逸遊

 頭の上を、真っ白な雲が左から右にゆっくりと流れて行く。青と白のコントラストはとても綺麗で、ぼんやり見上げているとその広い視界の真ん中を何かが大きく弧を描いて通り過ぎていった。
「おーい。ツナー?」
 あれ、と思って視線を戻すと、即座に飛んでくる柔らかめのテノール。
 沢田綱吉の前方五メートルほどの距離を置いた先で、山本武が両手を頭の上で振り回しながら彼を呼んでいた。
「どうしたー?」
 ぼんやりしていたことを言っているのだろう。彼は腕を下ろし片手を口元に立てて沿え、離れている分声が届きやすいようにと拡声器の役割を担わせた。そして反対側の空いている手で、綱吉の後方を指差す。
 午後に入ってまだ三十分も経過していない時間、昼休み。いつものメンバーで昼食を済ませ、腹ごなしをしようと誘って来たのは山本だった。
「十代目、はい、ボール」
 獄寺が綱吉の肩を叩き、丸いものを綱吉の前に差し出す。それは先ほど、彼が空を見上げていた時に視界を流れていったものに他ならない。
 銀色の、けれど今は砂埃をまとっていてねずみ色に濁ってしまっている、直径十センチにも満たないゴムボールだ。山本が持ち込んだもので、これでキャッチボールをしようと彼が提案してきた。
 最初は渋った獄寺だったけれど、綱吉が山本に承諾の意思を見せると彼も引き下がるわけに行かず、無意味な敵愾心を燃やしている。だが山本はいつもの調子で軽く獄寺をあしらうばかりで、間に立たされる綱吉はハラハラさせられっ放しだ。
 そうして食後の運動という事でグラウンドに出て、サッカーをしている生徒達の邪魔にならない端の方で、ゴムボールでのキャッチボールを始めたわけである。
 しかし野球部の山本ならばいざ知らず、元から運動はそう得意でなかった綱吉はなかなか、大きめで柔らかいボールであっても上手く扱えず、さっきから後ろに逸らし続けている。その度に獄寺が、忠犬が如く拾いに走る。
 山本は最初こそ本気モードで剛速球を投げて来たけれど、綱吉がその度に受け取るのではなく避けに走るので、次第にボールも山なりでゆっくりな送球になっていた。彼なりに気を使ってくれるのが嬉しかったのだが、山本は綱吉にばかりボールを投げるので、獄寺が今度は暇になる。
 横で明らかに拗ねた顔で不機嫌オーラを放たれるので、綱吉は苦笑しながら彼にボールを渡すのだが、そうしたら今度は獄寺も綱吉にばかりボールを投げてくる。
 綱吉だけがひとり、忙しい。
 だが身体を動かすのは楽しくて、適度に汗をかきながら綱吉は慣れない筋肉をぎこちなく使いつつ、ボールを放り投げる。
 山本のように真っ直ぐにスピードを乗せた送球は出来ないが、回数を重ねるうちに少しだけ感覚もつかめて、ほぼ狙った位置に届けられるようになるのも嬉しかった。とはいえ少しでも油断すれば明後日の方角へボールが飛んでいってしまうので、気を緩めるわけにもいかない。
「ありがとう、獄寺君」
 渡されたボールを受け取り、礼を言うと彼はへへっと照れくさそうに笑って頭を掻いた。向こうでは山本が、早く投げろと腕を回して待ち構えている。
「いくよー」
 軽く腕を揺らして、不恰好な体勢からボールを投げ放つ。穏やかな陽光を浴びて銀色のボールが、ゆっくりと回転しながら山本の両手の平にすっぽりと収まった。
「やりっ!」
 狙った位置に投げられたのが嬉しくて、ついガッツポーズをしてしまう。斜め後ろでは獄寺が拍手をして、「さすが十代目です」と頻りに褒めちぎっている。山本もまた、綱吉にボールを投げ返しながら「巧くなってきたな」と褒めてくれた。
