the Time

 ユーリの城には大きな時計がある。いつ、誰がそこに置いたのかは分からない。気が付けば既にそこにあり、毎日同じ時刻に太く低い鐘の音を響かせていた。
 玄関ホールの奥まった場所に置かれているそれは、壁の色と同系統のくすんだ色を外装にしていたので一瞬見ただけでは、それが時計だと気づけない事もしばしばだった。背丈はアッシュよりも上背がある上、横幅も相応にある。古いものなので中身の部品が多く、その所為で大きさもこんなになってしまったのだろう、と言うのがスマイルの弁だ。
 毎日変わることなく時を刻み続けた古時計。まるで感情でもあるかのように、誰かの気分が沈んでいるときは低めの優しい音で、皆の気持ちが明るいときはほんの少し高めの音で鐘を響かせる。当たり前のように普遍の音色を奏でていた時計も、一度だけ止まった事があった。
 ユーリの記憶の限り、時計が止まったのはただの一度、それっきり。何故止まったのかは分からないが、気が付けば直っていた。
 スマイルが直したのだと知ったのは、それからずいぶんしてからだった。歯車の歯がひとつ欠けてしまっていたんだよ、と何でもないことのように彼は言った。
 精密で緻密に計算されて組み上げられたものほど、とても小さなひとつの欠陥で丸ごと動かなくなる事がある。自嘲気味に言って、笑って、彼は遠めがねを短くしたようなレンズをかろうじて機能している右目から外した。
 キズミという名前の拡大鏡を机に置いて顔を上げ、そうすることで漸く彼は傍らに立つユーリの顔を見ることが出来た。瞼に填め込む格好で装備し、両手を自由にさせるレンズを使っている間は、彼はキズミが見せる小さな世界以外のものを目にすることが出来ないから。
 レンズの傍には細いピンセットと、針金の先端を鈍角に曲げただけのようなもの。とても小さな発条や、歯車。見たことのない形をした金属片も見受けられる。そしてそれらに取り囲まれて、蓋付きの懐中時計がひとつ。
 かなり古そうで、蓋に刻まれていただろう浮き彫りの紋様も大半が削げ落ちてしまっている。金属が摩耗して凹凸が平らになるくらいだから、余程長い間使われていたものだろうと楽に想像がついて、けれどそれが普段時計を持ち歩かない主義のスマイルの持ち物だとはなかなか思考が直結しなかった。
 ソファ越しにテーブルを覗き込んでいるユーリに苦笑って、上げっぱなしで疲れた首を戻しスマイルは鈍色の輝きを放つ鎖を取った。端にある金具を指で抓んで隙間を広げ、時計の竜頭を庇う格好の吊り手に引っ掛ける。
「完了、っと」
 鎖ごと持ち上げた懐中時計を目の前まで掲げ、自然の成り行きで円を描くように揺れるそれを見つめる。その瞳はいつになく優しく、儚げで柔らかい。
 ソファの背もたれに腕を預けて完全に凭れ掛かり、スマイルの肩越しに表面に刻まれていた模様さえ最早判別不能な時計を物珍しく眺めたユーリが問う。
 それはお前のものなのか、と。
 質問の意味を一瞬だけ計りかね、隻眼を見開いたスマイルだったけれどユーリが難しそうに口元を歪めるのを見返して、やっと彼が言いたがっている中身を八割方理解した。
「ああ、うん。そう、ぼくの」
 これはユーリと出会うよりもずっとずっと以前から、自分が胸に大事にしまって持っていたものだ。そう呟いた彼は左手を床と水平に広げ、時計を受け止めて右手に握った鎖を弛ませた。チャラ……と乾いた金属の擦れ合う音が甲高く、小さくその場に響く。
 黙ったままその音を聴き、ユーリはスマイルの次のことばを待つ。壁に吊した郭公時計が刻む秒針の音が、嫌に大きく耳についた。
