたところで、全身濡れ鼠は避けられないだろう。
「雨の匂いがする」
 呟くと、背中越しの彼は身体を軽く横に揺すり、そうだな、と低い声で相槌だけを返してきた。
「暇だね」
 更に呟くと、また、そうだな、とだけが返される。
 彼はちゃんと人の話を聞いているのだろうかと、勘ぐりたくなる一瞬。だけれどまともに相手をして貰うにはそれなりの勇気と、根性と気力が必要な相手だけに胸の内だけで溜息を吐き、自分は膝の上で半端に広げていた新聞の端を折った。
 小さく、ページをめくる上質紙の擦れる音がする。
 椅子は顔を上げればすぐそこにあるというのに、何故かふたりして、今日は床の上。
 床といっても柔らかな毛並みの絨毯が敷き詰められた場所だから、直接フリーリングに座っているわけではない。クッションはそれなりに効いていて、身体への負担も少なくともすれば、横になって寝転がりたくなるくらいだった。
 そこを、ふたり、背中合わせに。
 壁時計を見上げれば、夕刻にさしかかろうとしている頃合い。だがテレビも、ラジオも一切の雑音を放つ器具は沈黙を保たれたままで、在るといえば窓を打つ不揃いな雨の音か、自分たちの呼吸する微かな空気の摩擦音。そうして、それぞれが好きに手をつけていた活字に埋まる紙面の擦れ合う音くらい。
 特に言葉で示し合わせたつもりはなかった。ただ、今日は床に座りたい気分だった、その程度。
 最初はリビングに、新聞を片手にしたスマイルが居ただけだったはずなのに。
 いつの頃からか、ユーリが来て、手にしていた本を膝に広げて彼の背中を背凭れ代わりにしていた。
 もっと居心地の良い場所は他にいくらでも、数え上げればキリがないほどにあるだろうに。
 お互い、口に出したりしないものの、分かっているはずなのに。
 何故か、この場所から離れがたい。
 そんな雨の日の午後。
 今夜半まで降り続くという予報を数時間前にテレビで見た雨は、今も時折勢いを増しながら屋根を、軒を、庭先を激しく打ち鳴らしながら騒いでいる。大地を潤すはずの天からの恵みも、こう連続して大量にもたらされれば、渇きを覚える緑も喉を溢れさせてあっぷあっぷだろう。
「暇だねぇ」
 立てた新聞の縁を口に当て、再度呟く。
「……そればかりだな」
 先程とは違う返答に、へえ、と先を促すような感覚で相槌を打って返すと、彼は開いていた本に栞代わりの紐を通し、閉ざした。
 一応は人の話を聞いていてくれたらしい。そんなところに感心していると、間を置いて咳払いまでした彼が、閉ざした本の分厚い革張りをした表紙に爪を這わせた。表面に、薄く細い線が走る。
 見る人が見れば高値が沸騰しそうな古書を易々と扱う彼の手癖に、口許が自然と歪んだ。
「なら、曲のひとつでも仕上げてはどうだ」
 問いかけ、というよりは静かな細波にも似た命令形。ちらりと後方を窺う視線に気付かぬ素振りを通し、それと気付かれぬよう気を配しながら肩を竦める。
「君が唄ってくれるなら、喜んで」
 曲のひとつやふたつ、あっという間に紡ぎ出してみせましょう。戯けた口調で告げると、後ろから逆向きに降りてきた拳に後頭部を痛打された。反射的に首を引っ込め、同時に舌が出る。
 誰も見ていないのに、こういう表情を作ってしまうのは自分の性分だろうかと、密かに空しさまで感じつつ。
 ただ、背中越しに感じる体温と存在が相変わらずの調子で、退く気配さえ感じさせない事に安堵した。
「馬鹿な事を」
 呆れた声で返されるのが、嬉しい。無視されないで相手をして貰える事だけでさえ、心が躍る。
 こんな風に思えるようになるまで、随分と回り道をしたけれど。
 一緒に居られる事がこんなにも幸せだなんて、知らなかった。
「ケチ」
「貴様が贅沢なだけだろう」
 静かな声で返される。そこに雨の音が重なる。
 自然が奏でる二重奏が、知らず心地よくて目を閉じる。
 瞼を下ろせば自然と沸き起こるのは眠気で。
「ユーリ」
 名前を呼ぶと、なんだ、と声が返る。
「眠い」
 単刀直入に告げると、返事は無くて代わりに溜息だけが深々と宙を抉った。
