Forest

 休暇を利用して訪れた山間のロッジは、緑豊かな森に囲まれた場所にひっそりと佇んでいた。
 借り受けた鍵を使い、訪問者も疎らなはずの中に足を踏み入れる。だが近くに管理人が住み定期的に手入れをしているとかで、思っていた以上に綺麗に片付けられていた。数歩進んでも、無粋な埃の足跡など生まれてこない。
 長かったレコーディングも無事に終了し、長かった引き籠もり状態からも漸く解放されて。だから直ぐにあの薄暗い城に帰るのもどこか憚られた気分になったから、丁度良いタイミングで現れた知人が、ならば、と教えてくれたのがこのロッジだった。
 暫く行く用事もないし、好きなだけ使ってくれて構わないとまで言われて管理人にも予め向こうが連絡を入れていてくれたらしい。隅々まで掃除が行き届いていた屋内に、台所を真っ先に目指していた料理人兼ドラムスの彼は食材が買い足されている冷蔵庫を発見し、歓喜の声を挙げ小躍りを果たしていた。
 やれやれと、騒ぐ声に何事かと様子を観に行ったふたりは互いに肩を竦めあい、当分彼はあのまま悦びに浸したままで放置しておこう、とことばを交わすことなく決める。
「今夜は奮発するっスよ!」
 けれど扉口で笑い合ったままで居たら目聡く発見されて、腕まくり状態で叫ばれた。
「期待してるヨ」
「そのことば、しかと聞いたからな」
 ガッツポーズで決め込むアッシュに苦笑して、ふたり思い思いに声を掛け台所を後にする。気の利く管理人の心配りに声に出さないものの感謝を覚えながら、一旦リビングとダイニングを兼ねている広間へ戻った。
 そこに、持ち込んだ自分たちの荷物がどっさりと置かれているからだ。
「これを、部屋に運ばないと」
「……アッシュを呼んでこい」
 なにせ三人分の荷物だ。レコーディングの泊まり開けともあって、汚れ物も相当な量になって嵩張ることこの上ない。見るからにうんざり、という顔をしているユーリに苦笑って、スマイルはやれやれと首を振った。
「偶には、自分で労働なさい」
 せめて自分の荷物くらいは、とぴしゃり言い切って彼はまず自分の鞄に手を伸ばした。横で、むっつり顔のユーリが依然不満を隠そうともせず突っ立っている。だがこれらを各自、二階にある寝室へ運び込まないことには今日を終わらせる事は出来ないのだ。
 仕方なく、無言で歩き出したスマイルの背中を追い掛けてユーリも自身の荷物に手を伸ばした。のそのそと運び、階段を登って二階へ向かう。
 部屋はふたつあって、それぞれにシングルベッドがふたつずつ。うち、スマイルは気を遣ってか奥側の扉を開いていて、御言葉に甘えユーリは手前側の部屋に入ると即座に鞄を放りだした。
 横倒しになった鞄のポケットから、入れたままだった鍵が飛び出して床に落ちる。
「ナニやってるの……」 
 背後から呆れた声が聞こえて、振り返れば扉に凭れかかったスマイルの姿。ばつが悪くなって、むすっと表情を曇らせると彼はカラカラ笑い、手を振った。
「ぼくとアッシュは向こうの部屋で寝るか」
 立てた親指で扉の外を指さして言った彼に、そう、と生返事を返す。余計な気を回されているのか、どうなのか。安堵して良いのかがっかり思うべきなのかでさえ悩み、ユーリが返答に窮している間にスマイルは部屋を出て行ってしまった。階段を下りていく足音が微かに聞こえる。
 恐らく、台所で奮闘しているだろう奴の荷物も運んでやるつもりなのだろう。微妙な不機嫌さを覚えつつ、残っている自分の鞄も引き取りに行かねばならず、ユーリもまた踵を返した。
 途中、その階段で案の定ふたり分の荷物を両手で抱えたスマイルとすれ違う。
