Snowman

 天気予報が、明日はこの冬一番の冷え込みを記録するだろう云々と告げていた。
 カーテンを閉め、外界と繋ぐ門のひとつを遮断すれば残るのは室内に灯るランプの、控えめな仄暗い明かりだけとなる。薄暗い中で沈黙する空気を唯一揺らしている黒い古めかしいデザインのラジオを止め、吐きだしたのは溜息。
 寒い。確かにこのまま朝が来たら、日が照っていてもかなりの寒さになるだろう。閉める直前にガラス窓越しに除いた夜の空は明るく、雲ひとつない澄み渡った色をしていた。月と星明かりはきらきらと、余すことなく自身の輝きを放っていた。
 こんな夜は気ままに散歩のひとつでもしてみたくなる。だが、室内でここまで肌寒さを感じるくらいである、窓の向こう側がどれだけ冷気に満ちあふれているか想像に難くない。
 天気も良いのに、勿体ない。冬の空は空気も澄んでいて凛として張り詰め、心の奥から震えを感じるなにかを抱いているというのに。
 寒さに負けてしまう自分に軽く歯を見せて笑って、油の焦げる匂いを漂わせるランプの小さな炎を吹き消す。一瞬で闇は一層濃くなり、カーテンをしつこく通り抜けてくる夜明かりだけがただひとつ、足許を確かなものに見せる色となる。
 雪でも降るだろうか。寒さを考えてみて、けれど雲ひとつない月明かりの外を思い出して首を振る。ガタガタと不協和音を奏でた窓枠に視線をやって、風が出てきたのだろうかと瞳を細めた。
 カーテンを閉めてしまったから、外の様子はもう分からない。気にしても詮無いことと、視線を闇濃い室内へ戻して歩を進めた。
 天蓋の下に整えられた寝台に、ばたりと力尽きたかのように倒れ込む。肌触り柔らかく心地よいクッションは、しかし長い間ぬくもりを忘れていた所為でやや冷たい。滑らかな表面に指を添わせ、抱き込むように上掛けを捲る。芋虫のような動きで僅かな隙間からベッドの中に潜り込んで、ヒヤッとした感触を真っ先に与えてくる布地の中四肢を縮めこませた。
 自分の身体を抱き込む、母体の中で眠る胎児の格好で丸くなり、頭の先まで蒲団の中に潜ませて息を殺した。
 こんな寒いだけの冬の夜は、独りぼっちな自分をより強く感じる。音もなく、静かすぎて自分の呼吸する音さえ聞こえなかった頃を思い出す。時折窓を叩く風が通りすぎるのさえ、自分を殺しに来た闇よりも深い場所から来たものたちのノックに思えた時期が確かにあったのだ。
 眠ってしまえばいい、誰も踏み込めない場所に自分から逃げ込んで鍵を閉めて、自分のぬくもりだけを頼りにして。目を閉じれば、何も見なくて済む。
 だから。
「……寒い」
 風の音はいよいよ強さを増しているようだった。ガタガタと喧しく窓が音を立てるが、耳を塞ぐように分厚い蒲団一式に包み込まれている御陰で殆ど聞こえなかった。瞼を開けてもそこは一面の闇で、夜明けが来ても気付かないかもしれないと思った。
 口の中の唾も飲み込み、乾いた舌先で刻む声も無く、奥歯を噛みしめて堪える。何に、かは分からない。
 ただこうしていないと叫びだしてしまいそうな瞬間が、時々ふっと胸の奥から手を伸ばして心の内側を掠めていく。
 早く朝が来ればいい、そして夜が巡って時間が過ぎていけばいい。
 何も感じないまま、時が終わればいい。ひとりきりを思わせる瞬間など、もう欲しくないのに。
 丸め込ませた膝を抱き、額を半月板に押しつけて胸の息苦しさも構わずどんどんと自分を小さくさせる。このまま小さく小さくなって、やがて消えてしまえたら良いのに。そんな事を最初に考えたのは、もう思い出せもしない遠い昔。
 風の音は止まない。目を閉ざす、闇に世界を染める。
 誰も入ってこられない場所に逃げ込んで、過ごす夜。聞こえない心音を探して、握り締めた拳に筋が浮く。
 いつしか外は静まり、彼の眠りを妨げようとする外的要因は去った。朝の訪れは彼にとっては早く、遠い。
 沈黙に委ねられた夜は深々として、酷く切ないまでに穏やかなのに。彼から浅い短い眠りを奪ったのは、地上より空高い位置にあるはずの彼の部屋にまで、ガラス窓を越えて飛び込んできたけたたましい笑い声だった。
