ちらりと覗いた窓の外は悔しくなるくらいの快晴。これで気温がもう少々高ければ、庭に出て日向ぼっこにでも勤しんだだろうに、と歯ぎしりをしたくなるくらいの。
一面の青空と、ぷかぷかと浮かぶ真っ白い雲。洗濯したての様相を呈する空に肩を竦め、眼下にちらりと見えた物干し竿に居並ぶシーツの群れに苦笑した。そういえば朝からアッシュが頑張って、城中のシーツを剥がして回っていたっけ。
その御陰で惰眠を貪る休日を邪魔されてしまって、生あくびも抜けきらない頭を掻きむしり暇を持て余して、城を闊歩している。行く宛ては特になく、けれど最終的に向かうのは退屈しのぎには持ってこいの黴臭くもある部屋。
壁一面を埋め尽くす書棚に埋もれた、無数の書籍が乱立する空間。土気色に染まり、苦手な人間であれば五分たりとも居座りたくないと言いそうな、書室である。
日溜まりの陽気は暖かく、窓一枚を隔てればそこそこに暖かい。太陽が傾いて角度が変わってしまいさえしなければ、きっと窓の下で昼寝を実行していたに違いない空を再度、別の窓から見上げて今度は頬を掻いた。
靴裏が一定のリズムを刻み床で踊る。軽快な調子は最後まで崩れることなく、やや薄暗さが目に障る城の静まりかえった一角まで進んで止まった。
そしておや? と首を傾げる。
ドアが半開きだった。
一応閉められている事は間違いない。だがきっちりと最後まで閉まりきらず、ノブを回さずとも引くだけで重厚な色合いの扉は開かれてしまった。入れるはずだった力を持て余し、ドアを開けてからノブを回すという意味のない行動に出てしまった自分を苦笑う。
先客がある事は先に予想できて、自分自身の特性から驚かせてみようと言う気心が真っ先に働いた。御陰で自然と歩調はは忍び足になり、呼吸を控えめに気配を殺して室内に踏み込む。
壁一面を覆う書架は壮観で、一ミリも余すことなく押し込められた今の時代では貴重であろう書物の群生にいつ訪れても圧倒させられてしまう。ひっそりと静まりかえっている空間は聖域にも似た面持ちを持っており、我知らず気持ちが引き締められた。
ひたりとした空気に湿気の乏しい霞んだ空気を鼻先に感じつつ、扉を後ろ手に音もなく閉める。周囲を注意深く探って、けれど予想していた先客の存在を感じ取ることは出来ずに知らず首を捻ってしまった。
ひょっとすれば、もう出ていった後なのかもしれない。古い建物だから扉の建て付けも悪くなっていて、ちょっとしたコツが無ければ扉もしっかりと閉まらなくなってしまっている場所が多々見受けられるくらいだ。書庫の扉はまだそんな事は無かったのだが、と怪訝に思いつつも感じ取れない他者の気配に疑問符を浮かべ、歩を進める。
さて、今日はどの書架を攻略してみようか。
数部屋が壁を貫いて続いている広大な書庫は、壁という壁を書籍が埋めている。端から攻めて行っても、最終地点に到着するのはかなりの年月が必要とされるだろう。
ここまで集積させた過去の城主達の有閑自適な生活を想像し、羨ましさを感じつつ先だって訪れた時に読み終えた書籍の棚を記憶から引き出して爪先を向けた。葛折り状に並ぶ書架の迷路を抜け、入り口とは対岸の最奥――分厚いカーテンで覆われる窓の並ぶ壁へと進む。
そして途中で彼の足は止まった。
部屋の奥、恐らく最初は扉から一直線に進むことが出来たのであろうが今となっては増えすぎた書籍を整理するために増やした棚の数々に邪魔され、入り口から見えなくなってしまっている壁に向き合う格好で置かれた机の前に。
古めかしい焦げ茶色の椅子に深く腰掛けつつも、背凭れに本来の機能を果たさせないまま。
そして本来、そういう役目を担う目的で建造されたはずのない机に絡めた両腕を置いて。