「あ、そうだ。ここの裏の森、小さいけど湖があるんだって」
 後で散歩に行こうね、と告げて彼はせっせと階段を登っていった。間もなく姿は見え無くなり、ユーリは少しだけ難しい顔をして階下を見下ろした。そこには、取り残されたかのような彼の荷物がぽつんと、ひとつだけ。
 同時に運ぶには重いからと、後回しにしてしまった鞄。傍まで行って、思わず蹴り飛ばしてしまいたくなる衝動を抑え込み、彼はなんとか引きずりつつそれを二階まで運び込んだ。
 カーテンの引かれた僅かに暗い寝室で、ひとまず汚れ物とそうでないものとを分けて片づけを簡単に済ませる。小一時間もすればアッシュの、夕食を告げる声が響くだろう。それまでどうやって過ごそうか。
 先程掛けられたスマイルの台詞を思い出すが、自分が考えていた以上にこの身体は疲労を蓄積しているようで外に出る気分にはなれなかった。清潔なシーツに包まれたベッドに身を投げ出し、先程床に散らしてしまった鍵を手繰り寄せて顔の前に垂らす。
 銀色のそれは、本来自分たちが帰るべき場所を開ける為のもの。そんなもの必要ないような場所にそびえ立っているのに、形に拘ったのは自分だ。
 これがあればいつだって自分は彼処に帰ることが出来る。これを持っている彼らも、きっと自分のところに帰ってきてくれる。
 陳腐で見窄らしい考え方だったが、これを作った頃の自分はそれなりに必死だったから。今となっては、思い返すだけで恥ずかしくなる記憶だけれど。
 天井に向かって軽く放り投げたそれを、空中でキャッチする。右手で強く握り込んで、溜息が零れた。
 銀色の金属は冷たい。ふと首を傾けて覗いた、カーテン越しの空は曇っていた。
「……雨でも降るのか」
 感慨もなく呟く。天気予報などいちいちチェックを入れないから、明日の天気など知らない。晴れようが雨が降ろうが、自分の生活にはさして影響がないからだ。尤も、やはり雨が降れば少々気持ちも沈み、陰鬱な気分になったりもするけれど。
 掴んでいた鍵を頭上に置き、そのままの姿勢で目を瞑る。多少苦しい体勢ではあったが、敢えて受け止める覚悟でもう一度深く吐息を零した。
 少しの間、眠ろう。自分に言い聞かせ、身体から力を抜く。
 間もなく、ロッジの外は闇に落ちて。アッシュの呼び声が響くまで、ユーリは微動だにする事なく、様子を見に部屋を訪れたスマイルが身体にケットを掛けてくれた事にも気付かずに眠り続けた。

 ざあざあ、と。
 ああ、雨が降っているのだと意識の片隅が音の理由をそう認識する。
 真っ暗な闇の中にあって、けれど音だけがざあざあ、ざあざあ、と。
 間断なしに続く雨音は屋根を、壁を、地上を激しく打ちつけて止まない。風も吹いているのか、時折轟々という木々の間を抜ける呻り声が響いた。
 鳴き声のようだ、とさえ。
 そこに来て周囲が暗闇に包まれているのは自分が瞼を閉ざしたままであるからだと気付き、気怠い感覚を無理に奮い立たせ低く呻いた。薄く瞼を開き、だが直ぐに閉ざしてまた開く。
 瞬きの回数は四度を数え、五度目にして小さな欠伸と共に目を見開く。周囲は、けれど薄闇に閉ざされものの輪郭も朧にしか分からなかった。
「ん……」
 持ち上げた右手の甲で目を擦る。再度瞬きをした後に、突っ伏していた枕から顔を上げて上半身を起こし、ずり落ちたケットに顔を顰めさせた。被った覚えのないそれを手繰り寄せ、肩にかけ直し周囲を見回してみた。
 見知らぬ光景に眉目を歪めさせて、寝ぼけ眼のまま再度室内を眺める。
「……ああ、そうか」
