Marlboro

 仕事の合間、いわゆる空き時間。
 手持ち無沙汰に待つだけも飽きるので、気分転換にあちこちぶらぶらしてみる事にした。
 そうして結局、辿り着くのはビルの屋上。晴れやかな空が頭上一面に広がる、風も強くあまり過ごしやすいとは言い得ない空間。
 最後の段差を登り切り、狭い踊り場を一直線に横切って封鎖されているはずの扉を、押す。
 呆気ないまでに抵抗もなく向こう側へ開かれた扉の、先に。
 遠く、鳴り響く救急車の声と。
 薄く棚引く煙が見えた。

 
「あれ?」
 第一声が、それ。
「んぁ?」
 声に、振り返るつなぎ姿。
 がしゃん、とその足下にあった金バケツが音を立てた。動いた時に爪先かなにかで蹴ってしまったのだろう、洗われたばかりなのか重そうな雑巾がひらりともせず表面に張り付いている。
 不機嫌そうに歪められた口許で、けれど相変わらず天へ上る細い煙を吐き出し続けているものが、ひとつ。
 目深に被った帽子の鍔を持ち上げ、彼は珍しい来訪者を日光の下で意味深に観察しているようでもあった。
「よぉ」
 決して初対面ではないのだけれど、言うほど親しくもない知人を漸く認識してあちら様は馴れ馴れしい素振りでもって片手を挙げた。
「珍しいな」
 後ろ手に扉を押し、勝手に轟音を立てて閉まるのを見送りもせずにコンクリートの地面を蹴って進む。彼はにやにやと笑いながら、バケツの傍に立てかけていたモップが倒れそうになったのをあわてて受け止めた。
「サボり?」
「休憩と言いやがれ、休憩だっつの」
 間近に進み出てから問うと、彼は銜えていた煙草のフィルターに近い部分を指で摘み、煙を盛大に吐き出しながら悪態を吐く。凭れ掛かっている、ビルの屋上をぐるりと囲む鉄柵を片手で掴み、バランスを取りながら彼は背を大きく仰け反らせた。そうやって、肺にため込んでいた空気を煙と一緒に空へ送り返す。
 燃え尽きた灰は、ぽとりと彼の足下へ。
「自分で掃除しなよ」
 ビルが契約している清掃業者のマークを背中に背負っている彼に呟き、自分は両肘を柵の外側に引っかけて前屈みに凭れる。頬杖をついて退屈な町並みを眺めていると、隣の彼はこれ見よがしに、煙草を美味そうに吸っては満足な顔をして煙を吐き出してくる。
 ムッとなって、対抗意識を燃やしたわけではないけれど、無意識のうちに手が胸元のポケットをまさぐっていた。
 残り短くなった煙草が彼の足下に捨てられる。火種を爪先で踏み消し、掃除するのは誰だと思っているのかと自分で勝手にぼやいているのが聞こえた。
 その間に漸く探し当てたものを、指先で器用にポケットから穿りだして掴み直す。箱の蓋を開けて、真っ先に見えたブルーメタリックのジッポを取り出して、それから。
 次なるものを目指して突っ込んだ人差し指は、しかし虚空を探るだけで何物も見つけ出す事が出来なかった。
「……アレ?」
 隣で二本目に火をつけていた彼が、怪訝な表情でもって様子を窺ってくる。片手を風よけの壁にしていた彼の、視線だけが手元の箱を注視して。
 嫌な結論に至ったのか、途端渋い顔を作る。
「要るか?」
「モチ」
 ほらよ、とそれでも一度は仕舞いかけていた自分の箱を抜き取って差し出して、彼は嫌々ながらも蓋を親指で押し上げた。
 暴かれた中身は、まだ半分ほど手つかずのまま。
 けれど。
「えー……マルボロ?」
 赤と白をメインに、黒文字で書かれた銘を読み取って、差し出された側の自分が不満を口に出す。
「駄目かよ」
「ダメっていうか……うーん……」
「なら自分で買って来い」
「売ってるんだったら、そうするんだけどネ~」
 ビルの中にいくつか置かれている煙草の自動販売機。けれど自分がもっぱら好んで吸う銘柄は、その中に並べられていないのだ。外に買いに出れば手に入らない事もないだろうが、そこまでするのもまた、億劫。