 もぞりと頭を持ち上げ、不自然な体勢で眠っていた為に痛む節々を叱咤して被っている毛布を押しのける。その重さに右腕の骨が軋んだように音を立てた。眉尻を顰めさせ、けれど構わず一気に分厚いそれらをはね除けると、それまで身体を包み込んでいた暖められた空気が逃げ、ひんやりとしたものが肌にまとわりついてきた。
 身を捩り、寒さに震えて身体を抱く。折角退かしたばかりの毛布を手繰り寄せて肩から全身を包み込むよう、マントを羽織る具合で纏わせてベッドから降りる。
 ヒヤッとした床板の冷たさに短な悲鳴をあげそうになったのを噛み殺し、吐く息が白く濁っているのにも気付かず窓に近付く。先程聞こえた笑い声は止んでいた。
 眠りに入る前、自分で閉ざしたカーテンの端を、裾を引きずっている毛布から出した右手で掴み視界が開ける程度に捲り上げてみる。けれど何も見えなかった。
 室内と外気温の差で出来上がった粒の細かい露が窓一面に貼り付き、視界を遮っている。触れると冷たい事はそれだけで容易に知れて、カーテンを掴み直すと手に触れないように握り布でガラスを擦ってみた。
 筋の浮いた窓はお世辞にも綺麗に磨けたとは言えなかったものの、辛うじて向こう側の世界は覗ける程度にはなった。自分が吐く息が益々窓を濁らせる事に気付いて、深く吸い込んだ息をそのまま吐かずに胸に留めると、前髪が貼り付きそうな距離にまで顔を寄せた。
 白い。
「……?」
 窓は磨いて、多少の濁りは残るものの透明に近い状態になっているはずだ。間違っても息を吹きかけた所為でもない。では、何故。
 窓の外が白色以外、何も見えないのか。
 一旦止んでいた笑い声が、また聞こえた。今度は笑い声に含め、犬のきゃんきゃん吼える声までもが。
「アッシュ?」
 犬など飼った覚えはないし、野良が近付けるような場所でもない。故にあの鳴き声はアッシュのものであろうと思考は直結し、そこから笑い声の主はスマイルだろうという結論に至る。一度繋がった思考はそのまま保たれ、寝ぼけ気味だった頭も醒めて来た。
「なにを……」
 彼らはいったい、何をしているのだろう。
 時計を見上げると、午後に入るまでまだかなりある、朝早いとは言えそうもない曖昧な時間だった。
 カーテンから手を放し、またしても毛布をずるずると引きずってベッドへ戻ると再度、力を抜いて倒れ込む。冷え切った身体は同時に心まで冷ましてしまうらしい。何もする気になれず、ただ時折聞こえてくる喧噪が耳に五月蠅く感じられるだけで、それ以外思うものはなにもなかった。
 ただ、寒い、と。
 伸ばしていた足を曲げ、蒲団の中に潜り込ませる。冷え切った指先を数回握って開き、折り曲げた膝に額を押しつけて息を吐く。この場所でならそれは濁らない。身を包む殻が守ってくれている限り、なにものも自分を汚す事は出来ないのだから。
 そうやって、自分を守ってきた。
 だのに。
「ユーリ、ユーリねぇ、ユーリ!」
 どたばたと騒々しい足音を響かせて、それは無許可なまま彼の神域を犯す。強く握った毛布を彼から奪い取って引き剥がし、ベッドに沈んでいたユーリを反転させた。うつ伏せからコロン、と仰向けにさせられ、顔を真上から覗き込まれる。
 興奮しているのか、それともさっきまで居た外が寒かったからなのか。頬を軽く上気させて赤く染めている。吐く息は荒く、走ってきたからか途絶えがちで。
 剣呑な目つきで睨んでやっても、彼はまるで気にした様子もなくユーリを挟み込むようにして逆向きに両手をベッドにつき、益々顔を近づけて来る。鼻先を熱い息が掠めた。
「ユーリってば」
「聞こえている」
 返事が無いことを訝んだのか、少しだけ顔を歪めさせた彼の大きな声に眉根を寄せ、ことばを返す。途端、彼はちゃんと聞こえていた事に安堵したらしく破顔して、歯を見せて笑った。
「ね、ユーリ。凄いんだよ外、寝てるなんて勿体ないくらいなんだから」
 腕を取られ、無理矢理引っ張り起こされた。上半身をベッドに起こして座っていると、一度手を離した彼は断りなく人のクローゼットを漁り適当に服を見繕って、放り投げて来た。頭の上に落ちてきたそれらは、どうやら着替えろということらしい。
 だらんと垂れ下がった袖を引っ張って頭の上から落とし、丸め込んで抱きしめてまた横向きに倒れると、呆れきった声が近くから投げられる。
