Transparent/2

 すっかり冷え切ってしまった身体を引きずって、屋内へ戻る。
 広すぎる城内全体に暖房を行き届かせる、などという無駄な事はもうひとりの押し掛け同居人が許すはずが無く、壁ひとつが風を遮ってくれているものの、まだそこは寒かった。
 袖を通さぬまま、冷たいコートの襟首を右手で握って床に擦らせて歩く。ずりずりと段差に行き当たる度に、分厚い布地は塊を成して足よりも先に落下して行きたがった。
 はあ、と吐く息はまだ白い。外に居た頃よりは白さが留まる時間が若干、短くなった気はするがその程度だ。現実は変わらない。
 この場所も、寒い。
 寒い。
 俯く。考える事は同じ世界だ、ぐるりぐるぐる、回り続ける。どれだけ首を振り、忘れようと打ち消しても結局は無駄な事。
 自分が今の自分であり続ける限り、決して現実は変わらない。直面している世界は無くならない。
 考えるだけ無駄な事。けれど考えなければ、自分は自分で居られなくなる。
 スイッ、と爪先の向きを変えて平らになった床を行く。滑るような動きは、大気の抵抗をこの身が受け止められずに居るからに他ならない。
 自分はあらゆるものが見えるのに、あらゆるものは自分を映し出さない。
 玄関ホールの大時計前を通り抜ける。城中に重厚な音色を響かせる大時計の、文字盤を守る分厚いガラスでさえ何も映し出してはいなかった。
 ほう、と息を吐く。
 それだけが白い。
 閉められていた扉を潜った。ノブを握って開けずとも、壁をすり抜ける事は容易だった。ただ意を決し、迷いを抱かずに壁へ身を押しつければ良いだけだ。
 しかし握っていたコートだけが、思考回路から除外されてしまって壁に遮られてしまった。空っぽになってしまった右手をリビングに到達してから見下ろし、閉められたままのドアの外で置き去りにされているだろうそれを想像した。
 無機質な大気が支配する。ここは、暖かかった。
 人が集まる場所だからだろう、角に造られている暖炉には火が入り赤い炎がチロチロと舌を巻いている。時折投げ込まれた薪の爆ぜる音がした。
 部屋の中をぐるりと見回してみる。もう白くない息に気付いて、感覚だけが届く腕を抱いてみる。そこには誰も居なくて、再度確認してもやはり誰も居なくて。
 まさか自分のような存在が他にも居るのではなかろうかと、そんなあり得ない話を勘ぐってしまってから、皮肉気に唇を歪めさせてみた。
 居るとしたら、此処ではなくて彼処だろう。
 リビングから間続きの食堂を越えて、その先にある台所に視線を走らせた。同時に休めていた足を動かす。
 一枚しかない扉は閉められていたが、構うことはなかった。こんな板一枚が自分の通行を妨げるとは、端から予想していない。
 全身の力を抜き、身を潜らせる。
 一瞬だけ闇に染まった世界も、直に天井明かりが眩しい台所に切り替わった。一般家庭とは比べものにならない程広いそこで、奥側に並ぶコンロを前に鼻歌を奏でている存在が、ひとり。
 或いは、一匹。
 彼の名前は心の中で呟くに留めて、完全に全身を台所に移し替えるとやはり内部をぐるりと確認してしまった。
 配置は昨夜遅くに珈琲を煎れに来た時と何も変わっていない。巨大な業務用の冷蔵庫、五つも並んでいるコンロ、流し台。中央に作業台代わりのテーブル、壁を埋める食器棚。水色ポリバケツの群生と、その傍に勝手口。
 彼は気付かない。
 テーブルにはサラダボールに山盛りにされたレタスやトマトや、色鮮やかな野菜。ドレッシングはフレンチ仕上げか。
 使い込んだフライパン片手に、器用に卵を割る彼の背中を暫く壁に凭れて眺めた。気をつけなければまた壁に沈んで、リビングへ逆戻りしてしまう。