 薄く笑む。折りたたんだ新聞をカーペットに寝かせ、膝を伸ばすとそれこそ壁か何かに凭れる時の感覚で、ユーリの背中に上半身に与する全体重を預けてやる。
「スマイル?」
 重いから退け、と言いたげな口調だったユーリが、けれど静かになった。返事が無い事を訝しむようで、気配をじっと窺ってくる。 
 だからついつい、いたずら心が刺激されて、胸の上で組んでいた腕を解いて床に落とした。軽い力でもって、仰向けの体勢を一瞬で裏返す。
 ついでに、その横向く方向と距離を利用して、頭部を軸にし、身体を転がして。
 収まったのは。
「スマイル!」
 咎める声にもお構いなしに、やや盛り上がった中間の隙間に頭を預けて、居場所の安定を図る。
 薄目を開けてにんまりと笑めば、目の前に映るのは一面、ユーリの怒っているのかどうなのかさえ微妙な表情。
「暇だネ」
「なら、ベッドなりどこにでも行け」
 だから退け、と閉じた本の角で額を打たれてしまった。かなり痛いが、へこたれずに笑いかけると、今度こそ呆れたようでユーリは一度閉じた本を再度、開いた。
 顔の前に影が落ちる。導かれたようで、目を閉じる。
 雨の音が聞こえる。紙をめくる音が間近で響く。
 ふれあった箇所から、互いの体温が伝わり合う。呼吸する微かな振動が響く、存在を限りなく近い場所で感じる。
「ネ、ユーリ」
 隻眼を開けて、本の背表紙に隠された彼を窺う。返事は無かったけれど、紙を捲る指の動きが止まったので、彼は少なくとも、無視するつもりはないのだと理解して、安心を覚える。
 腕を伸ばした、真上にまっすぐに。
 視界を遮る邪魔なハードカバーを曲げた人差し指で引っかけ、どかせる。そうやる事で漸く現れたユーリの顔に、柔らかく微笑んで。
「暇、だネ」
 同じ言葉を何度も繰り返して。
 憮然とした感のあるユーリへ、更に笑いかける。
「デモ」
 退屈、じゃないよ、と。
 短く告げて、手を放す。
 ユーリは窓の外を見た。そして、開いたままの本をゆっくりと下ろし、自らの膝を枕にして悠然と寝転がる存在の額に落とす。
「ユーリ……」
「うるさい、黙れ。眠らないのなら、起きろ」
 ゴンゴン、と堅い表紙で何度も広い面積を小突かれる。
 とすると、眠るのなら此処に居座っても良いと言うのだろうか。
 曲解かもしれないが、押しつけられる本を手で押し返して真下から顔を覗き込むと、一瞬だけ掠めた視線は慌てたように外へ向けられてしまった。その逸らし方がまた大仰で、堪えた笑いを堪えきれずに漏らしてしまうと、また眉間の隙間を狙って本が振り下ろされた。
 小気味のいい音が響く。
「暇、だねぇ」
 感慨深げに呟いた。
 返事は無い。
 雨の音は止まず、勢いを休める素振りも無い。
 壁の時計が新たな時間を指し示し、仄暗い音を奏でた。
「だが」
 目隠しの本を捲り、ユーリが久方ぶりに声を返した。
「偶になら、な」
 特別何もせず、お互いぼんやりと過ごす日も悪くないと。言葉少なに表して、ユーリはまた顔を隠してしまった。
 もったいないと覗こうとしても、巧みに誤魔化されて届かない。
 ちぇ、と舌打つと、肩を竦めて笑われた。
 雨の匂いがする。
 特別な事などなにひとつない、よくある日の午後。
 ゆっくりと時間は過ぎて行く。
「ユーリ」
 またいつか、こんな日が巡ってくるかもしれない。その時、自分たちは今と同じように隣で、間近で、傍で、こんな風に過ごせているかどうかさえ、分からないけれど。
 それでも。
「なんだ」
 降りてきた彼の手がスマイルの髪に触れる。指で梳ってやると、心地よいのかスマイルはそっと隻眼を閉ざし、交代で薄く唇を開いて、笑った。
「これからも、ヨロシク」
 戯けた風に装っても、言葉は酷く真剣で。
「気が向けば、な」
 意地悪なユーリの返答に、唇を軽く尖らせたものの、裏側に隠された思いにまで気付かない愚鈍さは持ち合わせてないから。
 スマイルも、ユーリも。
 雨にかき消されそうな微かな笑みを、お互いに浮かべあった。
 明日もこのまま、隣に居られますように。