時折小春日和の陽射しが地表を明るく照らすとは言え、未だ季節は冬の盛り。時間も過ぎれば木枯らしが吹き付ける、厳しい寒さが戻ってくるに違いない。
だが街を行き交う人たちの群れはそれぞれに暖かなコートに身をくるみ、どこか忙しなげに歩いている。時々浮かれたような、軽い足取りで去っていくのは良いことでもあった人たちか。
まあ、今日という日を考えればそれも無理ないことかも知れない。
あまり優れているとは言えない顔色を色濃いサングラスで隠し、裾の長いコートを翻してアスファルトを踏みしめる。
店頭や街頭のスピーカーから流れてくる音楽はいずれもアップテンポで、軽快なリズムが人の脚を早めさせている。色に例えるとしたら、それは「赤」に他ならないだろう。
片思いに揺れる乙女心を描いた詩を唄っている女性シンガーの声に、恋人との甘い語り合いを模した男性ボーカルバンドの曲が重なっていた。背後を走り抜ける車から響くのは、海外アーティストの豪奢な声色。
それらの音楽が色とりどりに混じり合い過ぎて、原曲を聞き分けるのさえ苦労してしまう。街中に響くおもちゃ箱をひっくり返した喧噪に吐息を零し、彼は大股に進むと角のビル全フロアを使って展開している大型書店に脚を踏み入れた。
一変して、世界は静かなクラシック音楽が控えめに奏でられた場所へ移動する。時折学生らしき集団が屯していたりはするが、主に客はひとりずつ訪れているようで、レジの近辺を覗き殆ど静かなもの。
たかだか壁一枚を隔てただけで、こうも世界が変わるものかと珍妙な感心を胸に抱いて彼は自動ドア脇の案内板に目をやった。
背の高い彼でさえも首を上向けねばならない階の説明版に目をやって、若干ずれ落ちてきたサングラスを指で押し上げる。視線を巡らせてエレベータを探し出し、そちらへ向かった。
途中、平積みされた新刊本や売れ筋商品を並べたコーナーを通りがかり、煽り文章につられてつい立ち止まってしまう。興味惹かれたものを幾つか手にとって広げてみたが、どれも購入に踏み切る程のものでは無さそうで、元あった場所に綺麗に整えてから戻した。金融に関する書物が並んだコーナーで、熱心というかむしろ必死の形相で文章を追い掛けて立ち読みしているサラリーマン風の男がいて、苦笑を誘った。
書物から得た知識は確かに自身の血肉となり得るけれど、それだけでなにもかもが上手くいくわけではない。実行力と決断力こそがなによりも重要であろうに。
レクチャー本を数冊手に、レジへと向かった男の背中を見送って彼は丁度ドアを開けたエレベータへと乗り込んだ。無人の箱でボタンを操作し、最上階からひとつ下を目指す。数十秒という時間を経て、目的のフロアは目の前にあった。
一角は参考書や赤本の羅列する書架。だが奥には手前側とはまるで趣も違う、やはり無数の本が並べられていた。
いや、それらを本と言うべきか。平積みも殆どされず、扱われている項目ごとに分類されて書架に押し込められているそれらは、分厚さからしてみれば他と比べ値段は跳ね上がる。
彼は少し悩んで、とある棚の前で脚を留めた。ポケットに押し込めていた黒の革手袋を嵌めたままでいる手を持ち上げ、適当に一冊を引き抜く。
考える事もなく広げたページには、両面を使って映し出された満点の星空。左端に小さく、撮影場所を説明した文章が記載されている以外はすべて、写真。
夜の星、といった類のタイトルが付けられていて、飾り気は全くない。いっそ潔いまでの素っ気なさに苦笑して、彼は写真集を元あった場所に戻した。続き、同じ写真家の作品らしい別のものを引っ張ってみる。
同じ感性で撮影されているからか、どこか似通った感のある写真ばかりが並んでいて面白味に欠ける感じは否めなかった。写真家が悪いのではなく、見上げれば余程詳しくない限り、星々の並びも同じに見える眼しか持ち得ない存在には眺め続けるには、少々辛いところがある。
彼は溜息混じりに首を振り、隣の書架に目を流した。