そんな事をさせるために有るはずではない腕を枕代わりにして、すやすやと場違いな寝息を立てている背中が。
机の前にはぴたりと寸法を合わせたように造られた窓が、分厚いカーテンを開けて顔を覗かせている。窓硝子の外からは、小春日和の穏やかな陽射しが絶えず差し込んでいる。空気は温められ、外との温度差が信じられぬ程心地よい空気がこの場に漂っていた。
日溜まりの中に置かれた机は、今や絶好の昼寝場所に様変わりしていた。
成る程、これでは確かに気配を感じ取ることが出来ないわけだ。妙な納得を覚え、彼は深く頷いてから自分の口許が殊の外にやけている事に気付いて慌てて表情を引き締めた。
けれど、その気持ちは分からないでもない。気持ちよさそうな陽射しは自分も感じていた事で、あの机に座っていたなら自分もつい油断して、うたた寝をしでかしていたかもしれないと思う。だが、室温は湿気を溜め込まないよう常に低温を維持されているのでいくら窓辺であっても、多少の肌寒さを覚えるのは必然。
このまま眠らせてあげたい気持ちはいっぱいだったが、放置して置いて彼が風邪をひくなりして体調を崩すのも避けたいところ。
一瞬だけ、悩む。
「う~ん……」
態とらしく腕を組んで首を捻らせて、小さく唸る。
窓辺の机の一帯だけが、外から差し込む光の御陰で明るく輝いているように映る。陰気な雰囲気が漂う書庫の中で、彼の眠る其処だけが綺麗に思え、出来るならこのまま保存しておきたい気分にさえさせられた。
「ユーリ……」
試しに名前を呼んでみて、返事が無いことを確かめる。心地よさそうな寝息は一定のリズムを保っていて、彼の夢がそう浅くない事を教えてくれた。
ちょっとした振動程度で目覚めないだろうと予測する。
彼は自分が羽織っている上着に指をかけた。前合わせのボタンを外したまま、単に袖を通しているだけの少々分厚い生地を使ったシャツを素早く脱ぎ、左腕に引っ掛ける。
眠っているユーリの肩から掛けてやろうと数歩開いていた距離を忍び足で詰め、シャツの肩部分を掴んで軽く広げて彼の背後に迫った。
そうっと息を殺し、自分の腕を枕にして居眠っているユーリの肩越しに彼の横顔を覗き込む。
シャツを広げて持ったまま、けれど動きは停止した。
ユーリが腕の下に敷いているもの。握っていたものが眠った時に力緩んで落ちたのであろうペンが転がっている、ノート。書き連ねられた文字は見ただけでは、作詞途中かなにかだろうと思わせたけれど。
最上段の一文が、違和感を呼び起こす。
それは、今日の日付。冬の最中、暖かな陽射しを窓から受け止める小春日和の穏やかな日。
『良い天気だ。アッシュは朝早くから洗濯物に勤しんでいるようで、人が気持ちよく眠っているというのにシーツを洗うだとか言って叩き起こしてくれた。まったく、勝手極まりない奴だ。だが久々に朝早くから目覚めるというのは……』
そこまで目を素早く通して、そこから先はユーリの身体が邪魔をして読めない事に小さな落胆を覚えてしまう。悪気があって盗み見たのではないと自分に言い訳をして、彼は小刻みに揺れるユーリの肩に着ていたシャツを被せた。
空気の抵抗を徐々に小さくして、若干膨らんでいた布地もやがては沈み彼の体格に添った形に落ちつく。ユーリの目覚める気配は未だ遠く、落ちついた寝息が途切れることなく続いていた。
アッシュに叩き起こされた事で睡眠が足りていなかったのだろう。それに加え、この暖かな陽射しを浴びたのだ。うたた寝を催すのも無理は無い。