 それが照れくさくて、二人に「大げさだよ」と謙遜しながら声を返し、山本が受け取りやすいように力を緩めて投げてくれたボールを胸元で受け止める。そして板についてきた投球フォームで山本に投げ返そうとした時。
「おーい、やまもと~」
 校庭ではなく校舎の、正面玄関の辺りで片手を振りながらクラスメイトが山本を大声で呼び始めた。
「ん?」
 無論山本も、綱吉が投げようとしているボールではなく名前を呼んだクラスメイトに注意が向く。しかし綱吉は即座に投球をやめられる程器用ではない。しかも彼までもがクラスメイトに目を向けてしまい、握りの甘かったボールはあらぬ方向へすっ飛んでいってしまった。
「あ」
 綱吉が気づいた時にはもうボールは彼の指から離れており、校庭の端にある花壇と小さな垣根の方へと飛び込んでいく最中。手前で失速して地面に落ちるものの、元から中身は空洞で柔らかなゴムボール。数回跳ねあがった後勢いを弱めながらも、垣根の下を潜り抜けてすっかり見えなくなってしまった。
 その頃クラスメイトは動かない山本に痺れを切らしたようで、尚更大きな声で彼を呼び続ける。その切羽詰った様子に、眉間に皺を寄せた彼は綱吉に向かって悪い、と手を合わせる。
「いいよ、行って来て」
 山本はクラスの人気者であり、中心的存在。もうじき体育祭でその担当も任されている彼はそうは見えなくても、実は何かと多忙な様子。
 綱吉が笑いながら手を振り、早く行ってやれと校舎を指差すと、彼はもう一度「悪い」と謝って小走りに校舎へ戻っていった。傍らに立つ獄寺が、やれやれと肩を竦める。
「忙しいんだから仕方ないって」
 獄寺にしてみれば、綱吉よりもクラスメイトを優先させる山本が信じられないのだろう。しかしむしろ彼のような考え方をする方が特殊だというのを、綱吉は自覚して欲しいと時々思う。
 しかし理解出来ていない獄寺は、「そうですか?」と全く取り合う様子もなく素っ頓狂な声を出して反論を試みる。綱吉は苦笑したまま、自分が投げたボールの行方を捜した。
「探して来ます」
「いいよ、行ってくる。もうじきチャイムも鳴るし、獄寺君は先に教室戻ってて」
「ですが……」
「いーいーかーら!」
 綱吉の視線の動きを察して動こうとした獄寺を制し、渋る彼の背中を押して教室に強引へ戻らせて、綱吉はまだ心配そうにしている彼の前からさっさと花壇の方へ進みだした。
 大体獄寺は過保護すぎで、普段はそう気にならないのだが度を過ぎると鬱陶しく思えてしまう。大切な友人なのだからそういう感情は抱きたくないのだが、限度を知らない獄寺には珠に辟易してしまいそうだった。
 その点適度な距離感を持って接してくれる山本の隣は、やや心地が良い。けれど彼のそういう優しさに甘えてしまうのも気が引けて、自分までもが距離を取ってしまう。今のように。
「ボール、ボール……」
 綱吉は生垣で囲われた花壇の一角に足を踏み入れ、足元に視線を流しながら、転がっていったはずのゴムボールを捜す。
 この辺りは部員がいるのかも分からない園芸部の領地で、滅多に人が訪れる場所では無い。入学以来そういえば初めて立ち入ったかもしれないと、見慣れない植物の名前が記されたプレートを眺めつつ、思う。
 綺麗に整地された花壇にも、植えられている花の名前が几帳面な字でプレートに書かれている。園芸や、そもそも花に詳しくもない綱吉にしてもれば、そこは未知の領域で、つい、目的を忘れて咲き誇る花に見惚れてしまった。