 数秒間考えて、色々暗中模索する事もあり視線を天に浮かせてまた沈め、結局のところ、差し出された箱から一本だけ飛び出たそれを摘んでしまうわけだけれど。
 すかさず安物の百円ライターが火を点し、致せり尽くせりのままいつもとはほんの少し違う苦さが喉を通り、身体の中に浸みていた。
 吸い込みすぎた空気に噎せて、咳が出る。
「そんなに不味いかよ」
「そゆワケじゃないんだけどネ」
 気を悪くしたように口角を歪めた彼に片手を顔の前で立てて謝り、吐き捨てかけた煙草を掴んで保護したまま、ふたくちめを喉に通す。さっきよりかは幾分マシになって、渋み以外の味が広がっていくのが分かった。
 だがやはり、舌が違和感を訴えて来る。
 微細な違いであるはずだが、慣れない。
「しかし、良いのか? お前さん、確か禁煙中って話聞いたぜ」
 背中をぐっと逸らしたまま、鉄柵に体重を預け彼が尋ねる。器用に吐いた煙をドーナツ状にして、目元は薄く笑んでいる。 
 真似てみたが、巧く行かない。
「見つからなきゃ良いのデス」
「知らね~ぞ、俺は」
 お前のトコのリーダーはおっかないんだろう、と何処で聞きつけたのか知らない事を口に出し、けたけたと笑って彼は燃え尽きた吸い殻をコンクリートに落とす。灰が砕けて飛び散って、一本目のそれを汚していた。
 走らせた視線の片隅で眺めて、自分はポケットに潜ませていた小型の携帯灰皿を広げてそこに灰を落とす。良いのか、と目線だけで問うと、どうせ掃除をするのは自分だから、と開き直った感の台詞を吐き捨ててくれた。
 呆れて笑ってやると、向こうも同じような表情で肩を竦める。
「君こそ、見つかったらヤバイんじゃない? 腕利きの、スナイパー君?」
 戯けた調子で重ねて言ってやると、瞬間彼の目つきが鋭いものに変わる。しかし本気のそれでない事くらいお互い承知の上で、現に彼が掴んだのはバケツに端が突っ込まれたモップの柄。その一番の凶器は、汚水にまみれた先端部分だろう。
 脅す体制で引き抜こうと力を込めた彼の袖がまくられた腕を見やり、ジリジリと後退してみせると一緒になって、煙も揺らぎ一瞬だけ斜めになる。
「二本目は無いと思え」
「あ、言えば分けてくれたんだ」
 既に残り少なく短くなってしまっている煙草を軽く指で弾き、意趣返しで言われた事を茶化してみせたら、彼は案の定ムッツリと不機嫌を顔に出してモップを握る手に力を込めてくれた。
 冗談だよ、と小声で言い返さねば、本気で濡れたモップが頭に振りかざされたかもしれない。冷や汗を覚え、煙草を吸う。
 落ち着かせようと肺いっぱいに息を吸い込み、煙と共に吐きだして、前歯で短いフィルターを浅く噛む。慣れない味ではあるが、離れがたく名残惜しい。
 こうも依存症になるとは。自分でも予想出来なかった結末に、自然と笑みが零れ落ちて、傍らの彼に怪訝がられた。
「時間は良いのか」
「ん~……まだ平気」
 仕事があるのだろう、と知りもしない人のスケジュールを気にする彼の腕時計を強引に脇から覗き込み、文字盤の時針と短針を読み取ってあっけらかんと返す。自分のを見れば良いだろう、ともっともな事を言われたが、生憎と時計は持ち歩いていない。
 そう言ったら、携帯は持っているくせに、と舌打ちされた。
「……ダメ?」
「ダメ以前の問題だろうが」
 まったく、と独りごちて彼もまた時計を眺めた。安物の時計を覆う薄い硝子に、天頂よりもやや傾いた日の光が反射する。
 目の前に広がる光景は、一向に変化を見せない灰色に染まった人工の、無機質な空間を彩っていて少しだけ寂しい。
 最後の一息を吐きだして、煙草は揉みくちゃにされながら携帯灰皿に落とされた。
 手持ち無沙汰になった両腕が、柵を乗り越えて空中で意味も無く踊る。