「ユーリってば! もう、いい加減起きる!」
 やや苛立ちを覚えている声で言われても、従う気は起こらない。むずがって上掛けに潜り込もうとするのをまた蒲団を奪われて阻止され、今度は着替えさせる事も諦めたらしい。スマイルは、薄い夜着を纏っているだけのユーリにロングコートを羽織らせると、その上に更にベッドから剥いだシーツを巻き付けて肩に抱え上げたのだ。
 突然の視界の変化に、ユーリが驚いて暴れる。しかしほぼ簀巻き状態にされてしまっていて、ミミズのようにじたばたと上下運動をするだけに終わる。暴れた分だけ位置がずれて、最終的にはスマイルの肩から横抱き状態に落ちた。
 人の意見も意志もお構いなしの横暴過ぎる彼に、ムスッと表情を歪めさせユーリは不機嫌な顔をしたまま目を閉じた。言ったところでどうせ聞くはずがないのは、自分も彼も同じだ。お互い、気ままに時が過ぎるのを待つだけの存在であり、すべては自分が中心なのだから。
 抱えられたまま部屋を出て、階段を下りる。流石にこの時ばかりは落ちる事を想像して冷や汗を掻いた。
「自分で歩く」
 ユーリの危惧を悟ったらしいスマイルが意味ありげに笑ったので、彼は疲れた声で言いコートの上からシーツにくるまる、という風体のまま彼から離れた。城内全体に暖房を効かせる、などという非効率的な事は出来ないので、廊下も充分寒かった。
 吐く息の白さに驚いて、彼を見る。既に歩き出していた背中を追い掛け、広いリビングに辿り着く。スマイルは隙間風が差し込む大きな窓から、庭へ降り立っていった。
 自分が素足である事を今更思い出し、最後まで彼についていけない事に足が止まる。一瞬だけ、置いて行かれる感覚が胸を過ぎった。
「ユーリ」
 彼は構わず、窓の外から名前を呼んで手を振る。傍にアッシュの姿が見えた。 
 そして、彼らに挟まれる場所に。
 彼らの身長に並びそうなくらいに大きな、白い球体がふたつ積み重ねられたものが。
 庭は一面が白色に染まっていて、それらが雪である事を理解するのにも、少しだけ時間が必要だった。
 吐きだした息の白さに視界が濁る。
「雪……」
 降るはずがないと思っていたものが、庭を、城の周囲を埋め尽くしている。
「ほら、凄いでしょう?」
 自信満々に胸を反らせたスマイルが、巨大雪だるまを軽く叩いて言った。よくイラストなどで見られる、バケツを帽子代わりに被った巨大雪だるまには、アッシュの赤いマフラーが巻き付けられている。
 まだ部屋に居たときに聞こえてきた笑い声は、恐らくふたりでこれを作っていた時のものだろう。白い雪のあちこちには、雪だるまを転がした溝の跡や、犬の足跡が散っている。
「……それが、どうした」
 雪が降り積もったくらいではしゃぎ回るなど、子供のする事だろう。こんな事で叩き起こされた自分にまで腹が立ちそうで、ユーリは身体に巻いたシーツを強く抱いた。
 いや、違うかも知れない。
 多分自分は、もっと早くに巻き込まれたかったのだ。出来上がったものを見せられるだけではなくて、それよりも早い段階から、彼らと。
 一緒に、居たかったのだ。
 巡り終えた思考の先に辿り着いた場所は、自分勝手なエゴの塊で泣きたくなる。自分から彼らの招きを全身で拒み続けていたくせに。
 彼らはいつだって、自分に対し手を広げてくれているのに。
「ユーリ」
 雪だるまを作った労力の殆どはアッシュだったらしく、彼もまた誇らしげに自分と同じだけの背丈をしている雪だるまを見つめていた。そして、カメラを取ってくると慌ただしく城内に駆け戻っていった。
 走り抜ける彼によって巻き起こされた風に浮いた髪を押さえ、庭に残るスマイルの呼び声に顔を上げる。おいで、と手招きしている彼に、けれど近づけなくて後込みしてしまうユーリは小さく首を振った。
 スマイルが困った風に目尻を垂らす。踏みしめた雪の音を近づけさせて、窓辺に佇むユーリの前に戻ってきた。
 差し出された両手が、握り返せないユーリの脇をすり抜けて背に回される。引き寄せられて、抱きしめられた。
「おいで、怖くない」
 にこりと、無邪気なまでに微笑まれて耳元に囁きかけられる。
「誰も恐がってなど……」
「そうだね。ユーリが怖いのは、この雪が溶けてしまう事だろうから」