肩を竦め、彼は未だ机に身体を預け眠りに就いているユーリを見下ろすと首を回し、視線を巡らせた。書室であり書庫でもあるこの部屋には、書籍以外の不要なものは殆ど置かれていない。装飾品も無いに等しい色味の薄い室内で家具らしい家具と言えば、ユーリが使っている机と椅子くらいなもの。
居場所を落ち着ける為の椅子ひとつ余っていない部屋の様相に改めて呆れかえった彼は、だが視界の端に見つけたものに隻眼を細め口許に緩やかな笑みを浮かべた。
それから更に視線を上向け、以前部屋を訪れたときに読み連ねた書籍が並ぶ書架とは違う場所を眺める。焦げ茶色の背表紙に金で箔押しされた文字を素早く読み取って、爪先に力を込め腕を伸ばす。
指先に引っ掛かった相当の分厚さが有る本を取りだし、胸に沈める。音もなく、吐息を零す。
ユーリは当分目覚めそうにない。そして自分は、肌寒いのは否めないが此処へ暇を潰すために訪れた。
当初の目的を果たさずして、此処を出ていく事も出来まい。
言い訳めいた理屈に自分で笑みを零す。彼は手に取った本を大事そうに抱えたまま、目聡く発見した本来書架の上段に手を伸ばすために使われる、僅か三段しか無い脚立へ爪先を向けた。
一段目に足裏を置き、平たくなっている最上段に腰を据えるともう片足を組んで膝に今手にしたばかりの書籍を広げた。表紙からして分厚いそれは、保存状態がすこぶる良かった事を証明しているかのように古いはずの紙もさほど変色していない。虫食いも無きに等しく、彼を喜ばせた。
窓から差し込む光は変わらず、穏やかに暖かい。雑念を引きよせる余計な物音も一切無く、注意を払いさえしなければユーリの寝息も気にならなかった。ただ自分の呼吸する音だけが耳に五月蠅いくらいで、それに次いでページを捲る紙の擦れ合う音が邪魔に思える程度。
時間は穏やかに、けれど確実に流れていく。陽射しのぬくもりは変化乏しかったものの少しずつ角度は変わり、窓の影が落ちる床は色合いを刻々と変化させる。
やがて、どれくらいの時間が経過したのかも分からない頃になって。
頭を預け続けた腕が痺れ、感覚が消え失せている事が苦痛になったユーリが短い呻きを数回漏らした。
朧気な視界と意識を揺らし、瞬きを繰り返す。眠っている間は薄かった呼吸を深くして新鮮な空気を肺へいっぱいに送り込み、感覚が無い指先をどうにか痙攣じみた動きでもって折り曲げて、彼はやっと、重い瞼を完全に開いた。
咄嗟には状況が理解できず、淡い靄に封じ込められた記憶をどうにかして引っ張り出してきて彼は自分が、書室の机で眠ってしまったことに気付いた。身につけているシャツの袖の輪郭や皺までがくっきりと片頬に刻み込まれて、指で触れただけでもその凹凸ぶりが分かる。まさか涎まで垂らしては居ないだろうかと疑って、その袖ぐりで顎のラインを横切らせてからほう、と息を吐いた。
それから漸く、前傾だった姿勢を背凭れに添わせる形で上半身を起きあがらせた。
シャツが、ずり落ちる。
「……?」
感じた違和感に、ユーリは肩越しに振り返った。右肩分だけがずり落ちていたものの、動きの少なかった左肩にはまだちゃんと残っていた自分のものではないシャツに気付いて、掴み取る。特徴的な匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
それが誰の匂いであるか、誰何するのは最早愚問に等しい。
ユーリは眉根を寄せると半身を捻った状態で後方を疑った。
果たして、彼は視界の片隅に脚立を椅子代わりにして腰掛けていて。ユーリが目覚めた事はとっくの昔に気付いていたらしく、開いている本で鼻筋から下の表情を隠しつつも、現れている隻眼だけで笑っていた。
