Ginkgo

 空はどこまでも穏やかなのに、時折耳を劈く唸りをあげて風が吹き抜けていく。
 昨日、テレビの天気予報で木枯らし一号が吹いたと女性アナウンサーが説明していた。もう冬も間近で、コートを羽織り襟を立てて寒そうにしながら人々も足早になっている。
 前を歩いていた足が、不意に止まった。ビルの隙間を走る風の唸りに気を取られていて、あと三十センチ弱の距離で危うく衝突を回避する。ただ爪先だけが、停止していた彼の踵に擦ってしまった。
 気付いていないのか、彼は振り返りもしない。いったいどうしたのだろうと、背後から怪訝に思いつつ距離を戻して、彼が見上げている先に自分も視線を向ける。
「ドシタノ?」
 黒い皮の手袋で色の濃いサングラスを持ち上げ、さっきよりも幾らか良くなった視界に映るのは街中では珍しくもない街路樹の群生。道路に等間隔で植樹されているそれらは、そこそこに長生きしているようで枝振りも貧弱とは程遠かった。
 ただやはり環境は宜しくないせいか、枝の先は黒ずんで細くなってしまっている。数週間前までは緑の葉をいっぱいに茂らせていたであろうそれらも、昨今の急激な冷え込みにより力を失い気味らしい。
 緑は薄れ、街を行く人々と同様に色を模様替えといったところか。ただまだ疎らな部分も多く、完全な紅葉にはもう少々時間が必要のようだ。
 短時間でそれだけの観察を終え、再度目の前の背中に視線を戻すが彼は一向に振り向きもせず、また歩き出そうともしない。
 踵でコンクリートの歩道を軽く蹴り飛ばす。数歩で彼の前へ回り込み、腰を屈め気味にして下から彼を覗き込んでみた。
 今度は流石に、彼も気付く。顎を上げて視線を上向けていた姿勢そのままに、今度は目玉だけを下向かせてじろりと睨んできた。
 ついつい笑ってしまって、其処からもう一度さっきまで見上げていたものを仰いでみるけれど、やはり見えるものは変わらない。緑と黄色が半々に混じり合った、銀杏並木。
「これはなんだ?」
 不機嫌を隠しもせず、彼は靴の爪先で歩道に落ちて踏まれたらしい物体を軽く蹴った。白っぽく、けれど濁っている。
「臭い」
 端的に感想だけを告げて、彼はようやく不機嫌なまま歩き出した。
 彼が蹴ったものと、それがもとの形で成っていたであろうものを交互に見やってやっと合点がいく。
「銀杏か」
 淡い黄色をした植物の実、種。確かにこの一帯に植えられている並木はイチョウばかりで、地上に落ちた葉も黄色一色だ。合間に実りきる前に落ちてしまった銀杏の実も見当たる。
 言われてみれば、確かに独特の癖のある匂いが立ちこめていた。
「ユーリ」
 彼にとっては好みではなかったのだろう。広がってしまった距離をまた詰めて、ぶつからない程度の歩幅を間に置いて、歩く。並ぶと嫌がるから、少しだけ斜めに逸れて、後ろを。
 突風が吹き付ける。ビルの谷間を抜けていく風は獣の低い唸りをあげながら地上に貼り付く生き物を蹂躙して、あっという間に姿を消した。残された人々は、跳ね上がった髪をそれぞれ手櫛で直したりコートにまとわりついた埃を払って、また忙しなく歩き始める。
 ユーリもそれは同じで、寒そうに身体を縮め込ませていたのを解き去っていった風の方角を仰ぎ見て緩やかに首を振った。
 視線がぶつかり合う。笑いかけてみたが、彼は応えてくれなかった。
 どうしようかと悩む。目の前にひらひらと影を背負ったものが落ちてきた。
 人がまだ悩んでいる間に、それは自分たちの間を滑り落ちていく。手を差し出したのは彼で、左右に頼りなく揺れながら地面に惹かれて行こうとしていたそれはさらり、と彼の指の隙間に挟まって止まった。
 黄色い、綺麗な扇状の形をしたイチョウの葉だ。枝から別れを告げてきたばかりの事もあって、色も鮮やかで形も崩れていない。あのまま歩道に沈んでいたら、きっと行き交う人混みに踏みつけられてあっという間にもとの姿を見失ってしまっていただろう。
 彼は細く短い枝を摘むと、くるくると回転させた。行為そのものに意味はないようで、そんな仕草をしている間も彼はまだ憮然とした態度をやめようとせず、反対の手で髪の乱れを手早く直すと、踵を返してまた歩き出す。
 追い掛けて、影が平行に並ぶ。
「銀杏、嫌い?」
 イチョウの葉で遊んでいる癖に、その樹木が次の世代に向けた種を落とす行為は嫌いらしい。いや、ただ単にこの場に漂う臭さがお気に召さなかっただけか。
 間もなく銀杏並木を抜ける。歩みが心持ち、早くなる。
 追いすがる、並ぶ。追い抜いた。
 彼の足が止まる。顰められた表情を見下ろして笑み、まだ辛うじて円形を保っていた足許の木の実を爪先で蹴ってみた。
 食べられるのに、と呟く。勿体ない、と。
 彼が顔を上げた。それからまた、歩道に転がる木の実に目をやる。
 茶色には色が薄く、黄色には濃い。双子のサクランボのように枝の先で繋がりあったそれは、片方の実が半分潰れてしまっていた。
「食べるのか?」
 疑問型をぶつけられ、苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「これはもう、ダメだね。痛んじゃってる」