 スマイルは少しの間、続けるべきことばに迷ったようだった。微かに息を呑んで、短く吐き出す。過ぎた時間は僅かだったけれど、彼らには倍以上の時間に感じられただろう。
「ずっと、壊れてたんだけどね」
 いつ壊れたのか、どうして壊れたのか。ただ気付いた時にはもう時計は止まってしまっていて、その瞬間の時間を刻んだまま動かない。今となっては時計が止まったのがいつであったのかさえ記憶も曖昧で、ただずっと昔だったような気しかしない。
 時計など在って無いに等しい、緩慢で曖昧な時間の流れを過ごしてきただけの彼にとっては、一分一秒の時間さえ拘束してしまう時計というものは本来、必要なかった。
 朝が来て、昼になって夜が来て、一日が終わり明日が巡る。その繰り返しである日々に、区切りを持たせるための時間は彼にとって無意味。彼を拘束する時間を有する存在は、ずっと彼には無かったから。
 けれど、今は少し具合が違ってしまっていて。
 この時間に何処で何をして、次はこの時間までに彼処へ移動してこれをして、といった風にタイムスケジュールが定められた日々は彼にとって、初めての経験であり戸惑いも多かった。拘束を嫌い、自由を好み、だからこそ敵前逃亡ならぬ仕事放棄を実行した事も過去に置いては、しばしば。
 その度に探し回られて、見付かって連れ戻されて、怒られて、もう絶対にしないと誓わされて。
 初めての事だった、から。
 ついつい構ってもらえることが嬉しくて、そのうち怒られる事が目的になって逃げ出した事もあった。掴まえて、見つけて欲しかったから隠れた事もあった。
 そんな時間がそう前の事でないはずなのに、懐かしい。
 動いている時計を持ち歩き、無意味に流れる時間を痛感させられていた時代とは違う。
 動かない時計に見切りをつけ、有意義に流れる時間を堪能している。
 だのに、今、急に時計を修理しようと思ったのは何故。
 人の心の内側にさえ遠慮なく踏み込んでくる、かの傲慢な吸血鬼の問いかける視線を受け止めて自分勝手で気紛れな透明人間は軽く笑った。隻眼を細め、左の瞳に包帯という拘束の上から指で触れる。
 握り直した時計の鎖を手繰り寄せ、利き腕で持ち直し吊り手近くで握って右目に近づける。最近のデザインとはかけ離れ、アンティーク色が濃いのは製作年代の所為もあるだろう。近来作られているものよりも遙に大振りで、ズボンのポケットに入れてはごわごわして異物感が邪魔になりそうなサイズをしている。だからそれは、本当に上着の内ポケットに入れる為だけに作られたものだと想像できる。
 恐らくは、彼が生まれた時代に重なって造られていたもののはず。
 彼――スマイルと同じ時代を彼と共に過ごして来た時計。懐かしむように握り締めた時計の感触を楽しんで、彼は愛おしむ笑みのまま時計の表面へそっと、キスをする。
 斜め後方から一部始終を見つめていたユーリでさえ、ぞくりとした衝撃のような感覚を背中に感じて寒気を覚えてしまうくらいに、自然であり彫像のような、彼。
 スマイルが動くたびに時計の鎖がチャリチャリと音を立てて耳障りな音を立てる。
「それで……直ったのか」
「うん。ちょっと時間掛かったけどね」
 なにせ古いものだ、壊れていて交換が必要な部品がまず見付からない。アンティークショックに足繁く通い詰め、同型か後継種の時計を幾つか見つけだし必要な部品だけを分解して取り出すしかなかった程だ。
 その課程で得た部品が、玄関ホールの大時計を直すのに役立ったのは思いも寄らなかったけどね、と空笑って彼は肩を揺らした。