 誰かがきちんと毎日水をやり、手入れをしているのだろう。虫食いもなく等間隔で並んでいる花はどれも綺麗で、愛情込めて育てられているのだと綱吉でも理解出来た。怠け癖のある自分にはきっと、園芸部は無理だろうなと肩を竦めて、垣根で区切られた次の区画へ移動する。
 が、伸びた影に気づいて、綱吉は声を上げる前にまず足を止めた。
 無意識に息を殺して気配を断とうとする。嫌な習慣がついてしまったもので、見えないけれど気配だけ感じる相手に警戒心を抱いてしまう。
 影は少しずつ綱吉の側へ伸びて来ており、じりじりと反比例に綱吉の身体は後退を試みる。けれどあちらが姿を現すのが先で、綱吉は咄嗟に身構えてしまった。
「……そんなに警戒しなくても」
 やや前かがみになって後ろにも前にも飛び出せるように構えている綱吉を横目で見やり、雲雀恭弥は口角を歪めて薄く笑う。
「それとも、ご期待に応えてあげようか?」
 不遜な態度で綱吉の前方に現れた上級生、そしてこの中学で最強の位置にある風紀委員長。隠し持っているトンファーで地に伏せられた存在は数知れず、彼を怒らせてこの中学を無事に卒業できる所為とは居ないとまで言われ、教職員からも恐れられ一目置かれている存在。
 黒髪に涼やかな切れ長の目、しかし見た目に騙されると痛い目を見るのは間違いなく。女子供であっても容赦しない冷酷非道ぶりは、綱吉も過去何度と無く目撃している。彼の前で油断するのは、蛇の前で無防備に寝転がる蛙に等しい。
「結構です」
 雲雀が冗談を言う性格でないのも重々承知している。本気で襲って来られては死ぬ気の炎が無い自分に勝ち目も無く、綱吉は、僅かに警戒心は残しつつ強気に言い返し、構えを解いた。
 力を抜かれた両腕が沸きに垂れ下がる。雲雀はその様子を上から下まで眺め下ろして、最後に綱吉の顔に視線を戻した。斜め上から見下ろしてくる彼と、目が合う。
 吸い込まれそうな漆黒の瞳に、先に視線を逸らしてしまった綱吉はふと、彼の手に握られているものに気づく。
 灰色に近い色になってしまっている、本来は銀色の、ゴムボール。雲雀の右手に綺麗に収まっているそれは、紛れも無く綱吉が探していた、山本のボールだ。
「それ!」
 反射的に、雲雀に向かって立てた人差し指を向けてしまう。正しくは雲雀の右手に向かって、なのだが、真正面から堂々と指差されて気分が良い筈も無く、雲雀は眉間に皺を寄せた。
 彼の整った顔立ちが不機嫌に彩られる様を目の当たりにし、綱吉は漸く自分の右手人差し指がどんな動きをとっていたのかに気づいた。慌てて引っ込めて背中に回して隠すけれど、もう遅い。
「えっと、あの、これはだからその……」
 無意味に視線を泳がせて挙動不審になりつつ、綱吉はなんとか上手い言い訳をしようと言葉を捜す。けれど焦っている分余計に冷静な判断は難しく、綱吉は全身から冷たい汗が噴出すのを感じながらじりじりと後退した。踵が、グラウンドと花壇とを区切っている円形のレンガに乗り上げる。
「うぁっ」
 前ばかり見ていて後ろへの注意が疎かになっていた。そこに段差があるとは思ってもみなくて、綱吉は上手く体重移動が出来ず間抜けな声を上げてバランスを崩し真後ろに倒れかけた。そのまま尻餅でもつこうものなら、折角綺麗に咲いている花が押しつぶされてしまう。それは回避したいのだが、掴むものなどない空中で両手は虚しく空を掴むばかり。
 なんとか踵だけでバランスを取り戻そうと懸命に頑張るが、その甲斐虚しく綱吉の体が後方斜め七十五度まで倒れこむ。伸びきった彼の両腕が最後の足掻きとばかりに宙を舞った時、唐突にその手首を捕まえられた。