 ぼんやりと考えてから、頷いた。ここは住み慣れた城でも、レコーディングの間使っていたホテルでもない。
 数日の暇を過ごすために借り受けた、森の中のロッジだ。
 雨は降り続けている、かなり激しく。一方的に嬲られているであろう大地は重い水を吸ってぬかるみ、泥の海を各地に散らばらせていることだろう。一時の嵐であれば良いのだが、とどこかぼんやりとしたままの意識で考える。
 折角の休暇を、雨で終わらせてしまうには惜しい。かなりの苦しいスケジュールで無理をさせてしまった仲間たちに、しっかりと骨休めをして貰う為にも。
 だのに、そんな気遣いを無駄にしたがる自然の残虐さは冷たく彼を包み込む。
 ぱたり、とユーリは俯せに枕へ鼻先を沈めて倒れた。僅かに遅れて、肩から外れ落ちたケットが柔らかな仕草で身体に舞い降りてくる。彼はその端を掴み、ずるずると力のない動きで引きずって頭の半分まで覆い隠した。
 掴んだ端は離さずに、拳にだけにありったけの力を込めて、柔らかすぎて手応えの乏しい布を握り込む。きつく皺の刻み込まれたそれを胸に抱き、彼は膝を折って身体を縮めこませた。
 身を丸くし、胎児の姿勢で枕に顔を押しつける感じに伏せる。片方だけ塞がれた耳が、ほんの少しだけ雨音を遠ざからせた。
 けれどまだ聞こえる、遠く近く、風が吹き荒ぶ声が悲鳴のように聞こえてくる。
 壁一枚を隔てただけの距離で、最早家族同然とも言える仲間が眠っているだろうに、その吐息は掠りもしない。存在は希薄で果たして本当に彼らが其処にいるのかどうかさえ、疑わしく感じてしまっている自分が居る。
 ただ雨が降り、風が吹き荒れ、世界が暗くて。
 ひとりぽっちでいる、それだけで。
 不安が波となって押し寄せてくる。
 ユーリはきつく唇を噛んだ。同時に抱き込んだケットで全身を包み込む。頭の先まですっぽりと深く被り、益々身体を丸めさせて膝が胸の高い位置にぶつかった。
 大丈夫、嵐は直ぐに止む。雨もいつか雲を切らせて光が覗く。ぬかるんだ大地も、新しい緑が芽吹く。
 だから、だから大丈夫。
 理屈も理由もなくそればかりを心の中で反芻させて、意識しなくても壊れたレコードのように繰り返されるまで強く刻み込んで。
 ユーリはきつく瞼を閉ざした。雨音を避けて、耳を塞ぐ。意識を闇に投げ降ろす、沈黙だけを求めて。己の呼気さえ胸に障る気がして、息を潜めた。
 雨はまだ止まない。
 夜はまだ晴れない。
 朝が嫌に遠く感じられて、見えない星を数えながらユーリはやがて色のない夢へ落ちていった。

 真っ白なカーテンの引かれた窓からは、朝の陽射しが眩しすぎる程に差し込んでいる。
「ぅ……」
 身動ぎをして、いつの間にかケットからはみ出し露わになっていた頭を数回揺さぶり、ユーリは低く呻いた。
 ちょうど窓は東側に大きく広がっていて、遮光カーテンを閉めることを忘れていた為に容赦なく朝日が彼の部屋を照らし出していた。床のフローリングに反射した光が天井にまでゆらゆらと、白壁を更に白く染めあげていた。
「うぅ……」
 更に呻き、ユーリは突っ伏したベッドの上で両腕の筋を引きつらせた。握り込んだ拳でスプリングを叩き、力を失って広げられた手がシーツを掻く。合計八本の筋が浅く広がって直ぐに消えた。
 眩しい、と閉じた瞼の裏側にまで忍び込んでくる光に彼は眉根を寄せる。もう少し眠っていたい気分なのに、邪魔をするものを追い払いたくて、何も無い空間に擡げさせた左腕を振り回した。