隣のフロアから、参考書を探しに来た学生らしき数人の談笑が聞こえてくる以外、ここには殆ど音がない。分厚い紙を使っている写真集は、捲るたびに間に挟み込まれた空気が抜ける感触だけが残る。
レジで退屈そうにしている店員が、あくびを噛み殺しながら奥まったコーナーに居座る彼を、物珍しげに眺めていた。黒塗りのサングラスとコート、手袋と黒一色に身を固めた出で立ちは、物々しさまで雰囲気にまとわりつくためかこういう場所だと浮き上がってならない。
人目を避けたい職種ではあるのだが、普段ブラウン管に現している自分の性格とキャラクターからか、未だにこの格好で出歩いても正体を見破られた経験は無かった。
数冊の写真集を吟味してから、うち二冊を手元に残して他は棚へ戻した。本当は一冊だけにするつもりだったのが、探しているうちに古い、欧羅巴の町並みを写し取ったモノクロ写真集を見つけてしまい、つい自分用にと購入を決めてしまう。もう一冊は青空と雲、それから緑の樹を巧みに写し取った写真集。
飾り気もなにもない、寄せることばさえ少ない空の写真。だが悪くない。
彼はこの二冊を取ると、退屈を持て余していく若い店員が待つレジへ向かった。ズボンの後ろポケットから財布を抜き取り、会計を済ませる。興味津々を目に現した店員が、ひょっと札入れの中身を覗き込んできて眩暈を引き起こしかけていたのは、笑って見過ごすことにする。恐らく店員は彼のことを誤解したまま一生を終えるだろう。
袋に入れて貰った本を受け取り、釣り銭もしっかりと財布に戻して今度はエレベータではなく、エスカレータで階を降りていった。途中で何かに出逢えるかも知れないと想起しての事だったが、結局足取りは濁る事無くスタート地点へ戻された。
有り難うございました、という女性店員の明るい声に背中を押され、外へ出る。陽射しは穏やかで、風も無く気持ちがよい。これでこの喧噪がもう少し大人しかったなら良かったのに、と考えても無駄な事を思いつつ次の目的地へ進む。
とは言っても、特別此処に居かねばならない、という場所は無い。右手に提げた袋の重みを感じ取りつつ、書店からさほど遠くないビルへ入った。
途端感じたのは、咽せ返り吐き気さえ覚えてしまいたくなる程の甘い香り。
ああ、そういえば今日はそんな日だったか、と。今更ながら失念しかかっていた今日という日のイベントを思い出して微かに痛みを訴えるこめかみに指をやった。
複合商業ビルの一階フロアではこの期間だけワゴンが広げられ、無数のチョコレートが販売されていた。色めき立つ女性陣はそのいずれにも群れを成し、時には恐ろしいまでの意欲を発揮しながらチョコレートを吟味し、物色している。
彼処には近付くまいと心に決め、遠巻きに眺めた。本来の今日という日の定義からは逸脱しているが、きっと誰もそんな事に構うつもりはないらしい。今日でなくても良いだろうに、今日だからと彼女たちは必死になっている。
聖バレンタインデーと、人が呼ぶ今日だからこそ。
尤も自分は極度に甘いものが不得手だから、匂いだけでも御免被りたい。去年は去年で、せめてもの心づくしと必死にもてなして貰えたものの、有り難迷惑だったところはある。言えば向こうは、哀しい顔をして悪かった、と謝罪するだろうから言いはしなかったが。
何故チョコレートに拘るのかが、分からない。商業資本の宣伝効果に踊らされているだけだと言うのに、人々は好んで自分から踊りたがるようだ。
騒々しい特設会場に背を向け、雑貨屋が入った階までエスカレータを利用して昇る。趣味の良い食器が並ぶコーナーを探して出向き、真っ白い陶器のマグカップをふたつ購入。贈り物ではないと伝え、包装も最低限で済ませた。
レジ打ちの女性が、本屋での男性店員とはまた違った反応を示していて、試しにサングラスのまま口許に柔らかな笑みを浮かべてみせた。すると、背後に控えていた別の店員までもが微かだったものの、黄色い悲鳴を上げて色めきあっていた。
「……ありがとう」