カッと、ユーリの頬に朱が差す。だがここで勢い任せに感情的な罵声を上げていたのでは彼の思うつぼであろうことは、夢半分から脱した意識の警告が働き寸前でブレーキがかけられた。奥歯を噛みしめつつも、椅子の上でいつまでも腰だけ捻ったままでは苦しいからと姿勢を正し、しかし椅子は向きを変えず左腕を背凭れに載せる格好になってユーリは、視界に収まる彼を見据えた。
軽くだが、睨み付ける。
「いつから居た」
疑問符を今更必要とはしないで、問う。肩を揺らして彼は笑い、持っていた本を降ろすと表紙と、それから読み終えた場所までのページをそれぞれ親指と人差し指で挟んだ。裏表紙を閉じ、本を立ててユーリが見えるようにする。
「えーっとね」
これくらい? と彼が示したのは、厚みが親指の長さくらいはありそうな書籍の三分の二近く。
それから。
「あと、コレ?」
行儀悪く脚立の一段目に置いていた足の爪先で指し示した、床に平積みされた書籍群。その数、ざっと三冊。分厚さはいずれも、彼が最初に示したものと同等。
最初に彼の手元を見て、それから足許に視線を落として再度彼の顔を窺い見て、ユーリは最後に長い長い溜息をひとつついた。すっかり寝癖が出来上がってしまっている前髪を、大仰な態度で掻き上げる。
窓の外を盗み見て、太陽の位置を換算した。
「そうか」
妙に納得した顔で、呟く。
「その程度か」
どうやら思った程長時間居眠りしていたわけではなさそうだと、彼の速読ぶりを思い返し、頷いた。一方の彼は、もう指でページを押さえておく必要が無くなったとして、読み終えた場所の頁を開き膝の上に安定させる。
「なにか面白いものでもあったか?」
彼がこの部屋を度々訪れている事は以前から承知していたので、ユーリもさして驚かない。むしろユーリが訪れる事の方が希で、アッシュに至ってはこういう部屋は苦手なのか足を向けることは滅多になかった。
書室の主がジャンルに拘らなかったのか、単に横着だっただけなのか。ジャンルも多岐に渡り種々揃っているこの部屋は、自分の興味有る分野が並んでいる書架を見つけさえすれば絶好の暇つぶしポイントでもあった。そして彼は、首を捻りたくなるまでの幅広い趣味を持っていた。
ユーリの問いかけに、彼は脚立の上で姿勢を崩さずに足許に積んだ本を指さした。
「カール・マルクスとL.F.C.フラーと、クラウゼヴィッツを順番に読んだら、頭が混乱したくらいかな」
それはいったい、どういう選択基準で書棚から取り出したのか。聞きたい気持ちはあったものの、どうせ自分が呆れる結果しか得られないであろう事も楽に想像できてしまい、ユーリは吐き出し掛けた息と一緒に疑問を呑み込んだ。代わりに、眉間に人差し指を突き立てて刻まれる皺を揉みほぐす。
カラカラと、彼は笑って。
「面白いか?」
「まー、退屈しない程度には」
そこそこ面白いよ、と呟いて彼は読みかけの本のページに紐を挟んで閉ざした。積み上げている本の上にそれを置き、脚立から降りる。
「ユーリこそ、珍しいネ」
仕事なら自室で済まるユーリが此処を訪れるのは、大抵資料が必要になった時くらいだ。後は、静かすぎる空気に触れたいときか、誰にも邪魔されたくない時か。
問われ、ハッとなりユーリは机を振り返った。広げられたままのノートを思いだし、今更ながら慌てて閉じる。そこそこの厚みを持つ重そうな表紙に刻まれている文字は、彼の立ち位置からだと見えない。
それなのにユーリは両腕で今し方まで広げたまま放置していたそれを必死になって隠し、彼に怒鳴り声で問う。
「読んだのか!?」
「ナニを?」
「だから、だから……これ、を」
立てた人差し指で重厚なノートと言うのは少々仰々しいそれを小突き、ユーリが重ねて問う。上目遣いの視線を受け、彼は苦笑った。
「読んでないヨ」
見たけど。