 当然無形物の光を払い去るのは不可能で、分かっているはずなのに寝起きの頭は平静な判断力を著しく欠いていた。肘を付いた腕がそのまま前方に倒れる。指先が寝転がったユーリの頬を掠めて過ぎ、漸く彼は薄くだったが瞼を開いた。
 直後に、瞳を焼く勢いで飛び込んできた朝日に息を呑んで声にならない悲鳴を上げたが。
 反射的に竦ませていまった身体を包んでいたケットごと掻き抱き、飛び起きて後込みした先で目の前に展開する光景に意識を持って行かれた。
 慣れ親しんだ自室とは違う造りの、優しい空気を湛えた部屋に。
「朝……」
 とは言え、厳密にそのことばが指し示す時間帯には少々遅かったのだけれど。気にすることもせず、ユーリは数回瞬きをして首を振った。依然として眠ったままでいる意識の一部を強引に呼び覚まし、こめかみを軽く押さえてから抱きしめていたケットを今度は蹴り飛ばす。
 辛うじて脱ぎ捨てられていた靴を爪先に引っ掛けて立ち上がり、ツカツカと進み出てカーテンの端々を取った。
 一気に、左右へ開く。
「っ……!」
 目映い。瞬間瞳を開けている事が出来なくて、目を閉じる。きつく唇も塞いで堪えて、数秒待ってから徐々に強張った身体の力を抜いて息を吐く。溜め込んでいたものを全部出してしまう気持ちで、瞼を持ち上げた。
 嵐は一晩中続いたのだろう、窓の直ぐ外に続くバルコニーの床は水溜まりが出来上がっていた。排水溝は飛んできたらしき落ち葉で塞がれていて、なかなか上手く雨水を追い出せないでいる。そこかしこにもまだ元気な緑の葉が、しどけなく濡れて散っていた。
 鍵を外し、窓を開ける。靴をしっかりとはき直して、薄手のシャツにスラックスという寝入る前の、昨日ここに到着した時のままの服装で外へ出た。
 凛とした空気に、濃い緑の薫りが混じる。空気中の不純物が、昨晩の雨嵐ですっかり洗い流されたからだろう。深い森に囲まれた場所独特の木々の涼やかな香りが、呼吸する度に胸の奥にまで広がっていく。
 ユーリは深呼吸をした。自然と両手が左右に広がる。背中の翼がぱさぱさと、幾分湿り気の残る大気を叩いた。
 爪先が、窓枠を越える。ふわりと、彼の軽い身体が宙に浮いた。
 雨上がりの空は果てまで澄み渡り、洗濯を終えた雲が真っ白い両腕を伸ばしている。心地よい風は柔らかく彼を包み、無意識に彼を空へ運ばせた。
 軽く、バルコニーの手摺りを蹴って二階から、跳び上がる。ばさり、と大きく広がった両翼を巧みに操って抵抗を生み出させ、生い茂る緑を眼下に彼は空を駆けた。 
 甦る記憶は、昨日。スマイルが教えてくれた、森の中にあるという湖。
 天空にあって360度パノラマの中にある彼は、直ぐにそれを見つけだした。顎を引き、何もない空のただ中で彼は見えないものを蹴りつけて勢いを持たせると、漆黒の翼を広げて滑空する。
 さながら、巨大な鳥の如くに。
 湖は昨晩の雨で増水しているらしく、周辺から流れ込んだらしい雨水も手伝って若干濁っていた。常ならば透明度もかなりあるだろう事を予想させる、手入れも行き届きながらなるべく自然の姿を残そうと努力されている湖の水面に、彼は身体を滑らせた。
 足を伸ばし、だが靴の先が触れるか触れないかギリギリの距離を保ち、さほど広くもないが狭くもない湖に立つ。正しくは浮いているのだが、端から見れば水の上に立っているように映るだろう。
 僅かに波が押して寄せる湖畔をくるりと眺め回し、一呼吸を置いて空を見上げた。
 湖は森のただ中にあって、けれどその頭上にまで森の木々は腕を伸ばして来られない。自然、ぽっかりと開かれた空間がそこに出来上がっていて、だからこそ上空から見下ろした時すぐに見つけ出せた。