受け取るときにもさりげなく囁くと、彼女たちは爪先立ちで胸のまで両腕を擦り合わせ、興奮気味の声で「有り難うございました!」と叫ぶ。きっと、今日の日にチョコレートを贈る相手が居ないのだろう、彼女たちには。
騒々しいだけの街から、さっさと静かで穏やかなあの住処へ戻りたい。溜息を零し、再びあの甘い匂いが立ちこめるフロアをそそくさと去る。眩暈だけが残った。
そうして駐車場に停めて置いた自分のバイクを起動させ、荷物をシート下にある荷物を入れる空間に放り込んで跨って、公道に出て帰宅の一途を辿ろうとした最中。
幾分落とし気味のスピードの御陰で周囲もある程度把握できていた道のりで、ふと、どこかで見た光景が通り過ぎる。
それはちょうど一年前、仕事から帰って城への道を今と同じようにバイクに跨り急いでいた時。あの日と同じ道を今進んでいることに気付いて、だったら、と信号でUターンしてみせた。案の定、去年と同じ場所にその店は残っていて。
女性店員は、あろう事か彼の事をしっかり覚えていた。
ヘルメットを脱ぎ、店の前ガードレールの外にバイクを停止させた彼を見て、にこやかに微笑みかけた彼女は真っ先にひとこと。
「薔薇、ありますよ?」
と、言ったのだ。
「……記憶力良いんだ」
以後この店を訪れた事はない。一年も前の事なのに、とぼやきながらバイクのキーを抜いた彼に、店員はクスクスと口許を隠しながら笑った。
「だって、お客さん。お店の薔薇の花全部買い取って行ったの、お客さんが最初で最後ですもの」
あの時は吃驚したけれど、それが余計に印象深く記憶に残される事になったらしい。だからなのか、今日訪れた時店の前は真っ赤に色付く薔薇で溢れかえっていた。
「どうされます? また全部になさいます?」
「……からかわないでよ」
いくらなんでも、二年連続で花屋の薔薇を買い占めるわけにも行くまい。
「適当に……そうだな。ピンクとかって、ある?」
「勿論。今年は特に、種類を多く用意してみたんですよ」
ひょっとしなくても、自分はこの店で薔薇を買うことを来年以降も余儀なくされてしまったのだろうか。背中に冷や汗を一滴垂らしながら、彼はバレンタイン用に仕入れられたであろう薔薇の数々に目をやった。
こうも数が揃うと、匂いがきつい。チョコレートとはまた違う鼻につく香りに眉根を顰めながら、店の奥でピックアップした本当に淡いピンク色の薔薇を花束に仕上げていく店員の手元だけを眺める。
流石に手慣れたもので、速い。薔薇の根本にはさみを入れ、棘を取って纏め上げていく。束ねられた根本にはリボンを。ピンクばかりだと飽きるからか、他の色合いも控えめに混ぜていき、完成までに要した時間はものの五分と掛からない。
「はい、お待たせしました」
そう言って店員は、にこやかに微笑んで出来上がったばかりの花束と一緒にカードを差し出してくる。金額を告げられ、受け取った花束を胸に抱き財布を取りだして支払いを済ませる。
深々と腰を低くして頭を下げた店員に見送られ、バイクに跨りキーを差し込んで捻る。落とさぬように薔薇をシートの後ろに挟み込んで、渡されたカードに目を落とした。去年とは色も形も違っているそれは、どうやら毎年作り替えられる店オリジナルのものらしい。但し文面は、バレンタイン特製なのか去年と変わらず。
片手で広げたカードを畳むと、コートの前合わせに差し込んで胸ポケットに押し込める。まだ見送っている店員に苦笑して、アクセルを思い切り捻った。
轟音をあげて駆け出したバイクで、風を浴びながら帰路を急ぐ。もう寄り道する気も起きず、周囲に目を配る余力も与えず前だけを睨んで。
城は静まりかえり、街の喧噪が嘘だったかのような錯覚を覚えたくなるまでに沈黙している。買い物の荷物を抱えて中へ入り、まず先に自室へ向かって薔薇の花束をベッドの上に置いた。包装を解いたマグカップの取っ手を片手でまとめて掴み、写真集は自分の分だけ机に放り投げてもう一冊は花束の横に置いた。
脱いだコートは皺になるのも構わずに椅子の背もたれに引っ掛けて。革手袋も一緒に椅子の上に。