 左手だけ、手首の辺りを痛い程握られる。しかしそれが痛いと頭が理解するよりも前に、捕まれた場所を軸にして肩が抜けそうなくらいの勢いで左斜め前方に引き寄せられた。
 何がどうなっているのか、さっぱり分からない。余計に混乱する頭を抱えた綱吉は、一瞬にして上半身が前後に揺さぶられた反動で目がくらみ、酔った時に近い感覚に陥る。もう地球が鉄棒で逆上がりしていても驚かない、と全く意味不明な事が脳裏に浮かんで、消えた頃にその頭が勢い良く柔らかいけれど硬くしっかりとしたものにぶつかって止まった。
 鼻が押しつぶされ、息が一瞬止まる。吸い込んだ空気は空と土の匂いがした。
「君って、さ」
 不意に振ってきた雲雀の声が、思いのほか近い場所から。綱吉がとめていた呼吸を復活させるのと、思わず閉じてしまった目を開くのはほぼ同時で、傾いて凭れかかっていたものから慌てて身を引くと、左手だけが取り残された。掴まれたままの左手が、今更ながら鈍い痛みを訴えかけている。
「あ、れ……」
「敏感なのか、鈍いのかどっちかはっきりして欲しいんだけど」
 顔の上に影が落ちてきて、急な明度の変化に目を細めて上を向くとそこには雲雀の顔があった。逆光の為細かな表情までは読み取れない。ただ声の感じからきっと呆れているのだろう、眉間の皺は相変わらずで、綱吉は居た堪れない気持ちで俯いた。
 後ろには花壇、どうやら花の上に倒れずに済んだ。その代わりもっと違うものに倒れ掛かってしまったのだが。
 いっそ花を押しつぶして、園芸部員に謝りに行く方が、気が楽だ。逃げ出そうにも左手はまだ囚われたままで、その力を振り払って逃げるだけの気力は残されていない。情けないやらみっともないやら、恥ずかしいやらで、まともに雲雀の顔を見返すことも出来ず、自分の足元ばかりが視界を埋めている。
「……すみません」
 搾り出すような声で漸く言えたのはそれくらいで、腕がそろそろ痺れて指先の感覚もなくなろうとしている。雲雀は力を緩めようともせず、綱吉をじっと見下ろすだけ。
 正直、黙っていないで何か言って欲しい。いっそ大した理由でなくても良いから、殴るなり突き放すなり、アクションを取ってくれる方がこちらとしても次への反応がとりやすくなるのに。
 それとも、綱吉がそうなるのを待っていると知って、わざと無反応を決め込んでいるのか。
 一度勘繰ってしまうとそちらにばかり思考が巡って、彼の性格ならば十分ありえそうだと思えるから不思議だ。確かめようと恐る恐る顔を上げて雲雀を見上げると、無表情の仏頂面が先ほどと変わらない位置に、そのまま。
 間近で見つめると、男であっても見惚れてしまいそうな整った顔立ちは、何の変哲も無い自分の顔に若干のコンプレックスを持っている綱吉にとって羨ましい限りだ。
 だがそんな綺麗な顔をした人物が、少しでも機嫌を損ねると凶悪なまでの暴挙に出て、実際その例を上げるにも暇が無いというのも、知っている。
 きっと彼の顔を、こんなにも至近距離から長時間眺められる人はそう多くない。ぼんやりと考えながら綱吉は、ぼんやりとした顔で雲雀の顔を穴が開くほど見つめ続けていた。
 ハッと気づいたのは、午後からの授業がもうじき始まると知らせる予鈴が、普段よりもずっと大きく聞こえる音で鳴り響いた頃だった。
 雲雀もまた、チャイムを合図にして綱吉の左手を解放する。握られ続けていた場所はうっ血して赤くなり、見るからに痛々しい。