 舌の上に僅かに残るマルボロの味だけが、いつもと少しだけ違って思えた。
「君はなんで此処に居るの」
「居たら悪いのか」
「全然」
 会話にもならないたわい無いやりとりを繰り返し、指の隙間を抜けていくビル風に時々身を竦ませる。
 三本目に火をつけた彼が、飛ばされないように帽子を片手で押さえつけたまま、なにも無い空を見上げた。狭い青空を渡鳥の影さえ、そこには無い。
「たぶんお前さんと理由は同じだ」
 なにも無い場所で、なににも縛られない場所で、なににも気を惑わされず、なにかに邪魔される事もなく。
 煙草でも吸って、ひとり、ぼんやりと過ごす時間を持ちたくて。
 気付けば足は上を目指し、階段を上って扉を押し開いていた。
「んじゃぁ、似たもの同士って事で」
 頂戴、と掌を上にして差し出すと。
 途端、ペシッと弾かれた。
「ケチ」
「二本目は無いつっただろうが」
 吸いたがっている存在を前にして、自分だけが悠々自適に楽しむのは良いらしい。うっすら浮かべた満足そうな笑みを睨み付け、せめてもの嫌がらせとして、彼の仕事道具であるバケツを、蹴ってみた。
 小気味の良い音、とは言い難いが金物の音が空に伸びて吸い込まれていった。
 ビルの谷間を抜ける風が唸り声を上げて通り過ぎていく。煙は揺らぎ、直ぐに紛れて霞み、見えなくなる。
 呆気ない幕切れは、もの悲しい。
「救急車は、間に合ったのかな……」
 何気なく向けた視線の先は、此処よりも遙かにある歓楽街と、その手前に群がる無数のビルたち。
「さぁて、ね。俺の知ったこっちゃねぇ」
 まだ長さの残る煙草を惜しげもなく指ではじき飛ばし、落ちた火種を踏みつぶして彼が嘯く。
「間に合ったところで、どうにもならねぇさ」
「それは、君だから言えるコト?」
 お仕事道具は大事に扱ってあげようね、と再度爪先でモップの差し込まれたバケツを小突いてやる。市販されているものよりも柄が少しだけ太く、根本がずんぐりしているそれを顎でしゃくると彼は眉間に皺を寄せ、帽子を目深に被り直した。
 今更だろうに、と歯を見せて笑ってやると今度は自分が、頭を小突かれた。
「世の中、利害の一致だけで動いてるもんだぜ」
「なら、利害が一致したところで」
 何処をどう崩せばそういう展開に行くのか、またしても、しかも今度は揃えて両手を差し出され、彼は握った拳を代わりに押しつけてやった。曰く、火のついた煙草を押し当てられるよりは良いだろう、と。
 ちぇ、とつまらなさそうに宙を蹴り上げると、軽く笑い飛ばされる。
「金払うなら、考えてやるぜ?」
「いくら?」
「福沢諭吉」
 聞き返すと、即座に言ってのけられて、唖然とする気も起こらない。
「ぼったくり甚だし!」
「譲ってやろうって言ってるんだ、人の好意はありがたく受け取れ」
「そのどこが好意なのさー!」
 お互いにぎゃんぎゃん吠えていると、周囲も見えなくなるものなのか。
 気がつけば、自分たちの真横には、長い影をコンクリートの伸ばし悠然と構えるサングラスの男が立っていて。
 二人揃ってはっと我に返り、新参の彼の顔を認めた瞬間そのままの姿勢で固まってしまったのだけれど。
「続けろよ、面白いから」
 飄々とした態度を崩さずに、掌を見せて先を促された。
「MZD……」
「俺のコトは気にしなくて良いから、続けろよ。見ててやるから」
 いったい彼は何をしに、いやそもそもいつから此処に居たのだろう。まるで気配を悟らせて貰えなかった事に多少のショックを覚えつつ、見やったMZDがあちこちのポケットを、なにやら捜し物でもしているように漁っているのに気付いた。
 KKもまた、帽子の鍔を直しつつ、MZDを窺う。
 漸く目的のものを見つけたらしく、安堵の表情で取り出した箱を開いた彼は。
 しかし、二秒後に硬直する。
「……まさかとは思うが」