「ユーリは部屋、かな」
彼が帰ってきた時誰も出迎えに現れなかったが、広すぎる城内では来訪者の気配を探るのも一苦労。ましてや、呼び鈴を鳴らしもしない相手など無視されるだけ。
城主はここ数日、春から始まるツアーの企画立案と新曲に必死で部屋に籠もりっぱなしだ。今日が何日で何曜日あるか、も覚えていないに違いない。
自然と苦笑が浮かんで、肩を竦めるとマグカップを落とさぬように揺らしながら部屋を出た。夕暮れ間近の時間帯、台所の主ことアッシュは夕食の買い出しで留守にしているようだった。
誰も居ないリビングと食堂を抜け、最小限の照明だけが灯っている広いキッチンを訪れる。買ったばかりのマグカップをシンクに置き、値札のシールを丁寧に剥がして泡立てたスポンジで綺麗に洗う。まさか買ってきたものをそのまま使うわけには行くまい。
水気を払い、完全に乾くまで逆さまに置いてから彼はくるりと身体を反転させた。居並ぶ食器棚を見上げ、食材が仕舞われている棚の前で膝を折った。
主にこの場を使用しているアッシュの性格を反映してか、非常に分かりやすい整理の仕方をされている棚を僅かに漁って、彼は目的のものを発見するに至る。もうひとつの捜し物も直ぐに見付かって、彼はふたつの瓶を横並びに作業台のテーブルに置くと今度はコンロに向かう。
ケトルに水を入れて火に掛け、換気扇を回してから乾かしていたカップをひっくり返した。まだ僅かに残っている水気をタオルで拭って、スプーンを抓み形も大きさも違う瓶の前にカップを置き、蓋を取る。
大人しいとはいえ、漂った甘い香りに一瞬だけむっと表情を煙らせた。なんとか堪え、大さじで三杯の茶色い粉末を片方のマグカップに移し替える。残り少なくなっている瓶の中身を集めるため、円形の瓶を傾けて数回、底をテーブルで叩いた。
粉が舞い上がり、鼻腔に甘い匂いが広がって彼はつい咳き込んだ。溜息が自然と溢れて、肩を竦めると甘い粉をまとわりつかせているスプーンを一旦水で洗い流した。
その間に、ケトルはしゅうしゅうと白い煙を吐き出すまでになっていて、伸ばした指でコンロの火を止めると彼はもう片方の瓶を開けた。
今度は独特の苦みを持つ香りが漂ってきて、漸くホッとした顔を見せた彼はそれで少し気を良くし、いつもより多めに砕かれた粉を真っ白なマグカップへ放り込んだ。湿気にやられないようしっかりと蓋を閉め、熱せられたケトルの取っ手を掴みふたつのカップへ湯を注ぎ込む。
あっという間に、台所に豊かな香りが二種類、不器用に混じり合って広がった。
「これで、持っていく前にぼくが匂いに負けて零したら死ぬよね……」
香りだけで既に咽せたくなるのに、頭からかぶりでもしたら気を失うだけで果たして済むだろうか。それでなくとも、熱湯を注ぎ込んでいるので火傷は免れないだろう。場所が階段なら、落下の衝撃で打撲もあり得る。
そこまで考えて、止めた。頭を振る。可能性は幾らでも列挙できるが、確実にそうなるとは言えない。むしろ、起こらないようにすべきなのに。
「さ、て……お仕事頑張っている人に差し入れしにでも行きますか」
一息で吐きだし、彼はテーブルを軽く叩いて自分に気合いを入れた。目の前で、湯気を立てるマグカップから甘い香りが大気に溶けていた。
■□■
ふう、と息を吐く。机に立てていた肘が気怠げに、ぱたりと倒れた。同時に握り続けていた万年筆も放りだし、疲れを隠せない身体を背もたれに放り投げた。
ぎしぎしと年季の入った椅子が軋む。壊れてしまいそうなのに未だ一度として修理の手を加えたことの無い椅子が、健気に投げ出されている細い肢体を支えた。
机上、そして床のあちらこちらにまで散らばった元は白かったはずの紙。丸められたり、また延ばされたり、千切られたりと形状を変えているものもちらほらと見受けられ、彼が一体どれだけの時間をこの部屋で、机に向いたまま過ごしていたのかを想像させてくれる。