 惜しむらくは、同じ晴れ渡る空であっても雨上がりでさえなければ、紺碧の空が湖面に映えさぞかし美しかったであろうに、と思う事くらい。
 再度俯き加減に瞼を伏し、ギリギリ掠めたらしい爪先から広がる水紋の波長を見下ろした。昨夜の嵐にしてやられたらしい、まだ若い葉を残しているのに折れてしまっている枝が、ふよふよと波に手繰られながら流れていた。
 まるでユーリの存在を避けるかのように、枝は浮き沈みを繰り返しながら通り過ぎていく。しかし太くなっている根本に近かっただろう千切れた白い部分の影に、土気色の中不釣り合いな色が紛れているのに気付き、彼は眉根を寄せた。
「…………」
 漂い去っていく枝を、首を捻って見送る。羽がバランスを取りながらぱさぱさ言っている中で、微風にさえ煽られる若葉の緑が不自然に動いた。
 人、が。
 否。
 人の形に似せられたもの、が。
 ぎょっとする。向こうもユーリの視線に気付いたようで、怯えた色をサッと浮かべ頭に傘代わりで被せていた青葉を立てに持ち直し、姿を隠した。尤も、辛うじて木の葉一枚よりも大きい体躯が災いして、頭隠して尻隠さず。
「…………なんだ?」
 自問を声に出してみるが、答えなど導かれるはずもなく。
 目を凝らし見て、風に折られた枝を船に湖を宛てもなく彷徨うそれが鮮やかな赤い花輪を頭に飾った、とても小さな人型の存在であると知る。正体までは分からないが、世の中吸血鬼が堂々と朝から散歩に出るような時代だ。ああ言うものが居ても、なんら不思議はない。
 淡い蒲公英色の髪は左右に分けられて、波のように緩いウェーブがかかっている。雪のような白いワンピースを着て、黒い大きな目を不安げに揺らしていた。
「ふぅむ」
 顎を撫でやってユーリは小さく呻く。対応に苦慮している事を悟られたのか、害意無いと判断されたのか、枝の船の親指姫は手にしていた若葉を降ろした。
 だけれどそれはそもそも、枝から真っ直ぐ伸びて必死に千切れ落ちるものかとしがみついている葉だった。小さな彼女に押しつけられていた一枚葉は、途端反動を利用して彼女へしっぺ返しを試みる。
 ぺしんっ、とさほど強くないはずの伸び上がりたがる葉の反撃を顎に受け、小さな小さな親指姫は呆気なく仰け反った。
「あ……」
 ぼんやりしている間に、少女の姿をしたそれは湖に投げ出される。ユーリは慌てて、背中の羽をふたつばかり強く羽ばたかせた。
 水面を蹴り、飛沫をその場に残して腕を伸ばす。どうやら泳げないらしい彼女が、それでも流され続ける枝に衝突する直前に掬い上げた。
 ばしゃばしゃと藻掻いていた彼女を大事に両手で包み、湖面から距離を取る。一瞬何が起こったのか理解しかねたらしい小さな少女は、ぐっしょりと水を吸った蒲公英色の髪を左右に振って水気を飛ばした。どこかぐったりした顔をして、遠くなった地表を見下ろしている。
「平気か?」
 驚かさないよう気を配って声をかけると、細い肩を震わせて彼女は振り返った。コクン、と一度縦に首を振る。
「そうか」
 なら良かったと、指先で小さな少女の頬に残る雫を拭ってやる。親指の先ほどしかない頭が、衝撃に僅かだがよろめいた。
 こうしてみると、本当に親指姫そのもので。
 いったい何なのだろうと首を捻る。その中も、彼女は再度俯いて地面に視線を走らせていた。
 やがて何かを見つけたらしい。細い指がユーリの指の腹を小突いた。
 あそこ、と身を乗り出した彼女が指し示した先に目を凝らす。高度を下げ、湖に羽ばたく羽の風で波が起こる距離まで行って漸く、湖畔の草の間から顔を覗かせる存在に気付いた。
 なんと、親指姫がもうふたり。