 朝食のおかずは、サラダ以外にどうやらお決まりの目玉焼きのようだ。トースターに押し込められた食パンが、香ばしい匂いを放っている。
 壁から離れた。数歩で埋まってしまう距離を進み、今度はテーブルに凭れ掛かる。手を伸ばし、サラダボールのミニトマトを摘み上げようと指を宙に放った。
 爪の先で掠ったトマトのへたを、抓む。
「駄目っスよ」
 振り返らない彼が、唐突に、言った。
「え」
 驚きのあまり、掴んでいたトマトを落としてしまう。それはコロコロと丸い形を利用してテーブルに転がって、積み上げられていた皿の端にぶつかり停止した。床への落下は免れたものの、これをこのままサラダボールに戻すのは少々気が引けるものとなる。
 けれど、そんな事に気をやっている余裕は殆どなくて。
 フライパンに蓋をして目玉焼きを蒸すところまでやったアッシュが、困ったように肩を竦めながら振り返った。彼の眼には映らない、誰も居ないはずの場所に向かって改めて呟く。
「ダメっスよ、スマイル」
 摘み食いは許さないっス。
 ちっちっ、と指を振って舌を鳴らした彼のことばに、耳を疑った。
「え……なんで」
「摘み食いは、行儀が悪いからに決まってるからっス」
「……あ、いや。そっちじゃなくて」
 問いたい先を誤解され、苦笑を禁じ得ないままスマイルは首を振った。無論、彼に見えるはずのない仕草だった。
 テーブルまで近付いて、丁度スマイルとは反対側に立った彼は転がってしまったトマトを拾った。即座に踵を返し、シンクの蛇口を捻って流水にトマトを浸す。
「じゃあ、何っスか」
 会話は続けるつもりらしい。律儀に聞き返してきた彼の広い背中をぼんやりと眺め、彼が再度振り返るのを待ってからスマイルは口を開いた。
 心なし緊張しているようで、乾いてしまった喉に無理矢理出した唾を何度も流し込んだ。
「どうして……ぼくだって分かったの」
「スマイルじゃないんスか?」
 問いかけに、またしても的はずれな事を言い返されてしまってスマイルは閉口した。
 そんなはずがない、自分は自分のままだ。別の名前で呼ばれていた頃も確かにあったはずだけれど、今の自分は“スマイル”に他ならない。
 緩やかに首を振る。彼には見えないはずなのに、アッシュは低く笑った。
「スマイルっスよ。あんな事するのは」
 水気を軽く振って切ったトマトをサラダボールに戻し、彼はフライパンの蓋を取った。湯気が沸き上がり、程良い焼き加減の目玉焼きがお目見えする。器用にフライパンを傾けて皿へ移し替えた彼が、それをスマイルが立つ場所の前に置いた。
 まるで彼が見えているかのように、ピンポイントで狙って。
 スマイルは顔を上げた。アッシュを見た。
「なんでぼくが、此処にいるって分かるの」
 問いかけなのに語尾が上がらない。本気で分からないのだという事が声の調子から知れて、アッシュはその事か、と漸く理解した。
 クン、と鼻を鳴らす。
「匂いが、するっスから」
 狼の血流を汲む彼は、人間などよりも遙かに聴覚と嗅覚が鋭敏だった。僅かな変化も逃さない獣の習性を受け継いでいるアッシュにとって、室内に潜り込んできた新たな匂いが誰から発せられるものかを見抜くことなど、造作もない事。
 ひとにはそれぞれ、固有の匂いを持っている。微弱な違いではあるが、アッシュにはそれが分かる。
 それに、自分以外の呼吸する音も。気配も。
 スマイルが此処に居る事を証明するものは、探せば幾らでも見つけられるのだ。ただ視覚にだけ頼りたがる、目に見えるもの以外を信用しない人々には難しい事かもしれないが。
 光を透かし、風さえも通してしまうなにものの抵抗をも受け取らないスマイルの希薄さを、アッシュは呆気なくうち破る。
 ありのままを認めて、看破する。