彼は片腕を力無く脇に垂らしたまま、眉間を数回指で揉み扱いた。そんな事をしたところで、疲労感が消え失せるはずはないのだが特に目の疲れが酷くて、何もしないで放っておく事も出来なかったのが正しい。
数回瞬きをして、目を閉じる。果たして期日まで何日残っているのだろう、考えたくもなくて彼は首を力無く振った。
コンコン、と二度ドアが遠慮がちにノックされる。
「ん……?」
薄く瞼を開けて音を確認するが、振り返る事も、ましてやドアを開けてやることも億劫過ぎて彼は無視することに決めた。どうせ大した用事ではないだろう、腹は空いていないし時間的にまだ夕食にも早すぎる。
だがドアの外に居る存在は、そんな彼の思惑を無視してまたもノックを繰り返す。連続で二回、間を置いてもう一度。音は苛ついているのか少しずつ大きくなっていって、放っておけば一時間後にはドアを殴り破る勢いでも持ちそうだ。
そんな事をしてきたら、即刻城から追い出して二度と足を踏み入れられないようにしてやるのだが。破壊された自室の古めかしいドアを想像して、くっと奥歯を鳴らした彼は前方に投げ出していた両膝を少しだけ曲げ、寄せた。
垂らしているだけでも思わぬ力が必要となるらしい。関節に僅かながら痛みを覚え、両方を膝に置いた彼は首を伸ばすと背骨が食い込んでいた椅子から身を離した。乱雑な机の上が目に入る。投げ出したまま乾燥するに任せていた万年筆を取り戻してインク瓶に添えつけられているキャップに突き刺し、勢い任せに椅子を膝裏で押した。
立ち上がる。多少ぐらついた椅子も結局倒れるなどという間抜けな結末を回避させ、幾分不満顔で彼を見上げていた。
再度ドアがノックされる。今度は一度きり、けれど少しだけ強めに。
「まったく」
今頃なんなんだ、と波だった声で彼は呟き椅子の脚を爪先で蹴り飛ばして扉口へ向かった。今が休息――煮詰まった挙げ句の休憩でなければ、きっと来訪者など無視を貫いていただろうに、残念ながら彼は現在、四方八方行き詰まって息苦しさを覚えている最中だった。
腹立たしさを隠しもせず、彼は真鍮のドアノブを握ると右に捻って勢い任せに引いた。途端、新たに現れた空間に突如として、白いけれど微妙に視界を遮る煙を漂わせたものが現れる。
ギョッとして片足を反射的に引いて腰を落とした彼の耳に、暢気な声が響く。
「やぁっと開けてくれた」
ホッと安堵の息と共に流れ出た声は、聞き慣れてしまって真新しさを感じなくもなった存在のもの。室内でへっぴり腰になりかかっていた彼は、しかし半秒後に我を取り戻しキッと、強く不躾な来訪者を睨み付けた。
カラカラと、まるで気にした様子もなく相手は笑う。
「ユーリ、お仕事大変?」
お前が何もしないからこっちに割り振りが回ってきているんだと、言いたかった事をぐっと呑み込んだのはリーダーとしての責任感と、自尊心から。愚痴を吐くのは自分のステータスとして許し難い。喉の奥に引っ掛かっている台詞をぐっと呑み込んでいるところに、先程ドアを開けた時に自分の鼻先にあったものが改めて差し出された。
暖かな湯気を立てているそれは、真っ白いマグカップ。形と色の同じものが、未だドア外に立っている相手の、もう一方の手にもあった。
「……はい。お疲れさまのユーリに、差し入れ」
どうぞ、となおも差し出してくるので受け取ってしまい、彼は渡された暖かなものと、差し出してきた顔とを交互に見やった。
甘い香りとその暖かさに、どこかにあった心の中に棘が溶けていく感じがする。
「これは?」
「疲れてる時には、甘いものが良いんだってサ」
ぼくは御免だけどね。そう呟いて、彼は手元に残ったカップを両手で支え直した。そちらはどうやら、ユーリの手に収まっているものとは中身が違うらしい。匂いからして、珈琲かその辺だろう。
ユーリは再度、自分の手の中にあるカップと液体を見下ろした。視界が煙りそうな白い湯気はそこそこに、濁った茶色の液体がたっぷりと注がれている。顔を寄せれば甘ったるい匂いが鼻腔に広がって、匂いだけでも嫌悪感を覚えるという程の甘味嫌いのスマイルがこれを此処まで持ってくるのだって、かなり苦労だったろうと思った。