むしろ、見えたのだけれど。
「それ、作詞ノートか何か?」
分かっている癖に意地悪い笑みを浮かべたまま聞く彼に、ユーリは一時の安堵を浮かべそうだ、と答えようとした。
けれども。
「今日の日付で始まる歌詞なんて、珍しいよネ~」
非常にわざとらしい口調で、表情で、隻眼を細めた彼の台詞に。
一瞬だけことばを失って、ユーリは。
三秒後、頬を紅潮できる限界点まで真っ赤に染めて、手元にあった万年筆を尖った先を前にして彼へ一直線にダーツの要領で放り投げた。
それは見事に床と水平な線を描き彼目掛け飛んでいったが、軌道が余りにも一直線過ぎたが為に楽に躱されてしまった。スカン、と空ぶったそれは書架に収められた一冊の背表紙に突き刺さり、カクンカクンと揺れてやがて落ちた。
「読んでいるではないか~!」
恥ずかしさも極まったらしいユーリの怒鳴り声に、彼は実に愉しげな笑みを崩さず他にも床で造られた平積み状態の書籍の山をすり抜け、ユーリの元へ進んでいく。その間もユーリは黙っていたわけではなく、掴めるものはなんでも手に取り放り投げていたのだが、それは部屋を荒らすだけの無駄な行為に終始した。
やがて疲れ切った様相で肩を上下させたところで、彼が到着を果たす。
「スマイル……」
悔し紛れに睨み付けても効果は薄い。
「油断大敵ってことば、知ってるよネ?」
不敵に笑って告げる彼に、歯ぎしりしたものの返す言葉も見当たらなくてユーリは臍を噛んだ。確かにこの場合、見える位置に日記を広げたままにした自分が悪いのだろう。だが、それだって誰かが訪れるとは予想していなかったからの行動であり、盗み見た彼にだって多少の非はあるに違いない。
棘のある視線に肩を竦め、彼は吐息を零す。
「最初の数行だけだってば、見えたのは」
他はユーリの躰が邪魔をして見ることも叶わなかった。それに、もし全部が読めたとしても彼はきっと、その先を求めたりはしなかっただろう。
興味がないわけではない。けれど、誰にだって他人に知られたくない部分はある。そういう隠しておきたい、けれど如何なる方法でか吐露してしまいた気持ちが有ることも嘘ではなくて、だから困るのだけれど。
日記は、えてしてそういう自分だけでは抱えきれない癖に、他者に告示するには憚られるものを書き記すものに近いから余計だ。
ただ、やはり。
「ユーリが日記つけてるなんて思わなかったから、吃驚はしたケドね」
「……似合わないとでも言いたいか?」
ジト目で睨み上げられ、彼は慌てて首を振った。ただ浮かべていた薄笑いは、説得力を著しく減退させたけれど。
コホン、と咳払いをひとつして、ユーリは彼から視線を外した。机上に置いたままの分厚い日記帳――表紙に書かれている「Diary」の文字に指を這わす。
細めた瞳が、いつになく優しい。
「こうしておけば、残るだろう?」
自分の時々の考えを、想いを、願いを、記憶を。思い出の数々を。
ただ乱雑に、無造作に書き連ねていくだけで良い、整理する必要はない。記録ではなくて、覚え書きでもなくて、これは日々の自身がその瞬間で生きていた事の証なのだから。
それ以外でもなく、それ以下でもそれ以上でもなく。
ただそれだけの事を、自分の生きた証明を。
だから毎日じゃない、間隔は一定でなく思い出して気が向いたときに。そして時には、どうしても書き記して置きたくなった時にだけ開くページ。
形に顕す事で、形を持たせる。曖昧で淡く儚いものでしかない記憶を遺す為の、ひとつの手段。
そうして自分が過去に在ったことを、確かなものにする。自分が確かに在ったのだと、思い出させてくれる。
例え自分自身が消えてなくなったとしても、それでも自分は在ったのだと記憶を遺す為に。