 彼にとっては、それが当たり前だから臆することも、不思議に思うこともなく受け入れる。
「スマイルは、そこに居るっスね?」
 違うっスか? そう問われて首を横に振った。
 アッシュが微かに笑う。空気が揺れた。顔を上げると、二つ目の卵焼きに取りかかろうとしている彼が左手で真っ白い卵を握り、コンロへ向かおうとしているところだった。
 追い掛けようとして、自分の前にテーブルがある事に気付く。意識した瞬間、腰がテーブルの縁にぶつかった。衝撃に皿がカチャカチャとぶつかり合って音が響いた。
「スマイル?」
 振り返ったアッシュの声に顔を上げると、一瞬だけ間があって、次に彼は前髪に隠れがちな目を細めて愉快そうに笑った。
「何やってるっスか。焦らなくても、もうちょっとしたら朝ご飯の準備終わるっス」
 だからゆっくり待っていてくれと頼みこんで、彼は片手で割った卵をフライパンへと落とした。一方のスマイルは、彼が何を言っているのかすぐに理解できずに困惑し、視線を手元へ流してみた。
 直後に理解する。
 テーブルにぶつかった衝撃から身体を庇おうとしていた右手が、体重を支えるために天板に添えられていた。左手は中途半端な位置に浮いて、もう少し高度を下げれば目玉焼きの乗った皿にぶつかるところにあった。
 アッシュはスマイルが、待ちきれずに目玉焼きを摘み食いしようとしている風に誤解したのだろう。ああ、と頷いてスマイルは痺れそうになっていた左手を脇に下ろした。
 何事に関してもプラスの、前向きな方向へ考えるのが彼の良いところだろう。少々思いこみが激しいところはあるけれど、それもマイナスにはならない。誰だって、自分が正しいと思いたがる。
 仄かに湯気を立てている目玉焼きを見下ろす。料理免許も取得している凝り性の彼の手に掛かれば、ありきたりな料理でさえとても美味しそうに見えるから不思議だ。
 本当に摘み食いをしてやろうかと考え至って、不意に。
 何故彼があんなにも細かく、自分の行動を読みとれたのだろうと不思議に感じた。スマイルはずっと、透明になったままだったのに。
 だ、けれど。
 微妙な違和感も確かに自分の胸にはあって、首を捻る。
 いったいその正体はなんなのか、分かり倦ねスマイルは腕を組んだまま捻った首を横へ流した。視線がついて回り、壁に並ぶ食器棚のガラス戸を見る。
 自身の姿が、そこに映っていた。
「あ」
 あんぐりと、間抜けな顔で口を開けてスマイルは組んだ腕をぱっと解いて、けれどそれらはまたしても半端な位置に停止して空気を掴んだ。
 いつから、と巡った思考はアッシュに笑われる手前まで引き戻される。あの時、テーブルにぶつかった時だろう。そう言えばアッシュが笑う前、若干の間があった。
 あれはつまり、唐突に姿を現していたスマイルに彼も驚いたからだろう。これには、自分でも笑うしかなかった。
 前髪ごと額を抑え込んで、視線を伏す。自然とこみ上がってくる笑いを堪えきれず、喉を鳴らして笑っているとアッシュが怪訝な顔をして、眉根を寄せた。
「どうしたっスか……」
 彼にとっては、スマイルが唐突に笑い出したように見える。薄気味悪ささえ感じているような彼の顔を指の隙間から盗み見て、エプロン姿の彼にまた笑う。
 彼にはお気に入りなのかもしれないが、スマイルの目からすればあまりにも似つかわしくない、ポケットが沢山ついている薄いオレンジ色のエプロンだ。元々それは、アッシュへの嫌がらせのつもりでスマイルが冗談半分に贈ったものだったのだが、彼は予想に反してかなり気に入ってくれてしまったらしい。
 以後台所に立つときは、必ずと言って良いほどそれを身につけてくれている。彼曰く、ポケットが多くて使いやすいから、だというが。
 本当だろうか?