 真っ白なワンピースは同じだけれど、片方は鍔の広い帽子を被っている。もう片方は月桂樹の冠に似たものを頭に巻いていた。髪型も少しずつ違っているが、顔は似通っていて彼女たちが姉妹か、或いは同族かが容易に知れた。
 距離が迫るにつれ、手の中の彼女は早く早く、とユーリを急かす。空から舞い降りた黒い羽の吸血鬼に、地上の彼女たちは最初怯えを含んだ視線を投げかけていたけれど、胸の前で軽く指を曲げた掌に、探し求めていた仲間の姿を見つけて草間から飛び出してきた。
 普段よりも増水しているはずの湖に近付き、波に攫われぬよう注意しながら両手を振り回して呼びかけているようだった。声は聞こえなかったが、必死さは伝わってきて意地悪する理由も無く、ユーリはなるべくゆっくりと湖畔へ降り立った。
 湿った草の感触が靴の裏に伝わってくる。羽を畳むと同時に膝を折り、腕を伸ばして朝露に濡れた草を避けた手を広げる。
 ひょこ、と顔を出した親指姫は、振り返りもせず駆けてくる仲間たちの元へ行ってしまった。三人揃うと両腕を広げて抱きあい、歓びを身体で表現しその場で何度か飛び跳ねた。
 ユーリは立ち上がり、平時の穏やかさを取り戻しつつある森の中の湖を見た。周囲に聳える木々の中には、嵐の直撃で被ったらしい被害の痕がそこかしこに見当たった。
 もしかしたら、と足許でともすれば草の間に見失いかねないサイズの少女達を眺める。
 花輪の少女は昨晩の雨の中、ひとり湖に取り残されてあの瞬間までひとり、仲間と離ればなれに夜を明かしたのかもしれない、と。ならば先程の、視線が絡んだ瞬間の彼女の怯えにも理由が付く。
 ただ唐突に現れた彼女から見れば巨人が如き存在に驚いただけかもしれないが、暗く荒くれる風と雨の冷たい夜を一人きりで不安を胸に過ごして来たのであれば、恐怖も尚更だっただろう。だから再会を果たせた事を、あんなにもはしゃぎ合って喜んでいる。
 やれやれとユーリは小首を振った。
 昨晩の嵐は、自分でさえも心細さを覚えさせ要らぬ不安を頭に過ぎらせた。彼女の小さな身体に押し込められていた恐怖はいかばかりか計り知れず、だからこそ彼女たちの喜びも胸を伝って哀しいくらいに分かってしまう。
「良かったな」
 呟き、自分のことばに照れを覚えてユーリは頬を掻いた。森の隙間から差し込む太陽の光は薄暗かったが、思ったよりも高い位置から降り注がれている事に今更気付く。
 帰ろうか、そろそろ。自分が居なくなっていることに、ロッジで待つ仲間達も気付いているだろう。あまり心配させるのは良くないな、と薄く笑む。
 ユーリは踵を返した。くるりと踵を軸に方向転換する。ロッジまでの帰り道を知るわけでもないのに、歩いて帰るつもりだった足は、けれど予想外な力に引き戻された。
 とてもささやかな抵抗。たとえて言うなら若草の先を結んで作った罠に足を引っかけたような、そんな感じ。ちょっと力を加えたなら呆気なく解けてしまうだろう力が、ユーリのスラックスの裾を掴んでいた。
 仰々しさをそのまま態度に表し、ユーリは下を見る。露に湿った草の隙間から、少女が三人、彼を見上げて大きな目を更に丸くしていた。
 うち、ユーリが助けた花輪の少女がこっち、と彼方を指さす。
「え?」
 なにがなんだか、よく分からない。彼女は指さすと同時に何かを紡いで口を開いたが、音は放たれず声は聞こえなかった。だけれど、残るふたりも同じ方角を見やって懸命の力で裾を掴み、引っ張り続けている。
 その程度の力で彼を動かすことなどできるはずないのに、必死で。