 あれもかなり古い時代のもので、スマイルの手にしている時計よりも古い時代に造られたものに間違いなく、壊れたら修理出来ないと覚悟していたのだけれど、と前置きし。意外にパーツは事足りて、仕組みも時計の基本構造そのままだったから考えた以上に修理は楽だった、と笑いながら言う。なんて事ないみたいに。
 だが実際は彼が言っている程易しい作業ではなかったはずだ。時計に詳しくないユーリであっても、それくらい分かる。
「お前が直していたのか」
 大時計が古ぼけた音色を奏でなかったただ一日の事は、漫然とだがユーリは覚えている。奇妙に、聞き慣れ過ぎて存在も忘れかけていた時計の音が聞こえないだけで。何かが足りない気持ちになった。自分の身体の一部が欠け落ちてしまったような錯覚にさえ陥り、不安で落ち着かなかった。
 だから翌日、何事もなかったかのように定刻に鳴り響いた鐘の音に深い安堵を覚えた事もしっかりと記憶している。
「あの時計は、この城と同じ時間を過ごして刻んで、見つめているからね」
 きっと君の幼かった頃の事も覚えているんじゃないのかな、と扉の向こうに鎮座しているはずの古時計を想像し、スマイルは微笑んだ。
「そうだとしたら、それなら」
 お前の、と、ユーリはやや膨れ面でスマイルが握ったままでいる懐中時計を指さした。腕を伸ばして彼の胸元に滑り込ませ、人差し指の爪先で時計の蓋を小突く。金属の固く、冷たいが、長い年月を経て優しくなった感触が伝ってきた。
「これは」
 スマイルが、自分で気付いたときにはもう持っていたという時計。いつ、誰から譲り受けたのかそれとも自分で手に入れたのか、それすらも記憶にない程の昔から彼が手にしていたという時計。
 壊れ、動かなくなっても手放せない程の長いつきあいの、それ。
「そ……だね」
 ことばを途切れさせたユーリの横顔を窺い、眺めて、スマイルはほうっと息を吐く。
「この時計は、ぼくが覚えていないような古い日々まで覚えているのかもしれない。ぼく自身でさえ持ちきれなかった、沢山の過去がこの時計には詰まってる」
 そっと両手で包むように時計を持ち、彼は目を閉じた。
 ユーリは黙る。言いたかったことは言われてしまったし、言われたくない事までこのまま行けば問うてしまいそうだったから。
 いや、既に問うたか。
 何故、今なのか、と。
 壊れた時計、もう動かない。彼が孤独だった頃の時間はもう止まっている、今更だ。わざわざ動かしてやる事もなかろう、だってもう彼は一人きりで彷徨っていた頃の彼ではないのだから。
 ひとりになる必要など、もうどこにもないのに。
 何故、今になって。
 薄く瞼を開いたスマイルが、黙りこくってしまったユーリを振り返り微笑む。癖のない明るい楽しそうな笑みは、彼のトレードマークでもある。
 だがユーリは知っている、その笑みの裏側に隠された深い感情を。
 表面上の笑顔は幾らだって作れる。ひとりきりの時間が長すぎた所為で、彼の笑顔は貼り付いた仮面のようなものになってしまっていた。
 心の底からの笑顔は、だからとても希で。
 そしてその笑顔が在るときは大抵、彼は決して誰にも口外しようとしない、他者へ踏み込ませない領域に気持ちを置いている時だ。
 鎖が揺れる。チャリチャリと耳障りな音が響く。
 郭公時計が分針を進める、一歩ずつ前へ。
 古時計の鐘はまだ鳴らない。
 不意に。
 ユーリの目の前で大きめの懐中時計が左右に揺らぎながら現れた。
 まったく油断しきっていた彼は驚き、目を丸くして思わず仰け反ってソファから半歩後退してしまった程だ。スマイルが鎖の上の方を持ってユーリの前に落としたのが原因で、スマイルにしてみればここまで彼が驚くとは思ってもみず、こちらもきょとんとしながら不思議そうに彼を見ている。