いつか、自分を思いだしてくれる誰かの為に。
世界の総てが壊れたとしても、自分の存在を残すために。
日記の表面をなぞり、ユーリは微かな息で呟いて瞼を降ろした。
窓からお光は絶えず穏やかで暖かい。光に包まれ、彼は一律の呼吸を乱すことなく、遠い――恐らくは日記に書き連ねられている自身の過去に思いを馳せているのだろう。
スマイルは窓の外を見た。光に溢れかえった世界は眩しすぎて、直視が難しかった。
「でもぼくは、君が残れば良い」
日記はつけた事がない。つけようとも思わなかったし、これからつける気も起こらない。
ユーリは目を開けた。椅子に腰掛けたまま、目の前に立つ男をぼんやりと見上げる。けれど彼は変わらずに窓の外を、景色が映らない光だけの世界を見据えたまま、遠くを睨んだまま。
僅かに自嘲気味とも思える笑みさえも浮かべて。
「世界が壊れても、ぼくらを囲む人たちがひとり、またひとり消えて行くとしても。日々が巡らなくなったとしても。当たり前の日没が訪れなくなったとしても」
たとえ、そうなったとしても。
君さえ残れば。
スマイルはことばを切った。瞬きをして、窓辺からユーリへゆっくりと視線を、降ろす。
重なり合った瞳の向こう側で、やがて彼はひっそりと、微笑んだ。
「ぼくの命は、君の中に残る」
持ち上げられた左腕が緩い拳を作り、人差し指が立てられて、そしてユーリの胸を刺す。
「ぼくが、残る」
軽く触れるだけだったのに、ユーリは全身がぐらつく程の衝撃を受けた錯覚に襲われ目を見開いた。
何かを言いたくて震える唇を開いた。けれど音は繋がらなくて、喉の奥に引っ掛かったそれらは明確な単語を形作ることなく塊となって、やがて押しつぶされた。
「……ネ?」
拳を解き、優しい笑みを浮かべたスマイルの顔を茫然と見上げ、やっと意識が集約され手元へと戻ってくる。再構築されたそれらが、傍若無人な彼への怒りに切り替わるのに時間は掛からなかった。
キッと目尻をつり上げて、今度は自分で造った拳で彼の鳩尾付近に力を込めないパンチを叩き込む。
「言わせておけば、好き勝手な事ばかり言う!」
難解な書物に頭を埋めすぎて、どこかおかしくなったのではないか? そう言い返すのがやっとで、ユーリは彼に知られぬよう口腔内で舌打ちして一瞬だけ視線を漂わせた。
噛みしめた奥歯がギリ、と鈍い音を響かせる。振動は自分の中だけに留まり、彼には伝わらない。
「そう、貴様の思惑通りに行くものか」
「そうかもネ」
カラカラと喉の奥を震わせて笑って、彼はユーリの拳を押し返した。両手で彼の手を包み、その輪郭を辿って、離す。
「でも、嘘じゃないでショ?」
確信を込めた表情で、彼は。
「ユーリはぼくを、忘れない。チガウ?」
狡く、尋ねて。
ユーリの首を力無く振らせる。横に、数回。俯いて、悔しそうな顔をさせて、そしてその様を見下ろして満足そうに笑って。
「そして、ぼくは君を忘れない」
ユーリの座る椅子に近付いて、腰を屈め、伸ばした腕でユーリの躰を挟み込み後方の机に指を置いて。
顔を寄せて、俯いている彼に頬を押し宛てる。肌を通じて流れ込んでくる命に、安堵さえ覚えて、彼は。
「ぼくの中に、君は遺る」
何があっても。世界が壊れても。ぼくたちを知る誰もが姿を消しても、居なくなっても。太陽が沈まなくても、暗闇が薄れることを忘れても。
だから。
「ユーリ」
頬ずりをして、顔を上向かせて、そっと唇を重ねて。
震える感覚に、少しだけ切なさを覚えて尚更深く、口付ける。一度離れて、またくちづけて。
「本当に?」
合間に囁かれたことばに返事はせず。
ただ互いを貪り合うようなくちづけに、ふたり揃って酔いしれた。