 綱吉は自由になった左腕の、最早痛みさえ薄らいで分からなくなってしまっている手首を見下ろして右手で軽くさする。指の形さえ分かりそうな痕は、時間を置けば薄れて消えるだろうに、何故かそれが惜しく思えてならない。
「あの、雲雀さん」
 彼は何かを自分に言いたかったように感じる。けれど彼は何も語ろうとせず、無言で細められた瞳に射抜かれた綱吉もまた、続ける言葉を見失って喉に息を詰まらせる。
 くるりと現れた時同様音も無く体の向きを替え、雲雀は綱吉がいるのとは反対側へ歩き出そうとした。引きとめようと伸ばしかけた左手は、綱吉の視界に赤い痕が見えた瞬間に動きを止める。
「十代目~」
 獄寺の呼ぶ声が聞こえた、綱吉の背中が一瞬大きく震える
 予鈴が鳴ったのに戻ってこないから探しに来たのだろう。彼はボールの飛んでいった方角を知っているから、じきに此処に至るはず。山本だけでなく、雲雀に対しても微弱なライバル意識を燃やしている獄寺に、今の雲雀を会わせたくなかった。かと言って返事をしないでいると、変な勘繰りを入れられて余計に状況がややこしくなってしまいかねない。
「……」
 どうするのが最良なのか、即座の判断を求められて綱吉は右手人差し指の第二関節付近を浅く噛む。
「呼んでるよ」
 言ったのは、雲雀だ。
 綱吉に背中を向け、上半身だけを捻って振り返っている。しつこく綱吉を呼ぶ獄寺の声は止まなくて、音がする方向を顎で示し、彼は冷たい目を向ける。
「えっと、でも」
「授業始まるよ」
 淡々とした口調で、あっさりと綱吉が続けようとする会話を断ち切る。きっともう、今の彼に何を言っても不機嫌にさせて、会話が続くどころか返事すら届かないだろう。綱吉は唇で挟むだけだった指に歯を立てた。
「じゅうだいめ~、どこですかー?」
 獄寺の声が段々と近くなる。果たしてどちらを優先させれば良いのか分からず、綱吉は前と後ろとを交互に見比べながら、足は雲雀の後を追おうと前に出る。けれど次の一歩が出るよりも早く、垣根の切れ目から獄寺が顔を覗かせた。
「いた!」
 目が合うと同時に叫ばれる。咄嗟に声が出せず、挙動不審に背後を窺ったり横を向いたり腕を胸に抱き込んだりと落ち着かない綱吉にも構わず、彼は綱吉が見つかった事への喜びを全身で表現しながら、行きましょうと手を伸ばす。
 掴まれた左手、綱吉は瞬間的に目を見開き、獄寺の手を払いのけていた。
「……十代目?」
 これにはさすがに、獄寺も目を丸くして不審げに綱吉を見返す。
「どうかなされましたか」
 獄寺の声のトーンが下がり、彼の周囲の空気が一気に冷え込むのを肌で感じた。綱吉は視線を浮かせ、ちらちらと背後を気にしながらどうにか獄寺に気づかれぬよう、話題を逸らそうか考える。
 雲雀の背中はもう垣根の向こう側に消えて、獄寺には見えていなかったようだ。それに、安堵する。
「大した事じゃないよ、んと、ボールが見つからなくってさ」
 へへ、と笑って誤魔化し、左手首に右手を巻きつけて痣を隠す。これを見られて、原因を追及されても困る。
 獄寺はいぶかしんだ表情で納得のいかない様子だったが、本鈴が鳴り始めたのを受けて綱吉が彼の背中を押し、無理矢理に小さな庭園から押し出そうとするのを受けてようやく、表情を崩した。
「そんなに押さないで下さいよ、十代目」
「だったら自分でさっさと歩いて」
 綱吉が構ってくれるのが嬉しいのか、両足を真っ直ぐに揃えて伸ばし、綱吉の力に対抗する獄寺が声を立てて笑う。綱吉は必死で、唇を尖らせて文句を返し最後は彼の背中から身を引いた。支えを失い、獄寺は倒れかけるが天性の運動神経のよさを生かし、彼は綱吉のように転ばずに踏みとどまる。