それなのに、わざわざ。
考えるとおかしくて、ぷっと噴き出してしまう。
「ナニ」
「いや……いただこう」
笑みを抑えつつ、感謝の意を込めてカップを軽く持ち上げて告げ、ユーリは踵を返した。特に勧めはしなかったのだが、スマイルも続いて室内に入ってくる。そして散らばっている床を眺め、困ったように顔を歪めた。
「片付けでもしていってくれるか?」
「あー……うん。遠慮しマス」
固い笑顔で呟いて、彼は手近な所にあった別の椅子に腰掛けて珈琲を啜った。ユーリもまた、蹴り飛ばした御陰で角度が変わっていた椅子に浅く座りマグカップを傾ける。
甘い香りと味が舌の上に熱と共に広がっていった。
「ココア……?」
身体が温まって行く感じがする。同時に閉塞感に囚われていた思考能力が解放され、焦燥感や疲労感が緩んでいく。
ああ、確かに疲れている時にこれは悪くないかも知れない。いつもならば、こんな甘いだけの飲み物には手を出さないのだけれど。新たな発見をした気分で、ユーリは尚もカップの中身に舌鼓を打った。
「美味しい?」
「悪くない」
ただ、素直に答えるのは何故か癪に障って、問いかけにはこんなことばでしか答えられなかったけれど。思いは伝わっているのか、呆れた顔でスマイルは苦笑していた。
椅子へ深く座り直して、両手で程良い暖かさを保つマグカップを包み込むように持つ。
「あんまり根詰め過ぎない方がイイヨ、ユーリが先に参っちゃう」
「肝に銘じておこう」
ふっと笑んでココアに目を落とす。渦を巻いた茶色い液体はどろどろとしていて、見目は悪い癖にユーリの心を解してならない。コクン、と喉を鳴らしてひとくち飲み干すと斜め向かいからの視線に気付いた。
スマイルがじっと、柔らかな表情で彼を眺めていた。
「なんだ?」
「ううん、なんでも」
問いかけても彼は首を振り、真っ白いマグカップの珈琲を煽るだけ。どこか不満を覚えて、ユーリは釈然としないままココアが冷め切る前に全部呑んでしまった。
舌先に甘さだけが残る。底の端に溶け残った粉の濃い塊を視界に収め、空になったカップをどうしよう、と首を捻る。顔を上げ、持ってきた本人に片づけを任せようとしたところ。
スマイルは、忽然と姿を消していた。
「……なっ」
絶句する。人に押しつけるものを押しつけるだけしておいて、あとは放置か。思わず抱いていたカップを落としそうになり、まだ新しいはずのそれを慌てて掴み直す。
中腰になっていた姿勢をどうすることも出来ず、一旦座ってから悔しそうに髪を掻き上げ、ユーリは舌打ちの末もう一度立ち上がった。今度こそ転げそうなまでに椅子の脚を蹴り飛ばして、荒っぽい足取りでドアを潜り抜ける。
背後で声を潜め笑う気配があったが、振り返りはしなかった。
階段を下りて台所へ出向く。買い物から帰ってきたばかりらしいアッシュが先に居て、袋から食材を取り出し冷蔵庫に移し替えている最中だった。
「どうかしたっスか?」
ユーリ自らが台所に出向くのは珍しい事で、床の上に膝をついていた彼が前髪に隠れ気味の目を向けて来る。そしてユーリが持っている、見覚えのない陶器のカップに眉目を顰めさせた。
「いや、スマイルが」
「スマイルが?」
「ココアを……だな」
持ってきてくれたのだがそれだけで、片付けまで面倒を見てくれなかったから自分で来るしかなかったのだと、どことなく言い訳めいた口振りでユーリは呟いた。内側に残る粉っぽい茶色ラインに目を落とし、縁取りを指でなぞる。
片膝を浮かせたアッシュが、僅かに目を見開いた。
「ココア……っスか」
そういえば、確か今日は。
記憶の片隅に眠っていたカレンダーが甦ってきて、アッシュは成る程、とひとり勝手に得心する。不満顔のユーリがむっとして彼を睨んだ。
「ユーリ、今日は何日だったか覚えてるっスか?」
「今日?」
台所にまでカレンダーは吊されていなくて、ユーリは困ってしまう。日付の感覚がすっかり遠退いてしまっていて、確か二月の中旬に差し掛かろうとしている頃だろうとは辛うじて理解したが、具体的には分からない。