 なんだか気まずくなって、ユーリはわざとらしい咳払いを繰り返すと気を取り直し元の位置へ戻った。懐中時計は相変わらずユーリへ向け差し出されたまま、所在なげに揺れている。
 立ったまま、座っているスマイルを見下ろし怪訝なままに眉根を寄せる。
「ユーリにあげる」
 至極あっさりと、言い切って。
「要らないなら、捨てて?」
 今修理を終えて、久方ぶりに動き出した古めかしい時計を手に、彼はあっさりと未練の欠片も感じさせない声と口調と表情で笑った。
 ユーリの方が困惑を隠せない。だってこれは、彼の記憶そのものと言い換えられるようなものなのに。壊れてからも捨てずに手元に残し続ける程に、大切なものではなかったのか。
 それなのに今、呆気ないまでに簡単に人へ譲ろうとする彼の心理が読めない。
 いや、本当は分かっている。ただ認めたくないだけだ。
 スマイルはユーリの返答を待ち、時計を宙ぶらりんにぶら下げたまま腕を伸ばしている。腰から上だけを捻った体勢で彼を見上げ、にこにこと底の見えない笑みを浮かべている。
 一瞬だけの、儚い寂しげな笑みは嘘のようにもう見当たらない。在るのは、裏側を隠したままの笑顔を装った仮面ばかりか。
「受け取ってよ、ユーリ」
「なにを勝手な」
「要らないのなら、棄ててくれて構わないから」
「狡い事ばかり言う」
「そう?」
「ああ」
 軽い受け答えの末、ユーリは手を出して彼が差し出す時計を掌に収めた。見た目よりも重い金属の塊が鈍い輝きで、ずっしりと彼の肩にのし掛かってくる。無意識に溜息が零れた。
「これは……預かっておく」
「いいよ、あげる」
「いや、受け取れない。だから預かる」
 棄てる事は論外で、けれど貰い受ける事も憚られる。だから預かる。預かって、それから。
 いつか。
 ユーリは肩の力を抜き、ソファに深く腰掛けるスマイルの襟足に額を押しつけた。回り続ける歯車の、握り締めた掌に伝わる時計の鼓動を彼の拍動と重ね合わせて、瞼を閉ざす。
 いつか、彼の過去ごと全部受け止められる覚悟が出来た、その時は。
「もし……またそれが止まるような事があれば、その時も棄ててくれて構わないから」
 言い訳をするように視線を彷徨わせ、スマイルが囁くように言う。
 ユーリは苦笑した。
「それは、承諾しかねる」
 棄てない、絶対に。それだけは確信として言い切れる。
「だからお前は、もしあの古時計が止まったらまた、ちゃんと動くように直すのだぞ?」
 大きな古時計の音色が無ければ、この城はユーリの住み慣れた城ではなくなってしまう。あの音色でユーリは目覚め、眠りに就くのだから。
 あれが無ければ、ユーリの生活自体がすべて狂う。
「それはまた……責任重大な」
「仕方がなかろう、あれを修理出来るのはお前だけなのだから」
 ふふん、と鼻を鳴らしてユーリがしてやったり顔で微笑む。困った顔を作るスマイルも、どことなく楽しそうだ。
「そういう事?」
「そういう事だ」
 頬杖をついたスマイルの問いに頷き、ユーリは握ったままだった時計の蓋を開けてみた。
 裏側に、摩耗しきってもう読めない文字が小さく刻まれている。そっと指先を這わせ、表面をなぞり、一瞬だけ目を閉じる。
「スマイル」
「ん?」
「呼んでみただけだ」
「……そ?」
 名前を呼ばれて即座に反応を返した彼に笑って、首を傾げている彼に気にするな、とことばを重ねる。
 古めかしいフォルムの時計を閉じて、両手でそっと抱きしめた。
 もう読めない程に掠れてしまった文字が語る名前などよりも、今目の前に居る彼こそが真実。
 自分の知っている彼こそが、すべて。
 時間は過ぎていく。だがそれは今までを語るためじゃない。
 これからを、紡いでいくために。
 時は、在る。