「危ないじゃないですか」
「しーらない」
 自分が悪いんだから、と綱吉は取り合おうとせずさっさと校舎に戻ろうと足を動かす。獄寺も置いて行かれてはたまらないと、大股に進んで綱吉に並んだ。歩幅が違う為に、油断するとすぐに追い抜いてしまう。
 チャイムは僅かな余韻を耳に残して終わりを迎える。教員よりも先に教室に入って居ないと遅刻扱いにされてしまうし、何より次の授業は苦手な数学だ。嫌な課題を出されてはたまらないと、綱吉の歩調もいつもよりずっと早足。
「ボール、山本に謝らないと」
「俺がもっと良い奴を十代目に買ってさしあげますよ」
「それ、何かが間違ってると思うんだけど」
 にこやかな笑顔で的外れな事を言う獄寺に苦笑する。そして自分の目の前に伸びる自分の影、その頭の上を飛ぶ小さなものに、気づいた。
 一秒後。
「あいてっ」
 実際はさして痛くも無かったのだが、頭の上に突然落ちてきたものに、綱吉は短い悲鳴を上げて肩を竦める。
 彼の頭上で跳ねた物体は、軽い調子でもう一度空高く駆け上り、楕円を描いて地面に落ちた。綱吉の爪先辺りで再び跳ね、その後は勢いを失ってグラウンドに転がってやがて止まる。
 埃で薄汚れた銀色の、ゴムボール。
 綱吉の視線も、獄寺の視線も足元に落ちたボールに注がれる。もっとも、明らかに不自然に落ちてきたボールを投げた人物に心当たりがあるのは綱吉だけ。
 まず先に彼が振り返り、一秒遅れて獄寺も背後に向き直って身構えるものの、そこに人の姿は見当たらず、また、人が存在した気配も残されていない。安堵のような残念に思うような感情が入り混じり、複雑な顔をして綱吉は足元のボールを拾い上げた。
 これはさっきまで、雲雀の手の中にあったもの。
 だけれど表面に砂の粒を乗せたそれには彼の体温は残っておらず、あの時感じた陽だまりの匂いもない。
「それ、山本のボールですよね」
「みたいだね」
 手の上でボールをくるくると回転させ、綱吉は獄寺の質問に心此処にあらずという感で答える。彼はなおも周囲を警戒しながらボールを投げた人物を探し出そうとしているようだったが、割って入るかのように校舎の、教室の窓から半身を乗り出した山本が、早く戻って来いと大声で彼らを急かしたので探偵ごっこはここで中断となった。
 正面玄関から校舎内に入る手前で、綱吉は再度後方を振り返ったものの、見につけている制服が皆と違うのもあって非常に目立つ浮いた存在は見つけられず、知れず溜息が零れた。
 廊下を教材抱えて歩く教諭に見つからぬよう、教室までの道のりを大回りして走り、どうにか授業にはギリギリセーフだったけれど、綱吉の心は最後まで晴れない。虚ろな意識で聞く授業は、教諭の説明も右から左に流れ過ぎて留まらない。
 机の下、膝の上でばれないように山本のボールを弄ってみる。
 すぐに授業が始まってしまって、持ち主に返し損ねたボール。
 雲雀が投げて、綱吉が気づけずに受け止め損ねたボール。
 綱吉は、これを、雲雀に投げ返せなかった。
 手の上でボールを遊ばせながらぼんやり窓の外を見ていた綱吉は、そこまで考えて、ふと、気づく。
 このもやもやとして、どうにもすっきりしない理由が何なのか、分かった気がした。
 

 授業が終わった休憩時間。俄かに騒がしくなる教室で、綱吉は山本に、暫くこのボールを貸してもらえるように頼み快諾を得た。
 何に使うのか聞かれたけれど適当に笑って誤魔化し、放課後を待って彼はひとり先に、教室を飛び出す。
 彼に投げ渡されるボールを、今度こそ、きちんと受け止める為に――