 空しくジッポを開閉する音が場に漂う。KKの乾いた笑い声に、MZDの視線が泳いだ。
「持ってるか」
「ぼくは持ってないヨ~」
 煙草の空箱を握りつぶし、やや苛立たしげにズボンのポケットに押し込んだMZDの問いかけに、すかさずスマイルが答える。指先は、無論KKを向いていて。
 げっ、となった彼は慌てて首を振るが、残り本数にまだ余裕があるのはスマイルに既に確認されている。逃げようが無く、鉄柵にまで追いつめられて結局降参した。
 喉を鳴らして笑い、ちゃっかりとスマイルもご相伴に預かって、KKの煙草は一気に残り本数が心許なくなってしまった。半泣きになりつつ、もう駄目だからなと念押しして彼は後ろポケットへ煙草を捻り込んだ。
 三本の煙が空に靡く。
「ったく……煙草増税だっつってんのに」
 ぶつぶつ文句を言いつつ、腹一杯の息を吸い込んでKKが地団駄を踏んだ。
「ああ、そういやニュースでそんな事も言ってんな」
 長い煙を吐き出しつつ、柵に凭れて座り込んだMZDが相槌を打つ。
「じゃあ、今度は君にぼくが煙草を奢るよ」
「それよりも、福沢君を今すぐ寄越しやがれ」
「ヤダ」
 KKを挟んでMZDとは反対方向に腰を下ろすスマイルが笑って、即座に茶々を入れるKKに舌を出して返す。ひらひらと頭上で振られた手は、自分がやられた時同様に、たたき返してやった。
 見ているだけのMZDがケタケタ笑い、彼の足下で丸くなった影が肩を竦めた。
「しっかし……マルボロかよ。安いの吸ってんなぁ」
「ほっとけ!」
「だよねぇ。どうせなら、赤よりも金色のが……」
「いや、それは関係ないだろ」
 ぽつり言ったスマイルに、ふたりから同時にツッコミが飛んできて苦笑が漏れる。
 見上げた雲の隙間に、ジャンボジェットの機影が見えた。
「時間は?」
 KKが尋ねてきて、スマイルは今度こそ自分の携帯電話を取り出して開いた。小さな液晶画面に、着信有りの文字が明滅している事に今更ながら、気付く。
 時間はちょうど、数分前。発信元は、言わずもがな。
 タイミングを同じくして、三人がくつろいでいる屋上の扉が物凄い音を立てて外側に、それこそ弾け飛んでいくのではと怯える程に、力任せに開かれた。
 鬼の形相で立っていたのは、スマイルの携帯を数分前に鳴らした人物に他ならず。
 スマイルの口から、銜えていた煙草が支えを失って落ちた。
「……言わんこっちゃねぇ」
 呆れと笑いを同時に浮かべた表情でMZDとKKが見送る前で、スマイルはユーリに引きずられて行った。脳天に、これから収録があるのに大丈夫なのか心配になる、巨大なたんこぶまで作って。
 少しだけ閉まりが悪くなってしまったらしい扉が、やはり強引に閉められて場が静まる。扉の向こうから今しばらくはユーリの怒鳴り声が聞こえてきたけれど、それも直に聞こえなくなった。
 最後の一息を吐き切って、KKは腰を上げた。足下に積み上げられた煙草の吸い殻を、バケツに差し入れたままのモップの先に絡めて拾い集める。便乗したMZDが自分の吸い殻をその中に紛れ込ませ、ズボンの埃を払いながらやはり立ち上がった。
「ごっそさん」
「ツケとくぜ」
 ひらりと手を振ると、不適な笑みを浮かべてKKが人差し指を立て、MZDを狙う仕草で片目を閉じた。
「倍返しにしてやるよ」
 真顔で言えば、冗談に受け止められて笑い飛ばされる。
「じゃあな」
 手を振り、MZDも去る。結局彼も、何をしに来たのか分からない。
 ただ、分かるのは。
 無意識に煙草の入ったポケットをまさぐり、KKは目に見えて分かるその凹み具合に肩を竦めて自分に笑った。
 世の中のはみ出しものは、こんななにもない寂しい場所に集まりたがる。
 モップを肩に担ぎ、バケツを持ってKKも閉め忘れられた扉を目指し歩き出した。
 口の中に残る、マルボロの苦みに少しの未練を覚えながら。