「アッシュ君」
 顔を上げて、手を下ろし笑い直す。空いた手を背に回して腰の後ろで結び合わせて、テーブルの向かい側に立つ彼を見上げて。
「外、すっごい寒かったんだよ」
 早朝の冬の空気は凛と冷えて、気が引き締まる思いがした。大気さえも凍える冬の朝に身を晒せば、朧でおぼつかないこの身体も、一緒に固く結ばれてくれるかもしれないと浅はかな事さえ考えた。
 何もかもが透き通って澄んでいる中に立てば、自分の孤独さが紛れる錯覚を抱いた。
 澄み渡る空と、一体になれる予感がした。
「そうっスね、寒かったっス」
 ゴミ捨てに行った時に既に外の寒さを体感したらしいアッシュが、相槌を返す。にこりと微笑んで。
「でも、煙草は良くないっスよ?」
 ぴしゃりと切り捨てる事も、しっかりと忘れずに。
 言われた途端、やはりばれるのかと彼の嗅覚に舌を巻いてスマイルはばつが悪そうに視線を逸らした。
「それ、ユーリっスか」
 横を向いたことで前方に突き出された、スマイルの切れた口端を指さしてアッシュが尋ねかける。スマイルは答えず、視線を遠くへ流した。
 無言を肯定と取ったアッシュが、吐息を零す。
「食事は、別々が良いっスか?」
 変なところに気を回して呟く彼に、笑い返せなかった。スマイルは黙ったまま頷き、深々と溜息を吐き出す。
 長い前髪を梳き上げたスマイルの横顔を暫く見つめてから、アッシュは焦げた匂いを僅かながら放っているフライパンを思い出して慌てたようにコンロに向き直った。
 喧嘩をしたのだろうという想像は楽にされてしまうらしい。まだ新しい傷痕の、乾いた血に指を添わせて、スマイルは胸の中の蟠ったものに舌打ちをした。
“可哀想”なのは、自分なのか。それとも、別の誰かか。
 そう思うことで自分を慰めているのは、いったい誰か。
 忙しなく動き回るアッシュをぼんやりと眺める。傍にあった背もたれのないスツールに腰を下ろし、この場所で落ちつく事を決め込んでテーブルに肘をついた。
 少々冷め加減になっている目の前の目玉焼きが、早く食べてくれと訴えかけてきている。テーブル上を見回して、サラダボールに添えられていた大きなフォークを引き抜いた。
 ソースもなにも要らない。ドレッシングにまみれたフォークを目玉焼きに突き刺して、引き上げる。
「あっ!」
 アッシュが気付いて声を上げた時にはもう、半熟で柔らかな黄身が薄皮を破られてどろり、と流れ出した後だった。いい具合に肉厚に焼き上がっている白身には、くっきりと歯形が。
「ん、いける」
 美味しい、と呟いて笑いかけてもアッシュは許してくれなかった。
「摘み食いは駄目って言ったじゃないっスか!」
「抓んで無いヨ、フォーク使ってるもん」
「屁理屈っス!」
 ほら、と目玉焼き残り半分が刺さっているフォークを掲げてみせたスマイルの頭上に、アッシュの怒鳴り声がけたたましく響き渡る。けれどスマイルはカラカラと声を上げて笑うばかりで、少しも反省の様子をみせない。
 アッシュが怒鳴れば怒鳴るほど、彼は楽しそうに笑う。
「別の場所で朝ご飯しても良いって、言ったのはキミ」
 ぱくりと目玉焼きを食べつくし、空になった皿をアッシュに差し向けてスマイルがことばを重ねていく。言い合いになった場合、勝敗は勝負が開始される前から半分以上決しているのが常だった。
 アッシュはいつだって、口だけではスマイルに勝てない。そうしている間にも、フライパンでは目玉焼きが燻った煙を上げ始める。
 いい具合に焼けたトーストが、自分から軽快な音を立ててトースターから跳び上がった。
 手探りでバターを探し、サラダボールをフォークでまさぐってレタスを頬張り、スマイルは暢気なマイペースで朝食を片付けて行く。アッシュの混乱ぶりなど、まるでお構いなしだ。
 すっかり焼け焦げてしまった目玉焼きは、どう考えてもユーリに出せるわけがない。トホホ、と涙目で項垂れる様があまりにも似合わない巨躯を頬杖ついて眺め、スマイルはまた笑った。
 彼に聞こえないように、細い声で囁く。
「君と、先に出逢えていたら良かったのかもしれないね……」
 誰よりも、とは言わない。
 現実は変わらない、そして恐らく結末も。願ったところで、過去は行きすぎたまま引き戻せやしない。
 残るのは真実ではなく、事実。目に映るものだけ、歴史に名を残すのはいつだって見え、掴め、確固たる形を成したものだけ。
 隻眼を伏し、霞みそうな右手を見下ろして呟やかれたスマイルの声。その瞬間、アッシュはぴくりと片耳を反応させたけれど、何も言わずに聞き過ごした。
 トーストを手に取った彼へ、冷蔵庫を開けたアッシュがパック入りの牛乳とグラスを差し出す。短い礼を述べて受け取ったスマイルにささやかに微笑んで、彼はコンロへと向き直った。
 スマイルの傷を舐めるような真似は、結局彼には出来なかった。