 呆れてしまい、ユーリは吐息を零した。髪を掻き上げ、腰を屈める。広げた両手で左右から挟み込み、今度は三人揃えて掬い上げた。
 最初は驚いた仕草をみせて逃げたがった彼女たちだが、彼を何処かへ導きたがっているのは彼女たちだから直ぐに抵抗は止んだ。物珍しげに、慣れない視線の高さにおっかなびっくりとしつつ、胸の前に近付いてユーリにぺこり、と小さな頭を下げる。
「どちらだ?」
 問えばことばは通じるらしい、日が射す方角とは逆を指し示される。共に歩いていくのも悪くなかったのだが、生憎とコンパスの差は著しい。ユーリの一歩が、彼女たちの十歩に相当するのだから。
 水を掬う手の形は疲れるからと、途中で胸の前で緩く腕を組んだ隙間の少女達を乗せユーリは森の中を進む。初めて歩く道は不慣れだったが、時折通りやすい道を教えられなんとか一度も転ばずに、森を抜けた。
 辿り着いた先は、一面の花畑。
「………………」
 思わず吐きかけた息を呑み、白を中心に緑とのコントラストを描く淡く鮮やかな絨毯に彼は見惚れた。降ろしてくれ、と小突いてくる少女のリクエストに応対するのも遅れ、些か調子崩れのまま彼は膝を折った。
 恐らく此処が、彼女たちの本当の住処なのだろう。それとも遊び場なのか。
 降ろされた先から駆け出し、花畑の中に白いワンピースは消えていく。小さな背中をみっつとも見送って、ユーリは汚れてしまった膝を払いながら立ち上がる。
 ここでもうひとつ、吐息を。
 空を仰いだ。相変わらず真っ青で、真っ白い雲が隙間を広くぷかぷかと、優雅に。高い太陽はこの場所からだと間近に思えて、目を細め庇代わりに疲れ気味の腕を持ち上げた。紅玉の瞳をスッと細める。
 くいっ、とスラックスの裾がもう一度引かれて。
 戻ってくるまいと思っていた存在をみっつともその場に見つけて、彼は少なからず驚いた。
 親指姫は三人とも、それぞれの手にそれぞれ違う色の花を摘んで抱えていた。
 花輪の子は髪を飾ると同じ赤色の花。
 帽子の子は自分の髪と同じ蒲公英色の花。
 蔓冠の子は身に纏う服と同じ真っ白の花。
 それぞれに、一本ずつ大事そうに抱えてユーリの裾を引き、しゃがむ事をせがんでいる。
「…………」
 困惑を隠せぬまま、ユーリは身を屈めた。即座に顔の前へ突き出される三色の花と、少女の顔。大きな目をまん丸くして、彼に真正面から挑みかけて見つめている。
 受け取れと、そう言うのか。
「……あ、ありがとう」
 放っておくといつまでも差し出されたままになりそうで、ユーリは自分の直感を信じ例を述べて空の手を差し伸べてみた。案の定彼女たちの手から、摘まれたばかりの花が渡されて握らせられる。
 色違いの三本の花。小さくて、まるで彼女たちの分身のような、そんなあどけなく純粋な花。
 辿々しかった最初の礼を、受け取ってから改めて言い直すと照れくさそうに少女達は微笑んだ。クスクスと笑っている、その顔が可愛らしい。
「有難う」
 顔に近づけて花の香りを楽しむ。密やかに、春の陽射しの匂いがした。

 花畑から苦労してロッジまで帰り着く。空からなら一瞬だった距離も、地上から行くとなると迂回せねばならない場所が多すぎて、しかも道を見失い行ったり来たりを繰り返してしまった。
 こんな事なら最初から空の道を行けば良かったと後悔しつつも、柔らかい陽射しの中で大地を踏みしめるのも、時として悪くないと思ってしまったから途中で投げ出すのも癪で。結局十五分もかからない道のりを倍以上かかって、ユーリは借宿まで帰ってきた。
 手の中には、握りつぶさぬよう軽く握られた三本の花。少女達には身体と同じサイズであっても、やはりユーリには少し小さい。