本気で悩んでしまっている彼を見下ろし、立ち上がったアッシュは空っぽになった袋を畳みつつユーリの置いたマグカップをシンクに降ろした。すると先に、別のものが置かれていて彼はまたしても、一瞬だけ目を見開く。
まったく同じものが、もうひとつ、そこに。
「素直じゃないっスねぇ」
呆れた声で呟いて、アッシュは白いマグカップを横並びに端へ追いやった。
「アッシュ?」
「今日は、バレンタインっスよ」
聞き取れなかった声に名前を呼んだところへ、そう返される。咄嗟に事態が結合せず、ユーリは渋い顔で彼の背中を睨んだ。だが、アッシュが蛇口を捻ってマグカップを簡単に洗い出してから、漸くユーリは、今日という日のイベント内容を思い出した。
俄に顔が赤くなる。
「だ、だからってそれがどういう……」
ユーリはスマイルにココアは貰ったものの、チョコレートやそういう類の品は受け取っていない。口ごもりつつも反論を試みたユーリだったけれど、水を止めたアッシュが手を振って水気を飛ばしてから振り返った先で、
「でも、ココアもチョコレートも元々は同じものっスよ」
どちらもカカオの実を加工して作られるもの。含みのある笑みを浮かべて言うものだから、ユーリは益々焦って顔を赤くして、拳を握りなんとか言い返そうとするものの、まともな文章はなにも頭に浮かんでこなかった。
にこにことアッシュが楽しげに笑っている。それが余計に悔しくて、ユーリは歯ぎしりをすると乱暴に床を踏みならした。踵を返し、ずんずかと台所を去っていく。後ろ手で閉められたドアは、勢い良く爆音を掻き鳴らしてくれた。
「……壊れてないっスよね」
だからついつい、アッシュはそんな心配をしてドアの蝶番を覗き込んで優しく撫でてしまった。
そのドアを破壊しかけたユーリは、リビングを抜けて広い玄関のエントランスホールに出るまで歩調も荒く、上気した頬は別の意味で赤く染まっていた。けれど誰も居ない――いや、最初からこの城には殆ど人は居ないのだけれど――玄関まで辿り着き、その冷えた空気に触れた事でなんとか、のぼせ掛かっていた思考レベルを平常値まで落とすことに成功した。深々と息を吐く。
「考えすぎだ、馬鹿者」
果たしてアッシュに言ったのか自分に言ったのか、どちらとも付かない呟きを零しユーリは口許を隠す。舌の上で、忘れ掛かっていた甘さがじんわりと広がる。
「こんな事をしている余裕など、無いのだぞ私は」
まだ熱い顔を押さえ込み、懸命に言い聞かせて止まっていた足を動かす。階段を登り、閉め忘れていたはずなのにきちんと閉められている自室の扉に疑問を抱くことなく、開ける。
瞬間。
鼻先を擽った、ココアとはまた違う甘い匂い。
「……なんだ?」
首を捻り、先程とどう変わったのか分からない部屋を見回す。違和感を受けた理由は、そう、あれだけ床を埋め尽くしていた紙ゴミが無くなっているのだ。
束にされ、不要と判断されたらしいものは黒いダストボックスに押し込められている。残りは机の上に。いつの間にか、誰かの手によってユーリの部屋は綺麗に片付けられていた。
誰か――そんなもの、今更答えるまでもない。だが、この甘い香りは。
改めてユーリは自分の部屋を見回した。扉を閉め、薄暗さを増した部屋を奥に進む。そこには寝台があって、枕許には花が飾られていて。
花?
そんなもの、自分で飾った覚えはない。更に近付いて、正体を探る。十本ほどの薔薇が包まれた花束が、暫く使われていなかったユーリの寝台、枕許に置かれていた。淡いピンク色の花弁をいっぱいに広げたそれから、甘い香りが絶えず放たれている。
眩暈がした。
花束の下には青色の、空の写真集が添えられていて。両方を手に取り、ユーリは堪えきれない笑みを零してカーテンに遮られ、今は外も見えない窓を振り返った。
「恥ずかしい奴」
心の底から、笑う。
だが、そんな彼だからこそ。
自分は。
「 」