 コツン、と爪先でもう一度銀杏の実を転がす。新たな発見を見たらしい彼は、さっきまでとは違った目で実を見下ろしていた。
「正しくは、実の中にある種を食べるんだ。殻は固くて、腐らせるなりしてから実を取り出す」
 古くは土の中に埋めて、外側が腐るのを待ったのだと言う。其処までして食べたいものなのかどうかはさておき。
 種を食べるという点では、栗だってそうだし、意外性で言えば松の実も食べられる。この大通り沿いの銀杏並木では毎年、銀杏拾いの人々が現れるくらいだから好きな人もそれなりにいると言うことだろう。
 独特の臭みさえなければ、もう少し愛好者も増えただろうが。
「お前は?」
「ぼく?」
 疑問の内容を鞍替えされて問いかけられ、自分を指さして尋ね返すと彼はゆっくり頷いた。眉間の皺は、まだ臭う銀杏故のものだろう。
 行こうか、と先に誘うと彼は促されるままに歩き出した。今度は横に並んで、歩く。彼はなにも言ってこなかった。
 摘んだままのイチョウの葉だけが、彼の手の中でくるくると踊っている。
「お酒のツマミには良いらしいけど、調理が面倒臭いからネ。食べられるまでにするのに時間がかかる」
 ひとつひとつの殻を割っていくのも、また一苦労だ。アッシュに頼めば、どうにかしてくれるだろうか。
 もっとも、自分だってそこまでして貰って食卓に並んでも、両手を挙げて喜ぶ程好きというわけではなのだが。
「嫌いなのか?」
「そーでも無いケド、お腹一杯になるまで食べ続けたいとは思わない」
 嗜む程度で構わない。それだけを皿に山盛りで出されても、見ただけでげっぷが出てそれで終わりだ。この臭みは、そう簡単に抜け落ちたりもしない。
「ふぅん……」
 生返事で前を見つめた彼の横顔を眺める。
「なに、食べてみたい?」
「いや、遠慮しておく」
 私はこれだけで構わんよ、と。そう言って彼はまだ棄てていなかった黄色い小さな扇をみせてくれた。
「そ? 滋養強壮に効果があるとは聞くケド」
 囓った程度にしか知らないが、そういう効果が銀杏にある。覚えている限りの知識を拾うしている間も、ユーリの手の中でイチョウの葉は回り続けていた。彼はそれを、城まで持って帰るつもりなのだろうか。
「イチョウ……か」
 公孫樹とも書く。種を蒔いても実がなるまでに孫の時代まで掛かるから。実がなるくらいだから当然雄雌の株に別れているし、実がなるのも雌株だけ。
 人の寿命よりもずっと永い時間をかけて成人になる樹。
「花言葉は、長寿」
 それから。
 突風ではない秋を語る穏やかな風が街中を滑っていく。クラクションがけたたましく喚き散らされるクロスロードの手前、赤に切り替わってしまった信号で並んで立ち止まった。
 声が聞き取りづらくなる。顔を顰めさせた。
 彼を見つめる。静かで、柔らかな笑みに宿る紅玉の双眸が微かに揺らいでいた。
 何故、と問いかけようとした。
 彼の手からイチョウの葉が風に攫われ、遠くへ流されていく。やがてそれは地面に落ち、人混みに紛れ、踏みつけられた他の葉と変わらないものになってしまった。
 赤信号が青に切り替わる。通りを行く人の肩に押されて、流れに逆らいきる事も出来ぬままふたり、鈍い足取りで縞模様の橋を渡り始めるしかなかった。
 振り返る。もう彼が踊らせていた葉は何処に行ってしまったのかも分からない。その他大勢に紛れ、彼の葉は消えてしまった。
「あの葉は、枝を離れた時点で死んでいたのだよ、スマイル」
 名残惜しそうに何度も振り返るのを、冷ややかな声で彼は笑った。
「屍は、屍の海に沈めてやれ。大勢の仲間の眠る地へとな」
 腕を引かれる。ゼブラゾーンを抜けきって、足の裏にタイル張りの歩道が現れた。
 後方で車の排気音やエンジン音が不協和音を奏でて耳障りに感じる。黙っていると、さっきまでとは立場が逆だな、と言われた。
 銀杏並木は遠くへ去り、あの匂いもしなくなっていた。身体にまとわりついている分も、あと数分街中を放浪すれば綺麗に消えてなくなるだろう。
 最後にと、車の群れに霞む並木を振り返る。数歩先で待つユーリが、そんなぼくの背中を見て瞳を爪先に落とした。
 それから、顔を上げる。
「私の屍も、棄てて行く」
 いつか、その時が来るのなら。二度と目覚めの来ない眠りに入るとき、ぽきりと折れた枝の先から落ちたその時は。
 振り返る。聞き取りにくかった声に耳を傾け直して首を傾げても、ユーリは同じことばを繰り返してはくれなかった。
 ただ、寂しげだけれど満足そうな笑顔をされた。肩を竦めて、寒いから早く行こうと促される。
 手を伸ばされ、伸ばし返し、掴まれた瞬間に囁かれた。
「お前の傍に、な」
 聞こえたのはそのひとことだけで、恐らく聞きそびれた台詞の続きなのだろうと察しはしたけれど、会話は繋がらなかった。
「ユーリ?」
「行くぞ、スマイル。遅れるな」
 自己完結で済まされてしまったユーリの話に、腑に落ちない点を抱えながらも引きずられまいと自分も足を速めて横並ぶ。
 秋は深まり、間もなく冬が訪れる。
 眠りは安らかに、常に君の隣で。

 公孫樹の花言葉。
 長寿、そして。
 鎮魂――――