 淑やかに咲く花をもう一度眺め、彼はドアを押し開けた。入って直ぐにある広いリビングからはテレビの喧噪が展開されて、中央のテーブルを囲みスマイルとアッシュの姿もあった。幅広のソファをひとりで占拠してくつろいでいるスマイルが、ユーリに気付き手を挙げる。
「オカエリ」
「お昼ご飯出来てるっスよ」
 にこやかに微笑み、アッシュがテーブルから離れる。彼の手には空っぽの皿が握られていて、恐らくそこにはスマイルの分の昼食が盛られていたのだろう。
「何処行ってたノ?」
 崩していた姿勢を正して座り直したスマイルの傍まで行くと、当然ながら問われた。
「散歩」
 間違いではない回答を返し、ユーリは両手で花を庇い持ちつつ視線を巡らせる。どこかにこの花を生けさせられるものは無いだろうかと、探す。どこか落ち着かない素振りを絶やさない彼の背中を見上げ、頬杖をついたスマイルがふっと穏やかに笑んだ。
 膝を打ち、彼は立ち上がる。
「お腹空いたでショ。座ってなよ」
 代わりに自分が座っていた席をユーリに譲って、誰も見ていないテレビも消すと彼はアッシュが去った台所へ姿を消した。まず先に、サンドイッチを盛りつけた皿と紅茶を盆に乗せたアッシュが出てくる。
 スマイルは、と視線で問うが彼は肩を竦めただけで答えを寄越してはくれない。不審に思いつつ、だが空腹なのも確かでユーリは左手に花を握り直し右手を伸ばした。
「先に、コッチ、ね」
 けれど、いつ戻ってきたのか唐突に姿を現したスマイルがサンドイッチとユーリの手との間に、透明なグラスを置いて。
 軽い音が小さく響いた。
 酒杯なのだろう、冷酒でも入れるのか底は浅いが幅広の花模様が描かれた硝子のグラス。その半分までに水が注がれ、ユーリの爪先が当たった衝撃で波立っていた。
「え……」
 咄嗟の事に理解力が追いつかず、ユーリは顔を上げてスマイルを見た。行儀悪く腰半分をテーブルに乗り上げて座っていた彼が、グラスの縁を指で辿らせて愉しげに笑ってみせた。
「違う?」
「あ、いや」
 違わない。今一番欲しくて、探していたものがこういうものだったから。
 けれど、何故彼が知っているのか。
「湖、綺麗だった?」
 グラスの水を揺らしながら、彼はそれをユーリの方へ押し出す。同時に囁かれたことばに、ユーリは目を丸くして瞬いて、むぅと唸ってからそっぽを向いた。
 見ていたのならば、先に言えば良いのに。けれど彼らはきっと言わないだろう。口に出さず、でもこんな風に分かってくれる。
「今度は、ぼくらも誘ってよネ」
 散歩に、行こうね。そう呟いてスマイルはテーブルから降りた。衝撃で揺らいだサンドイッチの端が倒れる。目尻を吊り上げたアッシュに御免、と笑いながら謝ってスマイルはリビングを出ていった。
 ユーリは握られっぱなしで、少し元気が無くなっていた花を花瓶代わりにグラスに生けた。
 赤と白と、黄色。たったそれだけなのに部屋が急に明るくなったように感じられ、ユーリは知らず微笑んでいた。
「明日、帰ろうか」
 期日は決めていなかった休暇。終わりを唐突に告げられアッシュは驚きを隠さなかったけれど、反対はせずに黙ったまま頷いた。
 帰ろう、あの場所に。慣れ親しんだ、懐かしい我が家に。
 あの鍵を使って。
 きっと、今日のように彼らは待っていてくれるだろうから。
 彼らもまた、あの鍵で帰ってきてくれるだろうから。
 ユーリはグラスの上から花を撫でた。優しい陽射しを受けて育った花が、頭を垂れてまるで笑っているようだった。