 雪は溶けて水になる。固く結びついた結晶が解け、形のないものに変わり分かたれて、消えていく。
「大丈夫だから」
 背に回った彼の腕が腰を掴む。そのまま、抱き上げられた。爪先がシーツの裾に絡められて隠れる。
「この大きいのが、アッシュなんだって」
 言われてみれば、巨大雪だるまにはアッシュの特徴であるやや尖った耳が柊の葉で表現されていた。瞳は南天の赤い実で。
 白いシーツは思った以上に風を遮断してくれて暖かい。なにより、彼が庇うようにして胸に抱き込んでくれている御陰か。
 その彼が、ユーリを落とさぬように気を配りながら膝を折る。曲げられた足の上に腰を置かれて、下を向くように促された。
 巨大雪だるまの傍らに、ひっそりと小さな雪だるまがふたつ、並んでいた。
「こっちを作ってたらさ、綺麗なままの雪がもの凄く減っちゃって。こんなサイズしか出来なかったんだ」
 ゴメンね、と囁く彼が言うとおり、白一色とは言え庭のあちこちは雪だるまを作ったときの名残でか、踏み荒らされていた。同じサイズのスノーマンを作るのは、この状態では不可能だろう。
 だから出来上がったのは、掌にも乗りそうなミニサイズ。折れた枝が手になって、南天の赤い目が露に濡れている。
「これが?」
「うん。ぼくと、ユーリの分」
 にっこりと。
 スマイルが微笑みながら言う。
 不意に泣きたくなった。
「ユーリ?」
「……なんでもない」
 彼の胸に顔を埋め、視界を隠す。彼からも表情を隠す。
「今度は、もっと大きい奴をふたりで作ろうか」
 ポンポンと宥めるように背中をさすられて、呟かれる。彼の服を掴んで額を押しつけたまま、ユーリは首を振った。横に。
「これで良い」
 これが良い。
「……そう」
 スマイルはそれ以上なにも言わず、しがみつくユーリの背を何度も何度も、飽きるくらい撫でていた。
 やがてカメラを構えたアッシュが帰ってきて、スマイルに壊さないでねと言われた瞬間に強く押しすぎたシャッターが元に戻らなくなった。呆れかえったスマイルの肩を竦める仕草に顔を上げたユーリも、いったいどうやったらそうなるのか、どこの部品かも分からないバネをカメラからはみ出させているアッシュを見つけて、苦笑う。
「機械音痴」
 盛大に溜息をつくスマイルに代わって言ってやり、ばつが悪そうにするアッシュが誤魔化すように空を見た。
 鈍色の空から、白いものが再び舞い降りてくる。
「雪っス」
 差し述べた掌に落ちた雪は熱ですぐに溶けて水になった。
「明日はかまくらくらい、作れるっスかね」
 喉を逸らせて天を仰ぎ見るアッシュが感慨深そうに呟き、スマイルも頷いた。ユーリは黙って舞い降りる雪のカーテンを見つめ、それから足許の小さな雪だるまを眺める。
 再び降り始めた雪に、心なしか彼らも嬉しそうに見えた。
「ユーリ」
 どこかから、遠くで、鐘の鳴り響く静かな唄が聞こえてくる。スマイルの囁く声が、それに乗って重なり合った。
「Merry Christmas, Yili」
 ユーリにだけ聞こえる音色で、彼の声が唄う。ふっと、ユーリは微笑んだ。
「ああ、そうだな」
 そうだったな、ともう一度自分で納得してから呟いて。
 壊れたカメラに悪戦苦闘しているアッシュに気付かれぬよう、握った手に力を込めてスマイルに頬を寄せる。重なり合った肌から、お互いの熱が伝わって来た。
「Merry Christmas, Smile」
 そっと囁く。近すぎて見えなかったスマイルの顔が、嬉しそうに笑った気がした。
「来年も、一緒に居るから」
 雪が溶けて水になって、それがまた蒸発して天に昇り、雪になって戻ってくるまで。いや、戻ってきてまた巡るその先も、ずっとずっと。
「怖くない、よ」
 強く抱きしめる。降りしきる雪の重みで傾いた片方の小さな雪だるまが、枯れ枝の細い腕をもう片方に擦り寄せた。凭れ掛かるように、添い寄って。
 ことば無くユーリは頷き、なおも強くスマイルにしがみついて暫く離れようとしなかった。

 それから。
 季節が巡って冬が終わってからも。
 夏が終わる頃まで、ユーリの城にある巨大な冷蔵庫では双子のような小さな雪だるまが、他の食材を押しのけて冷凍庫の一角を占拠し続けた。